角灯と砂時計 

その手に持つのは、角灯(ランタン)か、砂時計か。
第9番アルカナ「隠者」の、その俗世を生きる知恵を、私にも。

#082 もうひとつの「8月9日」

2015-08-09 07:13:42 | ぶらり図書館、映画館
8月9日は、ナガサキの日です。
と、同時に、
ソ連が、当時まだ有効だった日ソ中立条約を無視して日本に宣戦布告、
満州、樺太(サハリン)、千島へと軍事侵攻を開始した日でもあります。

〈ソ連は8月8日(モスクワ時間で午後5時、満州との国境地帯であるザバイカル時間では午後11時)に突如、ポツダム宣言への参加を表明した上で「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として宣戦を布告、事実上条約を破棄した。9日午前零時(ザバイカル時間)をもって戦闘を開始し、南樺太・千島列島および満州国・朝鮮半島北部等へ侵攻した。この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃となった〉
(Wikipedia:日ソ中立条約→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84

とはいえ、

昭和20年のこの日、
長崎への原爆投下があったということでさえ、
アヤシイ人が増えているそうなので、

ソ連軍の侵攻なんて、
それこそ殆どの人が「何それ」かもしれません。

さて、ものすごく昔、
自分がまだ小学生だった昭和50年頃のこと、
母に連れられて映画を観たことがあります。
でもたぶん、
いわゆる映画館じゃなかったと思います。

何分小学生だったので、
映画の内容もよく解らなかったのだけれど、
とにかく戦争の映画でした。

集団で逃げている人達が河原で一息ついていると、
そこへ飛行機が現れ、機銃や爆弾で沢山の人が死んでしまった。
交渉のために白旗をもっている人が射殺されたりした。

そういう場面をうっすらと断片的に覚えていて、
何か、とにかく痛くて哀しい、
そんな映画でした。

少し長じてから、
「ソ連の圧力で上映中止になった」という知識とともに、
それは『樺太1945年夏 氷雪の門』という映画だった、
ということを知りました。

そんな経緯もあって、
5年ほど前にこの映画が「再発見」され、
全国で上映されると聞いた時、

これはもう、娘達とも一緒に観るしかない、ということで、
浜松の映画館までいきました。
(結局、豊橋では上映されなかったようです)

映画『樺太1945年夏 氷雪の門』予告編


再上映でのパンフレット表紙です。


36年前 
ソ連の圧力によって封印された幻の名作

樺太1945年夏 氷雪の門

1945年8月20日
樺太で失われた9人の電話交換手の乙女たちの命
これは時代に圧殺された真実の物語


扉には、

表現の自由を約束されている社会でも、当時この映画は圧力によって封印された。
この映画は戦争が終わったはずの樺太(サハリン)で、歴史の片隅に置き去りにされ、肩をふるわせ涙で語った歴史の生き証人たちの物語であり、名もなき人々の故なくして強要された悲惨な事実の記録である

とも書かれています。

細かいことを言えば、
「ソ連の圧力によって封印された幻の〜」には異論もあるようですが、
(Wikipedia:樺太1945年夏 氷雪の門→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA1945%E5%B9%B4%E5%A4%8F_%E6%B0%B7%E9%9B%AA%E3%81%AE%E9%96%80

映画の内容や意義とは、あまり関係ありません。

購入、レンタルとも、
扱っているところは限られているようなので、
パンフレットによるストーリを紹介します。

1945年夏、太平洋戦争は既に終末を迎えようとしていたが、戦禍を浴びない樺太は、緊張の中にも平和な日々が続いていた。しかし、ソ連が突如として参戦、日本への進撃を開始した。北緯50度の防御線は瞬く間に突破され、ソ連軍は戦車を先頭に怒涛のごとく南下してきた。
戦禍を被った者たちは、長蛇の列をなして西海岸の真岡の町を目指した。
真岡郵便局の交換嬢たちは、4班交代で勤務に就いていた。彼女たちの中には、原爆を浴びた広島に肉親を持つ者がいる。最前線の国境に恋人を送りだした者がいる。戦火に追われて真岡をめざす姉を気づかう者がいる。刻々と迫るソ連軍の侵攻と、急を告げる人々の電話における緊迫した会話を、彼女たちは胸の張り裂ける思いで聞くほかになすすべがなかった。

8月15日、全く突然に終戦の報がもたらされた。敗戦国の婦女子がたどる暗い運命、生きられるかもしれないという希望、様々な思いが交錯する中で、樺太全土に婦女子の疎開命令が出た。一人、また一人と、交換嬢たちも引き揚げて行く。だが、その中には命令に従わず、“決死隊”としてその編成に参加し、交換手として職務を遂行しようと互いに励ましあい、責任を果たそうと心に誓う20名の乙女たちがいた。ソ連の進攻は依然として止むことはなく、むしろ、激しさを増した。戦争は終わったのではないか?人々は驚愕し、混乱した。

8月20日、霧の深い早朝。突如、真岡の町の沿岸にソ連艦隊が現れ、艦砲射撃を開始した。町は紅蓮の炎につつまれ、戦場と化した。
この時、第一班の交換嬢たち9人は局にいた。緊急を告げる電話、町の人々への避難経路を告げ、多くの人々の生命を守るため、彼女らは職場を離れなかった。じりじりと迫るソ連兵の群。取り残された9人の乙女たち。胸には青酸カリが潜められていた。
局の窓から迫るソ連兵の姿が見えた。路上の親子が銃火を浴びた。もはや、これまでだった。班長はたった一本残った回線に「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」と告げると静かにプラグを引き抜いた・・・。


「あれ、こんなだったかな?」と
「ああ、ここはよく覚えている」とが、
綯い交ぜになりながら観終わって、

あの時、
母は何のつもりで自分を連れて行ったんだろうと思ったりもしました。

面白い、楽しい、という種類の映画じゃないよ、
と前置きされて見ていた娘たちは、どう思ったでしょう。

何かしら感じ取って覚えていて、
30年後、彼女たちの子供に伝えてくれたらイイなあ、
などと壮大なことを考えたりもしました。

こちらはパンフレットの裏表紙です。


さて、冒頭引用したとおり、
8月9日、樺太だけでなく、満州、朝鮮、千島と、
ソ連軍は日本統治下の北方全域で進撃を開始しました。

既に降伏は時間の問題という相手に対して、
かつ、中立条約を一方的に破棄して侵攻するという、
正に「汚い」という言葉がピッタリの所業です。

その上、8月14日、
日本がポツダム宣言受諾を通達して以降も戦闘を停止せず、

結局9月2日、降伏文書調印の後に至るまで、
とにかく「取れるだけ取って」しまいました。

この行為こそが、
シベリア抑留、中国残留孤児や北方領土問題の原点です。


(Wikipedia:ソ連対日参戦→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6


(家族で語ろう、四島のこと:北方領土問題はどのようにして起こったの?
 →http://shimanokoto.com/about/step4.html

日本と、ソ連を継いだロシアとの間では、
実質的に戦後処理は終わっていませんし、
法的には戦争自体終わっていないのです。

オキナワ、ヒロシマ、ナガサキ、
メディアは、何故それと同じ「熱」を持って、
北方における「戦後」を扱ってくれないのでしょう。

「敵」が米国でないから、以外に理由があるなら教えて欲しい。
市民を巻き込んだのは沖縄戦だけじゃないんです。

北方における8月9日を知る国民が増えれば増える分だけ、
対ロシアとの「和平交渉」は有利になります。
外交は、より一枚岩に近いほうが強いに決まっています。
政治家や外務省を責めるより、それを後押しすることを考えないと。

現在を生きているロシア人を憎む必要はないけれど、
過去の出来事を知っているということは、やはり大切であり必要でもあります。

南を唄えば進歩革新、北を語れば保守反動。

昭和の頃は、そんな風潮が確かにありましたが、
平成の今日、北についても、
はるかに自由に発言できるようになっています。

発信も受信も「ばっかり」にならないように、
毎年、そんなことを思う8月です。
(産経新聞は頑張ってますけどね)


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