角灯と砂時計 

その手に持つのは、角灯(ランタン)か、砂時計か。
第9番アルカナ「隠者」の、その俗世を生きる知恵を、私にも。

#054 「主権回復記念日」以上でなく、以下でなく、

2015-04-28 21:22:09 | 来し方、行く末
4月28日、主権回復記念日です。

昭和27年のこの日、
サンフランシスコ講和条約の発効をもって、
日本国は再び主権を持つ独立国となりました。

2年前には、初めて政府主催による「主権回復の日記念式典」がありました。

当時、安倍さんとしては、
主権回復の日を国民に知らしめることで、

例えば憲法制定といった重要な事柄が、
主権制限下にあってすすめられたのだ、
ということに、改めて想いを致す機会にしたかったのではないかと思います。

ところが、記念式典の予定が公になる前後から、
俄に、4.28は沖縄にとって「屈辱の日」だと言い出す人が続出しました。

ほんと、にわかに、なんです。

沖縄にあっても、ごく一部、そっち方面で使われていただけで、
一般の県民はほとんど聞いたことがなかったようです。

*参考ブログ「4月28日は『屈辱の日』?『屈辱の日』は左翼が作った!」

言うまでもないことですが、
「沖縄県民」という人物は、いません。
多様な意見を持った多くの沖縄の人々がいます。

中には、そりゃ、
沖縄が切り捨てられた、本土と分断された「屈辱の日」だと、
以前から訴えていた方もいらっしゃるでしょう。

あるいは、
残念ながら沖縄は外されてしまったけれども、
後の本土復帰につながる第一歩だったとして、
「記念」することにやぶさかでない、という方もおいでだと思います。
もちろん「祝う」気持ちにはなれないにしても。

「屈辱の日」を繰り返す人に聞きたいのですが、
今、それを言うことに、一体何の意味があるのでしょうか。

沖縄の人々にとって、
置き去りにされたという感はあったかも知れないし、
あるいは屈辱だったのかもしれません。

けれど、それは、
沖縄の人々だけではなく、

主権回復にあたり、
北方領土を含め、全国一括で行政下に置けなかったのは、
本土の人間にとっても、政府にとっても屈辱だったのではないでしょうか?

当時、
まず主権回復、後に返還交渉、やがて本土復帰を目指す、
という以外に道があったのでしょうか?

「本土にとっては主権回復でも、沖縄にとっては屈辱の日」

この言い回しに、
本土と沖縄との間にある溝を、より深くする以外の効果があるんですか?

サンフランシスコ講和条約受諾演説で吉田首相は言っています。

 この条約は公正にして史上かつて見ざる寛大なものであります。従つて日本のおかれている地位を十分承知しておりますが、敢えて数点につき全権各位の注意を喚起せざるを得ないのはわが国民に対する私の責務と存ずるからであります。
 第一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合の信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。


吉田首相は、沖縄を切り捨てたわけではないんです。

安倍首相にしても、沖縄が意識の外だというのではありません。
一昨年の主権回復の日記念式典式辞です。

 また、日本に主権が戻ってきたその日に、奄美、小笠原、沖縄の施政権は、日本から、切り離されてしまいました。
 とりわけ銘記すべきは、残酷な地上戦を経験し、おびただしい犠牲を出した沖縄の施政権が、最も長く、日本から離れたままだった事実であります。
 「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」。佐藤栄作首相の言葉です。
 沖縄の、本土復帰は、昭和47年、5月15日です。日本全体の戦後が、初めて本当に終わるまで、主権回復から、なお20年という長い月日を要したのでありました。
 沖縄の人々が耐え、忍ばざるを得なかった、戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は、意味をなしません。わたくしは、若い世代の人々に特に呼びかけつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く、思いを寄せる努力をなすべきだということを、訴えようと思います。


これを口先だけだ、と批判するのは簡単ですが、
では、他にどう言えと?


昭和27年4月28日は日本国主権回復の日です。
それ以上でもそれ以下でもなく、事実として。

20年後の5月15日、沖縄の本土復帰に繋がっていく第一歩として。


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