資本主義社会で共同体的商品生産者が機械を導入することにより、その資本構成がどのように推移してゆくのかを、日本の農業問題を念頭に以下でシュミレートした。ここでの資本構成モデルは、対抗する二群に分かれた商品生産者を1部門として、資本主義的企業としての末端小売業と機械工業と原材料生産業の3部門を合わせた4部門でイメージしている。
以下では、資本主義的企業の平均利潤率を16.7%に想定している。ただし共同体的商品生産者は、剰余価値の取得が発生しないので、利潤率は0%(見方によれば100%)となっている。また基本的に労働者の衣食住の生活材の単位を1に扱い、その数値だけの労働者数が実労働を行なっていると想定している。つまり日当1万円の賃金水準が労働者の1日あたりの衣食住と等価であるなら、生活材の単位が表現する1はストレートに1万円を表現する。また各部門の生産した商品の寿命を生活材の寿命と同じに扱っている。つまり生活材の単位が1日であるなら、生産した商品の寿命も1日に想定している。もちろん実際の商品寿命が1日より長くても、その商品が含む資本構成を日割りに算定し直すだけで良い。
[図1] ※クリック拡大
図1に登場する労働者は合計900人であり、内訳は以下である。
一方で登場した不労所得は、小売業に登場する180単位だけである。少なくとも不労所得者が労働者並みの生活をするのなら、生み出された利潤よりも不労所得者の数は小さくなければならない。したがってこの180単位は、不労所得者の人数ではなく、その最大人数だけを表現している。
図1において消費者に売られた末端小売業の商品は、全体で1080単位。その内訳は以下である。
各部門の商品は、末端小売業の商品に内包されて消費者に売られる。しかし商品生産者から見れば、商品を消費したのは、末端小売業である。末端小売業が消費した商品は、商品生産者の賃金(=商品生産者の収益)を表現している。したがって末端小売業の資本構成に現われる商品の内訳を展開すると、各部門は一企業の一体化した生産工程として現われる。この意味で、消費者に売られた末端小売業の商品1080単位の内訳の実態は、実際には不変資本となる原材料部分が消失し、以下のようになる。
上記図1の商品生産者Ⅱにおいて優先して技術進歩が起こり、その資本構成の高度化が進むと、例えば次の図2のようになる。なおここでは商品生産者Ⅱが機械を導入したことで、生産量が2.5倍になったものと想定している。ただしここでは、まだ商品生産者による商品価格の値下げを考えていない。
[図2] ※クリック拡大
図2では、従来180単位を生産していた商品生産者Ⅱが、機械導入により450単位を生産するようになった。もともとこの商品の市場規模が540単位しかないので、商品生産者Ⅱが仕掛けた増産は、商品270単位の生産過剰となる。そこで図2では従来の商品占有率に従い、商品生産者Ⅰと商品生産者Ⅱの双方で、それぞれ180単位と90単位の形で売れ残り商品270単位の痛み分けが発生すると想定している。もちろんそれでも商品生産者Ⅱには180単位の追加売上が発生しており、機械代金分90単位を差し引いても、まだ90単位の余剰利益が残る。この余剰利益は、商品生産者Ⅱが機械を導入したことにより生まれた余剰収益、すなわち特別剰余価値である。一方の商品生産者Ⅰは、生産した商品のうち半数の180単位が売れ残っている。商品生産者Ⅱは、ここでさらに捨て値で売れ残り商品90単位の完売を目指すのも可能である。しかし商品生産者Ⅰに売れ残りがある状態で商品生産者Ⅱがダンピングを仕掛けても、商品生産者Ⅰも捨て値完売の反撃を繰り出すだけであり、商品生産者Ⅱによる捨て値完売の効果はあまり無い。むしろ逆に商品生産者Ⅰの方が、先に捨て値で売れ残りの商品180単位の完売を目指す可能性の方が高い。いずれにせよ捨て値完売は、長期的に見ると、商品生産者双方にとって不利な選択である。
図2に登場した労働者は合計965人なのだが、共同体的商品生産者Ⅰの半分を占める180人は、代金の受け取りをできない無給者になっている。したがって実質的な労働者は、図1での合計900人から合計785人へと減り、その内訳は以下となる。
一方で登場した不労所得は、図1での合計180単位から合計295単位に増える。ただしこの不労所得の合計は、商品生産者Ⅱが取得した90単位の特別剰余価値を含んでいる。商品生産者Ⅱは、商品生産者Ⅰの収益の半分にあたる180単位を追加取得しており、そのうち半分を不変資本に充当し、残り半分を特別剰余価値として取得している。この特別剰余価値は直接の搾取対象を持たないが、内実的に商品生産者Ⅰの収益を商品生産者Ⅱが吸収したものにすぎない。つまり商品生産者Ⅱにおける機械導入は、商品売上全体における収益の商品生産者Ⅰに対する優先的取得権として現われている。特別剰余価値を除けば、一般的な剰余価値としての不労所得の合計は、合計295単位ではなく、合計205単位に留まる。この205単位は、不労所得者の人数ではなく、その最大人数だけを表現している。特別剰余価値を含めた不労所得の内訳は、以下のようになっている。
図2において消費者に売られた末端小売業の商品は、全体で1080単位であり、その内訳は以下である。
各部門の商品は、末端小売業の商品に内包されて消費者に売られる。原材料生産業から見れば、原材料を消費したのは、機械工業である。機械工業が消費した原材料は、原材料生産業の可変資本と利潤を表現している。そしてその機械を消費したのは、商品生産者Ⅱである。商品生産者Ⅱが消費した機械は、機械工業の可変資本と不変資本と利潤を表現している。そして最終的にその商品を消費したのは、末端小売業である。末端小売業が消費した商品は、商品生産者の可変資本と不変資本と特別剰余価値を表現している。したがって末端小売業の資本構成に現われる商品の内訳を展開し、各部門を一企業の一体化した生産工程として捉えた場合、消費者に売られた末端小売業の商品1080単位の内訳は、実際には不変資本となる原材料部分が消失し、以下のように従来の必要労働力115人が余剰人員となった実態を現わす。
ここでさらに資本構成の高度化の普遍化、すなわち商品生産者Ⅰでの機械導入が進むと、例えば次のようになる。
図3] ※クリック拡大
図3では、かつて商品生産者Ⅰの半分を占めた180人の無給者は、機械導入で商品生産者Ⅱに対抗することにより、その一部が有給状態に復帰している。ただし商品生産者Ⅰは、一度喪失した市場における商品占有率を回復できず、135人だけが有給状態に復帰している。一方の商品生産者Ⅱは、商品生産者Ⅰの機械導入に呼応し、機械の稼動数を減少することで、無駄な商品生産を無くしている。結果的に商品生産者Ⅱにおいて労働者数は、図1から図3までの間に全く変化していない。図3に登場した労働者数は、図2の状態に比べると回復しているが、図1での合計900人から合計870人へと減ったままであり、内訳は以下となる。
一方で登場した不労所得は、図2の状態に比べると減少するが、図1での合計180単位から合計210単位への増加を維持している。この210単位は、不労所得者の人数ではなく、その最大人数だけを表現している。なおこの不労所得には、かつて商品生産者Ⅱが取得していた特別剰余価値が登場しない。商品生産者Ⅰが機械導入を終えた時点で、商品生産者Ⅱが行った機械導入も、商品売上全体における収益の商品生産者Ⅰに対する優先的取得権としての役割を終えたのである。この不労所得の内訳は以下である。
図3において消費者に売られた末端小売業の商品は、全体でやはり1080単位。その内訳は以下である。
図3の末端小売業の資本構成に現われる商品の内訳を展開し、各部門を一企業の一体化した生産工程として捉えた場合、消費者に売られた末端小売業の商品1080単位の内訳は、実際には不変資本となる原材料部分が消失し、以下のように図1での必要労働力30人が余剰人員として固定した実態を現わす。
上記要領の資本構成の高度化は、資本主義的利潤を見れば、小売業で変化は無いものの、機械工業と原材料生産業で利潤を増加させている。ただし平均利潤率は、各部門とも16.7%のまま変化していない。しかし共同体生産者の個別的収益を見れば、資本構成の高度化は商品生産者Ⅰの収益を360単位から252単位に減少させ、商品生産者Ⅱの収益180単位を一時期的に270単位まで増加させた後に元の180単位に戻している。
資本構成の高度化は、商品生産者の一部を余剰人員化させる。しかし現実はそこで事態が収束するとは限らず、商品生産者双方で商品の捨て値完売合戦が発生すると予想される。そしてそのときには、商品生産者Ⅰを中心にして、双方の収益減少が進むはずである。この商品の価格下落は、賃金全般の相対的な価値上昇をもたらす。その効果は、商品生産者Ⅰで生まれた無給者を除けば、労働者と不労所得者の区別なしに、全ての有給者に対して作用する。それは、消費者全体にもたらされた一種の特別剰余価値であり、インフレや賃下げを通じてその効果が消失するまでの間、消費者全体に一時の小市民的悦楽をもたらす。ただし商品生産者においては、もっぱら自らの捨て値完売合戦が残した傷跡の方が大きい。このために商品生産者にとって資本構成の高度化は、最終的に単なる災難のように現われる。しかも商品生産者は、今となっては一度導入した機械を手放すことさえ許されない。例えば農家は、現代において農薬や耕運機なしに農業することができないようにである。今では商品生産者の生活手段であったはずの道具が、逆に商品生産者を支配し、その生活を圧迫している。とくに日本の農業の近代化で目立つのは、農家が貧窮に喘ぎ、耕運機や農薬、および種苗を作って売る企業体が肥え太ったという現実である。
上記の説明では、資本主義的企業の労働者と共同体的生産者の間に差異をつけずに、両者ともに労働者として表現した。しかし正確には、共同体的生産者は小資本家であり、労働者ではない。農家のような共同体的生産者が労働者に比べて有利な点は、小資本家として土地を所有し、生産物を自己消費できるところにある。労働者は、無産者として労働力以外に何も所有せず、生産物を自己消費することもかなわない。このために共同体的生産者は、労働者に比べると生活耐性を持っている。また共同体的生産者の収益は、剰余価値を含む必要が無い。つまり資本主義的企業のように、収益において賃金を超える利潤捻出を必要としない。なぜなら共同体的生産者にとって商品交換とは、商品が体現する労働力の等価交換を超えないからである。この事情と商品自身の収益率の低さの両方は、市場において資本主義的企業による資本参入を抑止する天然の防波堤となっている。しかし逆にこれらの事情が資本主義における共同体的生産者に対して、資本構成の高度化から取り残され常態的貧困に陥る傾向を与える。生物界で生存耐性の強い原生生物は、自らの変化を不要としており、進化から取り残される傾向を持つ。資本主義における共同体的生産者の立場は、この原生生物に似た位置にいるわけである。このような共同体的生産者は、第一に大規模な生産手段を必要としない産業部門を自らの牙城にする。しかし資本主義的企業は、生産手段の拘束が無くても、高収益を見込めるなら、共同体的生産者の牙城に進出してくる。そこで共同体的生産者は、第一条件に加えて、第二にもっぱら低収益を看板にした産業部門を自らの牙城にする。したがって共同体的生産者が恒常的に高収益を得るというのは、もともと話として無理がある。結局この無理を可能にする条件は、共同体的生産者による技術的条件や地理的条件などの独占に落ち着かざるを得ない。もちろんその独占を通じて得る高収益とは、上記図2でも登場した特別剰余価値を指している。
特別剰余価値とは、生産者が商品市場の技能的、または暴力的な独占を通じて得た特別収益の名称である。保護関税による外国の低価格農産物の排除、または政府の補助金投与による擬似的な国際競争力の強化は、自国農業による農産物市場の寡占を実現する。ただしこの国家権力を背景にした暴力的独占は、特許や才能に基づく技能的独占とは異なり、独占商品が持つ優位に正当性が無い。したがってこのような独占商品は、市場に競合商品が登場すると、たちどころに駆逐されてしまう。またいかなる形態であっても、独占は商品価格を下方硬直させ、消費者に実質的な不利益を与える。しかしそのような消費者の不利益に目をつぶってでも、農家に特別収益をもたらし、農村貧困化を救済するものとして農業保護政策は期待されていた。ところがこのような農業保護政策の現実は、農家に特別収益をもたらすわけでもなく、農村貧困化を救済することもなかった。それは、農産物の国際競争力の強化を実現せず、せいぜい農村を外国の低価格農産物による壊滅から救っただけに留まっている。もともと農業保護が想定した政策的な道筋は、増産において自国農産物の低価格化を実現し、国際競争力の強化を実現した後に関税や補助金を解除するというケインズ流シナリオである。ところが農村の生活は、休日なしに夜明け前から日没まで農作業を行ない、夜間および農閑期を副業や出稼ぎで過ごすという過酷な日々である。農業保護政策は、この疲労困憊した農家に対し、さらなる農産物の増産と低価格化、および国際競争力の強化を期待するものであった。それも他人事のように期待するだけであり、農産物の増産と低価格化が農村貧困化を加速させるというジレンマに全く対処していない。結局のところ農業保護政策は、農家の過労死に対して執行猶予を与えただけの、単なる丸投げ政策に終わった。
増産すれば値崩れと売れ残り、さらに増産のための設備投資により、農家は減収となる。逆に減産しても収穫量の逓減と収獲単位あたりのコスト増加、さらに外国商品との競合により、農家は減収となる。日本の農政は、このような農業の抱えるジレンマを、関税障壁と補助金によって解決の先延ばしをするしかできなかった。かつてこの無策の最大の背景は、植民地としての無策への強制、すなわちアメリカの余剰農産物を消費する必要性にあった。この要件を満たす限りでのみ、植民地における施政者は、自国の農業問題の対処を許された。優先的に外国農産物との市場競争に負ける必要が存在し、なおかつ外国農産物との市場競争が要請されているなら、結果はすでに見えている。つまり日本の農政の無策は、問題が発生した最初から決定事項だったのである。むしろそれでも日本の農政は、せめて米の自給だけを堅持しようと努力しただけ立派なのかもしれない。例えそれが、国内農業における米の例外的地位を生み、さらに日本の農業問題を複雑にしたとしてもである。しかし昨今では、日本の農政を囲む世界情勢は、かなり変化している。バイオ燃料に対する需要の登場、中国やインドを筆頭にした新興国の農産物需要の増大に伴ない、トウモロコシなどのアメリカの余剰農産物の販路が拡大し、高騰を進めている。結果としてアメリカの余剰農産物を日本が消費する必要も、今では日本の政治的独立の封鎖という政治的理由に限定化されつつある。ただしこれまでの問題先延ばしが残した負債は大きく、農家の高齢化において現段階の農業問題は、農業後継者育成のデッドラインという末期的局面を迎えている。
日本の農業問題の原因は、米作保護に始まる国際競争力の喪失にあると言われている。この論調は、弱者であることがすなわち悪であるという弱肉強食の是認を前提にしている。そしてこの是認は、農業保護政策をそもそも不要にする。この論調を認めるならば、極端に言えば、高級青果物やブランド肉のような高付加価値商品を除いて、日本は食糧生産を一切諦めるべきかもしれない。しかしこの論調は、アメリカ農産物輸入の免罪理由として生み出されたものである。そしてそれは、競争原理の維持や自由貿易推進、または消費者利益促進などの色合いを変えながら、農業保護政策の排除を目指す全ての論調に共有されてきた。近年において進んできた農業保護の無策的放棄は、日本農業の国際的競争力をさらに喪失させ、中国を筆頭にした外国農産物の輸入圧力を自ら強めてきた。一方でこのような農業保護の無策的放棄に対して、食糧の安定供給とその質的安全の二点の確保において、長期的な視野で国民生活の安全保障を危惧する声が出ている。当然ながらこの危惧は、弱者であることがすなわち悪であるという弱肉強食の是認の拒否を意味している。同時にこの危惧は、農業の自衛と国家の自衛を同列に扱うことで、農業保護政策の排除も拒否している。ただしこの拒否は、国防的な観点から生まれるものであり、農家の生活保護の観点とは次元を異としている。しかしこのように農業保護を国家の自衛行為として捉える場合、外国農産物に比べた自国農産物の割高などは、その不採算自体が補正対象であり、該当農産物生産から撤退するなどは最初から論外となる。
農産物の増産と価格下落は、その国際競争力を確保する上で必要な事柄である。ここでの直接的な問題は、国際競争力を維持している農産物ではなく、国際競争力を喪失した農産物についての日本の農業の増産能力であり、その増産が可能となるまでの農家の生活保護、および増産が現実化した後の価格暴落により生まれる農家の貧窮への対処の三点である。これらの問題点に対して、筆者が考える対処方法は、簡単に言えば日本版のコルホーズの構築である。かつてロシア共産主義は、コルホーズへの強制移行によってロシアの農業生産に壊滅的打撃を与えた。日本版コルホーズが似たような失敗を回避するための条件は、このロシア共産主義の失敗の経験から得られるはずである。またそもそも現時点で国際競争力を喪失した農産物を対象に開始するのであれば、最初がマイナススタートでも驚くことも無い。この日本版コルホーズ案は、零落農民の吸収と再生を目指す採算を度外視した構想である。したがってそれは、農協ではなく、国家的プロジェクトとして政府が検討すべきである。そしてその政府も、アメリカの傀儡政権ではなく、独立した民族主義的な政権である必要がある。
(2012/11/30)