マルクスは「ヘーゲル法哲学批判序論」で、宗教を阿片と同等のものにみなした。一切を支配者に吸い取られた貧者は、自らの絶望的な生の苦痛に対して、鎮痛剤を必要としている。しかし支配者は既に、貧者から鎮痛剤も含めて全てを吸い取っている。貧者に残された唯一の鎮痛剤は、精神的幻影だけである。それこそが宗教である。とはいえ宗教の幸福は幻影であり、それは現実の幸福に置き換えられるべきである。この言葉を受ける形でレーニン主義は、宗教の暴力的廃絶を目指した。そこでは、レーニン主義における国家に対する扱い方が、宗教にも適用された。ところがマルクスの「ヘーゲル法哲学批判序論」での記述は、宗教を眠りつくように死滅させることを目指した内容である。ここでは、マルクスにおける国家に対する扱い方が、宗教にも適用されている。つまりマルクスは、レーニン主義が目指したように、宗教の破壊を目指していない。あくまで宗教を不要にする世界の実現を優先しており、せいぜい説得を通じて宗教の唯物論への改悛を期待するだけである。レーニン主義から見れば、マルクスの宗教に対するこの不徹底な態度は、自然発生性への拝跪にほかならない。その意味でマルクスが資本論の随所でルターの言葉を引用しているのは、レーニン主義の憤激の導火線に引火しそうに見える。
残念ながら唯物論は、人間の魂の救済にあまり向いていないかもしれない。常に理由を必要とする唯物論に比べると、宗教は理由を必要としないからである。そのことは、魂の救済に関して宗教に有意性を与える。その無媒介な善は、救済を受ける側だけではなく、救済を与える側にまで救済をもたらす。救いの手を差し伸べるのに、理由は不要なのである。また救済を求める魂は、もっぱら理屈にならない苦しみを抱えている。そしていかなる他者も、魂の抱えた苦しみを知り得ない。このため、苦しみに喘ぐ魂は、理屈で現われる全ての他者をその主知性において拒否する。ただし神だけは、その魂による他者の拒否の例外となり得る。だからこそ神は、神なのである。もちろん筆者を含めて唯物論者は、宗教が人間の魂を真に救済できると考えていない。少なくとも唯物論者自らは、自身の魂の救済に対して神の助けを拒否している。しかし唯物論の提示する救済策は、外科手術的に問題の除去を目指すのが関の山である。ところが魂の救済にそのような救済策は、ほとんど有効ではない。またそのような救済策を立てられる苦しみは、せいぜい日常生活の些細な悩みである。実際のところ、その程度の悩みに神の出番は無い。魂の苦悩は、基本的に過去の出来事に起因する。過去の出来事は、消すことも、取り返すこともできない記憶であり、失った愛や良心の呵責として魂を苛む。つまり魂の救済を求める人は、三途の河に溺れた人間なのである。理屈に拘泥する唯物論は、三途の河の前で首をかしげるだけで動けない。しかし理屈のいらない宗教は、三途の河にそのまま飛び込んで溺れた人間と一緒に流されてゆく。だからこそ魂の救済を求める人は、その宗教の懐の深さに帰依し、そこから逃れることができない。もし彼が宗教から逃れようとすれば、三途の河に再び溺れ、そして二度と誰も自分を救済しに来ないのを彼は知っている。溺れる者は藁をも掴む。藁を掴んだ姿を他人事として嘲笑う人は、溺れたことの無い人間である。三途の河で再び溺れるのは、魂の死を意味している。魂の死の悲惨さは、肉体の死の悲惨と比較にならない。肉体の死は一度限りだが、魂の死は毎日毎晩、一瞬一秒ごとに繰り返されるからである。恐ろしいことに、人間は一度限りの肉体の生の中で、何万回でも殺され得るわけである。
丹波哲郎が霊界の宣伝マンと自認したように、筆者は唯物論の宣伝マンである。その意味で宗教の有意性を語るのは、かなり気後れする。それでもこのことを書かざるを得ないのは、宗教に自らの領分を守り自らの役割を果すことを期待するためである。ここで言う宗教の役割とは、魂の救済である。なぜなら心の傷というのは、二度と癒すことができないからである。難破した魂に対して唯物論ができるのは、せいぜい他人行儀の慰みだけである。この問題に対して唯物論の持つ有意性は、魂の難破を事前に食い止めることに留まる。ただし面白いことに、この予防に関して言えば、それは唯物論の独壇場である。それどころか唯物論から見ると、宗教の方が魂の難破の誘致を試みているようにさえ見える。是非とも宗教には、自らの領分をわきまえて、唯物論の邪魔をしないで頂きたい。そして唯物論もまた、宗教の領分を理解する必要がある。さもなければ唯物論は、本当のタダモノ論に成り下がるためである。
なお言うまでも無いであろうが、ここで述べた宗教は、巷に転がる金目当ての詐欺集団、または共産主義に対抗するために育成されたカルト教団のように、汚れた口で神を語り、さらには神になりすまそうとする偽宗教を指すものではない。
神の福音は、唯物論者の魂をも揺さぶる。
”心貧しきものは幸いである。天国は彼らのものである。”
(2012/07/29)