唯物論者

唯物論の再構築

剰余価値理論と生産価格論(6)

2021-09-01 08:34:36 | 資本論の見直し


9)平均利潤率の幻惑

 労働価値論の唯物論的意義は、意識が規定する需給価格を、具体的な人間生活を度量にして説明することにある。すなわち人間生活一日分の商品は、その実現に要する一日分の労働力を価値とする。商品に対する需給関係の調整は、その価値の適正な貨幣表現を目指すだけであり、需給関係が商品価格を決定するように見えるのは、単なる仮象にすぎない。しかし差額略取の利潤論は、この需給関係が商品価格を決定する仮象を現実として捉える。それだからこそマルクスは剰余価値理論を提示することで、労働価値論の護持に努めた。ところがその剰余価値理論の延長上に現れる生産価格論は、需給関係の代わりに平均利潤率を商品価格の規定者として持ちだす。この解決は需給関係が商品価格の規定者として現れるのに比べると、それなりに進歩である。少なくとも商品価格は労賃と固定費の合計額を下回る価格となり得ない。さしあたりそれは、労働価値論を罵る一方で労賃を下回る商品価格を想定し得ない俗流経済学の不誠実よりましである。しかし生産価格において実現される平均利潤率は、需給一致において実現される市場価格と同様に、意識を規定者とする。平均利潤率が表現するのは、資本の需給一致において実現される利潤額であり、商品の需給一致において実現される市場価格とさほど変わらない。そのようなものを商品価格の規定者として持ちだすのは、労働価値論における価格理論の前進を帳消しにする。またそれだからこそバヴェルクも、生産価格論に対して批判と容認の相反する姿勢を示している。


10)必要利潤と平均利潤

 先の8d)で筆者は、生産価格論の次元においても商品再生産に必要な総労働力量が商品価格を規定するのを示した。それは生産価格論をより労働価値論に即したものとして理解するための一つの結末である。ただしそれでも8d)が示す内容は、マルクスの生産価格論に忠実である限り、その商品再生産に必要な総労働力量は、労働者ないし小資本家的生産者の人間生活を実現するような総労働力量ではない。すなわちその必要労働力量は、労働価値論における必要総労働力量ではなく、それ以上の総労働力量である。それは資本主義的商品に固有の不労取得者の生活を包括する。さしあたりその包括の必要は、資本主義的商品が持つ大規模資本設備の特殊性に従う。その特殊性とは、小資本的経営で調達不能な資本設備の必要性である。すなわち不労取得者の生活を可能にするのは、この大規模資本設備の必要性である。ただしその可能を現実にするためには、実労働者の一群が不労取得者の生活の分だけ余計に働く必要がある。そしてそれがもたらす商品の剰余生産が、不労取得者の生活を実現する。ここでは不労取得者の生活実現が、資本主義的商品に必要な商品価格部分を構成する。なるほどこの商品価格部分は、商品生産にとって不要である。しかしその不要な商品価格部分は、大規模資本設備の必要に応じて必要な部分として現れる。それゆえに筆者は8d)の説明で、商品価格を労賃・固定資本・必要利潤の合計額とし、さらにマルクスに従う形でその必要利潤を平均利潤が規定するものとした。一方でもともとの生産価格論の商品価格は、単純に労賃・固定資本・平均利潤の合計額である。すなわち8d)の説明は、平均利潤の代わりに必要利潤を価格の構成部分に据えただけの若干の修正に留まる。この軽微な修正が必要な背景は、マルクスの商品価格論と労働価値論の間の不整合に従う。それと言うのも、固定資本部分を差し置いても、平均利潤は商品再生産に必要な総労働力に含まれないからである。しかしこのような軽微な修正であっても、8d)の価格論が体現するのはマルクスの生産価格論と変わらず差額略取の利潤論である。すなわちその商品単体における利潤部分は、剰余生産を待たずに既に資本家的利益を実現する。したがって8d)は、仮にそれが生産価格論を労働価値論に整合させた説明だとしても、生産価格論と同様に剰余価値理論から離反する。しかも必要利潤は平均利潤と違い、その大きさが個々の資本家の恣意に従う。そのような必要利潤がどうして平均利潤に規定されるかは、資本の需給関係に従う。ここには上記9)で述べた平均利潤率の幻惑がある。


(11)生産価格論と労働価値論の調停の方向

 生産価格が平均利潤率の幻惑から解放されるためには、平均利潤率が商品再生産に必要な総労働力量に規定される必要がある。この場合に商品価格は、8d)のような必要利潤を媒介とすることなく、直接に商品再生産に必要な総労働力量に規定されるべきである。そして商品価格が平均利潤と無関係に決定されるなら、平均利潤が関与可能なのは、販売総量だけとなる。すなわち商品再生産に必要な総労働力量に対応する商品量が、利潤を無視した販売目標だとすれば、その販売目標に上乗せする形で必要利潤に対応する商品量が資本家にとって必要な販売総量となる。そしてこの結末が生産価格論と労働価値論の不整合を調停する。もちろんこの結末が表現する利潤論は、下記に示すような固定資本相当を加えただけの剰余価値理論である。

[生産価格論に従った商品総量版の商品価格構成例]
 商品1    労賃部分 | 固定資本相当部分  ┐
  :         :             ├ 必要労働部分
 商品m    労賃部分 | 固定資本相当部分  ┘
.
 商品m+1  必要利潤相当(→平均利潤相当)  ┐
  :         :             ├ 剰余労働部分
 商品n    必要利潤相当(→平均利潤相当)  ┘

上記商品価格構成で必要利潤を決めるのは、さしあたり商品供給者の個人的都合である。それは商品価格を決定する市場の需給関係が、商品供給者と商品受給者のそれぞれの個人的都合であるのと同じである。しかしその同じ個人的都合を、同一商品を生産する同業他社が共有する。結局その個人的都合の必要利潤は、平均利潤となる。ここでの必要利潤ないし平均利潤が体現するのは、剰余価値である。一方で労賃+固定資本相当は、剰余価値理論における必要労働に対応する。ここでの労働者は単に労賃部分の商品を生産するだけでなく、固定資本相当の商品を生産し、なおかつ剰余価値相当の商品を生産する。この固定資本相当の商品売上は、該当固定資本の生産者への支払いに充当される。一見すると該当固定資本を生産したのは、該当固定資本の生産に直接従事する労働者もしくは小資本家である。しかし同じ労働力量が交換されただけであるなら、その支払いのための労働とその生産のための労働は等価である。二つの労働で異なるのは、それぞれの労働の所属する生産部門と労働者の顔ぶれだけである。それゆえに労賃+固定資本相当として現れる商品部分は、そのまま労賃相当と等しい。またそうでなければそもそもの旧来の労働価値論においても、商品価格に固定資本部分の労働、すなわち必要経費をまかなうための労働を反映することができない。したがって上記の商品価格構成例は、そのまま剰余価値理論における商品価格構成例に転じる。

[上記例の再展開]
                     労賃部分.
                   ↓    .↓
               労賃部分|固定資分 .
             ↓          .↓
 商品1    労賃部分 | 固定資本相当部分  ┐
  :         :             ├ 必要労働部分
 商品m    商品単体の再生産必要労賃全体額  ┘  ←※
.
 商品m+1  必要利潤相当(→平均利潤相当)  ┐
  :         :             ├ 剰余労働部分
 商品n    必要利潤相当(→平均利潤相当)  ┘

  ※単体における労賃部分と固定資本相当部分の合計額は、内実的な商品単体の再生産に必要な労賃総額

ちなみに駄目な生産価格論、すなわち差額略取式生産価格論で上記と同様の固定費の再展開をすると、次のようになる。明らかにこの商品単価は、内在労賃を積算しても商品単体の再生産に必要な労賃総額にならない。また商品単価を規定する利潤額も、商品が含む固定費の階層規模に応じた各階層における利潤の総額となる。しかし各階層における利潤が平均利潤率を体現し、その利潤総額も平均利潤率を体現するのは無理である。それが可能となるためには、全業種の資本の有機的構成が同一となるような異常な事態を必要とする。このことについては既に置塩/森嶋の数理マルクス経済学でも示されている。もちろんその内実は、バヴェルクの指摘の単なる後追いである。

[差額略取式生産価格論例]
                  .労
                ↓..↓
                労|固|利
              ↓     ↓
            労賃|固定費分 |利潤
          ↓           ↓
 商品1    労賃|固定費分       |利潤 
  :         :
 商品n    労賃|固定費分       |利潤 


12)生産価格論の意義の消失

 資本主義的生産では、労働者が労賃+固定資本相当の商品量を超えて商品を生産するほど、すなわち労働者が剰余商品を生産するほどに商品単価版の商品価格構成に占める必要労働部分が小さくなる。旧来の労働価値論式に考えれば商品価格はそれに応じて安くならなければいけない。ところが剰余価値理論の商品価格構成は商品総量版で現れるので、その商品価格構成に占める必要労働部分は小さくならない。それが小さくなるためには、実際にその商品再生産に必要な総労働力量を小さくするような何らかの技術進歩が必要である。逆に言えばそのような技術進歩の裏付けが無くとも、剰余商品を生産することで資本家的利益は生まれる。したがって労働価値論は、生産価格論式に商品単価版の商品価格構成に現れる労賃部分を捉えて、それが商品単価より小さいことに奇異な念を持つ必要は無い。資本主義的生産は剰余商品を常に生産する。それゆえにその商品単価版の商品価格構成に現れる労賃部分は、常に商品単価より小さくなければならない。もしその商品単価版の商品価格構成に現れる労賃部分が常に商品単価と等しい商品があるなら、それは資本主義的商品ではなく、小資本家的商品にすぎない。しかしこのような理解で労働価値論と剰余価値理論を救済する場合、次に問題となるのは生産価格論の意義の消失である。生産価格論から見た必要利潤の大きさは、商品単体版の商品価格構成でも商品総量版の商品価格構成でも平均利潤に相当する。ただし商品総量版の場合、必要利潤の大きさは商品総量を規定するだけであり、商品単価を規定しない。これに対して商品単体版の場合、必要利潤の大きさが直接に商品単価を規定する。しかし必要利潤を平均利潤から切り離して理解する場合、その商品単価を規定するのは自由な必要利潤を決定する恣意である。このあからさまな観念論に対して、さしあたり必要利潤は平均利潤に規定されると理解されなければいけない。ところがそのように理解する場合でも、平均利潤を規定するのが自由な必要利潤を決定する恣意であるなら、やはり商品単価を規定するのは遠回りに現れる恣意である。むしろ平均利潤率の幻惑は、この遠回りに現れる恣意において発現する。平均利潤率をあらかじめ用意して、商品価格が経費と利潤の合算額に収束するのを感心するのは、ただの自己欺瞞である。それは意識が世界を規定する観念論であり、唯物論ではない。それゆえに生産価格論を唯物論として理解する場合、次に期待されるのは平均利潤率の規定者である。ただし商品総量版の商品価格構成の場合、平均利潤率は商品価格を規定しない。そこでの商品価格は、商品再生産に必要な総労働力量である。したがって商品総量版の商品価格構成では平均利潤率の規定者はもともと問題とされない。そこでの平均利潤率は、せいぜい資本の移動を説明するための材料に留まる。むしろ商品総量版の商品価格構成に露呈するのは、商品価格を経費と利潤の合算額に収束させようとする価格理論が抱える欺瞞である。もし生産価格論がそのような価格理論に過ぎないのであるなら、生産価格論はそれ自身が欺瞞である。せいぜいそれは資本主義的企業における商品販売計画を立てる上で意義を持つだけの限定的な役割を演じる。またそのように前進と後退を包括した労働価値論だと理解される。

(2021/09/01) 続く⇒剰余価値理論と生産価格論(7) 前の記事⇒剰余価値理論と生産価格論(5)


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