唯物論者

唯物論の再構築

唯物弁証法

2012-03-25 00:27:24 | 唯物論

 ある概念が存在者の概念たり得るのは、その概念を存在者の概念として現実存在が是認する限りである。もし現実存在がその概念を存在者の概念として認めないなら、その概念は存在者の概念としての資格を失う。しかし観念論においてこのように概念を概念として是認する者は、現実存在ではない。それは、プラトンにおいてイデアとして現われ、カントにおいて物自体として現われたような神的意識である。そしてヘーゲルにおいてその神的意識は、絶対理念として示された。この神的意識は、ヘーゲル以前では常住不変の存在であったが、ヘーゲルは神的意識を、進化する絶対理念に扱った。しかし絶対理念が進化するためには、その進化を規定するような別の神的存在が必要である。もちろん唯物論では、その進化の規定者を、神的意識などではなく、物質に扱う。しかし規定者を物質と是認することは、観念論の敗北にほかならない。当然ながらヘーゲルにしても、そのようなことを是認できない。そこでヘーゲルはこの論理的困難に対し、弁証法の観念論的転倒を行った。つまりヘーゲルでは、現実が理念の進化を規定するのではなく、理念が現実の進化を規定するようになった。しかしそれはヘーゲルの言葉とは裏腹に、理念の進化を停止させ、現実の方を進化させることになる。つまりヘーゲルの哲学は、哲学版の目的論的進化論なのである。意識が現実世界を規定するというのは、プラトン・アリストテレス以来続いてきた観念論の原則である。そしてヘーゲル弁証法もやはり、この観念論の王道に位置付けられた理屈なのである。しかもこのような弁証法の転倒は、絶対理念の進化を停止させただけで終わらない。それは絶対理念を、そもそも進化を拒否したものへと変える。結果的に絶対理念は、プラトンにおけるイデアと同様に、最初から完全体として現われることになる。
 ヘーゲルは絶対理念を、もともとロゴスとして、つまり学の体系として説明していた。その限りにおいて絶対理念の進化は、知的体系の単なる補填運動と理解されるものであった。したがってまだこの段階での知的体系は、社会や自然という現実存在が意識へと内化したものにすぎなかった。ところがヘーゲルは弁証法の転倒において、この理念の補填運動を理念の外化運動に変えた。社会や自然という現実存在は、知的体系がただ単に自らを現実化した姿なのである。つまり弁証法の転倒とは、現実と意識の間の規定的因果の転倒なのである。これによりヘーゲルにおいて弁証法の動因となる内在的矛盾は、現実世界の側から消失した。なぜなら現実世界の内在的矛盾が意識を産み出したのではなく、自らの内在的矛盾を解消した結果として、絶対理念が産み出したものが現実世界だからである。かくしてヘーゲルにおいて現実世界は、常にすでに矛盾を解消したものとして現われることとなった。

 矛盾が成立するためには、対立する規定要因の並存、つまり異なる実体の並存が必要である。簡単に言えば、矛盾が存在する世界とは、汎神論的世界である。しかし汎神論的世界とは、対立する異なる実体同士の力関係が因果を支配するカオス世界でもある。このカオス世界では、あるときには実体Aが結果を支配し、あるときには実体Bが結果を支配し、結果として恒常的かつ必然的な因果が消滅する。このような汎神論に比べれば、矛盾が意識においてのみ存在し現実世界に存在しないと考えるヘーゲル弁証法は、意識に対して自由を与え、現実世界に対して必然を与える。そしてそのことによりヘーゲル弁証法は、現実世界のカオス化を回避した。なるほど意識と違い、現実世界は必然に支配されており、結論を迷うことが無いように見える。この意味でヘーゲルにおける現実世界の無矛盾は、合理的な説明に見えなくもない。
 しかし実際にはヘーゲル弁証法は、汎神論的カオスの問題を悪化させただけである。内在的矛盾を抱えた絶対理念は、自らの内に異なる実体を並存させており、単一の実体になり得ないからである。言わばそのような絶対理念とは、分裂した精神の寄せ集めであり、錯乱した意識にほかならない。ヘーゲル弁証法は、現実世界のカオス化を抑止したかもしれないが、今度は絶対理念にカオスを持ち込んだだけである。それなら最初から現実世界は内在的矛盾を抱えていると認めた方が、まだ素直である。自然の中での存在者間の対立は、意識の錯乱よりもずっと一般的な事象だからである。言い換えれば、同一の意識の中に対立する意識の並存を認めるよりも、現実世界の中に対立する存在者の並存を認める方が、はるかに受け入れ易いのである。そういうわけでマルクスとエンゲルスは、逆立ちしたヘーゲル弁証法を再び転倒し、階級闘争理論を打ち立てることになる。
 ヘーゲル弁証法では、矛盾は意識においてのみ存在し、現実世界に存在しない。それとは逆に唯物論では、矛盾は現実世界においてのみ存在し、意識にはそれが反映するだけである。したがってヘーゲル弁証法で絶対理念にもちこまれた汎神論的カオスは、唯物論では現実世界に復元されることになる。ただし現実世界の中に矛盾を見出すことは、意識の中に矛盾を見出す場合と違い、現実世界を必ずしもカオス化しない。意識の中の矛盾とは、文字通りの論理矛盾にほかならないのに対し、現実世界の中の矛盾とは、個別存在者同士の対立、または個別存在者とその包括集団との対立、または包括集団同士の対立であり、そこでの力関係には現実世界の法則の成立が可能だからである。言い換えれば、現実世界における異なる実体の並存とは、そのほとんどが人間からすれば一種の仮象にすぎないのである。なぜならそれらの並存する実体はいずれも、物質という単一実体だからである。
 現実世界における矛盾、例えば水と油の分離、クモとカマキリの対決のような存在者間の対立として現われるような矛盾は、人間にとって完全な仮象である。そのような存在者間の対立は、蒸発や相互浸透、または適者生存という形で、現実世界の法則がその矛盾を現実に解消する。そのような矛盾は、人間にとってどうでも良い外部事象にすぎず、一般に矛盾と思われてもいない。物理事象や種の淘汰は、もっぱら人知の関与する範囲外にあるためである。言うなれば人間にとって、クモが死滅しようがカマキリが死滅しようが、それはある意味どうでも良い話である。ここで唯物論にとって重要な点として押さえておくべきことは、次の点だけである。それは、そのようなどうでも良い外部事象にあっても、矛盾の解消とは、現実世界自身による自らの合理の実現過程だということである。矛盾の解消は、絶対理念という現実世界のよそ者によって引き起こされるような、目的論的な合理の実現過程ではないのである。唯物論において矛盾への反逆は、それぞれの実体の個別者が、自らの存在をかけて、最終的に特定レベルの類的普遍性の実現を目指すものとして現われる。

 現実世界の実体的分裂のほとんどは、クモとカマキリの対決のように、人間にとってもっぱら仮象として現われる。しかし現実世界の実体的分裂の全てが、完全な仮象であるわけではない。例えば資本主義における資産所有者と非所有者の対立は、人間における現実的な実体の分裂である。この実体の分裂は、現代社会における人間の尊厳に抵触しており、ひいては人間自体の存亡に関わっている。資本主義的所有関係とは、人間においてあからさまに解消を要求されている現実的な矛盾なのである。
 既に述べたように、唯物論にとって矛盾の解消とは、現実世界自身による自らの合理の実現過程であった。そして唯物論において矛盾への反逆は、それぞれの実体の個別者が、自らの存在をかけて、最終的に特定レベルの類的普遍性の実現を目指すものであった。しかし現実には、この問題における個別者による矛盾への反逆は、人間の存続を目指して直線的に進行するわけではない。むしろそれとは逆の動きさえも起こす。とくに資本主義的所有の矛盾に対するアナーキーな反逆は、もっぱら資本主義的弱者が引き起こす犯罪行為として発現する。犯罪とは、常に社会的貧困の影なのである。したがってもぐら叩きのように犯罪者を刑務所送りにしても、資本主義的所有にメスを入れない限り、犯罪の火元が消えることは無い。しかも社会的地位を確立する形で成功した犯罪者の親玉は、資本主義的所有の完全な肯定者として現われる始末である。一方で共産主義の崩壊は、このような矛盾への反逆を、直線的に人間の存続へと進行させる道を塞いでしまった。したがって現存の人類は共産主義的課題の解決を、先進国と発展途上国の間の格差是正が完了するまでの間、先延ばしにせざるを得なくなった。したがって発展途上国の貧困が解消されるまでの少なくとも今後100年の間、筆者を含めた先進国の庶民は、相変わらず犯罪と貧困に怯えながら、生存維持ラインを彷徨う人生を送ることになりそうである。

 エンゲルス晩年の「自然の弁証法」は、弁証法の論理的解明を期待させるような書名であるが、その中身は、現実世界の弁証法的運動の個別具体例をただ羅列しただけのものである。しかしその羅列こそが、弁証法についてのエンゲルスの唯物論的理解と受け取ることも出来る。唯物論は、基本的に意識を現実世界の反映に扱う哲学である。そして意識に対するこのような扱いは、意識と同様に、論理体系に対しても変わるべきではない。なぜなら論理体系とは、物理世界の上部構造にすぎないからである。つまり唯物論では、現実世界の弁証法的運動こそが弁証法なのである。むしろ現実世界の弁証法より以上のものを意識の論理体系に期待する方が問題かもしれない。
(2012/03/25)


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