唯物論は事実を出発点にする理論であり、観念論は迷信を出発点にする理論である。つまり観念論とは、虚偽の別称である。虚偽に耐えられない人間は唯物論者になるべきである。
唯物論とは、論理の基礎を物質に置く思想であり、それに対し論理の基礎を意識に置く思想が観念論となる。ここでいう基礎とは、論理の出発点であるだけでなく、論理自体を含む論理の対象の出発点でもある。ここでいう出発点とは、根拠を指すと同時に原因をも指している。
唯物論も観念論も、哲学としての論理学の種類にすぎない。両者ともに目指すのは、論理の成り立ちそれ自体の解明である。両者の目的は同一なので、基礎部分を不問にする限り、双方にできあがる論理体系にも差異が発生しないかのように見える。この点で有効に見えるのが、現象学である。現象学は現象一元論として基礎部分を不問にするためである。ところが実際には現象学は、現実存在に基礎を措くと称しながら、自らを観念論の一潮流として位置付けている。ここで現象学が現象一元論の看板を捨てて観念論を自認するのは、観念論が唯物論を忌避する一般的理由に準じている。すなわちそれは、唯物論的土壌における人間的自由の困難にある。物質の規定的優位は、意識を物質の支配下に置き、人間的自由を物理に貶めるからである。そしてカントが認識と存在の間に断絶を持ち込んだのは、もちろんこの不都合に対抗するためであった。しかしカントの方法は、超越論的真理を手にする一方で、超越的真理を放棄するものである。それどころか存在への架け橋の喪失は、超越論的真理の真性までも損壊する。だからこそフッサールは、現存在を過去と断絶することにより意識の自由を可能にし、認識論と存在論の間におけるカント流の断絶を拒否した。このために現象学における意識は、毎分毎秒ごとに論理や論理対象を基礎づける神のような存在となるに至った。しかしこのような不自由を知らない現存在に対してハイデガー以後の実存主義は、意識を過去の影響下に再配置することになる。ハイデガーにとってフッサールによる存在論の回復は、過去の欠如において決意を要しない世俗的な判断停止に留まっていたからである。またフッサールにおける判断停止は、むしろ積極的に存在論を放棄するものでしかなかった。このハイデガーによる現象学の訂正は、一見すると軽い足場変更なのだが、かなり重大な訂正として現れざるを得ない。それにより現象学は、内実的な二元論へと変化したからである。と言うのも現象学は、過去として現象する物質と、未来もしくは現在として現象する意識の両者により構成されなければならなくなったからである。
このようにこっそりと唯物論に擦り寄るような観念論のブレ方は、現象学以前でもヒュームとカントの間の論争でも発生している。ヒュームが印象一元論へと突き進んだのに対し、カントは印象を基礎づける物自体を要求した。ここでのカントの要求は、ヒュームがもたらした因果律の死滅を救済することにある。と言うのも、カントにおいて因果律の救済と物自体の存立は、同義だったからである。そしてこの因果律の救済は、カントにおいて論理そのものの救済として現れている。ヒュームの独我論に対抗するためとは言え、「物自体」と言う字面だけを見るなら、ここで経験論の前に立ちはだかっているカントは、明らかに唯物論である。すなわちカントの発想における「物自体」は、唯物論における物質と変わらない。そのためにエンゲルスは、彼を唯物論者の一員にまで扱うこととなった。ただしカントが印象の基礎に置いた物自体は、物質ではなくイデアである。したがってカントは、彼自ら認めるように、厳密には観念論者でなければならない。しかしエンゲルスの勘違いは、カントの述べる「物自体」の二義性に呼応した勘違いにすぎない。その二義性は、カント自らが理論理性と実践理性の双方から物自体を抽出することで発生している。したがって責められるべきなのは、むしろカントの折衷的実体の方である。逆に言えば、カントの「物自体」が果たした役割に正当な評価を与えたエンゲルスに対して、むしろカントの方が感謝しても良いくらいである。ちなみにこの「物自体」の二義性は、現象と物自体の世界分裂と並んで、物質とイデアの折衷型二元論としてのカント哲学の性格を端的に表現している。
なおヒュームの印象一元論は、経験への盲目的信頼に落ち着くが、一方のカント的二元論は、ショーペンハウアーに継承され、印象世界とイデア世界の二元論、つまり物世界と物自体世界の二元論にまで展開した。ショーペンハウアーの目には、ヒュームとカントの対立がそのまま物質と観念の対立を表現しており、すなわちそれは俗世と理想世界の対立として映っている。この観点でのヒュームは、印象世界に拘泥する俗物であり、スピノザと少々種類が違うだけの唯物論者の仲間にすぎない。しかしヒュームに対するこのようなカント的分類は、経験論者と唯物論者の双方を憤慨させるものである。そして実際にこのカント的分類は、正当な評価に値しない。そのような評価に対して、おそらくヒューム本人が最初に反発するであろう。このカント的分類にあるのは、エンゲルスがカントを唯物論者に扱ったのと同様の、単なる自己都合である。しかし相手を擁護するための自己都合は、まだ救いがある。ところが相手を誹謗するための自己都合には、全く救いが無い。往々にしてそのような自己都合による思想分類は、単なる我田引水である以上に、宗教的烙印にすぎないからである。
このように観念論がこっそりと唯物論を導入する理由は簡単である。意識にとって所与は、もっぱら意のままにならない自らの他者である。カント流の発想では、意識にあらぬ意識の他者は単なる形式として現れる。しかしここで現象学流の形式乱造を避けるとすれば、意識にあらぬ意識の他者とは、すなわち物質を指すべきである。ところが物質が意識の外部にある一方で、論理思考は意識の上で構築されなければならない。このために究極の観念論では、論理は物質の影響を受け得ず、また意識は物質を認知し得ないとされる。しかしこの理屈は、意識の外部にある物質が意識に現れ出るという事実を謎として残す。つまり論理は物質の影響を受けなければならない。このために観念論の話題は、常に意識と物質の二元論へと回帰する運命にある。そこで今度は、それでは意識を二元論のままに理解することはできないのかという要求も、当然出てくることになる。しかし実体概念は、第一原因であることをアプリオリに要請される概念である。このために意識は自らの基盤を語る上で、常に意識と物質の二実体の取捨選択を迫られることになる。
意識は物質から生まれ出るべきなのか、それとも物質は意識から生まれ出るべきなのか? もともと唯物論と観念論の区別は、物質世界が人間を生み出したのか、理念としての神が人間を生み出したのか、という二つの対立する主張の区別であり、それが転じて物質出発論と意識出発論の形で、現在の両者がある。もちろんその理屈の代表格は、プラトンのイデア論である。古代の観念論は、神の無限性と意識の自由を類比し、意識の神性において自らを権威づけた。旧時代において観念論の風格を支えたのは、常に宗教的権威だったわけである。とくに神が被支配者の側に立っていた時代では、観念論はそれこそ神の名において人間を救済する論理として現れた。もちろんその神の後光は、時代を経て次第に支配者だけを照らすようになり、観念論の威光も最終的に物理の前に潰えることになる。このようなもともとの区別から見れば現代社会では、科学が神の代わりに全てを権威づけており、唯物論が観念論を凌駕しているように見える。ところがそれにもかかわらず実際には唯物論は、いまだに危険思想であり、神を冒涜する悪魔的立場に置かれている。理由は共産主義が唯物論だからである。このために観念論は、エネルギー保存法則を認知しても、不確定性原理が物質の恒常性を否定しているように見えれば、なぜか唯物論が誤りとみなす。同様に、個別の生物の生態環境の特殊性を認知しても、環境要因が遺伝子配列に作用しないので、環境決定論が誤りとみなす。物質がエネルギーに転換したところで、物質が意識や非物質に転化したわけではないし、遺伝子の有無に関わらず、環境は生物を補正してしまうのだが、反共知識人はあたかも観念論の勝利を確信する。なぜそうなるのかと言えば、観念論は富者が自らを正当化する思想的支柱だからである。富者は生まれついて得ていた自らの富が、神により与えられたものではないのを知っている。しかし富者は、周囲にその事実を知られたくないだけでなく、自分でも知りたくない。それでも富者には、自らの富が神に与えられたものである必要があるし、そのように周囲を欺いてきた。富者が周囲だけでなく自らを欺くための、疑いを許さない信仰こそが、観念論である。
世間的に唯物論には、共産主義的である唯物論、および共産主義的ではない唯物論があるようにみなされている。とくに自らの唯物論を自覚し、なおかつ自らの共産主義批判を自覚するような自称唯物論者は、そのように自らを理解せざるを得ない。しかし唯物論は、神の存在と無関係に真理の実在を認める思想である。真理の実在は倫理の実在へと連繋せざるを得ず、倫理の実在は一つの理想社会の実在へと帰結する。それらの実在の連繋に疑義を挟むような不可知論は、それ自身が既に唯物論ではない。したがって唯物論者は、唯物論者である限り、理想社会の実在を確信せざるを得ない。結論を言うなら、唯物論者は共産主義者になるべきである。ただし唯物論者は共産主義者になるべきであるが、共産主義者になるために共産党員になる必要は無い。自らを唯物論者とみなし、唯物論者として生きることが、唯物論者の唯一の資格だからである。
(2010/11/21初稿、2014/08/07改訂)
唯物論 ・・・ 総論
・・・ (物質と観念)
・・・ (素朴実在論)
・・・ (虚偽観念)
哲学史と唯物論
・・・ 対象の形式
・・・ (存在の意味)
・・・ 対象の質料
・・・ (唯名論と実在論)
・・・ (機械論と目的論)
・・・ カント超越論
・・・ (作用因と目的因)
・・・ (物理的幸福と道徳的満足)
・・・ ヘーゲル弁証法
・・・ (仮象と虚偽)
・・・ (本質と概念)
・・・ 現象学
・・・ (情念の復権)
・・・ (構造主義)
・・・ (直観主義と概念主義)
・・・ 弁証法的唯物論
・・・ (相対主義と絶対主義)
唯物論と意識
・・・ 関わりへの関わり
・・・ 意識の非物質性と汎神論
・・・ 意識独自の因果律
・・・ 自己原因化する意識
・・・ 作用主体と作用対象
唯物論と人間
・・・ 猿が人間になる条件としての自由
・・・ 性善説
・・・ 意識と自由
・・・ 人間の疎外
・・・ 状況と過去
・・・ 無化と無効化
・・・ 因果と動機(1)
・・・ 因果と動機(2)
労働力価値説を科学的に正しいと思えば(正しいのだが..)、余剰生産の搾取は悪で恐慌を生産します。
なので、「共産主義」(=「コミューン主義」≒「地域生活協働組合」のような社会契約に基づく保険組合)があるべき姿で資本主義国家という搾取のための暴力装置は解体されねばなりません。と感じる。
でも、「唯物論者=共産主義者」と直結するところが理解できません。
※「共産主義」の「産」はどこから来たのか?
外的刺激の知覚だけで成立する意識があるとすれば、それは単なる鏡です。簡単に言えば、
意識ではありません。意識とは、自らとの関わりが他者と関わるものを指します。
②基本的に唯物論の発想は、物体に責任の所在を求め、意識に責任の所在を求めません。つ
まり罪を憎んで、人を憎まずです。したがって犯罪者を憎む場合でも、犯罪者を生んだ社会背
景への憎悪に進みます。そしてその背景が変わらない限り、別の同じような犯罪者が次々に
生まれると考えています。
この考え方を進めると人間的な社会の実現は、差別や貧困を生み出す社会構造の廃棄を通じ
てのみ可能となります。共産主義は、資本主義的所有関係がそのような差別や貧困を産み出
すものと考えています。このような発想を是認する形で、筆者は唯物論者が共産主義者になる
べきとしています。ただしマルクスは、資本主義が単に貧困を産み出すだけでなく、増産する
と勘違いしました。しかし現実は逆で、生産性向上に伴ない貧困は減少しています。ただしそ
れは、貧富格差を激しく拡大させながら進んでいる貧困の減少です。いずれにせよ旧来の共産
主義には、理論的欠陥があったわけです。しかしそのことは、前述の唯物論の基本的発想を変
えません。筆者を含め現代の共産主義者は、共産主義の理論的欠陥がどこにあり、どのように
補正するのかを追い求めている状態にいます。ちなみに現代の唯物論者の大半は共産主義者
ではありません。共産主義者ではない唯物論者のほとんどは、別の解決策で目指しているか、
検討もせずに共産主義は間違いと思い込んでいるか、または共産主義の必要を感じずに済む
自分だけの幸福な状態にいるかのどれかにいると思います。もともと共産主義は、差別や貧困
に対する憤激から産まれ出たものです。その意味で差別や貧困、それらにまつわる犯罪や悲
劇の増加が社会問題の焦点になる時代が来なければ、共産主義は無用です。ただし世界が
戦争や圧制などの前時代的困難を解決してゆくほどに、そのような社会問題が次に焦点になっ
てくるはずです。そもそも戦争や圧制の背景にも所有の不均等を見ることができます。
ハイゼンベルグは「あなた達(量子力学者)は唯物論者と似ていますね。あなたは唯物論者ですか?」と問われて「NO」と答えた。
社会構造の根源を物質に求めるとき「唯物論者」と言うのだろうか?
すると、「唯物論者」=「協働生活主義者(コミューン主義者)」という等式もわかるような気がする。
時間性は他在に対する意識の構造ではありません。時間性は意識に対する他在の構造だと言うべきです。
哲学談義で頻繁に出る話題として、色彩は意識の属性なのか、それとも対象の属性なのかというものがあります。筆者の見解は後者です。もちろん色彩は、認識主体単独でも認識対象単独でも現象し得ないので、志向の両端にいる両者の関係の中でしか説明できません。このためにその答えは常に、色彩の規定者として優位に立つのは、意識なのか対象なのかという程度の選択にしかなりません。色彩は両者の関係である、というあいまいで便利な答えもあるのですが、それは意識の属性として色彩を扱うのと同じです。似た話として、カントは時間を認識のアプリオリな形式に扱っていますが、筆者の見解では時間は他在の形式です。つまり人間意識による認識の有無に関わらず、自然界が自らの存在形式として時間を得ています。この意味で筆者において、カントの時間理論と、実存主義での時間性理論は、その観念論的逆転性という点で同じものです。ただしフッサールの志向理論が哲学に多大な貢献をしたのと同様に、ハイデガーの時間性理論もまた大きな功績であったと、筆者も考えています。そもそも私自身が、実存主義の多大な影響を受けています。
実存主義の始祖キェルケゴールは、人間的意識を自らとの関係から転じた他者との関係だと示しました。人間的意識の構造を論じる場合、このキェルケゴールが示した到達点から離れるべきではないと、筆者は考えています。ハイデガーの時間性理論は、この意識の基本定義に無理な接ぎ木をしただけの、言わば逸脱に見えます。
何故、Materialismが唯物論と翻訳されるのだろう。
ヘーゲルもフォイエルバハも詳しくないのでわからないのですが。
私には、Materialism=実体的素材主義、質料主義としたほうがスッキリする。質料Mとは素粒子と呼ばれる(他者に)作用する量子(エネルギー[力の時間積分]の塊、因果という時間発展の素)のことだ。
G・ドゥールーズ、F・ガタリの「アンチ・オィデップス」(タイトルからわかるように意訳すると「反精神分析」)の中で分裂病者たちは精神分析(家族物語という暴力装置)に代えて「質料的精神医学」を要求する。
つまり、精神分析という家族妄想を土台にした精神医学(←この用語が既に政治的だ)ではなく唯物論的精神医学を要求する。
質料的精神医学とは今で言えば神経心理学や認知神経科学を基礎理論にした脳神経医学のことであろう。その意味で分裂病者は解放されつつあるのかもしれない。
進化論も信じない精神分析王国アメリカでもバイオメディカルの発展した80年代より精神分析教室は廃れて、認知神経科学教室に学生が集まっているようだ。
質料と形相の関係は、その登場段階ですでに物質と観念の関係へと純化しています。しかし質料と形相の関係は、物質と観念ほどに対立した関係ではありません。ここではひとまずそのことを忘れて、質料と形相の関係を、素材と形式の関係とします。それぞれに対する規定的優位を元に思想を分けると、それは唯物論と観念論に対応します。この場合の観念論とは、形式優位主義を指します。プラトンでは、形式とはイデアです。このイデアを模して存在者がいるとしました。例えば、先に花や虫のイデアがあって、初めて花や虫の実存が生まれるとしました。つまり実存は本質に後立ちます。言うなれば設計図が先にあってこそ、機械は作られます。現代的表現で言えば、花や虫の遺伝子があってこそ、初めて花や虫が現実に存在します。もしかすると現代的表現で考えた方が、観念論の方に説得力があるように見えます。しかしこの表現は、両者の関係を見えにくくさせただけです。よくよく見直すと、この関係の中で花や虫や機械は素材ではありません。それらは素材ではなく、言うなれば製品です。実はこの素材と製品の逆転は、質料と形相の関係を、存在者とイデアの関係になぞらえた段階で起きています。質料を素材として宣言したはずの当人が、素材としての質料を、どさくさまぎれに製品としての質料に置き換えています。これは悪質なデマゴギーです。この哲学的手品のネタこそが、プラトン・アリストテレスの観念論師弟があみだした質料Hyleという不明瞭な表現です。したがって唯物論の名称を、質料主義に換える意見には、同調できません。
学生の頃に、心理学の大学院生と意識と肉体の関係の論じたことがありました。脳内神経細胞のシナプス間の情報伝達物質の動きと意識の間に、対となる相関があると考えるかと、筆者は彼に質問しました。彼は即座に両者は相関をもたないと答えました。つまり意識は、肉体と別に存在するという答えです。筆者は愕然としましたが、相手がにらみつけてくるので、それ以上追求しませんでした。またそれ以上の追及も無駄だと思いました。脳神経医学の進歩は、そのような人たちを説得させるほどの効力をもつのか、わかりません。一方で、意識の論理構造を解明するのに、生理学的研究が必要なのかというのも疑問です。
人の生活を支える資源が有限である一方、地球人口それ自体は増え続けているのだから万民に滞りなく
等しい生活水準を提供するなど不可能。
そもそも生態系は無数の弱い個体が大きくて強い個体の食料になることによって保たれている。
つまり食物連鎖とは強者が弱者をくらうという不平等と不均衡によって成立しているといえる。
あらゆる生物が生存のための食料を必要としている。
その食料となるのは当然自分たち以外の別の生物だ。
生物aが繁栄するには生物aが種族として生き残れるだけの餌となる生物bの犠牲が必要不可欠である。
あるいは生物aと生物bが共存するにはaとb双方の餌となる生物cの存在が必要となるだろう。
いずれにせよある種族が生き残るには別の種族の犠牲はどうしても必須となってしまう。
人間社会において不平等があるのも結局は人間も生物の一種である以上食物連鎖の枠内において規定される存在に過ぎないからだ。
現代的な高度文明社会において最大公約数の生活を守るためにはどうしても一定数割を食う層が必須となってしまう、下層の労働者なくしてはインフラ設備の維持すらままならないのが文明社会の現実である。
これら生態系における食物連鎖の残酷な摂理というのは当然のこと人間の意識のあり様とは無関係に存在する物理的な現実である。
不平等、不均衡それ自体においては単に生態系はそのような仕組みになっているという事実があるだけでありそこに善や悪などといった属性は存在しない。
不平等、不均衡が悪であるというのは単にそれが自分たちにとって苦痛であったり不都合であると感じた人間の都合による観念的思考でしかない。
人間の意識と無関係に存在する世界においてはただそれがそこに在るということのみが事実でありそれ以外の善や悪などという属性は存在しない。
一切の善悪は観念的産物である。
それゆえに生態系の実態を無視して単に自分たちにとって都合のいい平等主義を掲げ、人間を資本家と労働者階級とに隔てたうえで二元論的善悪感に基づいて前者を断罪する共産主義においても建前としての唯物論とは裏腹にその実態は観念論的空想の産物であるといえる。
そもそも唯物論的な物質ありきの世界観においてはそこに追い求めるべき理想など皆無。
なぜなら物質とは本質的に無機質なものでありそこに理想を追い求める情緒の介在する余地などないからだ。
唯物論者を自負するならあらゆる価値観や思想、あるいは趣味嗜好に至るまでそれらは単に自分ないし一個人にとって都合のいい代物、好みに過ぎないものであるということを自覚するべきだろう。
まして再三にわたり観念論を批判した挙句、あたかも共産主義を全人類にとって追い求めるべき理想であるなどと誘導するのはそれこそまさしく我田引水である。
さしあたり物理的事実の実在を認める点で、この論調は唯物論の如くです。ただし唯物論は、善悪の判断を物理的事実から導出します。したがって上記論調の結論は、やはり非唯物論です。それゆえに上記価値判断は、その善悪の判断を物理的事実から導出してはいけないはずです。また価値判断が物理的事実から遊離するなら、その価値判断は自らの根拠を物理的事実から導出できません。このときに判断主体は、その価値判断を自らの恣意から導出します。言い換えるとその根拠は物理的事実ではない以上、意識であり観念となります。上記でその論拠を探すと、価値判断と物理的事実の間の分断に舞い戻ります。ただし上記論調は、その価値判断と物理的事実の分断の扱いを、自らの恣意ではなく、あたかも物理的事実の如く表現しています。しかしそれでは、物理的事実を根拠にして、“物理的事実を根拠にした価値判断が不可能だ”と主張したことになります。これは矛盾です。したがってその価値判断と物理的事実の分断の扱いも、物理的事実を根拠にしたのではなく、判断主体自らの恣意に従います。またこの自覚表現が「一切の善悪は観念的産物である。」との一文なのでしょう。
価値判断と物理的事実の間の分断は、簡単に言えば意識の物体への超越(認識)を不可能とみなす不可知論に極言できます。しかし不可知論一般は不可知の結論をどのように知り得たのかに答えず、知の動力を先験の闇で覆い隠す観念論議に帰結します。またそれは、日々の意識の物体への超越(認識)を可能とみなす人間行動の現実に反します。そしてこの不可知論への退行を是としないなら、その彼岸は可知論になります。もし意識の物体への超越を可能とするなら、物理的事実を根拠にした価値判断も可能となります。実際に坐り心地の良い椅子は存在し、生活し難い生活環境は存在し、許し難い極悪人は存在します。ただ文面から察するなら、その価値判断は物理的事実を根拠にした価値判断ではなく、恣意的判断だと断定するのでしょう。一方でそれらの価値判断に物理的事実が対応するなら、人間の物理体型に相応した坐り心地の良い椅子は存在し、人間の物理生活に相応した生活困難な環境が存在し、人間社会の存続に反する悪徳行為が物理として登場します。このときにそれらを物理として捉えずに恣意として捉えると、その恣意は椅子の物理的形状、人間生活の物理的制約、社会存続の物理的規範から遊離します。このときに恣意は何を基準にして価値判断をすべきか、自ら混乱するはずです。例えば肉体の物理形状を無視した構成の椅子を、意識は自ら把握できません。簡単に言えばその恣意は、自らの肉体を持たない意識であり、肉体の希望や悲鳴に耳を傾けない意識です。
なお人間社会における差別と貧困を無機質な物理と同一視し、差別と貧困を恒常的に解決不能な世界の必然として是認するのは、人間生活と社会の改善を否定する諦念思想です。また上記文面は、そのような差別と貧困を是認している文面に読めます。しかし人間生活と社会の改善は、世界の物理的事実の把握とその対処を通じて行う必要があります。
これが慶応次郎さんの善悪論なんですかね?
だからこそ人間において生ある限り、善を追求しようとするのが観念論によってではなく唯物論によっても正当化できると。
ただこの考えって善悪の境界線が白黒はっきり分かれている場合においてしか適応できませんよね。
例えば<人の命を奪う殺人は悪である>という倫理の根幹に関わるような命題においては普遍的合意も得られるかもしれませんが、一方で<食料を得るために家畜を殺すことは悪であるか?>という命題においては肉食を肯定する価値観とそれを否定するヴィ―ガンの価値観とは唯物論において並存するはずです。
生物が生存のため他の生物を奪う行為自体は食物連鎖において普遍的に見受けられる事実としての<現象>であってそこに善悪は生じません。
他方、生命倫理における殺生を忌避する観念を対人のみならず他の動植物にまで拡大すれば食料を得るための殺生は悪となります。
事実、21世紀における左派、リベラルにおいては生命倫理を適応する範囲を拡大する意識が強く非宗教的な世俗主義者においてもヴィーガニズムを支持する声も高まってますよね。
もちろんそれに対して生物としての人間が他の生物を殺して食うのは食物連鎖の仕組みにおいて正当化できるという肯定論も展開できるでしょう。
ここで唯物論者はヴィ―ガンの立場とそれを否定する立場のどちらに肩入れしてもいいでしょう。
肉食に後ろめたさを感じるのなら己の良心に従ってヴィ―ガンになればいいし、そうでないなら肉を食べ続けていい。
つまり唯物論において肉食の是非は物理的事実によって決まるのではなく個々人の恣意的な内心によって決まるわけです。
ここでこの相対主義を否定しようとすれば唯物論者ないし共産党は肉食の是非について絶対的正解を<物理的事実>から導きださなければいけないことになります。
この時唯物論者ないし共産党において何を基準にその正解を導き出すのでしょう?
肉食は食物連鎖において肯定されるから善?
肉食を痛ましいと思う人の心が肉体に付随して実在するから悪?
ここで肉食をするか否かは個々人に委ねると結論付けるのが現代世俗社会の作法ですが、これは直ちに善悪における価値相対主義の肯定となり倫理はかならずしも物理的事実のみによって規定することはできないということになります。
肉を喰おうが喰うまいが科学的事実のみを重んじる姿勢という意味での唯物論がうち崩れることはありませんが、唯物論のみで常に善悪を導出できるという理論はうち崩れます。
善悪が個々人の内心に依存せずあくまで客体的かつ絶対的に存在していると考えるのは伝統宗教の考えです。
宗教においては人以前に神がいて神がいればこそ神自身の観念によって善悪が区別されると考える訳ですが、唯物論の場合当然のこと人間の意識の外側に意識や観念があるとは考えないわけですから善悪はその都度一人一人の生まれた境遇や価値観の違いに依存した相対的なものにならざるを得ません。
共産主義はヘーゲル弁証法と唯物史観に基づいて最終的に文明社会にとってのジンテーゼである共産主義社会の完成を自明視する思想だと思いますが、宇宙の法則において物理的存在である人間に対し絶対善と絶対悪が規定されておりその規定に基づいて最終的に共産主義が成就するという考え方は善悪の永久不変性と客体性を信奉するという意味において本来唯物論と相容れないはずのイデア論に匹敵していると思います。