唯物論者

唯物論の再構築

ショーペンハウアー(2)

2015-04-30 08:12:41 | 思想断片

 一方で情念における美的判断を物自体の現れにみなす彼の発想は、美的判断を物自体と相関しない合目的的情念に扱うカントの考えと対立している。ここでの両者の見解を折衷する方向は二通りある。一つは、真偽判断や倫理判断と同様に美的判断に合目的性を見出す方向である。もう一つは、物自体をそもそも合目的的な情念に扱う方向である。ここでの前者は美的判断を真偽判断や倫理判断と同様な合理的判断に昇格する道であり、後者は真理認識や倫理判断を美的判断と同様な非合理的情念へと降格する道である。いずれの方向で折衷をはかるにしてもショーペンハウアーの見解は、価値判断において真および善に対して劣位におかれた美を、真および善と同格に変える。ちなみにショーペンハウアーは、前者を希求して、後者に結果している。もともとカント以前のスコラ哲学において真・善・美は、イデアの価値表現として三位一体の不可分な概念であった。三位一体である以上、この哲学では真・善・美の三者のいずれかに優位や劣位を立てるのは、そもそも考えられないことであった。ところがカントは、この三位一体に亀裂を入れ、美的判断を実体から乖離した非合理判断へと格落ちさせた。それに対してショーペンハウアーにおける情念の復権は、カントが始めた真・善・美の相互分離の動きへの逆行となっている。もちろんショーペンハウアーが美的判断に再び美独自の優位性を見出したことは、彼の優位点として数えられる事柄である。しかし彼は、真・善・美の相互分離の動きをただ単純に三位一体へと逆行させたことにおいて、自らの優位点を単なる欠陥にまで失墜させている。もともとカントにおいて美的判断の格落ちは、真および善の客観的合理との比較で、美的判断を主観的な非合理として除外したことにある。それは美が抱えた合理を無視し、美を対象から遊離することに結果した。だからこそカントの「物自体」は、美を除外した真と善、すなわち美的情念を除外した本体的物体と道徳律の二義的実体として現れている。これに対してショーペンハウアーの「意思」は、真・善・美の三義的実体であり、さらに言えばむしろ善を除外して真と美だけを体現したものである。すなわちそれは、およそ道徳的に見えない本体的意思と美的情念の二義的実体である。結果的に、カントにおける物自体が静的な真的実体または善的実体を装っていたのに対し、ショーペンハウアーにおける物自体、すなわち意思は、非合理な衝動に駆られた情念の塊りとして現れた。おそらくカントは、この情念の塊りをカント自らが考えた物自体と別物に感じるであろう。しかしこのショーペンハウアー式の物自体は、カント式の物自体の一つの究極の姿でもある。なぜならカントが考えた物自体も、ショーペンハウアーのそれと同様に、認識を拒否して理性の外に立つ非合理な存在だからである。そのような合理に外れた存在がどうして真および善を基礎づける実体たり得るのかと考えるなら、ショーペンハウアーの「意思」とカントの「物自体」との間の懸隔も無くなってしまうわけである。
 カントによる真・善・美の区分けにおいて、三者の間に乖離があることが知られるようになると、スコラ哲学流の真・善・美の三位一体は、一種の哲学版勧善懲悪説のごとく軽薄符牒な俗論にまで成り下がるようになった。実際にはその三位一体は、強欲な支配者の自己愛と不幸な被支配者の願望の双方が生み出した現実世界の単なる理想的彼岸にすぎなかったからである。したがって価値観の多様が認められるようになった近代では、むしろ三者の乖離は当然なものとして現れるように変わっている。すなわち真理は善悪や美醜と無関係であり、真偽や美醜に無関心な倫理も可能であり、美も真偽や善悪に外れていると一般に理解されている。それどころかそれらの外見上の混在は、単に可能であるだけでなく、むしろニュースやドラマなどで「善悪の彼岸」「残酷な現実」「羊の皮をかぶった悪魔」「美女と野獣」「悪の魅力」と言ったフレーズをもって積極的に取り上げられ、その乖離の現実性は日常的に意識されている。一方で、カント自身における真・善・美の乖離は、真善二者に対する美の格落ちとして現れ、しかもその美の格落ち自体が持つ問題性は全く無視されたままにおかれた。それどころかカントを含むドイツ観念論の系譜では、さらに善に対して真の格落ちが進行し、全体的傾向として善が真と美を生み出すかの錯覚を呈するに至った。この事態に対する真の復権を担ったのが唯物論であり、美の復権を担ったのが実存主義である。そしてショーペンハウアーが開始した情念の復権は、この美の復権の嚆矢と言うべきものである。この点でショーペンハウアーを実存主義の先駆者に扱うことは、妥当なように見えなくもない。しかしショーペンハウアーにおけるカントを模した世界の二元構造は、ショーペンハウアー自身の直観主義と矛盾しており、当然ながら実存主義とも相容れない。このことは、シェリングにおけるヘーゲル式の宇宙進化論が、シェリング自身の直観主義と矛盾し、実存主義とも相容れないのと構図が似ている。したがってショーペンハウアーの哲学は、実存主義ではないし、もちろん現象学でもない。なおショーペンハウアーにおける現世軽視の宗教的達観は、実存主義における個人意識の決死的な実存的進化に似ているところがあり、この点でも彼は実存主義の先駆者のように見えなくもない。しかしショーペンハウアーは、この宗教的達観をカント式の世界の二元構造から引き出している。ただし彼における世界の二元構造は、カントにおける現象世界と叡智世界の二元構造よりも、ずっとプラトンにおける地上世界と天上世界の二元構造に近いものである。彼においても、地上の存在者は天上の存在の影にすぎず、本体は天上にあるからである。なるほどショーペンハウアーにおける天上世界は、地上世界にある積極的な生命反応を傍若無人に奪い取り、そこに住む個々人の廃人化を目指す不思議な現れ方をしている。しかし彼は、このような天上世界の横暴を許容し、諦観をもたらす否定的媒介者としての積極的意義さえ見い出す。簡単に言えば彼は、浮世嫌いの天国好きなのである。だからこそかれは、現世軽視の達観をできるわけである。しかしこのような視点から繰り出される宗教的達観は、筆者から見ると個人の魂の救済に効力を持つとは思えないし、当然ながらあるべき宗教の姿から見ても邪道ではないかと思われる。要するにそれは、諦めの勧めだからである。もちろんそこに現れるような宗教的実存も、実存主義と似て非なる単なる世捨て人の実存である。
(2015/04/30)



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