唯物論者

唯物論の再構築

唯物論3b(機械論と目的論)

2014-04-26 08:47:46 | 唯物論

 投げ飛ばされた物体は自らの自由において自ら飛翔している錯覚を持つ、とスピノザは考えた。もちろんスピノザは、この錯覚を物体だけに限定した話にしていない。生物そして人間における自由の自覚についても、彼は同様のものとして考えている。すなわちスピノザに従えば、人間は自らの自由において自ら生きている錯覚を持つだけの、実は自由を持たない物体にすぎない。一方でカントやショーペンハウアーは、このスピノザの言説に憤慨し、生物は機械論的因果と異なる目的論的因果において、自らの意志で行動するとみなした。さもなければ世界には意識の自由が存在し得ないと彼らは考えたからである。当然ながら彼らは、目的論的因果を機械論的因果から派生するものではないと考えている。つまりカントらの発想では、そもそも意識の無いところに自由も存在し得ない。カントの考える自然物とは、他律だけに支配された存在を言う。しかしこの発想では逆に、物体の特殊な運動の余地も失われ、個別の物体における独自な運動も消滅してしまう。すなわち物体運動における偶然は、自然世界において存在し得ない。もし他律に従わない物体があるとすれば、それはカントにおいて物体とも呼べない奇怪な存在にほかならない。ところがスピノザにとって物体運動の偶然とは、個別の物体の自律的行動であり、個別の物体に付着した自由にほかならない。この意味では、スピノザ以上にカントの自然観の方が機械論となっている。もちろんこのスピノザの観点は、物体運動の偶然に自由の起源を見い出したエピクロスの思想に癒合したものである。またカントのごとく自然界に偶然を見い出さない見解は、素粒子運動の不確定性を前提にする現代物理学の傾向にも反している。ただしエピクロスのように、物体運動の偶然性に意識の自由を見い出す考え方は、物体と意識の差異を無視したものであり、言葉の使用上に問題がある。明らかに偶然な物体運動は、物体の自由にすぎず、意識の自由ではないからである。しかしそのことを差し置いても、意識の自由を考える上でスピノザの観点は、多くの示唆を与えてくれるものである。物体運動の偶然と人間の自由の間には、多くの類似点があり、当然ながら物体運動の偶然を成立させる条件は、同様に人間の自由を成立させることを期待させるからである。もちろん人間的自由の成立条件とは、人間的意識の成立条件と同義でなければならない。

 カントは目的論的因果を有機体だけに認めて、自然物に機械論的因果だけを見い出す。もしスピノザが、このカントの観点に対して異論を唱えるなら、自然物も目的論的因果を有していると答えるであろう。当然ながらそれは、有機体の運動が自らの種族や生体の維持を目的とするように、自然物の運動も自らの物体運動量の保存を目的にするとの説明に至るはずである。逆に言い直すなら、スピノザにおいて有機体の生命維持活動は、物体運動における慣性法則やエネルギー保存則の拡張版にすぎない。この理解にあっては、生物が自らに与えられた生命の持続を目指すように、物体も自らに与えられた運動の持続を目指す。カントは合目的的な有機体の運動との比較で、無機物の運動目的を理解できないと嘆き、そのことをもって彼はスピノザを理解不能な思想とみなした。しかしスピノザから見るなら、おそらくカントの無理解の方を納得できないであろう。そもそもスピノザ哲学は、汎神論である。すなわち彼の思想は、多系統の因果を全て受容する。当然ながらスピノザにおいても全ての事象は、少なくとも機械論的因果と目的論的因果の二面を包括しなければならない。ただしスピノザの場合、自然物と有機体の間に境界が無いので、この二系統の因果が単なる二種類の物理的因果として現れるしかない。例えば投げ飛ばされた物体は、進行方向に進む物体自身の運動ベクトル、および重力方向に進む引力ベクトルと進行方向の逆向きに進む空気抵抗の反発力ベクトルの3方向の力関係により次後の自身の位置を決められる。ここでの飛翔物体の位置決定者は、強いて言うなら引力と空気抵抗の二者が機械論的因果に例えられ、投げ飛ばされた物体の抱え持った運動エネルギーが目的論的因果に例えられる。しかしスピノザの理解において飛翔物体の位置決定者は、最初から機械論的因果と目的論的因果と言った大枠の2者に分かれていない。上記の説明で見てもそれは、大地と空気と物体自身の3者として現れている。そして汎神論の本領においてさらに言うなら、飛翔物体を構成し、また飛翔物体を取り巻く個々の自然物の全てが、飛翔物体の位置決定者として現れるべきである。とは言え、そのように原因が複雑に絡み合うスピノザの多元論を整理するなら、それは数多くの目的論的因果のせめぎあいが世界を規定するアニミズムではなく、その全く逆に機械論的因果が世界を規定するだけの機械的な唯物論へと落ち着かざるを得ない。
 スピノザをアニミズムとして理解するなら、運動の規定要因に現れたはずの機械論的因果も、大地の神や空気の神の如く、全て目的論的因果に擬人化されて現れる。逆にスピノザを機械的唯物論として見るなら、運動の規定要因に現れたはずの目的論的因果も、機械論的因果の中に吸収されてしまう。ただしそもそもスピノザの哲学に人格神を見い出そうとするのは無理である。したがってアニミズムとしてスピノザの思想を理解しようと試みても、結局それは機械的唯物論と同じものになるだけである。このために実際には物体を投げ飛ばした原因、もしくは物体の飛翔を決定づけた原因は、いずれも目的論的因果として現れることができず、単なる機械論的因果の姿をして現れるのが精一杯となる。結果的に、カントと形態が異なるにせよ、スピノザにおいても自然界に自由は存在しない。スピノザにおける自然界の自由は、物体間に転移するなんらかの自律性を示すだけであり、肝心のその自律性の起源を明らかにしないからである。つまりスピノザにおける物体の自律は、物体運動が許容する単なる誤差に留まっている。
 ただしカントが見ないようにした物体の自由は、エピクロスやスピノザの考えた形で有機体の関与しない自然界に実在する。もちろんそのことは、既に述べたように、自然の中に聖霊がいることを示すわけではない。またそのような物体の自由は、遠い過去の出来事ではなく、現瞬間の至る所で現われている。そしてそもそも自由とは、自らの過去からも自由な存在を言う。したがって物体の自由の起源を、天地創造神話の時代に遡って追求するのも無駄である。この物体の自由は、物体運動の偶然として現れるものである。しかし他律の支配下にいる物体においてなぜ偶然が可能なのかは、カントでなくても、スピノザにとっても不可解のはずである。その不可解さは、スピノザにおける物体の自律性が、単なる運動誤差だと理解されても変わるものではない。しかしスピノザにおける物体の擬人化は、この不可解さを説明する一つの方向性を示してくれる。と言うのも、その擬人化に従うなら運動主体に自由が訪れるタイミングは、物体であろうと人間であろうと実は同じではないかと言うことが見えてくるからである。
 飛翔を自己目的とする物体は、引力や空気抵抗が強い場合に、自らの飛翔を継続することはできない。このときの物体の自己目的は、引力や空気抵抗の効力をなんらかの形で無効にすることを通じて、初めて可能となる。ただし物体は、そもそも自己目的を持っていないと考えられる。したがって飛翔する物体が仮に飛翔欲求を持ったとしても、その自己目的は錯覚にすぎない。ところが飛翔していない物体が仮に飛翔欲求を持つとすれば、明らかにその自己目的は錯覚ではない。そしてそのことは、スピノザの理屈において十分に可能な事態となっている。すなわち引力や空気抵抗が全く無い状態で、物体が飛翔を始めるとすれば、それは物体における飛翔欲求の現れとしか理解できないからである。ただし物理として考えるなら、物体は原因もなしに自らの空間的位置を変えたりしない。したがって引力や空気抵抗が全く無い状態で、物体が未来永劫に同じ位置で停止するのであれば、物体における飛翔欲求は検知し得ないと断言しても良さそうである。ところが逆にその停止行動そのものを、物体の自由の発現として理解するのも可能である。その場合には、微動だにせずに永久に停止する物体の有り様が、物体における停止欲求の現れだとしか理解できない。このようなことが明らかにするのは、物体が自由であるかどうかは、物体自身の欲求の方向、または欲求の錯覚度合い、さらには欲求の有無にさえ全く関与していないと言う事実である。つまり物体に対する全ての他律が無効になることだけが、物体の自由の成立条件である。この条件が成立する場合、その次後の瞬間における物体の有り様は、動いていようと停止していようと、いずれの状態であったとしても、物体が自らの自由を発現した姿を表現する。ちなみに物体運動の不確定を前提にするなら、物体が自己原因において自らの空間的位置を変えることも可能である。むしろその前提では、物体は自己原因において自らの空間的位置を変えるべきである。すなわちこの前提では物体の自由は、錯覚ではない形で現実化せざるを得ない。もちろんそのときに現れる物体自らにとっての運動の必然性は、機械論的因果から乖離したものである。
 とは言え物体の自由は、所詮単なる偶然に終わる。もしそこに機械論的因果から乖離した運動の必然があるとすれば、おそらくそれは新種の機械論的因果にすぎない。すなわちそれは、物体が周囲の作用から解放された場合だけに発現するような特殊な物理現象である。しかしこの新種の機械論的因果は、物体自らにおいて目的論的因果である。物体はこの目的論的因果を希求するとしても、物体が周囲の作用から解放されている場合だけにその実現を許されている。すなわち周囲の作用から解放されていることが、物体の自由の成立条件である。もし物体が真に目的論的因果を希求するのであれば、物体はどのようにすれば自由の成立条件を確保できるかを考えなければならない。マルクス流に言い換えるならそれは、人間が真に自由を希求するのであれば、国家がどのようにすれば死滅するのかに答えなければならないと言うのと同じである。
(2014/04/26)


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