角灯と砂時計 

その手に持つのは、角灯(ランタン)か、砂時計か。
第9番アルカナ「隠者」の、その俗世を生きる知恵を、私にも。

#157 続・相模原殺傷事件について

2016-07-31 06:42:01 | メディア論
(産経新聞7/30大阪6版)

Web産経:主張 相模原大量殺人 なぜ実名発表を求めるか
 →http://www.sankei.com/column/news/160729/clm1607290002-n1.html




新聞社として、
実名発表を求める、という結論が先にあって論説委員が議論すると、
こういう文章になるんだなあ、と思いました。


そして、障害者の不安を軽減するためにも、誰よりも被害者の家族に、容疑者を強く否定してもらいたい。

そこは同意します。

怒りや悲しみ、被害者への愛情や思い出、容疑者への反論を直接聞き、伝えたい。そのための取材である。容疑者の供述や妄想に満ちた手紙の文面が、当事者に否定されることなく社会の記憶に残る事態は耐え難い。

その使命感も分からないでもない。

の、だけれど・・・

だが、報道側が求めているのは実名報道ではなく、実名の開示である。実名は取材の起点として不可欠なもので、実名を報道するか否かは取材の結果で決める。まず取材がなければ、真実へは一歩も近づくことができない。

つまり、
「(その方が取材もラクだし)とにかく公表しなさいよ。実名を使うかどうかはオレ様が決めるから」
ということですか?

報じる側の集団的過熱取材(メディアスクラム)には強い批判がある。深く反省すべき点も多々ある。それでも、取材をやめるわけにはいかない。

「深く反省すべき点も多々ある」という反省が本物で、
「それでも、取材をやめるわけにはいかない」という使命感が真実なら、

自らの足で施設に赴き、
自らの言葉で取材意図を説明して関係者を説得し、
話を聞く者としての手順を踏んで被害者・遺族に取材し、
直接信頼関係を築いた上で、実名にせよ仮名にせよ、報道すれば良いと思う。

そういう「苦心」を重ねた記事であればこそ、
ただメシのタネとして紙面を埋めるだけの記事にはない「力」が宿るのではないですか?


その証拠に、というのも変ですが、
上の「主張(社説)」と同じ日の社会面にあった記事です。


(産経新聞7/30大阪6版)

「重度の知的障害だけど、必死に抵抗したんじゃないでしょうか。どんなに恐かったか」

「理不尽な形で命を奪われることがどれだけつらいことか。知的障害者への差別を解き、事件が起きないようにしないと被害者が浮かばれない」


実際、警察発表はなかったのですから、
社会部の記者が頑張ったということでしょう。


ニュースに「旬」があるのは認めます。
けれど、それに間に合わせるためのヤッツケ記事は読みたくありません。

どっちにしたって「速報」ではもう他メディアに勝てないのだから、
新聞こそは、ゆっくり時間をかけて、力のある記事を書いてもらいたと思います。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・

たまたま、でしょうけど、
これも産経新聞生活面に、週イチで連載されていた記事です。



「分かってもらえなくても知ってもらえればいい。差別は許せないけど、区別はしてほしいから」




「あなたの生き方を見ていれば、こういう子供が生まれるのは当たり前」。ある日、親族に電話で言われた言葉に立ちすくんだ。




問題行動がなくなったわけではない。娘が自傷しながら泣き叫ぶと胸が苦しくなり、胃は痛くなる。大変さは変わらない。受け入れたのだ。
悩んでも、障害がなくなることはない。受け入れるしかないから、ただ、かわいく愛しい。


(上から順に、7/14、7/21、7/28の大阪6版)


当事者でない以上、
それこそ真実、分かってあげることはできないかもしれません。

でも、
知る努力はやっぱり必要です。

家族が知的障碍者を受け入れるしかないように、
社会(という名の私達自身)も受け入れなきゃいけないんだと思います。


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