角灯と砂時計 

その手に持つのは、角灯(ランタン)か、砂時計か。
第9番アルカナ「隠者」の、その俗世を生きる知恵を、私にも。

#083 「記憶」儚し。

2015-08-13 06:35:47 | 思いつくまま
人の記憶とは儚いものです。

でもそれは、
すぐに薄れゆくとか、いずれ忘れてしまうとか、
そういう意味ではありません。

記憶は、時に嘘をつきます。

他者の影響で。
あるいは、
変わらぬ自己で在ろうとして。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・

8月、お盆。
昔を偲ぶ機会が多くなる季節です。

加えて今年は「戦後70年」。
様々なメディアで特集、特番、ムック、別冊等、
文字通り溢れています。

その中の、少なくない割合を占めるのが「体験談」です。

体験談。
その人が、現在語るところの過去の記憶。
共感したり、感動したり、何ものかを与えられた気持ちになったり・・・

そこまではいいんです。

ですが、
語られる個々の記憶を、
そのまま事実だと受け止めてはいけません。

「虚偽記憶」=れっきとした心理学の用語。

今回はそういう話です。

TEDから、
(Wikipedia:TED→https://ja.wikipedia.org/wiki/TED_(%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9)

Elizabeth Loftus:How reliable is your memory?
(エリザベス・ロフタス:記憶が語るフィクション)
を紹介いたします。


内容をかいつまんで申しますと・・・

Elizabeth Loftus さん、

〈私は「忘れる」ことは 研究していないのです。 私の研究はその反対で 「記憶する」こと― 起きてもいないことを 覚えていることや、 実際とは違う風に 覚えていることを 研究しています。 私は 虚偽記憶を 研究しているのです〉

と、いうことで、
まず、一般的な認識をほぐしにかかります。

〈多くの人が 記憶というものを 記録装置と同一視しています。 人は 情報を そのまま記録しておいて、 それを呼び出して再生し、 質問に答えたり イメージを認識したりするというわけです。 しかし 何十年にもわたる 心理学研究が そうではないことを 証明しています。 私たちの記憶は 組み立てられるもので 再構成もされます。 記憶は むしろ ウィキペディアのようなものです。 自ら 内容を書き換えることもできれば 他人が書き換えることもできます〉

ここから、様々な出来事や研究事例を説明しつつ、

〈経験した事実について 誤った情報を与えると、 他人の記憶を 歪曲したり ねつ造したり、 変えてしまうことが 可能だ〉
〈経験していても おかしくないことを、 メディアの報道を通じて 見ることによっても、 私たちの記憶は 歪められてしまう可能性があります〉
〈虚偽記憶は 植え付けが可能で、 その記憶が根付いた後は 長期に渡って 行動に影響を及ぼす〉


ということを訴えているわけです。
そして最後に、

〈ほとんどの人にとって 記憶は大切で、 自分のアイデンティティーや、 人間としての本質を 象徴するものです〉

として、
記憶というものが、
個人にとって大切なものだということを認めながらも、
しかし、それを聞く側の姿勢として、

〈誰かに何か言われて、 その人が自信満々で、 詳細に語ったとしても、 感情がこもっていたとしても、 それが事実とは限りません。 虚偽の記憶を 確実に見破る方法はありません。 一つ一つ実証していくことが 必要です〉

と、たしなめているのです。
そして、結語。

〈でも 同時に、心に留めておくべきは、 しっかり留めておくべきは、 記憶は 自由と同じで 儚いものだ ということです〉
(But meanwhile, we should all keep in mind, we'd do well to, that memory, like liberty, is a fragile thing.)

ま、これは米国人らしい修辞ということで、
ああ、そうですか、くらいのモノです。

(↓)全編ご覧ください。


さて、このプレゼンテーション、
どのように受け止められたでしょうか?

いわゆる「記憶力」には、
当然、個人差はあるんです。

プレゼンテーションにあった実験でも、
虚偽記憶を植え付けられずにいた人もいるわけですから。

ただ、誰であれ、
自分の記憶が絶対かと聞かれれば、
ちょっとアヤシイかも、と思うのではないでしょうか。

けれど他人に、そこは間違っている、とは言われたくないんですね。
そうされると、逆に頑なになったりもするわけです。

不安に対して科学的に、
歴史認識に対して学術的に、
体験談に対して客観的に意見されると、

何か人格を否定されたかのように怒り出す人が時々いて、
ちょっと困ったりするんですけど、

やっぱりそれは、
自信が無いからなんでしょうか。

あ、そんなこと言うと、益々怒らせちゃうかな?

ともかく、
他人の体験談をまるごと信じたりしないように、
ということを言いたいのです。
「自信満々で、 詳細に語ったとしても、 感情がこもっていたとしても」です。

意図して嘘をついているのではありません。
結果として嘘を含んでいる場合がある、ということです。

翻って、
自分が何か過去の出来事を語る時にも、

もしかしたら記憶違いであったり、
あとから付け足した情報だったり、

そういうモノが知らず知らず混入しているかもしれないと、
そういう前提で話をしなければ、と思います。

過去を振り返り、
場合によっては、ひたすら拘り続ける、
そんな世間の空気にいささか辟易しながら、

たとえ唯一無二の体験だとしても、
それは現在の自分にとっての真実に過ぎないこと。
その程度に相対的なものだという自覚は必要なんじゃないかな、

と、そう思う今日此の頃です。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿