唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 概念論 解題(3.独断と媒介(5)自由の生成)

2022-11-06 09:14:45 | ヘーゲル大論理学概念論

6)自由の生成

 唯物論の単純な基底還元論に従えば、意識は物体の反映にすぎない。その意識は物理に制約され、物体に限定されるだけの不自由な存在である。ところが一方で意識は物体の変様であり、物体である。それが元の物体と区別されるのは、それが元の物体の反映であることに従う。意識が物体であるなら、同じ理屈でその他者である物体は逆に意識となる。このときに物体は意識の反映である。この意識と物体の逆反映は、さしあたり単純な基底還元論の反証となる。この反転構造は既に仕事において示された労働過程の全体に等しい。それは物理因果でありながら、同時に目的論因果になっている。ただし目的論因果の始点となる目的は、物理因果から生じる。したがってその全体は、やはり物理因果のように見える。それゆえに相変わらず単純な基底還元論は有効である。ところが媒介反転を含む循環運動には、その内部には因果の消失点が発生する。そこでは運動における対立する力が均衡する。それは厳密に言うと、物理因果の消失点である。そしてそれは目的論因果における目的の実現の瞬間でもある。その目的実現は物理因果にとっても、運動の動因となる力の不均衡の消失である。当然ながら物理因果のその後の運動方向は不定となる。同様に目的実現は目的論因果にとっても、運動の動因となる目的の消失である。それゆえに目的論因果のその後の目的方向も不定となる。それは物理因果と目的論因果の両方にとって一種の無重力地帯である。その因果の消失は、意識と物体の双方にとって自らの自由を実現する。すなわち意識と物体は、その後にいかなる方向に進もうと自由である。したがってそこでの物理因果は、目的論因果と一体化して死滅する。その先に拡がるのは目的論因果の自由の世界である。


6.1)物体の自由

 自由は因果の消失点が現れる全ての運動の中に存在する。それゆえに自由は人間にだけ許された特権でもない。ただしその自由はさしあたり物体の自由であり、物体の偶然に留まる。そしてその物体の絶対自由は、生体の自由と異なる。少なくとも生体の自由は、自らの生体維持に制約される。それゆえに物体には死ぬ自由があり、生体にその自由は無い。ただ物体はもともと生きていないので、その自由は単なる無方向な運動に留まる。一方で生体は生きなければいけない。同様に人間も生体なので、生体維持のために行う仕事と労働過程の全体も維持しなければならない。それゆえに自由による因果の崩壊は、人間世界の因果の全体に及ばない。もちろん個々の人間において仕事を離脱し、労働を放棄し、さらに死ぬ自由もある。しかしその絶対自由は、往々にしてその無思慮において物体の偶然に等しい。したがって人間世界において、相変わらず単純な基底還元論は有効である。物体の自由はそのまま人間の自由にならないので、当然ながらその自由は奴隷制社会における奴隷を自由にしない。同じことは賃金奴隷にすぎない現代資本主義の労働者にも該当する。いずれにおいても奴隷に労働を強制するのは、奴隷に対する生活保障の欠落である。その奴隷の不自由が表現するのは、奴隷における物理因果の継続である。すなわち奴隷は物体化した人間であり、自動機械である。


6.2)人間の自由

 物体の自由と人間の自由を区別するのは、生体維持の必要である。しかしこのことを逆に言うと、物体の自由を根拠づけるのは、物体における生体維持の不要である。それゆえに人間においても生体維持が不要になれば、物体と同様の絶対自由を得られる。またこのことが絶望した人間の自殺を説明する。すなわち絶望が人間から生体維持の必要を奪い、その生体維持の不要が人間に自死を決断させる。ただしその決断を支えるのは、外的事象の物理因果に留まる。単純に言うとそれは、他者に死ねと言われて素直に自殺しただけとなる。一方で似たような事態でありながら、少し異なるケースがある。人間は愛する者の死滅を予知すれば、その未来の絶望と対決するために人間は自らの死も選ぶ。その外的事象の連鎖だけを捉えて言えば、それもやはり物理因果である。しかしそこでの絶望はまだ未来にあり、現実の絶望ではない。すなわちその自死に働く因果は、物理因果ではなく、目的論因果である。その決断は絶望に従うので、キェルケゴール式の実存主義的決意だと言うのも可である。少なくともそれは、ハイデガー式の実存主義的決意ではない。ハイデガー式の実存主義的決意は、自由に対する不安が根拠づける正体不明な衝動である。他方でキェルケゴール式実存を根拠づける絶望は、もっぱら過去の亡霊に対している。それゆえにここでの自死の決断例は、キェルケゴール式実存とも異なる。とりあえずここで自死の決断例を、物体の自由から区別するのは、その現実の物理因果の欠落である。その物理因果の欠落が表現するのは、物理因果から切り離された行動主体の自由である。したがって自由な行動主体が、物体の自由と異なる人間の自由を可能にする。一見するとそれは、人間の自由を可能にするのは、自由な人間であるとの堂々巡りになっている。それが堂々巡りに見えるのは、自由な人間の先行を必要とすることに従う。またそのことが再びハイデガー式実存を呼び戻すように見える。しかしその目的論因果の対象は、もっと具体的である。そしてその先行する自由な人間は、不可能ではない。その人間に要求される要件は、物理因果と目的論因果の消滅である。その因果の消滅は恒久的である必要もなく、決断のその瞬間にだけその成立を要求される。


6.3)自由な人間

 自由な人間において物理因果と目的論因果は消滅している。それゆえに自由な人間は、生体維持を努力する必要から遊離している。当然ながらこの自由な人間に対して、単純な基底還元論は成立しない。彼を規定するのは物理因果ではなく、また他者が用意した目的論因果でもなく、彼自身の目的論因果だけである。したがって彼自身の目的論因果は、物理因果や他者が用意した社会的道徳のような目的を超越している。そのように自由な人間を捉えると、それは強固な意志を得た超人となる。このときに彼の自由を根拠づけるのは、その強固な意志であり、思惟である。ここでの強固な意志は、彼を自由な人間にする媒介として現れる。ところが自由な人間はまず人間である。そして人間であるなら、先に示したように彼は生きなければならず、自らの生体維持のために行う仕事と労働過程の全体を維持しなければならない。自由な人間が超人となるのは、せいぜい彼の生活において物理因果と目的論因果が消滅する限られた短い瞬間だけとなる。そして彼の労働環境と生活形態が過酷であれば、彼がそのような自由な人間になる時間もほとんど仕事に奪われる。このときに彼はもう自由な人間ではない。端的に言えばこのときの彼は物体に転じており、自動機械になっている。このことが示すのは、自由を根拠づけるのが強固な意志や思惟ではないと言う現実である。ここでの労働環境と生活形態の過酷は、自由な人間における物理因果と目的論因果を持続させる。それどころかその過酷は、それ自体が彼にとって因果である。しかしこのことが逆に人間自由の根拠を、思惟から解放する。このことが示す人間における因果は、労働環境と生活形態の過酷に等しい。したがって労働環境と生活形態の過酷が消滅するなら、彼は強固な意志の媒介を必要とせずに、自由な人間になる。


6.4)不自由な社会

 過酷な労働環境と生活形態が常態化した社会は、形式面で自由を確保していたとしても、内実として自由な社会ではない。それは過酷な労働環境と生活形態が、自由の発露を阻害するからである。したがってその自由の形式は、内容の無い箱に留まる。ただし世界の多くの地域では、その形式面でさえ自由を確保できていない。そしてそのことが形式面で自由を確保した社会において、逆に内実的自由の実現を阻む支配者の口実に使われ、さらに内実的自由の自由を諦める被支配者の口実に使われる。すなわちより過酷な発展途上国との比較を通じて、よりましな発展途上国の体制賛美者が自国の過酷を賛美し、それを支配される国民が是認する。そしてそれを是認しない国民は、非国民や売国奴、また自由の敵対者として非難される。そしてその非難が目指すのは、自国の過酷に対決する国民に対する弾圧である。ここにあるのは、自由な体制を賛美する者が自由を弾圧する矛盾である。その矛盾についての説明は、もっぱら義務と権利の形式的表現で語られる。しかしその内容の空疎が、その内実を単なる義務の強制と権利の否定にする。とりあえず理想を言えば、権利の実現が義務を自発的にし、義務の施行をその個人の権利にまで高めるべきである。さしあたりその姿は、家庭における子供たちが家事労働に参加する成長の姿になぞらえたい。愛国は強制ではない。愛の強制は、愛を空疎にする。


6.5)自由な社会

 労働環境と生活形態の過酷は、それを持つ国に商品競争力を与える。しかし発展途上国の労働環境と生活形態の改善に進まなければ、その労働環境と生活形態の過酷が、今度はよりましな国に輸出される。そしてその輸出は商品だけでなく、より貧困への耐性の強い人間の輸出を含む。それらの輸出は、よりましな国の労働環境と生活形態をより過酷な側に劣化させる。したがって過酷な発展途上国の悲惨は、よりましな発展途上国の国民にとっても他人事ではない。ただしその悲惨の解決は、自国に留まらず世界全体の改革を必要とする。そしてその困難な展望が、世界平和と共産主義を遠方の夢にしてしまう。また過酷であるかどうかを別にして、人間は生体維持のために行う仕事と労働過程の全体を維持しなければならない。当然ながらその必要な仕事と労働は、どのみち人間自由を制約する。しかし共同体が構成員の生活維持を保証するなら、その自由の制約も度外視される。その場合に生体維持の制約は、自由に対する制約ではない。そのような共同体は自由な共同体である。そしてその共同体は、世界全体の改革を特に前提しない。そのような共同体は、その存在自体が単純な基底還元論の反証となる。また共同体構成員の生活維持の保証は、家計における貨幣の死蔵を減少させ、国民消費の増大と国家全体の必要貨幣量の減少をもたらす。すなわちそれは国の労働環境と生活形態の全体から無駄を省き、より合理的にする。ただしそれは長期的に見ると、支配層における資産蓄蔵を国民資産に移し替える作業となる。したがってその実施は、支配層における資産蓄蔵を保険貯蓄の代行と捉えて賛美する体制賛美者の主張と対立する。しかし実態として国家的経済危機において支配層の資産蓄蔵が、国家的経済危機に充当されることは無い。それは対外的にその国の資産構成を健全に見せかけるだけに留まる。なお支配層における資産蓄蔵を、国家的経済危機に充当したのはレーニンであり、それを模倣したヒットラーである。しかしいずれの政治体制も、崩壊ないし破滅している。必要なのは資産蓄蔵を無意味にする作業であり、その収奪ではない。現代においてそのような自由な共同体はまだ実現していない。それゆえに現代の人間世界において、相変わらず単純な基底還元論は有効である。すなわちいまだ人類は、物理の奴隷のままにある。なおいわゆる共産主義における国家の死滅も、暴力機関としての国家の死滅を示すだけである。すなわちそのような国家が死滅したとしても、共同体のサービス機関としての国家は死滅しない。そのサービス機関としての国家の永遠性は、人間の生体維持の必然に従う。


7)媒介と自由

 ヘーゲル弁証法の外観的追跡は、美と善と真の目的論に到達する。そしてその目的論は一方に共産主義、他方にプラグマティズムや現象学を付随して実存主義へと展開する。しかし現代において両者は屍と化している。両者は独断の目的論因果に拘泥しており、自由を目指しながら不自由であり、そもそも自由が何かを確定していない。その窮屈な自由に対する反感は、両者をかつての古来から続く仙人式達観にいざなう。その自然体の自由が目指すのは、意識の独断的自由ではなく、物体の偶発的自由の再現である。ただしそれは再現された偶発的自由であり、ちまたにころがる物体の自由ではない。そのような物体の自由は、意識の独断的自由と何も変わらない。したがってその達観は、個人の内に留まる妙に重たい宗教的直観ではない。それは他者の媒介が個人に対して無意識に実現する個体の生命の発露である。したがってその達観は陰鬱なものでなく、楽しく陽気なものとなるはずである。その媒介する他者は、古代の観念論では神であり、唯物論では自然であった。それらはまず封建国家として人間世界に内省され、さらにその独断が正されて民主国家に転じる。ここで国家の独断を正すのも、国家の他者である個人である。それゆえに過去の改革者の多くが、国家の敵として現れている。そしてその国家の敵を媒介して支えたのは、やはり意識の他者である事物の真である。その事物の真へと超越し到達する試みは、古代から現代まで延々と続けられている。その挑戦はあるときは独断論や懐疑論、さらに帰納的経験論や先験論や直観主義、および実証主義など幅広く現れている。これに対して唯物史観が示したのは、その超越の試みを成功させる必要条件が自由であり、古代から続く超越実現の答えが共産主義だと言うことであった。非人間的で不自由なロシアの偽共産主義は自滅したが、その自滅はこの唯物史観の言説を証明する皮肉な結末になっている。自由を実現する国家が不自由であるのは、そもそも矛盾である。そして国家は自由を実現するための手段である。このことは目的が手段を浄化しないのを示す。すなわち自由は自由から産まれる。この堂々巡りは、物理因果と目的論因果を消滅させる物理的条件を要請し、それを媒介として擁立する。その擁立された媒介が不自由であれば、自由も実現しない。

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ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法
  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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