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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

新説「因幡の白兎」だ!(^_-)-☆

2021-10-07 23:24:49 | 古代史
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今回は、古事記に書かれた有名な「因幡の白兎」の神話を話題にします。



二世紀後半の倭国大乱で大活躍した久々遅彦が倭国王難升米に菊池川沿いの最前線基地を攻撃されて戦死する事件がありました。これによって、倭国女王卑弥呼が登場することになり、滅亡寸前の倭国が生き返りました。歴史の流れが大きく変わった事件でした。つまり、頼りにしていた王の戦死によって、沖ノ島経由で玄界灘を渡り半島の鉄を旧奴国(狗奴国)勢力に供給していたムナカタ族の族長赤坂比古は、王子はまだ幼いので途方に暮れていました。そこに、難升米王が和解を申し出てきましたので、卑弥呼が告げる太陽神の神託に従い政治をすることを条件に申し出を受け入れ、倭国側についてしまいました。卑弥呼の正体は多くの研究者が考える統治者ではなく、縄文時代から海人族で信仰されていた原始宗教のシャーマン姫巫女でした。

赤坂比古らが狗奴国を裏切ったことにより、後日、大国主が登場することになり、更に国譲りによってヤマト王権が成立するので、その切っ掛けとなったこの歴史的大事件の記憶を神話として残したものが「因幡の白兎」だと思います。

この神話はよく知られていますが、一応簡単に述べます。サメは因幡を含む山陰地方の方言でワニと言うようです。縄文海人族の祭祀の対象となっていたようです(注1)。ワニを並べて隠岐の島から対岸の稲羽の海岸に渡った白兎が、うまく渡れたのでワニをバカにして、騙したことを自慢したので、怒った最後のワニに皮をはがれてしまいます。赤裸の白菟が苦しんでいたところに現れた八十神(やそがみ)に騙されてさらに痛みで臥せって泣いていました。八十神は大国主の兄弟たちで、大国主を嫌っていました。稲羽の八上比賣(やがみひめ)に求婚するために、大国主に貢物を入れた大きな袋を持たせて従者の代りにしていました。最後に通りかかった心優しい大国主は、白兎をガマの穂で包んで介抱してあげ、良くなりました。白菟は感謝して、八上比賣を娶るのは貴方でしょうと予言したとおりになったという話です。

ワニも八十神も狗奴国を裏切った赤坂比古とその配下のムナカタ族を示唆しているようです。赤坂比古は奈良県天理市にある和邇坐赤坂比古神社の祭神ですから古代豪族和邇(わに)氏の祖ですから。一緒に祀られているイチキシマヒメが縄文系のムナカタ海人族の卑弥呼(姫巫女)です。

白兎が戦死した久々遅彦の王子です。父が死んで嘆き悲しんでいた王子は赤坂比古らの裏切りで、久々遅彦の財産を全部奪われて追放されたようです。その王子を助け出し、育てたのが山陰地方を根拠地とするムナカタ族でしょう。奴国大王イザナギの妃イザナミに近い一族なので(注2)、赤坂比古の誘いに応ぜず、狗奴国王卑弥弓呼を裏切ることをしなかったのでしょう。

この王子が後に成人して、ムナカタ族の王名である久々遅彦を襲名しました。その久々遅彦が、最後の奴国大王スサノヲを殺して奴国を滅ぼした、恨みのある師升の子孫(伊都国を都とする男王難升米)の倭国を滅ぼしました。そして成り行きから狗奴国王を裏切ることとなります。卑弥呼の宗女で十三歳の姫巫女台与を対外的に女王に立てて列島の大部分を支配したので、後世に大国主と呼ばれた人物です。大国主が最初に国造りして豊葦原を瑞穂の国にした場所が菟狭(宇佐市安心院町佐田地区)でしたので、その地名に因み幼い王子時代の大国主を白兎として、赤坂比古らの裏切りの史実を示唆する神話にしたのだと考えられます。

といいますのも、wiki「白兎神社」によれば、「かつて八上郡の中心地で、山間の八頭町には3つの白兎神社がある。」とあります。そして先のWiki「因幡の白兎」「現在、八頭町池田には池田神社(「白兎神社」)と呼ばれる神社があるが、祭神は弁財天、兎神、稲荷神で2基の祠が鎮座する。」とあることから分かります。

弁財天はイチキシマヒメ卑弥呼のことです。また稲荷神は豊宇気毘売命(とようけびめ)で、大国主の妃台与のことですから、兎神は大国主ということになるからです。

また、「現在の鳥取・兵庫県境、氷ノ越え(ひょうのごえ)には因幡堂があり、そこには大兎(おおうさぎ)大明神が祀られ、八頭町福本、池田、土師百井など、鳥取市内海の白兎神社の祭神と同一の神であるとされる。現在因幡堂は但馬側(新温泉町)に移転され、その形状は現在では不明となったままである。」とあります(wiki「白兎神社」)。大兎大明神の正体は大国主久々遅彦で間違いありませんね(^_-)-☆。

「因幡の白兎」の神話は「日本書紀」や「出雲国風土記」にも記載されていません。九世紀に「古事記」を世に出した人物が太安万侶の子孫の多人長(おおのひとなが)です。朝廷で「日本書紀」を講義していましたが、「日本書紀」が隠した歴史の真相を復活させるために、すでにあったと思われる大国主の神話を古事記に集めたようです。「因幡国風土記」は現存していないのですが、その他にも大国主の神話として、八十神の迫害、根の国への訪問、そして少名毘古那神と御諸山の神の話が古事記に在りますので、大国主の伝承として残されたものと考えていいのではないかと思います。

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大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?

(注1)弥生の銅剣にサメの絵 鳥取で全国初、鋳造後に刻む
2016年2月10日 21:28 日本経済新聞

 鳥取県立博物館(鳥取市)が所蔵する弥生時代の銅剣にサメとみられる絵が線刻されていることが分かり、調査した奈良文化財研究所と鳥取県が10日、発表した。鋳造後に絵画が線刻された弥生期の青銅器が見つかるのは初めてという。
 銅剣は長さ42センチの祭祀(さいし)用。形式や成分分析などをもとに、弥生時代中期中葉(紀元前2世紀)ごろ、鳥取県内か瀬戸内地域で作られたと推察される。
 絵は長さ2.3センチ。剣の根元に細い線で刻まれていた。全体が流線形で背びれ2枚と腹びれ1枚があり、尾びれの上側を大きく描く特徴から、サメと判断した。
 これまで土器や木器、石器計12点に刻まれた同様の絵が兵庫県から島根県にかけての日本海側で発見されている。大半は大陸との交易拠点集落だったとされる鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で出土した。



(注2)宗像大社の伝承に「ムナカタの子がスミヨシ、その子がウサ」とありますから、スミヨシはイザナミの子のスサノヲでもあり、その子孫で住吉大神の大国主狗古智卑狗です。大国主の子が宇佐八幡大菩薩応神天皇ということを暴露した伝承なのです。「日本書紀」と矛盾するような伝承などは藤原不比等によって隠された建国の歴史を暴くものかも知れません。


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日本の歴史の始まりはこうだ(その6)

2021-10-04 23:39:14 | 古代史
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2021-02-04 18:22:14に掲載した記事の後に分かった内容も加えて、大幅に改訂しました。最後までお付き合いください。

今回は伊都国時代の後半の話です。後漢王朝では桓帝(146 - 168年)の治世に宦官と外戚の激しい権力闘争が起こります。次の霊帝(168 - 189年)の治世には宦官の専横に反発する外戚や豪族との内紛により皇帝の権威が失墜し、気候の悪化も相まって社会が乱れ、農民の組織的な反乱が発生します(注1)。張角による黄巾の乱(184年)です。これによって後漢王朝の支配が終焉を迎え、次の激動の三国志の時代になります。後漢末期の様子から記録した「三国志 魏志韓伝」に「桓帝霊帝の治世には韓、濊が強勢になり、楽浪郡は制することができず、その住民の多くが韓半島の諸国に流入した」とあるように半島は相当乱れた模様です。

倭国については「魏志倭人伝」にも「其の国、本(もと)亦(ま)た男子を以って王と為す。住(とど)まること七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴(へ)たり。」とありますので丁度半島が乱れた時期に合致します。上で述べたとおり霊帝治世の末期ころ(二世紀末)までは伊都国に王宮を置いた師升王の一族が倭国王となって治めていました。范曄「後漢書」には「桓霊のころに、倭国の国内は混乱し、各国が互いに攻め合って、何年もの間統一した君主がなかった」とありますから、倭国王の力が弱まり、国内は相当疲弊した模様です。

すでに前々回(その4)でも述べましたが、二世紀初頭の師升らのクーデターで奴国が滅ぼされました。出雲・米子に逃亡した奴国王スサノヲの弟ニギハヤヒがムナカタ族の支援を受けて吉備を平定し、奴国を再興しました。

後の三世紀にヤマト王権の成立の中心的役割を果たしたと考えられる物部氏の歴史書「先代旧事本紀」によれば、物部氏の祖が天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(ニギハヤヒ大王)です。その直系の王が「魏志倭人伝」に記された狗奴国王の卑弥弓呼であり、吉備から畿内に勢力を伸ばしたものと推理しています。「王年代紀」第十九代王が天照大神尊とあるので、記紀神話のスサノヲの姉アマテラス女神は建国の真相を誤魔化すための藤原不比等の創作です(注2)。

「日本書紀」では神武東征の前に天孫降臨したニギハヤヒがヤマトを支配していたとあります。狗奴国王の卑弥弓呼はヒコミコ、つまりニギハヤヒ大王の王子という意味の名前の誤写と思われます。ですから固有名詞ではなく、狗古智卑狗と同様、首長が偉大な父祖の霊力を引き継ぐと考える首長霊信仰による襲名と考えられます。ニギハヤヒの子孫は東海地方にも勢力を伸ばした模様です。「先代旧事本紀」にも尾張氏の祖はニギハヤヒとあります。三世紀の纏向遺跡の外来土器のほぼ半数が東海地方のものですからこれを裏付けるものです。

また東海地方に次いで多く出土するのが山陰・北陸の土器です。先述のとおり縄文海人ムナカタ族の活動地域で、狗古智卑狗(久々遅彦)が王として束ねていたと推理しています。「魏志倭人伝」でも狗奴国王よりも先に登場しますので、最も重要な人物のひとりであることを示唆しています。菊池という地名は活躍した久々遅彦に因むものですから、多くの研究者は熊本県菊池市付近が、邪馬台国の南に在ると書かれた狗奴国と考えています。しかし、狗奴国という意味は、これも次回以降で詳しく述べますが、三世紀初頭に卑弥呼を表向き女王に立てた伊都国男王難升米が女王に逆らう狗コロの奴国と貶める意味で付けた旧奴国の国名です。つまり三世紀初頭に突然生まれた政治都市が纏向遺跡です。ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の発祥地ということになります。

旧奴国勢力が沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を仕入れて、山陰や丹後半島などの山間部で鉄製品を製造して、恨みのある倭国と対抗できるまで力を蓄えました。そして半島の混乱によって倭国の楽浪郡との交易が衰退し、倭国は徐々に弱体化したので、倭国に対して本格的な抗争を起こしました。倭国大乱の始まりです。

図は、弥生時代後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況です。ここから旧奴国勢への鉄の供給ルートが分かります。「魏志倭人伝」に記された半島への壱岐・対馬ルートは、敵対する倭国王(伊都国に王宮を置く男王)が支配していたので、現在の宗像市から約60㎞離れた沖ノ島経由の厳しいルートを使ったのだと推理しました。


(左クリックで拡大 )

集落の住居内で時どき鉄滓が見られますが、付近で採れる砂鉄や褐鉄鉱を直接還元して鉄製品を作っていたと考えられます。しかし、熊本・大分県などの鍛冶集落では半島南部の良質の鉄素材を大量に搬入したと思われます。板状の鉄素材と鉄鏃が多数見つかっています。鉄器の種類を調べると北部九州では農工具や森林伐採に使う大型鉄斧が出てます。熊本県北部や大分県の山間部の集落などではそれらは余り見られず鉄鏃の数が突出しています。九州以外の地域で出土する数に比べて圧倒的に多いので、素材を北部九州の倭国を頼らずに調達したはずです。これらは北部九州の倭国と敵対する旧奴国(狗奴国)側の軍事基地と推理できます。(【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ)。

この時期の畿内などでは北部・中部九州と比べてまとまって鉄鏃や銅鏃が出土していませんので、畿内などは倭国大乱の戦場にはなっておらず、誰が王かわからない程の大乱のあったと書かれた倭国は、畿内ではなく九州だったことを裏付けています。つまり、この時代の倭国は北部九州のことなのです。

弥生時代後期後半に筑紫平野や佐賀平野などで数多くの鉄鏃が出土していますから、狗奴国勢力が倭国の穀倉地帯の集落を襲ったものと考えられます。上述のとおり、久々遅彦が大分県から熊本県阿蘇山麓にかけて軍事拠点を造りました。また、菊池川沿いに、最前線の軍事拠点として集落をつくり、そこから北部九州を襲撃して大活躍したと推理しました。


(左クリックで拡大)

また後漢の霊帝治世の末期に、すでに上で述べたように楽浪郡は統制が効かない状況で、当時の倭国はかなり疲弊し、衰弱したと思われます。楽浪郡との交易が断たれ鉄素材が不足したので、青銅器を溶かして銅鏃を作ったようです。

そのような中で公孫度が遼東太守となり(中平6年、189年)、高句麗や烏桓の討伐を行ったので、難升米の先代の倭国王が遼東郡の郡治襄平県に、太守就任の挨拶として使者を送り、倭国の窮状を訴えたと推理しました。公孫度が倭国王に返礼として贈ったものが、古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃の奈良県天理市の東大寺山古墳から出土しています。墓は和邇(わに)氏のもので、近くに和邇坐赤坂比古神社があり、祭神として宗形氏の祖阿田賀田須命(あたかたすみのみこと、別名が赤坂比古)と 三女神の市杵嶋比賣命が祀られています。(2021.10.6 赤字追加)



後漢最後の献帝の建安9年(204年)に公孫度が死去し、子の公孫康が太守を継ぎました。反抗していた韓・濊を討って、楽浪郡の南12県を裂いて帯方郡を設置しました。半島情勢が落ち着いたので、早速難升米王は使者を送り、倭国への軍事支援を要請しました。これによって倭国は勢いを取り戻し、菊池川沿いの狗奴国の最前線基地を攻撃しました。そこで戦闘を指揮していた久々遅彦が戦死したと推理しました。

王を失って途方に暮れていた和邇氏の祖のムナカタ族の族長赤坂比古を難升米王が懐柔しました。難升米王は卑弥呼による太陽神の神託によって政治判断をする譲歩をして、懐柔に成功しました。宗像市を中心とする不弥(うみ)国で生まれたと思われる卑弥呼は、戦乱となって海に面した危険な不弥国から安全な野麻国(ヤマコク、宇佐市安心院町三柱山三女神社)に疎開していました。宗像女神の市杵嶋比賣命が卑弥呼です。

玄界灘を活動域とする和邇氏の祖の赤坂比古が、旧奴国を裏切り倭国側につき、半島南部の鉄の供給ルートも抑えました。そのため、赤坂比古に従う九州中南部、中国西部、四国の勢力が倭国側に加わりました。劣勢だった倭国は一気に挽回し、鉄素材が供給されなくなった旧奴国勢力を抑えることに成功し、奴国の交易センターも復活させて隆盛を取り戻しました。つづきは次回にします。

(注1)気候の大きな変動により古代の人々の生活は影響を受けます。中国大陸の北方の遊牧・牧畜民族は寒冷化によって牧草を求めて南下し、南方の農耕民族との衝突も起こります。大河川周辺の農耕民族は洪水による被害で、新たな耕地を求めて移動することになり、食糧不足が深刻化すると民族内部での抗争、王朝に対する反乱が起こったと考えられます。

(注2)伊勢神宮内宮に祀られている天照大御神はニギハヤヒではなく、謡曲「三輪」が暴露したとおり、正体は大物主大神で大国主のことです。外宮に豊受大神すなわち大国主の妃である女王台与が祀られていることから分かります。ニギハヤヒは倉敷市の楯築王墓に葬られ、岡山市の備前国一宮吉備津神社他で大吉備津彦として祀られています。大吉備津彦の正体がニギハヤヒであることは前回述べましたが、特別な神階である二品を朝廷が贈ったことからも分かります。

ちなみに八百万の神々の中でたった四柱だけが品位を贈られています。一品は淡路国一宮伊弉諾神宮の伊弉諾尊、豊後国一宮宇佐八幡神宮八幡大神と八幡比売大神の三柱で、二品は備前国一宮吉備津神社吉備津彦大神のみです。

八幡比売大神が卑弥呼です。上述のとおり宗像三女神の主神イチキシマヒメです。伊弉冉尊を母系とする和邇氏の祖のムナカタ海人族の姫巫女だと推理しています。

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