いささか古い話で恐縮ですが、
産経新聞H.27-6/25付大阪6版に、
(↓)こんな記事がありました。
(Web版→http://www.sankei.com/politics/news/150623/plt1506230020-n1.html)
「憎しみからは何も生まれない」
「死ぬまで日本人を憎み続けていいことがあるのか。手遅れにならないうちに彼と会い、友人になりたいと思った」
「大雨に流されたり、コレラにかかったりして多くの捕虜と日本兵が死んだ。捕虜たちを虐待した者もいたのだろう。気の毒だった。二度とこんな大きな犠牲を強いてはいけない」
ここに至るまで、
それぞれ苦悩だったり葛藤だったりがあったことでしょう。
当時、生まれてもいなかった者が何か言うべきことではないですね。
ただ、ふと、そのような映画があったような、
ということで思い出したのが、
『レイルウェイ〜運命の旅路』です。
4/19公開 「レイルウェイ 運命の旅路」予告編
〈戦時下の悲劇を生き抜いた英国将校と、罪を背負った日本人通訳〉
〈人は、憎しみを断ち切れる〉
〈魂を根底から揺さぶる、奇跡の実話〉
ということだったんですが、
実際観てみると、
どうやら、
“そうであったかもしれない”劇的な再会と和解の物語です。
その上、
「圧倒的な被害者が、一方的に加害者を赦してやった」
というツクリになっていて、
いささか、何だかなあ、な感じでした。
ニコール・キッドマンは、きっぱりとして素晴らしく美しかったのですが・・・
(ちなみに、
同じ泰緬鉄道を舞台にした『戦場にかける橋』という映画もありますが、
こちらは、それこそ史実とはかけ離れているので、その意味で真に受けないように
Wikipedia:戦場にかける橋→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%AB%E3%81%8B%E3%81%91%E3%82%8B%E6%A9%8B)
そんなワケで、ちょっと納得いかなかったので、
その「悲劇を生き抜いた英国将校」たる、
エリック・ローマクス氏の「原作」を読みました。
(角川文庫:『レイルウェイ運命の旅路』→http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=321301000279)
これは映画原作というより、基本ローマクス氏の自伝のようなもので、
やはりというか、映画はベツモノ。
「真実」は、そんな単純な「分かり易い」話ではありませんでした。
以下、ものすごくかいつまんで「再会、そして和解」の経緯を・・・
「罪を背負った日本人通訳」というのは長瀬隆氏といいます。
(wikipedia:長瀬隆→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%80%AC%E9%9A%86)
氏は「虎の十字架」という小著のなかで、
自分が戦争墓地を訪れた時のことを次のように記しました。
その中央の十字架の前にすすみ、花束を台座に置き、手を合わせた瞬間、黄色い陽光が私の体から四方八方にほとばしり、私自身が透明になったような感じがした。
「あ、これだ。私の罪は許された」
と私は感じ、素直に信じた。
この、ある意味身勝手な記述を、
ローマクス夫妻が目にしたとろこから、
「過去」に捕らわれていたローマクス氏の「未来」が動き出しました。
憤慨した夫人が手紙を書いたのです。
親愛なる永瀬様
あなたの著書「虎と十字架」をただいま読ませていただきました。私にとっては特別に興味深いものでした。と言いますのは、私の夫は、1943年8月、カーンチャナブリー近くの鉄道作業場収容所において、ラジオ操作に関わったとして、同僚6人と共に逮捕された英国通信兵将校だったからです。夫は鉄道地図も所持していました。そうです、あなたが本の15ページで触れているひどい拷問を受けた男とは、私の夫なのです。
夫の母は、シンガポールの陥落から1ヶ月後、エディンバラの自宅で亡くなりました。親戚の話では、死因は心臓破裂ということです・・・
1989年8月15日付の「ジャパンタイムズ」紙の記事であなたのことが分かりましたので、夫はもうあなたが誰なのか知っております。
夫はあなたと連絡が取りたいと切望しております。それは、夫はあの時以来ずっと、あなたしか答えられないのではないかと思われるような、数々の疑問を抱えながら生きてきたからです。あなたの方も、カーンチャナブリー・ラジオ事件については腑に落ちない点があるのではないでしょうか・・・もしよければ、夫との手紙のやり取りに応じてくださいませんか?
夫は長年、あの忌まわしい体験の後遺症に悩まされながら過ごしてきました。私は、あなたと連絡を取り合うことで、夫とあなたの双方によい影響がもたらされるものと思っております。永瀬さん、夫のように、あなたをまだ許していない特別な元極東捕虜がいても、あなたは「許された」とお考えになれるでしょうか?夫は戦時中のあなたが、特有の文化的圧力の下にあったことは理解しておりますが、あなたが実際掛かり合いになったことを完全に許せるかどうかは、まだ分かりません。その場にいなかった私には判断のしようもありませんが・・・
永瀬氏の返事です。
親愛なるパトリシア・M・ローマクス夫人
あなたからの思いがけないお便りを拝読し、私は今、全くどうしてよいか分からないでおります。しかしながら、あのようなお手紙を受け取るのも至極当然のことだとも考えています。「夫のように、あなたをまだ許していない特別な元極東捕虜がいてもー」という一節に、過去の汚れた日々が甦り、私は完膚なきまでに打ちのめされる思いがいたしました。あなたからあのようなお手紙を受け取るのも、私の運命なのだと思います。どうか私にしばらく再考する時間をお与えください。
そしてご夫君に、もし私がいくらかでも心がかりの疑問を解くお役に立てるのならば、喜んでお答えするつもりです、とお伝え下さい。
とにかく、私はもう一度ローマクス氏にお会いしなければならないと考え始めております。写真を拝見すると、その胸中まではお察しすることはできませんが、ご健康で柔和な紳士とお見受けいたします。どうか、お目にかかれるまでお元気でいらしてくださるように。
追伸 あなた方の電話番号をお教えください。
追伸その2 あなたのお手紙の読後でなにぶん取り乱しており、今お読みくださった程度のことしか記すことができず、申し訳ありません。氏が承知してくださるならば、何とかお会いする方法を見つけてみるつもりです。
今日まで長い間、あの方によくしてくださって感謝しております。
あなたのお手紙は、私の胸の奥まで鋭く刺し貫きました。
これをきっかけにして、
ローマクス氏自身と永瀬氏による手紙のやりとりが始まって、
やがてタイで再会し、日本を訪ねてもらうまでになったということです。
そしてローマクス氏が、永瀬氏と二人きりになった時、
戦争が終わって、もう50年近くも経っている。私はこれまでひどく苦しんできた。しかしながら、あなたもまたその間ずっと、同様な苦しみを味わい続け、しかもそれを超えて、積極果敢に軍国主義反対を主張し、同時に諸国民同士の和解に力を尽くしてこられたことを私は知りました。1943年、カンブリで起こった出来事は忘れることはできないが、私はあなたに私の心からの許しを確約します。
という短い手紙を読み、聞かせるに至ります。
素敵な話でした。
ところで、実はここからが本題です。
それぞれ個人個人が、
上の記事や本のように「和解」していくのは素晴らしいことです。
償い、赦し、被害者と加害者との関係を乗り越えて解り合う、
もしかしたら、それこそが幾年月を人として生きる意味なのかもしれまん。
ただ、だから国同士でも「和解」を、と言い出すのは間違いです。
少なくとも勘違いです。
「心からのお詫び」を言ったところで、
国と国とが「和解」することは不可能です。
私自身、
先の戦争全体をして、
日本だけが「詫びる」「許される」べきものとは考えていませんし、
各局面、各々個人によってモノの見方は千差万別、錯綜しています。
故に、被害と加害との関係を脇に置いて折り合いをつける、
国同士の「和解」とは、せいぜいそういうことなんだと思います。
外交上話をつける、カタをつける、ということです。
そして、その意味での「和解」は、
ソ連ーロシア以外とは、全ての国とで既に終わっていることなのです。
大陸のあの国や、半島の彼の国もです。
個人で何か言ってくる人に対して、
個人で向き合うのは構いません。
ただ政府として何か言われても、
すべて終わったものとしてスルーで良いんです。
「和解」は済んでいるのですから。
日本には、何かというと「心からのお詫び」を口にして、
いい人になりたがる政治家が多くて困ってしまうのですが、
それで「過去」に何か良いことがあったでしょうか?
「未来」に向かって何か良いことがあるのでしょうか?
あ、ついでに言っておきますけど、
自分がしたことでもないのに謝ってみせるのは、
誠実に見えて実は不遜な態度だと、
そういう見解も有り得ますよね。
私はそれです。
産経新聞H.27-6/25付大阪6版に、
(↓)こんな記事がありました。
(Web版→http://www.sankei.com/politics/news/150623/plt1506230020-n1.html)
「憎しみからは何も生まれない」
「死ぬまで日本人を憎み続けていいことがあるのか。手遅れにならないうちに彼と会い、友人になりたいと思った」
「大雨に流されたり、コレラにかかったりして多くの捕虜と日本兵が死んだ。捕虜たちを虐待した者もいたのだろう。気の毒だった。二度とこんな大きな犠牲を強いてはいけない」
ここに至るまで、
それぞれ苦悩だったり葛藤だったりがあったことでしょう。
当時、生まれてもいなかった者が何か言うべきことではないですね。
ただ、ふと、そのような映画があったような、
ということで思い出したのが、
『レイルウェイ〜運命の旅路』です。
4/19公開 「レイルウェイ 運命の旅路」予告編
〈戦時下の悲劇を生き抜いた英国将校と、罪を背負った日本人通訳〉
〈人は、憎しみを断ち切れる〉
〈魂を根底から揺さぶる、奇跡の実話〉
ということだったんですが、
実際観てみると、
どうやら、
“そうであったかもしれない”劇的な再会と和解の物語です。
その上、
「圧倒的な被害者が、一方的に加害者を赦してやった」
というツクリになっていて、
いささか、何だかなあ、な感じでした。
ニコール・キッドマンは、きっぱりとして素晴らしく美しかったのですが・・・
(ちなみに、
同じ泰緬鉄道を舞台にした『戦場にかける橋』という映画もありますが、
こちらは、それこそ史実とはかけ離れているので、その意味で真に受けないように
Wikipedia:戦場にかける橋→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%AB%E3%81%8B%E3%81%91%E3%82%8B%E6%A9%8B)
そんなワケで、ちょっと納得いかなかったので、
その「悲劇を生き抜いた英国将校」たる、
エリック・ローマクス氏の「原作」を読みました。
(角川文庫:『レイルウェイ運命の旅路』→http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=321301000279)
これは映画原作というより、基本ローマクス氏の自伝のようなもので、
やはりというか、映画はベツモノ。
「真実」は、そんな単純な「分かり易い」話ではありませんでした。
以下、ものすごくかいつまんで「再会、そして和解」の経緯を・・・
「罪を背負った日本人通訳」というのは長瀬隆氏といいます。
(wikipedia:長瀬隆→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%80%AC%E9%9A%86)
氏は「虎の十字架」という小著のなかで、
自分が戦争墓地を訪れた時のことを次のように記しました。
その中央の十字架の前にすすみ、花束を台座に置き、手を合わせた瞬間、黄色い陽光が私の体から四方八方にほとばしり、私自身が透明になったような感じがした。
「あ、これだ。私の罪は許された」
と私は感じ、素直に信じた。
この、ある意味身勝手な記述を、
ローマクス夫妻が目にしたとろこから、
「過去」に捕らわれていたローマクス氏の「未来」が動き出しました。
憤慨した夫人が手紙を書いたのです。
親愛なる永瀬様
あなたの著書「虎と十字架」をただいま読ませていただきました。私にとっては特別に興味深いものでした。と言いますのは、私の夫は、1943年8月、カーンチャナブリー近くの鉄道作業場収容所において、ラジオ操作に関わったとして、同僚6人と共に逮捕された英国通信兵将校だったからです。夫は鉄道地図も所持していました。そうです、あなたが本の15ページで触れているひどい拷問を受けた男とは、私の夫なのです。
夫の母は、シンガポールの陥落から1ヶ月後、エディンバラの自宅で亡くなりました。親戚の話では、死因は心臓破裂ということです・・・
1989年8月15日付の「ジャパンタイムズ」紙の記事であなたのことが分かりましたので、夫はもうあなたが誰なのか知っております。
夫はあなたと連絡が取りたいと切望しております。それは、夫はあの時以来ずっと、あなたしか答えられないのではないかと思われるような、数々の疑問を抱えながら生きてきたからです。あなたの方も、カーンチャナブリー・ラジオ事件については腑に落ちない点があるのではないでしょうか・・・もしよければ、夫との手紙のやり取りに応じてくださいませんか?
夫は長年、あの忌まわしい体験の後遺症に悩まされながら過ごしてきました。私は、あなたと連絡を取り合うことで、夫とあなたの双方によい影響がもたらされるものと思っております。永瀬さん、夫のように、あなたをまだ許していない特別な元極東捕虜がいても、あなたは「許された」とお考えになれるでしょうか?夫は戦時中のあなたが、特有の文化的圧力の下にあったことは理解しておりますが、あなたが実際掛かり合いになったことを完全に許せるかどうかは、まだ分かりません。その場にいなかった私には判断のしようもありませんが・・・
敬具
パトリシア・M・ローマクス
パトリシア・M・ローマクス
永瀬氏の返事です。
親愛なるパトリシア・M・ローマクス夫人
あなたからの思いがけないお便りを拝読し、私は今、全くどうしてよいか分からないでおります。しかしながら、あのようなお手紙を受け取るのも至極当然のことだとも考えています。「夫のように、あなたをまだ許していない特別な元極東捕虜がいてもー」という一節に、過去の汚れた日々が甦り、私は完膚なきまでに打ちのめされる思いがいたしました。あなたからあのようなお手紙を受け取るのも、私の運命なのだと思います。どうか私にしばらく再考する時間をお与えください。
そしてご夫君に、もし私がいくらかでも心がかりの疑問を解くお役に立てるのならば、喜んでお答えするつもりです、とお伝え下さい。
とにかく、私はもう一度ローマクス氏にお会いしなければならないと考え始めております。写真を拝見すると、その胸中まではお察しすることはできませんが、ご健康で柔和な紳士とお見受けいたします。どうか、お目にかかれるまでお元気でいらしてくださるように。
敬具
永瀬 隆
永瀬 隆
追伸 あなた方の電話番号をお教えください。
追伸その2 あなたのお手紙の読後でなにぶん取り乱しており、今お読みくださった程度のことしか記すことができず、申し訳ありません。氏が承知してくださるならば、何とかお会いする方法を見つけてみるつもりです。
今日まで長い間、あの方によくしてくださって感謝しております。
あなたのお手紙は、私の胸の奥まで鋭く刺し貫きました。
これをきっかけにして、
ローマクス氏自身と永瀬氏による手紙のやりとりが始まって、
やがてタイで再会し、日本を訪ねてもらうまでになったということです。
そしてローマクス氏が、永瀬氏と二人きりになった時、
戦争が終わって、もう50年近くも経っている。私はこれまでひどく苦しんできた。しかしながら、あなたもまたその間ずっと、同様な苦しみを味わい続け、しかもそれを超えて、積極果敢に軍国主義反対を主張し、同時に諸国民同士の和解に力を尽くしてこられたことを私は知りました。1943年、カンブリで起こった出来事は忘れることはできないが、私はあなたに私の心からの許しを確約します。
という短い手紙を読み、聞かせるに至ります。
素敵な話でした。
ところで、実はここからが本題です。
それぞれ個人個人が、
上の記事や本のように「和解」していくのは素晴らしいことです。
償い、赦し、被害者と加害者との関係を乗り越えて解り合う、
もしかしたら、それこそが幾年月を人として生きる意味なのかもしれまん。
ただ、だから国同士でも「和解」を、と言い出すのは間違いです。
少なくとも勘違いです。
「心からのお詫び」を言ったところで、
国と国とが「和解」することは不可能です。
私自身、
先の戦争全体をして、
日本だけが「詫びる」「許される」べきものとは考えていませんし、
各局面、各々個人によってモノの見方は千差万別、錯綜しています。
故に、被害と加害との関係を脇に置いて折り合いをつける、
国同士の「和解」とは、せいぜいそういうことなんだと思います。
外交上話をつける、カタをつける、ということです。
そして、その意味での「和解」は、
ソ連ーロシア以外とは、全ての国とで既に終わっていることなのです。
大陸のあの国や、半島の彼の国もです。
個人で何か言ってくる人に対して、
個人で向き合うのは構いません。
ただ政府として何か言われても、
すべて終わったものとしてスルーで良いんです。
「和解」は済んでいるのですから。
日本には、何かというと「心からのお詫び」を口にして、
いい人になりたがる政治家が多くて困ってしまうのですが、
それで「過去」に何か良いことがあったでしょうか?
「未来」に向かって何か良いことがあるのでしょうか?
あ、ついでに言っておきますけど、
自分がしたことでもないのに謝ってみせるのは、
誠実に見えて実は不遜な態度だと、
そういう見解も有り得ますよね。
私はそれです。
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