唯物論者

唯物論の再構築

唯物論6b(構造主義)

2014-07-15 10:09:39 | 唯物論

 第二次大戦後に勃興した世界的な新左翼運動は1960年代中盤には既に、その表面的な過激さが増長したのと裏腹に、内実的な没落が進行していた。新左翼の過激なヒューマニズムは、現実軽視の脳無し行動主義において実際にはちっともヒューマニズムではないことの方が多く、学生や労働者を不毛の荒野への跳躍へと駆り立てただけだったからである。もちろんこの不毛な跳躍を先導したハーメルンの笛吹きの一人にサルトルも含まれている。一方で存在論への没入において主体の行動資格を問う実存主義にうんざりしていた現象学は、この新左翼の内実的な没落に歩調を合わせて、フッサール流の中立的判断への回帰を進めていた。しかし存在論から切り離された中立的判断は、単なる現象論である。すなわちそのような現象学は、単なる経験論に過ぎない。そこでこの流行遅れの現象学は、自らの中立的判断の正当性を得るために、古典的な帰納法のほかに統計的手法や数学的形式性など、経験的妥当性を確保するための各種の形而下の手法を駆使することとなった。もちろん形而下の手法を駆使しただけの哲学は、形而下学に過ぎず、哲学ではない。しかし実存主義の没落とマルクス主義の停滞の中で、思想世界は不毛な実体論争を忌避して存在論からの逃避を進め、むしろ経験論を是認するのが当世流となった。もちろんその正体は、唯物論と観念論の対立構図からの逃避であり、哲学的な実体概念に対する判断停止にほかならない。現象学におけるこの内部対立は、唯物論から見れば大差の無い目糞と鼻糞の関係でしかなかったのだが、進歩史観の持つ差別性に自ら疑問を持ったサルトルの退却により、実存主義が完全に凋落したとみなされている。結果的にこの時期以後から現在に至るまで、世間では各種の自称哲学が、思い思いの先験的構造を世界に見出し、その論理を拡張して自己主張する形で、我が物顔に跳梁跋扈する事態が進行した。これらの新種の経験論が古典的な経験論と異なる点は、フッサールと同様に、経験論でありながらカント流の先験的形式への撞着を持つことにある。このためにそれらの一群の自称哲学は、自らが見出したと信じる存在の先験的形式を、その経験的蓋然性を隠匿するために、構造と呼ぶのを慣わしとした。しかし実際にはそれらの哲学は、実存主義との対比では統計的事実を背景にした唯物論として現れ、唯物論との対比では物理的実体と乖離した観念論として現れるような、内実的な哲学的キマイラである。
 探す気になれば、このような新種の経験論は、1960年代どころか19世紀末に既に登場している。例えば経済学における限界効用理論も、内実的に同じような経験論の新種である。ただし限界効用理論は、まだ価値の実体への言及がある分だけ、余程1960年代の経験論よりも存在論を包括している。宇野経済学が価値実体論を捨象し、価値形態論だけで貨幣生成を語ったのも似たような理屈である。実体論はマルクス経済学の根幹を成しており、形態論で経済学を語るなら、それは既に労働価値論ではないし、唯物論でもない。限界効用理論でも宇野経済学でも、形態論から実体論への遡及は断念されたのだが、その背景には旧来の経験論と同様に、価値実体に対する不可知論が待ち構えている。結果的にそこでの対象の自体は、せいぜい背後世界の錯覚として現れる。その新種の経験論の世界に実在するのは、旧来の経験論の世界と同様に、感覚的印象と言う観念だけである。ただし観念論的価値論において、その価値の印象は効用と呼ばれ、実体へと祭り上げられただけにすぎない。このような印象の体系は、根なし草の体系として、特定の一時期に勢力を得ており、何らかの事情に応じて体系のシフトを行うとみなされている。しかし経験論では、そのパラダイムシフトがいかなる事情において発生するのかも、実体論を欠いたままに説明される。なにしろ経験論が実体論を語ろうとすれば、その科学然とした説明が、最終的に意識が世界を規定するだけの観念論としての自らの正体を曝け出すしかないからである。結果的にこの経験論は、規定要因を謎にしたままに世界の運動を語るだけの非合理主義へと落ち着く。もちろんその経験論は、世界を解釈するだけの思想に留まるしかなく、あるべき問題解決の検討において否定的な役割か、せいぜい消極的な役割を果たすだけに終わらざるを得ない。

 もともと経験論は、印象を物理に由来するとみなす限りで、唯物論に容易に転化する思想である。カントにおける経験論と唯物論の扱いを見ても、カントは両者にそれほど差異を見ていない。むしろ人間機械論として経験論を誹謗する腹積もりで、カントは積極的に経験論と唯物論を同一視している。しかしヒュームを取り上げれば歴然とするように、経験論と唯物論は別物である。両者の境目は、基本的に不可知論の是認にある。不可知論の是認とは、印象と物自体の連繋の分断である。そしてこの分断は、印象を物体の現れではなく、単なる観念へと純化する。だからこそ結果として経験論は、意識に基礎づけられた思想体系、すなわち観念論に転化する。ただしこのように意識を物体から遮断することは、直接に人間を物理から自由にする。逆に言えば不可知論を拒否する唯物論は、人間を物理に拘泥させる不自由な理屈でもある。したがって経験論と唯物論の端的な差異は、論理の先行規定者に観念を措くのか、それとも物質を措くのかの違いでしかない。言い直すなら、意識に基礎づけられた経験則を許容するのが経験論であり、物理に基礎づけられた経験則を許容するのが唯物論である。
 一方で、不可知論の是認を経験論と唯物論の差異基準に措いた場合、経験論と唯物論の間よりも、現象学と唯物論の間に差異が無くなってしまう。現象学と唯物論の両者は、ともに不可知論を拒否し、現象を対象の現れとみなすからである。ところが現象学は、人間的自由を時間推移による物理的因果の単純な断絶において説明する点で観念論であり、唯物論ではない。しかも現象学は現象を、単に対象の現れとして扱うだけではなく、対象それ自体として扱う。現象学が現象学である由来も、そもそも現象学が現象だけを語り、現象を基礎づける実体に言及しないことにある。しかし現象学におけるこのような現象一元論は、受動的な形での実体の不可知ではなく、積極的な形の実体の不可知へと容易に転化する。なぜなら現象学における判断停止とは、往々にして現象における物理的実体の積極的無視にすぎないからである。このような実体の捨象は、観念一元論の強制的な実現にすぎず、実質的に実体の不可知を是認するものである。そして不可知論を是認すると見られる限りで、唯物論から距離をとる形で、現象学は経験論の至近位置に立つ。もちろん実体への言及の欠如は、カント視点から見ても、現象学を現象論として扱い、そのまま経験論に同列化する。したがってここでも現象学と唯物論の端的な差異は、論理の先行規定者に観念を置くのか、それとも物質を置くのかの違いとして現れる。つまり唯物論が物理に基礎づけられた経験則を樹立するのに対し、現象学は意識に基礎づけられた経験則を樹立する。
 上記のような観点を推し進めて、唯物論は最終的に次のような独断を繰り出す。それは、同じ経験則であるのにも関わらず、印象や現象に基礎づけられた経験則を迷信に扱う一方で、物体に基礎づけられたと称する経験則を科学とみなす独断である。もちろん観念論的立場は、このような唯物論的独断を納得しないはずである。ただしこの独断は、もともと唯物論の専有物ではない。これと似たような理屈でカントは、経験論を哲学的に死滅させているからである。そしてもちろん彼は観念論者である。ただしカントは、この経験論批判を通じて唯物論を擁護したわけではない。つまり彼は、唯物論を含めて、先験的真理に基礎づけられない経験的真理の全てを根なし草と捉えている。したがってむしろここでの観念論の憤慨理由は、カント的論調から捉え直すべきかもしれない。それは、経験則を基礎づける役目を果たす印象や現象と物体の間に差異を見出せないこと、別の切り口で言い直せば、超越的他在について語る権利を、観念論も唯物論も等しく持っていないと言うこと、だからこそ経験論も唯物論も迷信だと言うことである。このようなカント的批判に対して経験論は、感覚的印象が認識世界の内側に現象している事実において、現象を語る権利だけを要求することになる。もちろんこの新種の経験論は、現象学のことである。一方の唯物論は、同じ事実においてさらに実体を語る権利を要求する。この唯物論の要求は、すこぶる簡単な理由に従っている。すなわち結果には原因があるべきであり、現象には実体があるべきだと言うことである。ただし唯物論の主張は、原因の伴わない結果、または実体の伴わない現象を不可能に扱うものではない。もし現象が実体を伴わないのであれば、次に明らかにすべきなのは、その現象が持つ偶然性がいかなる根拠にあるかである。言い換えるなら、自由はいかにして可能なのかを物理的に明らかにすべきだ、と唯物論は主張する。もちろんこれらの唯物論の信念は、一種の信仰であり、素朴実在論である。しかし唯物論者における現象の根拠に向かう探求心とは、常にこの唯物論的信念に基づいている。そしておそらくこの唯物論的信念も、階級対立の現実のように、なんらかの物質的根拠を背景にして存在する。
(2014/07/28)


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