8)観念の外化
始まりの個別意識において目的論的因果の必然性を保証したのは、個別意識自らである。したがってその目的論的因果の必然は、個別意識にだけ通用する偶然な因果にすぎない。しかし個別意識は、自ら立てたこの偶然な目的論的因果の必然を、因果の一般化により保証しようとする。そして一般化した目的論的因果の必然性を保証するのは、意識一般である。しかしもともと意識の始まりは個別者であり、一般者ではない。すなわち意識として存在するのは個別意識であって、意識一般ではない。そこで問題になるのは、意識一般なる意識はいかなるものであり、どのようにして意識たり得るのかである。もちろんヘーゲルは意識一般を精神だと考えている。そこで「精神現象学」における精神の章に至るまでの記述において、およそ個別意識らしからぬものを整理すれば、実はそこに精神が既に現れていることが見えてくる。なぜなら意識一般とは、個別意識ではないものだからである。しかし意識一般には、個別意識自身を含めて、他者の意識や文章や言葉や物質や芸術や国家、さらに法や理念などの抽象的実在がある一方で、嘘や空想物の虚構などの抽象的非実在、すなわち観念がある。ちなみに「精神現象学」でヘーゲルは観念について詳細に論じていない。ここではあくまでも弁証法的唯物論を考える上で必要な概念として観念についても整理する。
8a)物・宗教教団・人倫、および事自体
もともと始まりの現存在で意識と区別されたのは物であった。物はそれ自身で自律した現存在であり、その実在において意識を虚実に扱い、意識と自らを区別する一般者であった。ただし物は意識と区別されたことで意識一般の資格を失っている。したがってその一般者としての役割は、虚実を正す真理としての事実性だけである。また意識の自由に対してこの一般者は無力なので、意識は自らの虚実の自由を満喫する。しかし自らの虚実を自覚した意識は、今度は逆に自ら一般者を追い求めることになる。この意識状態が自己意識における不幸の自覚である。不幸の意識は思考停止において自らを物化し、意識であることを放棄する。ただしこの自己否定した意識がすがりつく相手の一般者は、物ではない。不幸な意識が追い求める一般者は、他者の意識一般である。自己意識の章でヘーゲルは、この一般者を唐突に宗教教団として示す。おそらくここでの記述は、一般者に求められる理性の資質として無私を想定し、暗黙の前提において無私を体現するものとして宗教教団を扱っている。一方で意識が一般者を追い求める意識状態には、不幸の自覚と別に自ら望む形で自己否定をする徳の意識がある。徳の意識は、快の追求の延長線上で善を追求し、自発的に自己犠牲を行う。ただしその自己否定は、個別意識の自己確信を自己意識もろともに否定してしまう。自己確信を喪失した徳の意識が再び自己確信の真を求める先は、自己意識の外にある。徳の意識は自己確信の真を他者の承認に求め、承認において自己と他者の自己意識の統一を目指す。この統一が実現するのは、人倫としての一般者である。すなわち徳において、意識一般は人倫として現れる。不幸の意識も徳も、共に自己否定において意識一般を自らの主人とし、主人への献身を自らの目的にする。献身は主人のためにする労働であり、両者はその仕事を通じて自らを意識一般に一体化させる。しかし両者の自己否定は、一般者と合一すべき肝心の個別意識を死滅させてしまう。それゆえに実際には両者とも、自らの目的を果たすことができない。目的の実現に必要なのは、仕事における自己確信の回復であり、それによる個別意識の幸福の実現である。したがって意識の自己否定が第一の必然として現れる一方で、意識によるその必然の否定が第二の必然として現れる。すなわち意識の自己否定は、意識により再び否定されなければならない。個別意識の仕事が実現するのは、個別意識自身の幸福であり、そして個別意識と意識一般の合一である。仕事は形式を得た客体であり、その形式は人倫において習俗や法として現れる。不幸の意識と徳が目的とし、実現を目指したのはこの形式であり、それ自身が意識一般を体現する。それは仕事の自体存在であり、すなわち事自体としての一般者である。
8b)他者の意識
自己意識にとって自我は、随意になる現存在である。それゆえに自己意識において意識は、本来的に自由な自我として現れる。またそれだからこそ意識は、物と区別される。同様に他者の意識も自己意識にとって自我ではない。なぜなら他者の意識は、自己意識に随意ではなく、自己意識の自由にならないからである。しかしここで独我論式に個別意識だけを意識として扱おうとしても、次の困難が生じる。それは、自己意識において他者の意識を含めた意識一般が、自我でも物でもない第三種の実在として現れることである。この第三の実在は、直接知の欠如において意識のようであり、支配力の実在性において物のように実在する。もともと意識は、実在する物と区別された虚実である。しかし物を自らの支配下に措くことで、意識は実在を得る。したがって意識の実在は、物に対する支配力に等しい。支配する物を持たない意識は、虚実どころか本当の非実在である。一方で他者の意識は、自己意識の随意にならない自己意識の他者である。したがって独我論式に個別意識だけを意識として扱うと、他者の意識はせいぜい意識を装う物に留まる。ところがその扱いで現れる物は、他者の意識ではなく、他者の肉体だけである。どのみち自己意識は、他者の意識を非実在に扱うこともできない。他者の意識は他者の肉体を筆頭にして、物に対する支配力として自己意識に対し、その実在を誇示するからである。他者の意識は、直接知に物として現れることが無く、なおかつ自己意識の自我から区別された自律した実在なのである。
8c)意識一般
この第三種の実在が現存在に占める領域は、自我と物の領域に負けず劣らず広範囲に及ぶ。自己意識において他者の意識は、文章や言葉や芸術や国家、さらに法や理念などの抽象的実在としても現れるからである。もちろんその実在性は、物を媒介にして現れる。なぜならその実在は、自我の実在と同様に、物に対する支配力としてのみ現れるからである。例えば紙に書かれた文章は、その現われは紙の上の模様であり、物体である。しかし文章が模様と異なるのは、模様の形状に意味があり、意味を通じて文章は物を支配しているからである。交通標識や地図記号が得ている物の支配力は、この文章が得ている支配力と同じである。自己意識は、他者の意識の支配を無視したり、または逆らうことができない。自己意識にとって他者意識の支配力は物の実在性に等しく、他者意識に対する無視や反逆は、物の実在性に対する無視や反逆と同じ効果を自己意識にもたらす。ちなみにもしその支配力が無効であるなら、文章や交通標識や地図記号は単なる模様になる。ここでのこれらの模様が得ている支配力は、人倫共同体の習俗や法が与えるものである。したがってもし人倫共同体が消失するなら、習俗や法も自然消滅し、それに伴い文章や交通標識や地図記号は単なる模様になる。他者の意識を含めた意識一般は、直接知において物が外化されたように、意識にとって不自由な現存在として現存在から外化される。それゆえにこの外化では、物の外化が意識の外化として現れたのと同様に、他者の外化は個人の外化として現れる。すなわち他者なしに個人は無い。
8d)虚構の力としての観念
他者の意識や意識一般が第三種の実在として現れる一方で、個別意識の虚実に対応する意識一般の虚実が現れる。簡単に言えばそれは虚偽意識であり、単なる観念である。もともと意識は、実在する物の対極に現れた虚実であった。しかし意識は物の実在と結合することにおいて実在を得、それを幸福として直観した。つまり意識とは、物を喰らうことで初めて充足する虚無である。とは言え、その虚無は完全な非実在ではない。なぜなら意識は物を支配する力を得ており、少なくとも自らの肉体を支配することで、肉体の実在を意識の実在として自らに示したからである。逆に物は直接知において実在であったにも関わらず、意識に自らの実在を献上することを通じて虚無に変わる。ここでの物は、物に対する支配力を失い、単なる受動的な物体として現れる。あるいは肉体に吸収されて遂には本当の無に変わるかもしれない。しかしこの受動的な物体は、観察理性によって各種の物理属性を結合され、再び物の支配力としての実在性を与えられる。それは力を得た物体、すなわち物質である。物質の実在性は、自らの属性として列挙された物の実在性が保証する。物質は概念であり、その限りで意識一般である。しかし物質は物の結合体なので、本来的に意識ではなく物である。自然物や人工物に対する汎神論的な物神化は、それらの物体に対する意識の属性的結合により生まれる。それは物体の擬人化でもある。擬人化された物体は、自然信仰の対象にもなる。この物神化の背景には、物質が各種属性の結合で得た力があり、そうでなければそれらの物神は、単なる受動的な物体に留まる。しかし力を得たとしても物は物である。物に備わった力が物理にすぎないことが明らかになれば、物神に結合された意識の属性も解除される。その場合に物神は神通力を消失し、物神は本来の物の姿に戻って行く。物神に結合された意識の属性は、意識が恣意的に物に結合した虚構の力である。それが現実の力であるためには、物を支配する力として現れなければならない。ちなみに物における物に対する支配力は、どのみち物理的な力である。したがってもし物神の持つ力が現実の力であるなら、その力はおそらく実在する何らかの物理属性である。
8e)虚偽としての悪
他者の意識や意識一般は、物質と違って直接知に物として現れることが無く、その実在は常に物を支配する力として現れる。また支配力として現れるからこそ、他者の意識や意識一般は実在する。逆に言えば、物を支配する力として現れないのであれば、そのような他者の意識や意識一般は実在しない。また実在しないからこそ、物に対する支配力を持ち得ない。そのような実在しない意識一般は、例えば意味をなさない文章や言葉、または空想の人物やケンタウロスのような怪物であったり、虚言や空手形や空理空論などの抽象的非実在として現れる。しかしそれらは物に対する支配力が無くても、意識に対する支配力を持つのは可能である。そしてその限りにおける実在性を抽象的非実在は持っている。またそうであるからこそ、抽象的非実在は無とならない。この抽象的非実在は、物でもなく自我でもない意識一般に属する。したがって本来その抽象は、もともと単なる恣意の創作物ではなく、意識にとって不自由な現存在として意識が根拠をもって外化したものである。もちろんその根拠は、夢で見たと言う程度の薄弱な根拠だったかもしれないし、確固とした脅威を持つ自然災害を根拠としたのかもしれない。しかしその抽象に物に対する支配力が欠如するなら、遅かれ早かれその抽象は非実在となる。観念とは、そのような意識に対する支配力を持つだけの虚構の存在に成り下がった抽象のことを言う。ただし例えそれが虚構の非実在であっても、その意識に対する支配力は有意となり得る。それゆえにその有意性を信ずる者において、その虚実に目をつむり、観念の温存を企てる者も現れる。しかしそれは近視眼的に有意に見えるだけであり、内実は真理への反逆である。したがって虚構の観念の温存は、遅かれ早かれ非難と軽蔑の対象となる。しかもその自己意識は、自らの虚偽を自覚しており、虚偽と知りながらそれを真理と偽る。そのような自らの虚偽を自覚した観念は、正真正銘の虚偽である。それは自覚された悪であり、意欲された悪である。
8f)悪の必然性
カント式倫理観での善は、幸福を拒否した自己否定の先験的道徳であり、悪は快楽に溺れ自己満足を求める動物的な生である。それに対してヘーゲル式倫理観での善は、幸福を実現した勝者であり、悪は幸福の実現に失敗した敗者である。正義は強者の論理であり、その勝利は合理に即した必然的結末である。もちろんその合理には、強者を強者たらしめるだけのシステム合理性が包含されている。したがってヘーゲルからすれば、極悪非道なだけの強者は勝者になれない。しかしキェルケゴールがヘーゲル式倫理観を曖昧だと評したように、善悪を結果論で説明するヘーゲルの倫理基準は不明瞭である。そこで筆者を含めてもっぱら倫理の体系を法体系として理解する形で、ヘーゲルを国家主義だと理解する見方が生まれた。しかしヘーゲルは国家を必ずしも善と規定せず、そもそも善悪が逆転する事態の発生を想定している。もちろんそこには、革命の是認が含意されている。すなわちヘーゲルもまた、虐げられた善が悪として現れる現実の転覆を期待している。ただしヘーゲルにとって非力な善は、端的に言えばその非力であることが既に悪である。しかし悪は、悪であることにおいて既存の善を引き立てる役割を果たす。それは例え全ての善が悪として始まるものだとしても、そうである。例えば身分制度が要請された野蛮な旧時代では、身分制度の廃絶要求は悪でしかない。なぜならその時代の身分制度は、迅速な決断と行動を要する戦乱期における共同体存立の重要な組織原則だったからである。このようなヘーゲルにおける悪に役割を与える思想は、シェリングに由来している。その思想では、悪が無ければ善は外化されることは無く、したがって人倫および共同体が必要とされることも無い。つまり善の必然は悪に規定されている。言い換えればそれは、悪を契機にして初めて人は善のありがたみを知ることができると言うことである。そこで今度は悪の必然を語る必要が生まれる。なるほど悪は、カントの考える自己中心的快楽を目指す積極的な非道、または実存主義の考える責任回避に終始した消極的堕落によって発生する。しかしいずれの捉え方でもその悪は、個人が幸福追求をした一つの結末の姿である。そしてヘーゲルが憤慨するのは、そのような幸福追求を非難する倫理観である。ヘーゲルからすればその非難は、弱者のふりをして強者の側に身をおく自己意識の自分勝手な言いぐさである。なぜならそのように弱者に自己否定を要求するものこそ強者だからである。しかも自己否定は自ら行うものであり、人倫と言えども弱者に自己否定を強要できない。そのような強制をする人倫は、既に人倫の資格を失っている。そもそもヘーゲルは自己否定を幸福追求の一つの結末だと理解している。なぜならヘーゲルにとって幸福の追求と善の実現は対立しないからである。したがって幸福の追求を拒否する自己否定の理屈は、ヘーゲルにとって独善である。そしてそのように自己意識に自己否定を強要し、徳を滅ぼすに至った独善を、ヘーゲルは世俗として扱う。そこで幸福の追求と善の実現に両立に求められたのが、両者の調停である。その調停は機構として外化されるや、それ自身が法として、そして国家として自ら善を体現することとなる。一方で幸福の追求と善の実現の調停自体がそもそも必要なのかどうか、必要となる事態はいかなる事態なのかも問われなければならない。なぜなら富の分配が阻害されるなら、幸福の追求は自ずと共同体の構成員の間の対立を生み、構成員相互の正当な権利要求が、構成員相互において他方を悪として現れさせるからである。もちろんその場合でも、共同体の構成員の間の対立を廃棄するほどの富の生産があるなら、悪が発生することも無い。そうであるなら悪とは、富の大量生産を阻害するものとして現れるはずである。それは直接に必要生活財の生産に対立するものでなくても良い。例えば構成員の合理認識を阻むものは悪である。なぜなら理性は、財の生産や自己意識の生活それ自身に必要なだけでなく、生産性向上を含めた生活向上全般の重要な構成要素だからである。もしその阻害要因が共同体の組織構造に根差すのであれば、その組織構造そのものの改変が要請される。なぜならそのときの組織構造の改変と悪の廃絶は、同義となるからである。(2017/07/23)
ヘーゲル精神現象学 解題
1)デカルト的自己知としての対自存在
2)生命体としての対自存在
3)自立した思惟としての対自存在
4)対自における外化
5)物質の外化
6)善の外化
7)事自体の外化
8)観念の外化
9)国家と富
10)宗教と絶対知
11)ヘーゲルの認識論
12)ヘーゲルの存在論
13)ヘーゲル以後の認識論
14)ヘーゲル以後の存在論
15a)マルクスの存在論(1)
15b)マルクスの存在論(2)
15c)マルクスの存在論(3)
15d)マルクスの存在論(4)
16a)幸福の哲学(1)
16b)幸福の哲学(2)
17)絶対知と矛盾集合
ヘーゲル精神現象学 要約
A章 ・・・ 意識
B章 ・・・ 自己意識
C章 A節 a項 ・・・ 観察理性
b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
B節 ・・・ 実践理性
C節 ・・・ 事自体
D章 A節 ・・・ 人倫としての精神
B節 a項 ・・・ 自己疎外的精神としての教養
b項 ・・・ 啓蒙と絶対的自由
C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
c項 ・・・ 良心
E章 A/B節 ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
C節 ・・・ 宗教(キリスト教)
F章 ・・・ 絶対知