唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(5.キェルケゴールとハイデガー(3))

2019-01-27 11:49:25 | ハイデガー存在と時間

14)啓示と超越

 キェルケゴールの個人意識では、自らの超越対象そのものが超越対象として現れる。すなわちその個人意識は、何かを捉えようとするが、何を捉えようとしているのか自分でも判らない。それゆえに個人意識の超越は、完全な手探りから始まる。この初めての超越を迎える個人意識に判ることは、自らの無だけである。その無は個人意識にとって何なのかは、個人意識にも判らない。したがってその無は、正体不明な不安として現れる。ハイデガーはキェルケゴールの「不安の概念」での不安分析に従い、不安を意識自らの自由や可能に対する恐れとして捉える。しかしこの不安分析は、ここでの無の自覚を理解する上で役に立たない。なぜなら個人意識が直面する無は、自らの実在を揺るがす無であり、気散じなどの頽落が役に立たない無だからである。それゆえにここでの無の自覚は、不安ではなく、絶望として現れなければいけない。すなわち絶望とは、不安とは違い、個人意識を本当に死滅させる力を持っている。それゆえにもし個人意識が気散じなどの小手先の頽落によりこの絶望から逃避しようとするなら、その個人意識は現実に死んでしまう。つまり絶望において個人意識に現れる自らの無とは、個人意識が抱えた欠落を指す。そしてその欠落が補完されなければ、個人意識は本当に死ぬのである。しかし個人意識にはその欠落の正体は見えない。個人意識は自らの死を避けるために、その欠落の正体を把握しなければいけない。個人意識に要請されているのは、欠落の正体を把握するための超越であり、すなわち欠落の正体の認識であり、その欠落の補完である。しかし個人意識は、自らに無い対象、または自らと異なる対象を認識できない。それゆえに先にも述べた通り、個人意識に対する啓示が必要となってくる。キェルケゴールの場合なら、この啓示はそのまま神の福音として現れる。個人意識は神の福音を通じて対象を認識し、その認識において自らの限界を突破する。もちろんその限界突破は個人意識の超越であり、生まれ変わりであり、すなわち脱自である。しかし唯物論において啓示は、神の福音であってはならないし、神の福音である必要も無い。それは欠落の補完の直接的実現として現れる。それは神の福音と同じく奇跡の偶然である。例えばそれは、餓死寸前の人間が口を開けたところに、偶然に食べ物がその口の中に飛び込んでくるような奇跡である。そしてそれは、やはり神の福音と同じく偶然を装った必然である。例えばそれは、餓死寸前の人間が口を開けたところに、必ず食べ物がその口の中に飛び込むように仕組まれた必然である。


15)超越と認識

 啓示は、個人意識における欠落補完事象として現れる。個人意識にとって見れば、それを行うのは個人意識に超越するものである。それゆえに啓示は、キェルケゴールやヤスパースに倣う形の宗教的表現として現れる。唯物論者としてこの宗教的表現を避けたいところであるが、啓示に代替する良い表現を筆者が思いつかない。おそらく愛とするのが妥当なのだが、それも表現として多義的で抽象に過ぎる。また愛と言い換えたところで、啓示より実践的な表現になるわけでもない。そこでさしあたり以下でも意識外的な欠落補完事象について啓示と言う言葉を残す。いささか宗教じみていても、とりあえず啓示の方がヤスパースにおける神の「暗号」よりはましであろう。意識の超越限界内に留まる個人意識にとって、自らの欠落の補完のためのこの啓示は不可欠である。したがって啓示を受ける機会を得なかった個人意識は、ことごとく死ぬしかない。当然ながら自らの生を存続する全ての個人意識は、啓示を受けているはずである。そしてその啓示は生の存続に不可欠なものでなければいけない。そこでそれらの連想は、次の事実に意識を導く。それは、生あるものが生の存続のために自らの欠落の補完を必要とすることである。すなわち生命は、身体の損耗と維持に対する栄養補充を必要とする。補充される栄養は生命体にとって外的であり、啓示と同じ役割をしている。その栄養は認識機能を有しない生命体、とりわけ生まれたての生命体にとって意識の超越限界の外に現れる。生命体はひたすらそれを喰らう。そしてその喰餌行為を通じて自らの欠落を補完する。欠落の補完において生命体は、自らの欠落の正体を知る。ただしここでの「知る」と呼ばれた対象把握は、意識における単なる対象認識ではない。意識の超越限界の外に現れた栄養は、喰餌行為を通じて現実に生命体としての意識に内化されるからである。このことから認識とは、この喰餌行為の抽象表現でしかないことが見えてくる。一方でこの喰餌行為は、喰餌前の意識と喰餌後の意識を分け隔てている。喰餌前の意識は喰餌行為によって廃棄されており、廃棄を通じて喰餌前の意識は喰餌後の意識へと生まれ変わる。その喰餌後の意識はさしあたりの自らの限界を突破した意識であり、喰餌前の意識を超越した実存である。ただしその実存は瞬間的なものであり、喰餌前の意識にとって実存として見えるだけの取るに足らない実存である。意識がその実存を取るに足らないと気付くのは、満腹した意識が自らの内に現れる新たな無に気付くときである。その新たな無が表現するのは、身体的栄養と異なる種類の欠落である。この意識にとって既に栄養的欠落は自らの欠落に該当しない。場合によってこの意識は、新たな欠落の補完のために敢えて栄養の欠落を自ら選択する。これに応じた意識の選択は、太った豚ではなく痩せたソクラテスへと向かうこととなる。


16)ハイデガー実存論の頓挫

 上述で見たようにキェルケゴールにおいて超越と言う言葉は、認識と自己限界突破の二重性を表現すべきである。ところがそれに対してハイデガーは、超越を先駆的決意に見出す。それは現存在の覚悟において超越を実現するものである。このために真理は超越先の到達点ではなく、超越自体が真理に扱われることになった。当然ながら脱自が表す超越も覚悟であり、その現す真理も覚悟が決めることになる。結果的にハイデガーにおける真理への超越は、あからさまな観念論になっている。覚悟は自己否定的に見えるが、その内実は絶対的自己肯定である。ヘーゲルであればこの覚悟の内に、ストア主義や懐疑主義と同じ独断を見出すであろう。さしあたりこの独断の真性を支えるのが覚悟であるなら、それはドイツ観念論における理性的判断ではない。ヘーゲルが用意した方法としての自己否定に対し、覚悟が含む独断の自己絶対化は刃向かっている。また覚悟は、キェルケゴールやヤスパースが想定する神の啓示や暗号とも異なる。啓示は個人意識の覚悟なしに到来するからである。少なくとも絶望は、逃げ回る個人意識の背後につきまとい、そして覚悟と無関係な必然をもって個人意識を死に至らしめ、最終的に覚醒をもたらす。これらの比較でハイデガーの覚悟を見ると、それは美的関心において自己自身から離れることのできない個人意識の我儘にすぎない。すなわち脱自が表す超越とは我儘であり、その現す真理も我儘が決めている。これらの欠陥の全ては、ハイデガーにおける弁証法の停止がもたらしたものである。そのゆえにその個人意識の現象学は、現象学的道具主義に始まって現象学的道具主義に終わり、自らの意識限界の外に出ることもなく、超越を知らない超越論に終わっている。
(2019/01/27) 前の記事⇒(キェルケゴールとハイデガー(2))


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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