唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(5.物質の外化)

2017-06-26 07:51:14 | ヘーゲル精神現象学

5)物質の外化

 経験論における二者関係は、もっぱら主語に意識ではなく物を措き、「AはBである」として現れる。この文章において主語に意識が現れないのは、自己否定を通じて意識が主人の地位から滑落したためである。また意識の自己自身も、自己疎外により既に意識ならぬ物と化している。しかし意識のない世界では、物と物が互いに自らを主張し、主奴関係は成立しない。そこで経験論における主語と述語の関係も、数式風の対等な「A=B」として現れる。つまりこの文章において主語はAである必要が無く、「AはBである」と「BはAである」の間に差異も無い。その主語と述語の間の因果は既に記号化しており、その主述関係は無機的な二者関係になっている。この平板で無機質な世界観は、実は経験論に先立ってスピノザの機械的唯物論として思想世界に登場している。スピノザの唯物論は、主奴関係の無い多数の自律した実体が互いにせめぎ合い、その力関係で自然世界の運動が決定される汎神論である。その理屈では、物体運動の必然は現実世界における必然であり、時空も意識の直観形式ではなく現実世界における存在者の属性になっている。端的に言えばその世界観の現実世界には必然だけがあり、偶然は存在しない。そして意識はその必然を捉えきれず、物体運動を偶然と勘違いする。つまりスピノザは、偶然を無知な意識にだけ現れる錯覚だと考えている。アインシュタインが信奉したこの理屈では、カントの考える先験も現実世界の先験を言い換えたものに過ぎない。それどころか意識は、もっぱら錯覚として虚偽と誤謬を自らの本分にする。カント超越論が先験認識の真に疑いを挟まないのと逆に、スピノザ唯物論において認識はそもそも偽である。ところがスピノザの理屈は、誤謬まみれの意識がどうして現実世界の真を認識できるのかを説明しない。実はカントと同様にスピノザにおいても、認識と存在の間に断絶があり、スピノザはそれを無視している。言うなれば、カント超越論が存在論を追放した認識論であるのに対し、スピノザ唯物論は認識論の欠落した存在論である。当然ながら、その断絶を放置して認識を考えるなら、不可知論の発生は不可避である。そこですぐに気付くのは、経験論とはスピノザの延長上に咲いた唯物論の仇花だと言うことである。それは唯物論の装いで登場しながら、独我と不可知の泥沼に陥没し、究極の観念論となったキメイラの理屈である。


5a)経験的科学における因果の崩壊

 現象を実体の現れとして考える場合、両者は区別において連続している。それは蛹と蝶の関係のようなものであり、外形上の不一致が両者を分離することは無い。蝶を飼育研究すれば、その蛹や幼虫の姿を知るのも可能である。一方で蝶は蛹を否定した姿である。現象を実体の否定として考える場合、両者の区別は両者の断絶に等しい。この場合、蛹と蝶は無関係となり、その姿の変容も異なる生物の入れ替わりとして説明される。例えば蛹を食い殺した寄生虫として蝶を扱うようにである。断絶は現象から実体への遡及を不可能にし、不可知論を生む。この不可知論は因果の相関を全て分断するので、太陽が昇ると周囲が明るくなるのも、やかんに火をかけると水が沸騰するのも、電灯の下に手をかざすと同じ形の影が下にできるのも全てただの偶然となる。それどころか時間が過去から未来に進むのも、1に1を加えると2になるのも、A=AとしてAが自己同一であるのも全てが偶然である。そもそも経験論において太陽と明るさ、水と温度、光と影の二者の間に必然的な因果関係は無い。経験論においてそれらの因果帰結の確実性は、どれも蓋然に過ぎない。経験論が生んだこの妙な結論は、不幸な意識の自己否定による自己と自己自身の断絶がもたらしている。その自己否定では、意識の奴隷であったはずの肉体が、今では主人として意識の前に現れ、さらに意識の奴隷であったはずの全ての物体も、今では主人として意識の前に現れる。自律を得た他在は相互に対立しており、例え自分自身との関係でも主奴関係を結ぶことはない。すなわちそれは、因果の崩壊である。ちなみにこの自己と自己自身の断絶は、不幸の意識の自己否定よりも前に、意識の対自における即自存在と対自存在の分裂で既に始まっている。即自的意識としての始まりの現存在は、眼前の肉体に対して自我認定を下す。ここでの肉体と意識は一致しており、肉体が随意に動くこととその自我認定の間に懸隔は全く無い。例えば現に見えている手は、自ら動かしているのだから単純に自我である。しかし自らを意識として自覚した対自的意識は、意識としての自己に対して自我認定を下すようになる。このときに始まりにあった肉体と意識の一致は失われ、肉体と意識の懸隔は埋まらないまま、両者の相関は経験的蓋然に移行する。言い方を変えるならそれは、手を動かしたいと思うと手が動くことが、意識において謎として現れるようになったと言うことである。ただしそれは、不幸な意識の自己否定よりも前なら、まだ謎として現れない。なぜなら始まりの意識は自らが主人であり、生命の奴隷としての自らを知らず、自らの不幸を自覚していないからである。もちろんこの意識も、随意にならない物があるのを知っている。そして意識にとって物が自らの主人として現れるのは、意識が主人としての自らを否定することと同義である。しかし意識の自己否定が無いのなら、意識にとって物が自らの主人になることは無い。


5b)経験的合理性

 経験論における二者関係は、意識が独断しただけの二者の結合である。その結合の必然性は、意識の思い込みか、せいぜい経験的反復において意識が想定しただけの経験的必然に依存する。すなわちそれは実際には蓋然に過ぎず、因果の必然ではない。例えば風が吹くと桶屋が儲かった経験は、強風と桶屋の儲けを経験的必然で連結する。またはおみくじが警告した危険が本当に到来すれば、おみくじと現実的危機の因果帰結は経験的な必然性を得る。あるいはフランス革命における恐怖と虐殺のテルミドールの記憶は、経験的な必然をもって共和制民主主義の成立を国民の不幸として結論づけ得る。しかしこれらの経験的必然では、原因となる主語、結果となる述語の二者の間に論理的相関があるわけでない。もちろん経験的必然は、実証を繰り返すことで成功確率において否定されるかもしれない。しかし朝の歯磨きと昼の会社出勤がほぼ毎日反復しても、歯磨きが会社勤務と論理の因果で結びつくことが無いのは容易に想像がつく。また長らく今日まで平和だったとしても、明日は核兵器が空を飛び交うかもしれない。実証に合理の資格を求めたポパーの思惑に反し、経験は合理の資格に不足している。そこで論理的因果を拒否する経験論の独断は、今度は不可知の独断へと入り込んで行く。すなわちその意識は、実体を知り得ず、またそもそも実体が存在しないと結論する。もちろん意識は自らの他者を知ることもかなわない。だからこそ意識は蓋然の現象論で満足すべきだと経験論は考える。経験論におけるこの二つの独断は、ストア主義と懐疑主義において交替して現れた二つの独断の再現である。つまり経験論は実践理性ではなく、まだ自己否定を自覚していない観察理性にすぎない。ところが経験論の独断は、独断した当人が自らの独断の経緯を忘れて、経験論において自らをそのまま因果だと思い込む。ここで意識の独断があたかも物理的な因果として現れるのは、意識が自己自身を物として疎外したからである。意識の自己否定は、独断的主観を客観として自ら外化してしまうわけである。しかしその経験論的因果は、意識の独断が決めた量的で無内容な因果であり、質的に有意な有機的関係ではない。経験に現れた因果帰結は、それはそれでの合理性を持つのだが、経験的合理性に留まる。それゆえにその経験的意識は、原因が結果に至る事象を知っているのだが、その事象においてなぜ原因が結果に至るのかを知らない。または結果を導く手順を知っているのだが、同じ結果をほかの手順で実現できるのを知らない。ヘーゲルは、経験論におけるこの実体の無い無機的因果を、目的の欠如として捉える。なぜならそれは、実体と現象が分断された機械的な因果の機械論だからである。もちろん目的の欠如とは、そのまま意識の欠如を表現している。一方でヘーゲルは、原因が結果を内に含み、その帰結を目的論として説明する因果を有機的因果として捉える。


5c)目的論的因果の構築

 因果帰結の運動は、機械論的因果であろうと目的論的因果であろうと法則として表現できる。ただし機械論的因果は二者の量的関係を表現するだけに留まり、原因と結果、実体と現象の因果帰結を明らかにできない。すなわち機械論は、二者の有機的な目的論を明らかにできない。ただしヘーゲルにとって因果が示す理屈は、全て精神の目的論である。経験論に見られた無機的因果は、全て有機的因果で表現できると考えられている。しかし主奴関係の無い二者がいかなる必然に従って量的均衡を失い、または逆に量的均衡を得るのかは、二者の量的関係を見ただけでは判らない。例えば存在者Aが存在者Bを吸着する力の強弱に一定の傾向があるとする。その傾向は、天気が晴れの日に吸着力の増大として現れるかもしれない。またはその傾向は、存在者Bが含む栄養が高い場合に吸着力の増大としてあらわれるかもしれない。しかし意識はそれらの原因をまるで判らなくても、次のような法則を見い出すことができる。すなわちそれは、存在者Bを吸い寄せる存在者Aの力が、存在者Aに反発する存在者Bの力より強いほど、存在者のAの吸着力は強い、と言う法則である。この法則はどことなく立派に見えるがその内実は、存在者Aの吸着力が強いほど、存在者Aの吸着力は強い、と自己撞着する無内容な法則である。経済学における需要供給の法則、生物学における弱肉強食の法則などが、この無内容な法則に該当する。これらの機械論が法則の呈を成す理由は、それらを法則に扱った方が一種の備忘録となり、意識にとって都合が良いからである。この無内容な機械論を目的論に正す最良の方法は、存在者Bに対する吸着力が強い理由を存在者Aから直に聞き出すことである。もし存在者Aが、例えば「存在者Bが美味しそうだから」とか、「存在者Bを好きだから」とかの理由を答えてくれるなら、存在者Aが存在者Bを吸着する運動も、原因と結果の有機的因果へとひとまず達することができる。もちろん存在者Aはもっぱら人間ではないので、このような理由聴取をできない。また存在者Aが人間だとしても、理由聴取によって真の原因を明らかにしてくれるような回答を得るとも限らない。それゆえに意識は、外化の推論を通じて、結果から理由を抽出し、それを原因として現存在から外化する。特に物理運動の場合、意識はそれらの原因を「物質」として外化する。例えば電気とか引力、各種の生物本能や物体属性、あるいは素粒子などは、物質として意識が外化した運動原因である。ニュートンにおける万有引力の発見について言えば、万有引力以前におけるリンゴが木から落ちる法則とは、リンゴが地面に近づく力が、リンゴが地面から遠ざかる力より大きいほど、リンゴが地面に近づく力が大きいと言う法則である。既に述べたようにこの言い換えは、備忘録に過ぎない言い換えである。ただしこの地面が宇宙空間に浮かぶ球体であるのを脳裏に浮かべ、この言い換えをよくよく考えると、リンゴには地面に近づく原因が無い。むしろ地球の自転が生む遠心力によって、リンゴは常に地球から弾き飛ばされてしまう。そうであるなら、リンゴは地球の何らかの力によって地球に向かって吸い込まれている必要がある。しかしこの何らかの力は、リンゴに作用している遠心力と逆方向の力であり、また求心力とも異なる無名の力である。またその力は、物理的な力であり、実体としてリンゴの落下運動を規定している。もちろんその何らかの力は、意識自らの力ではない。それだからこそ意識は、その何らかの力を「引力」として外化する。このようにして意識は、リンゴの落下運動において引力を実体として措定する。これらの実体は意識ではないが、物体とも異なる。それらはもっぱら力や法則であり、おおざっぱに言えばそれらは、自然力であり、自然の意志だとも言い得る。つまりここで外化された原因実体は、相互に対立する多数の排他的実体ではなく、自然と言う単一実体における相互に相関する各部分である。このようにしてスピノザの機械論は目的論に入れ替わるが、大山鳴動して元のスピノザ哲学の姿へと回帰して行く。


5d)目的論的合理性の救済

 経験論における因果の全面否定は、論理を全面崩壊させ、必然を死滅させる。そうなると今度は、因果の全面否定がなぜ必然なのかが謎となってしまう。なぜなら、今度は因果の全面否定それ自身が蓋然になるからである。この自己矛盾する妙な論理を嫌ったカントは、先験として現れる超越論的論理を必然として復活させることになる。ところが先験的な意識の論理的因果だけに必然を認めても、意識外の物体運動に現れる必然は、相変わらず蓋然のままに取り残される。それゆえにカントにおいて物体運動の必然は、意識の必然に過ぎないものとなった。そして時空も現実世界の形式ではなく、意識の直観形式だと結論された。もともとカントにおいてこの結論を生んだのは、意識の外化運動についてのカントの無関心に絡んでいる。なぜならカントにおいて意識と物はこの世の初めから分断しており、意識による物への超越は許されない。すなわち認識による物自体への意識の超越は不可能だからである。この不可知論があるからこそ、新たに意識から外化された物理的実体、すなわち物理法則を含めた物質は意識のままに留め置かれ、物と癒合できない。また実際に物理法則は、物質であるとしても物体では無いので、意識との差異が見えにくい。それだからこそカントは物理法則を、物ではなく意識に扱っている。そして同じことは、意識と異なるように見える物質にしても実は該当している。なぜなら物質は、物の知覚として物と区別されるからである。ただしこのような物質の意識化は、カントに固有の判断ではない。例えばデカルトやスピノザにおいて物に付属する属性は延長だけであり、それ以外の物理的性質は全て意識の属性である。すなわち音や熱は意識であり、物ではない。この見方を異常に感じるのは、どちらかと言えば、唯物論に慣れた人の感性である。そして逆に唯物論の側から同じことを言えば、同一律や因果律などのカントにおける先験的カテゴリーは、意識のカテゴリーではなく、自然のカテゴリーであり、単なる自然法則に過ぎない。ただし先験的カテゴリーでさえ現実世界の形式であるなら、カントの先験理論は根底から見直しが必要になってしまう。しかもカントの目論見は、先験的カテゴリーや物理法則を経験論から守ることにある。そしてその限りにおいて先験的カテゴリーや物理法則は、カントにとって現実世界の形式になり得ない。しかしカントによる因果の救済は、少なくとも経験論に対して論理を可能にしている。論理が可能であるなら、経験論における機械論が目的論に入れ替わるのも、既に時間の問題に過ぎない。そしてそのことは、意識の形式に過ぎない物理法則が、現実世界の形式に入れ替わるのも、同じように既に時間の問題に過ぎなくなったことを実は示している。ただしそのためには、カントにおいて欠落していた意識の外化運動の把握、すなわち意識と物の分断についての論理の確認は必須事項である。カント以後のラインホルト・フィヒテ・シェリング・ヘーゲルに連なるドイツ観念論の系譜は、それを明らかにするための思想史になっている。
(2017/06/26)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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