1)時間論としての「存在と時間」
「存在と時間」の目論見は、存在論史の解体だそうである。その解体が目指すのは、アリストテレス以後、実存を忘れて頽落を重ねた哲学の歴史的破壊である。その過激な表現においてハイデガーが暗に示すのは、実存を忘れて頽落を重ねているのは、哲学に限った話ではないこと、すなわち近代の人間社会が頽落していると言う警告である。そのハイデガーがこの本で目指すのは、書名の通り、存在と時間の意味的開示である。したがって存在論としての「存在と時間」のもう一本の柱は、時間論になっている。ここでハイデガーが期待するのは、存在と時間の意味的開示において、歴史に連携する実存論が露呈することである。なぜ存在と時間が実存論と連携するのかと言えば、ハイデガーは存在一般を実存の派生態として捉え、その意味は時間において規定されていると考えたからである。そして時間にしても、やはりその根拠に実存があるとハイデガーは考えている。そこにあるのは、人間が生きているから時間があり、存在は意味を持つとの確信である。その考えは意識優位の観念論の王道にあり、意識が世界を構成していると考える独我論にも近い。ただしその考えは、独我論を避ける限り、自然世界の自律を認めざるを得ない。その二元論的矛盾は、投げられかつ投げる現存在の在り方が既に表現している。
2)脱自と決意
ハイデガーによると、脱自が時間を成熟させ、それから事物の実在と空間を派生する。しかし実在を死によって装飾するのは、先駆的決意であり、脱自ではない。したがって実在と空間を派生させるのも、先駆的決意であり、脱自ではない。ところがハイデガーにおいて先駆的決意を可能にするのは、脱自である。しかし投げられた現存在の消極的自由だけで脱自を扱うと、次に現れる疑問は、誰が現存在を投げているのかである。それは現存在ならぬ何者かである。現存在が意識であるなら、それは意識ならぬ何者かである。したがってこの被投的投企の循環としての把握は、ハイデガーの実存論を意識優位の観念論の王道から引き離す可能性を持つ。このような先行後続関係の混迷については、先の記事で述べているので、ここではこれ以上論究しない。ハイデガーは脱自に到来・既在・現在の決意の諸要素を盛り込み、時的成熟と言う不明瞭な表現で先駆的決意、および時間を派生させる。したがってその脱自は、自己自身を脱する自己が持っている自由だけを表現していない。さらにその脱自は、自己自身を脱しようと決意する自己の自由も表現している。言い換えれば、脱自は投げられた自己の消極的自由だけを表現しているのではなく、投げる自己の積極的自由も併せて表現している。脱自に決意を盛り込む玉虫色の解決は、ハイデガーの実存論を中断に追い込む力を持っている。
3)二つの時間性
脱自と決意の先行後続の混迷を図り、玉虫色になった脱自を解きほぐすために、脱自(=時間性)は明示的に二つに分けられるべきである。ハイデガーは表明済みの「存在と時間」を閉じた理念体系として温存させるため、「存在と時間」を未完のまま終わらせ、「現象学の根本問題」でその続きを始める。そこでは、投げられた自己の脱自を時間性Zeitlichkeitとして限定し、投げる自己の脱自を暫定時間(=テンポラリテート)Temporalitatとして区別することになった。決意における到来・既在・現在は対応する暫定時間に組み込まれ、暫定時間における投企が現存在を到来・既在・現在へと脱自させることとなった。これにより脱自は暫定時間の意識的な投企となり、脱自が持っていた時間経過の被投性、すなわち物理性は払拭された。したがって現存在の在り方も、投げられる前に既に自らを投げていることになった。現存在は脱自を受けて自由になるのではなく、脱自の前から既に自由だとみなされたわけである。しかしそうであれば、現存在は脱自を受けて時間を成熟させるのではなく、脱自の前から既に時間的である。したがって現存在の時的成熟とは、ただ自らの内にある時間を取り出しただけとなる。この理屈は観念論としての整合性を高めている。しかしそれは、物理的な脱自に対抗するために、より優位な位置に本能化した別の脱自を樹立するだけの堂々巡りである。
4)時間性分裂の根源
脱自が決意に先行する限り、実在は意識ならぬ何者かが定立したことになる。もちろん意識ならぬ何者かは、物理である。しかしそれでは神的存在を持ち出さない限り、実存論の唯物論への屈服が濃厚になってくる。ハイデガーが実在を意識の定立にしたいのであれば、暫定時間を脱自に先行させなければならない。ところが実在を意識の定立にするのであれば、実存論は独我論になってしまう。一方で「存在と時間」における生死の重みとしての実在性解釈は、ハイデガーが死守すべき最大の功績である。ハイデガーにとって必要なのは、実在と実在性の区別である。もちろんその区別は、そのまま時間論における二つの時間性(=脱自)の区別に転化する。この前振りをするためにハイデガーはカントを持ち出した。すなわち「現象学の根本問題」とは、実在と実在性を区別したカントを引き合いにして、自分は実在を語っているのではなく、実在性を語っているのだと自己弁護をした本である。ところがこの区別は、実在性の由来を語るだけであり、実在の由来を語らない。実在の由来を語らずして、どうして実在性の由来を語ることができるのかは、唯物論者にはさっぱり判らない話である。この不可解さは、前の記事に書いたように、実在性を付与されるべき対象が、その付与前に既に実在性をもって現れる点にある。ハイデガーが語るべきなのはこの実在性と実在の区別の発祥である。それなしに脱自を二分解したのは、むしろ自らの墓穴を掘る試みである。脱自を暫定時間と区別するにしても、脱自はやはり暫定時間よりもさらに先行すべきである。
5)ヘーゲル存在論との癒合
脱自と暫定時間の区別は、実在性と実在の区別を必要とするだけに終わらない。実在性と実在が区別されれば、実在性は実在の属性に堕する。すなわち「実在がある」は、「実在は実在性がある」、すなわち「実在は実在性を属性として持つ」になってしまう。それは「~がある」が「~である」に吸収されることである。それゆえに「現象学の根本問題」は、「存在と時間」で無視してきたヘーゲル存在論における存在=所有の観点をいきなり開陳することになった。ヘーゲルにおいて時間は精神の純粋形式であり、それゆえに精神は時間に落ち込む。時間が精神の純粋形式であるのは、「(主語)は(述語)である」が言語の基本形式であると言うのと同じである。精神はこの言語形態を取らなければ、精神たり得ない。そしてこの主述関係は、ヘーゲルにおいて時間関係に等しい。二者の並存はそのまま二者の関係である。そして始まりの二者は、脱自した自己自身を保有する脱自した自己である。それが表現するのは時間である。だからこそ精神は時間に落ち込まなければならない。すなわちヘーゲルにおける存在=所有の存在論は、ハイデガーと同様に時間論になっている。一方でハイデガーにおける時間は時的成熟した現存在である。それが目指したのは、言語の基本形式に「(主語)がある」を据えることである。なるほどそれは主述関係の分裂を経験していない点で、「(主語)は(述語)である」に先行する言語の原初形式であるように見える。また二者関係を表わさない点で、明らかに無時間的である。しかしヘーゲルに成り代わってヘーゲルがハイデガーに問うであろうことを言えば、それは「(主語)がある」ことを主語がどのようにして知るのかである。媒介を拒否するシェリングと媒介を要請するヘーゲルの対決はここに再現しなければいけない。そしてヘーゲルが言うであろう結論は、「(主語)がある」は、「(主語)は(述語)である」の退化形態だという答えである。ハイデガーはこの全ての反論をおそらく自覚している。それだからこそハイデガーは、ヘーゲル存在論が拠り所にする繋辞存在と癒合せざるを得ない。存在を自明化する頽落的存在論の旗印にヘーゲルを捉えようとした「存在の時間」のハイデガーはどこへ行ったのだろうか? その辺の事情を誤魔化す上でも、ハイデガーは「存在と時間」と「現象学の根本問題」の間に物理的断絶を必要としたのではないのか? このハイデガーの迷走は、唯物論と独我論の間で動揺を繰り返す姿である。そしてその迷走の理由を自覚するハイデガーは、暫定時間について詳細に論じることができなくなってしまった。「現象学の根本問題」は、「存在と時間」を語っていた自らの過去を葬るためのハイデガー自らが立てた墓標になっている。
6)ハイデガー時間論の唯物論的再興
ハイデガーのヘーゲル存在論への屈服は、実存の本質への屈服を意味するのであろうか? あるいは「(主語)がある」は、「(主語)は(述語)である」の退化形態なのであろうか? さしあたり唯物論は、実存主義と同様に実存を本質に先立つものと考えている。なぜなら唯物論において実存は物理的実体であり、本質はその抽象的観念にすぎないからである。したがって唯物論にとってハイデガーの挫折は、実存の本質への屈服に連携しない。同様に「(主語)がある」は、「(主語)は(述語)である」の退化形態ではない。なぜなら主語が述語を所有するためには、あらかじめ主語は実在しなければならないからである。それは実在が実在性を所有すると判明することにより、さらに明確化している。すなわち物理的実体が抽象的観念を所有するのであり、その逆ではない。唯物論にとってハイデガーの挫折は、物理に対する意識の先行的自立に執着したことの必然的結末である。物理は意識に優先し、意識の自由もその物理の先行を前提にして説明されなければならない。すなわち実在は実在性に先行しなければならず、脱自は投企に先行しなければならない。もちろん実在とは物理的実体を指し、脱自とは志向対象と志向作用の二者の分離を指す。この二者の分離は、二者の物理的区別へと単純化することができる。またその分離が空間分離であるか、時間分離であるかを問う必要はとりあえず無い。ただしそれはヘーゲル式に空間分離と捉えた方が良いであろう。なぜなら時間分離は意識における記憶の保有を前提するからである。意識の成立を考える場合、時間と空間の内でより前提の少ない分離形態が先行的に現れるべきである。直すべきところがあるとは言え、ハイデガーの理屈の多くは、それを意識成立に関する発達心理学とみなすことで、唯物論に流用可能な内容になっている。その直すべきところは、既に上述の文章や先行記事において筆者は既に示している。
(2018/10/05) 続く⇒(時間論としての「存在と時間」(2))
ハイデガー存在と時間 解題
1)発達心理学としての「存在と時間」
2)在り方論としての「存在と時間」
3)時間論としての「存在と時間」(1)
3)時間論としての「存在と時間」(2)
3)時間論としての「存在と時間」(3)
4)知覚と情念(1)
4)知覚と情念(2)
4)知覚と情念(3)
4)知覚と情念(4)
5)キェルケゴールとハイデガー(1)
5)キェルケゴールとハイデガー(2)
5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
緒論 ・・・ 在り方の意味への問いかけ
1編 1/2章 ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
3章 ・・・ 在り方における世の中
4/5章 ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
6章 ・・・ 現存在の在り方としての配慮
2編 1章 ・・・ 現存在の全体と死
2章 ・・・ 良心と決意
3章 ・・・ 脱自としての時間性
4章 ・・・ 脱自と日常
5章 ・・・ 脱自と歴史
6章 ・・・ 脱自と時間