唯物論者

唯物論の再構築

中国反日暴動2

2012-09-29 09:16:31 | 政治時評

 日本のGDPにおける外需依存率は15%で、そのうちの対中依存率は17%である。一方、中国のGDPにおける外需依存率は36%で、そのうちの対日依存率は9%である。したがって単純なGDP比率では、日本の対中依存率は2.6%であり、中国の対日依存率は3.2%となる。ともにGDP全体で見た相互の依存率は低く、仮に両国間の貿易が中断しても、両国ともそれによる長期的なダメージを受けることは無いように見える。しかしそれは錯覚である。両国間の貿易の中断は、日本と中国の双方の経済に深刻な問題が起こす。とくに深刻な問題が起きるのは、日本ではなく、中国側である。そして引き起こされた危機が中国にもたらすのは、中国の現体制の崩壊である。その崩壊は中国の民主化に進むわけではなく、文化大革命の再来であり、仮に共産主義政権が転覆しても、せいぜいロシア型の民族主義的な国家資本主義の実現に帰結するだけである。筆者の予測では、このときに中国の政治指導部が選択する打開策は、対日戦か台湾侵攻を口実にした支配体制の引き締めである。そして戦時体制という錦の御旗により、国内反体制組織に対して非愛国者のレッテルを貼り付け、その全面的な壊滅を目指すと言う筋書きである。筆者によるこの中国指導部の行動予測は、レーニン死後のロシア共産主義における反体制派の壊滅とスターリン体制確立の経緯を踏襲している。

 同じGDP1%でも、日本と中国の1%は人的規模が異なる。日本と中国では人口比で10倍以上の差異があるので、同じ1%が養う人口も同じ比率で差異が起きる。結果的に、単純計算で日本の2.6%が日本人330万人の生活を表現するとしたら、中国の3.2%は中国人4160万人の生活を表現することとなる。もちろんこの表現は、両国の所得不均衡を反映していない。例えばアメリカのように所得格差が大きい社会では、人口の少数に所得が著しく集中する。アメリカの場合だと、GDPの半分が1%の富裕層に吸収されている。このような格差社会では、実際のGDPの値もその半分を捨象するか、または逆にGDPが養う人口を倍増してイメージする必要がある。つまりこのような格差社会では、GDPの50%が人口の99%を表現するわけである。この意味で格差社会とは、その社会の庶民1人当たりの命の価値下落にほかならない。言い換えるとそれは、貧者の生命価格のハイパーインフレである。したがってもし中国がアメリカと同程度の格差社会であるなら、そのGDP比率に対応する人数は、4160万人ではなく、その倍の8320万人として現われる。ただしこの8320万人の半分の4160万人は、不労所得に対応した存在しない人口である。すなわちそれは、富裕層が吸収した富に対応する庶民の人数を表現している。したがってもし対日依存の影響を富裕層が全て受け止める覚悟があるなら、中国庶民における対日貿易の遮断による対日依存の影響は現われない可能性もある。逆に対日依存の影響を富裕層が受け止めないなら、中国の庶民8320万人が対日貿易の遮断による対日依存の影響を全て受け止めなければいけない。そしておそらく中国の富裕層は、自ら対日依存の影響を受け止める気は無い。しかも中国の格差社会ぶりは、アメリカの格差社会を凌駕しているものと見られている。したがって中国における対日依存の影響を受ける人口は、8320万人を超えると捉えるべきである。もちろんこの図式は、日本国内の所得不均衡に対しても当てはまる。ただし対日比較で見たときに中国国内の所得不均衡の方が大きいのであれば、中国国内の貧富格差の大きさは、そのまま対日依存の影響をさらに大きくする。このことは、中国による対日経済制裁の事実上の不可能を意味しているように見える。しかし人間は、小さな虚偽に対する反発を大きな善と解釈しがちである。戦前の日本は、中国に対する怒りと憎悪に燃えて南京に向けて侵略を進め、経済破綻を承知でアメリカと戦争をした。同様に日本に対する怒りと憎悪に一度火のつくなら、中国は世界最終戦争に対しても怖気づくことは無いであろう。どこの世界でも希望を失った貧民は、自らの苦悩に満ちた生の終焉を望んでおり、魅惑的な善に殉じた自爆を目指すからである。ただし貧者が殉じる対象が本当に善であるかどうかは、死にたがる貧民にとってどうでも良い話である。
 かつて愛国は、戦前日本における大陸侵略、ドイツにおける民族浄化、ロシアにおける大量粛清と収容所国家建設、中国での文化大革命などの悪逆を正当化する口実として現われた。それらの悪逆行為に反対するものは、国家の敵どころか、国民の敵、民族の敵とみなされ、非愛国者の烙印を押され、人間としての生と尊厳の全てを奪われた。非愛国者の烙印は、愛国国家では死の宣言なのである。その不合理は、庶民だけではなく、国家の中枢にいる人間にも作用する。愛国は、敵対する政治的勢力を死滅させる絶好の口実となるからである。それは共存と博愛を目指す軟弱者を非愛国者として葬り、攻撃と差別を信条とする凶暴な愛国者だけを生き残らせる。結果的に国家の指導者たちは、自らが愛国を鼓舞して育成したのに関わらず、今度は自分が少しでも非愛国のそしりを受けるのを死ぬほど怖れる破目になる。このために愛国国家では、外国人と話をすること自体が、かなり危険な行為として現われる。また愛国国家では、指導者も含めて国民全員が率先して熱烈な愛国者を必要以上に大袈裟に演じる。そうでなければ彼らは、愛国国家で生きていけないからである。この演技に真実味をもたせる簡単な方法は、周囲の罪の無い人々を非愛国者として告発し、自分よりも先に彼らを地獄に落としこむことである。このスケープゴートたちが処刑されている間、愛国者たちはひとまず自身の安泰を確保できる。しかしスケープゴートの処刑が終われば、愛国者は再び自らが軟弱な非愛国者として告発される恐怖に怯えなければならない。ついにはこの恐怖を回避するために、愛国者は悪魔とも契約するようになる。このようなことから、愛国の大袈裟な表明と新たなスケープゴートの採掘は、愛国者にとって常に自ら果すべき任務として現われる。愛国者たちは、自らを守るために、自らを洗脳し、共犯者を作りながら生き長らえたのである。したがって「日本に対する怒りと憎悪に一度火のつくなら、中国は世界最終戦争に対しても怖気づくことは無いであろう」との先の言い方は正しくない。正しくは「怖気づくことができないであろう」というべきである。それは本土決戦を覚悟し、国民総玉砕を呼号した太平洋戦争末期の日本人の姿とも重なっている。
 このようなわけで、日本と中国の経済的互恵関係は、中国による対日経済制裁の不可能を意味しない。例えそれが日本以上に中国を経済的または政治的に崩壊させるとしても、中国がそれを実行するのは可能である。ただしどうしても中国が対日経済制裁を行いたいのであれば、先に自国の貧富格差の是正と汚職の完全追放をすべきである。それだけでも、自国の対日依存の影響度合いを限定化し、対日経済制裁の実現性をかなり高められるはずである。つまり中国における愛国は、中国支配層の愛国心の真偽を問い正す必要がある。偽の愛国が真の愛国に勝利した場合、中国に愛国という名の全体主義がリニューアルされた姿で再び到来するだけである。しかし結末がそれでは、仮に日本人の全てが中国の核兵器により死滅させられたとしても、その死は無駄なものとなる。中国の民主主義的後退は、日本人にとっても全く浮かばれない話である。

 一方で日本における対中依存の影響下にある人口規模を330万人とみた場合、その数値の大きさの妥当性を検討する必要がある。もちろん330万人という数字が大きいのは確かである。しかしここで考えるべき妥当性は、日本および東アジアの安全保障から見た数値の大小である。二国間の国家経済の相互依存は、リカードが説明したように、二国間の双方に利益をもたらす。そして日本にとって重要なことは、そのことが二国間の政治的対立の危機的局面への突入を抑止することである。だからこそ日本は、この40年の間、ひたすら中国との関係重視を維持し、経済的互恵関係の構築に邁進してきた。
 もちろん実際には日本の思惑は、中国の思惑とずれている。中国と仲良くするのを目指した日本と違い、中国にとっての対日関係は、自国の富国強兵が第一の目的だったからである。中国において、二国間の接近を目指す傾向と対立を目指す傾向は、それ自身が矛盾である。そしてこの二律背反が、天安門事件による中国共産党の体制的危機において、江沢民の反日路線を必然にした。つまり中国共産党は、自らの支配を正当化するために、民主化要求に対抗し得る美的言辞が必要だったのである。それこそが反日愛国である。反日愛国主義とは、中国共産党が中国国民の脳に直接注入した阿片なのである。そして中国共産党は、反日を呼号することで自らを愛国の衣装で飾り、体制の反逆者に対する弾圧を、非愛国者に対する弾圧として正当化することに成功した。そしてこの成功は、中国の反日路線の固定化を必然にした。ただしそれは、日本と中国の二国関係の接近と離反の傾向的矛盾をより鮮明にし、日本と中国の国民を混迷させることになった。
 中国から欧米資本が撤退する中で、日本資本だけは中国投資を増大させてきた。しかしその日本資本の対中国方針も、今は岐路に立たされている。日本の中国への投資意欲が盛んな一方で、中国の反日感情が大きな壁になっているからである。すでに中国の人件費は安いものではなくなっている。低賃金の魅力だけで中国に進出した資本は、今回の事件が無くても、おのずと中国から撤退する運命にいたのかもしれない。したがって今後の中国への投資意欲は、基本的にその市場の大きさと将来性だけに支えられることになる。しかしもともとこの40年間の日本の対中国の国家戦略は、そのような資本家的損得で進んできたわけでは無い。その意味で既存の水準での日本と中国の相互互恵関係は、維持されるべきである。日本人の強みは、郷にいれば郷に従い、相手に配慮して行動し、自分の面子を気にしない協調性にある。経済分野において、中国に対して、歴史問題などの政治的譲歩をする必要はもともと無い。筆者は、今後も今回の事件のような焼き討ちが起きるのを前提にして、日本人は従来の路線を継続すべきと考える。つまり日本人は、戦後日本の再出発のときと同様に、そのたびに焦土の中から何度でもよみがえり、中国社会に貢献することを目指すべきである。またそれこそが、日本と中国の間の真の安全保障の実現になると考えている。
(2012/09/26)


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