12a)ヘーゲルの存在論
ヘーゲルは存在者の存在を、他在に対する支配力において語る。したがって或る存在者が他在に対する支配力を一切持たないのであれば、その存在者は存在しない。同様にもし意識が、少なくとも自らの肉体の支配を実現しないのであれば、意識は存在することも適わずに無となるしかない。ヘーゲルが「精神現象学」においてこの存在論を披歴しているのは、主人と奴隷の弁証法を語った自己意識の章である。そこに登場する主人の実在性は、奴隷支配を通じて得た奴隷の実在によって支えられている。もちろんその主人とは意識であり、奴隷とは肉体である。したがってヘーゲルは意識の実在を、肉体支配を通じて意識が肉体から受け取ったものとして理解している。この理屈の基礎には、先行してヘーゲルが陳述した生命論がある。その生命論は、意識が対象を自らに結合する認識論でもあった。もともと直接知が示す実在は物であり、意識は非実在である。しかしこの事実は、デカルト式に自己確信から意識の実在を語る理屈と整合しない。同じことは自己意識に限らず、物理的実在を持たない時空間や物理的な力、または慣習や国家などの実在性にも該当する。そしてもちろんそれらは実在する。主人と奴隷の弁証法は、この存在論的困難を主奴関係によって克服した理屈である。そもそも意識が初めて自らを現すのは、物に対立する思い込みとしての姿である。すなわち始まりの意識は、直接知の真に対立する虚偽でしかない。それゆえにデカルト式に意識の自己確信から意識の実在を語る努力は、ヘーゲルにとってストア主義的な意識の錯覚に留まる。せいぜいそれは、対自態としての本来的な意識を語る段階でようやく可能となるような副次的な真理である。しかも意識の実在確信は、論理的真に過ぎない。自己知の真を意識の実在に扱うためには、論理的真を実在性にすり替えるレトリックを必要とする。実際には対象の真偽と対象の実在性は、そのまま置換されない。また対象の実在性は、対自態としての本来的な意識の登場を待つ必要も無い。それは直接知において既に実在だからである。これに対してヘーゲルが気付いたのは、命題における主述関係において主語が無内容であり、その無内容を補填するのは述語の役割だと言うことである。すなわち主語の実在性は、述語の実在性が補填している。ヘーゲルはこの主述関係を存在者における主奴関係にそのまま適用し、主人の無内容を奴隷の仕事によって穴埋めしたわけである。一方でヘーゲルがさらに気付いたのは、このことが現実世界の実体相関、および現実社会の支配隷属関係と無関係ではないことである。結果的にこの主人と奴隷の弁証法は、ヘーゲルにおいて時空間や物理に留まらず、慣習や国家、さらに最終的に思想史および世界史の全体を見渡す力の源泉になった。
12b)シェリングの存在論
主人と奴隷の弁証法は、主人の実在性を通じて意識の実在性を説明したように見える。ところが実際にはまだ意識の実在性に疑問は残されている。それと言うのも、意識は肉体から実在を吸収する前に既に非実在として存在しているからである。この意識に対する存在事実は、どんなに意識の姿が真理に対立した虚偽であろうとも変わらない。先に述べたように対象の真偽と対象の実在性は、そのまま置換されないからである。しかもここには、物の実在と意識の実在性の乖離と言う別の問題も現れている。そこでむしろ意識の虚偽性が、意識の実在性を根拠づけるのではないのかと言う理屈が現れる。もともと物の実在性は、直接知の真と一体となり、一種の威力として意識の前に出現するものである。そして物が出現した同じ現存在において意識も出現する。その意識は物の実在や真から外れており、あたかも物の影のように非実在および虚偽として現れる。一方で真と偽、および実在と無は、単なる対概念ではない。偽だけの世界、無だけの世界と言うのは、矛盾した表現だからである。したがって可能な表現は、真だけの世界、実在だけの世界である。しかし実際には真だけの世界では、真は自らを現すことができないし、同様に実在だけの世界では、実在は自らを現すことができない。それゆえにシェリングは、そしてヘーゲルも、現存在における意識の出現を、神的実在が顕在化する過程として捉えた。その見方によれば、善を顕在化させるのは悪である。そして悪を行う役割を受け持つのは、虚偽と無を自らの根拠に持つ意識である。シェリングが提示したこの悪の自由論は、ヘーゲルにおいても善悪の対立を弁証法の動因にする形で継承されている。しかしシェリングは、さらにこの理屈を深化させ、意識の実在性を意識の虚偽性によって根拠づけるにまで至る。もともと実在は既に実在なので、ことさらに実在になることができない。その意味で実在になることができるのは無だけである。もし神的実在が単なる実在であるなら、神的実在は無を知らない欠如体であり、そこからいかなる運動も発生できない。運動とは無から実在、または実在から無への存在者の実在性の変化だからである。したがって神的実在の実在性は、自らの内の虚偽と無によって根拠づけられなければならない。このようなことでシェリングは、存在を一種の構造体として扱うことになる。その構造では一方に無へと移行する現実性があり、他方に実在へと移行する可能性がある。現実性と可能性は存在の中で結合しており、その結合の場が現存在になっている。一方で現存在は、自らの現実性と可能性をそれぞれ切り離し、区別することにおいてそれぞれを外化する。この外化により現存在は現実性でも可能性でもなくなり、自らを時制としての現在にする。他方で外化された現実性は、時制としての過去となる。同様に外化された可能性は、時制としての未来となる。端的に言えば、物の存在は経験的事実であり、意識の存在は純粋可能性である。ただしシェリングにおいてもともと物と意識は分断されていないので、物は物なりの可能性を持ち、意識は意識なりの現実性を持つ。結果的に意識は、物の現実性ほどではないが、意識なりの現実性を持つ。そして物は、意識の可能性ほどではないが、物なりの可能性を持つ。両者の実在性の差異は、この現実性と可能性の濃度の差異である。これがヘーゲルに闇夜の黒い牛と揶揄されたシェリングの存在概念である。しかしシェリングの意図を組もうと思えば、判り易くそれを端的に捉えれば良い。すなわち、物は現実性において実在し、意識も可能性において実在する。したがって現実性の無い物は実在性を持たず、同様に可能性の無い意識も実在性を持たない。それは、意識の存在が自由にあるのを示している。
12c)支配力と可能性
ヘーゲルは意識の実在性を意識の支配力で語り、シェリングは意識の可能性で語る。両者の存在論はかなり別物なのだが、ヘーゲルにおける支配力とシェリングにおける可能性をともに意識の能動性として扱うなら、両者の違いをそれなりに埋められる。逆に両者の違いに注目して言えば、ヘーゲル存在論は現存在の時間性について無頓着であり、シェリング存在論は主述関係について無頓着である。それゆえにヘーゲル存在論がもっぱら語るのは、「…は…である」の主述関係の構築であり、その過去形や進行形、または未来形ではない。逆にシェリング存在論がもっぱら語るのは、「…だった」「…がある」「…になる」であり、その主述関係の構成内容ではない。一見すると動態にあるのは、時間性を意識したシェリングであり、ヘーゲルは静態にある。ところが体系として動態にあるのは、ヘーゲルでありシェリングではない。両者の差異は、意識の他者との関わりにおいて、意識ならぬものの外化にこだわるヘーゲルと意識の内的構造にこだわるシェリングの違いとして現れている。意識の実在性についての両者の扱いの違いは、結局この同じ差異に基づいている。両者はともに決意と良心を語るのだが、そこでも同じような違いが生まれている。ヘーゲルにおいて決意と良心は、他者に対する自己主張であり、一般者による個別者の承認である。一方でシェリングのそれは、他者に依存しない自律した決意と良心なのだが、実際には単なる恣意的決意であり、無方向の良心である。すなわち、ヘーゲルにこきおろされたシェリングの直観主義は、後期でも健在である。この説得力の欠けた決意と良心は、ハイデガーの実存主義にそのまま継承されている。とは言え、実在性の問題に対峙しているのはむしろシェリングの方であり、人間における時間の意味を明らかにしているのもシェリングの方である。決意が無ければ人間にとって過去も未来も無く、時間は無意味である。この時間の無意味化は、意識にとっての実在の無意味化と連繋しており、そのことから逆に実在性の意味へと迫るのを可能にする。なぜなら意識の実在は可能性にあり、時制としての未来にあるからである。虚偽と非実在に落とし込まれた意識は、本来的に悪である。しかし善になることができるのは、悪だけである。したがって悪は本来的に自らの可能性の自覚において、自らの悪を善とし、善を悪を変える反逆者である。悪の自由論では、悪はまだ善の宣伝マンに過ぎなかった。しかしシェリングはさらに悪を開き直りにおいて、善の克服者にまで変えようとする。それが目指すべき方向は、本質として現れる一般者に対しての、現実存在する個別者の反逆であり、すなわち実存の開示である。ただしシェリングにおける一般者は、個別者を包括する神的実在である。個別者は、一般者の手の平で飛び回る孫悟空に過ぎない。結局シェリングにおける実存は、神的実在の実存なのである。したがってヘーゲルとシェリングにおける差異は、見た目以上に離れていない。ヘーゲルにおける意識の支配力は、現実化した可能性だからである。それゆえにキェルケゴールが、シェリングの見かけ倒しの反逆者ぶりに落胆したと言うのは、よく知られた話である。なるほど「現代の批判」の頃までのキェルケゴールは、ヘーゲルへの対抗心に燃えてその哲学を曖昧だと罵り、良心における善悪の融和を非難している。しかし結局そのキェルケゴールも、最終的にヘーゲルの軍門に下っている。「死に至る病」において彼自身が、人間の原罪的堕落を真の信仰に到達するための逃れられない宿命なのだとみなしたからである。その結論が示すのは、キェルケゴールにおける運命との融和であり、一般者との融和である。さらに言えばそれは、歴史的精神の是認を示している。(2017/09/23)
ヘーゲル精神現象学 解題
1)デカルト的自己知としての対自存在
2)生命体としての対自存在
3)自立した思惟としての対自存在
4)対自における外化
5)物質の外化
6)善の外化
7)事自体の外化
8)観念の外化
9)国家と富
10)宗教と絶対知
11)ヘーゲルの認識論
12)ヘーゲルの存在論
13)ヘーゲル以後の認識論
14)ヘーゲル以後の存在論
15a)マルクスの存在論(1)
15b)マルクスの存在論(2)
15c)マルクスの存在論(3)
15d)マルクスの存在論(4)
16a)幸福の哲学(1)
16b)幸福の哲学(2)
17)絶対知と矛盾集合
ヘーゲル精神現象学 要約
A章 ・・・ 意識
B章 ・・・ 自己意識
C章 A節 a項 ・・・ 観察理性
b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
B節 ・・・ 実践理性
C節 ・・・ 事自体
D章 A節 ・・・ 人倫としての精神
B節 a項 ・・・ 自己疎外的精神としての教養
b項 ・・・ 啓蒙と絶対的自由
C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
c項 ・・・ 良心
E章 A/B節 ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
C節 ・・・ 宗教(キリスト教)
F章 ・・・ 絶対知