「チェンジリング」2008年 製作アメリカ
監督 クリント・イーストウッド
主演 アンジェリーナ・ジョリー
「ヒアアフタ―」2010年 製作アメリカ
監督 クリント・イーストウッド
主演 マット・ディモン
「チェンジリング」は1928年に人権活動黎明期のアメリカで実際に起きた一人の女性による警察・国家権力に対する民主主義実現の戦いのドラマである。題意は「嬰児交換」だそうである。筆者はてっきり輪廻転生の物語かと思い込んで、話の進行のどこでオカルトが展開されるのかと身構えながら映画を観てしまった。この映画が背景にする時代は、世界的に国家主義や共産主義が荒れ狂う民主主義の冬の時代である。第二次大戦後に世界の民主主義の旗手となるアメリカにおいても、この時代ではサッコとバンゼッティ事件に代表されるような、政治的反体制勢力への冤罪弾圧事件が起きている。しかし映画はそのことに全く関知せず、地道に主人公と警察権力の戦いに焦点を当て続けている。映画の主人公も、イデオロギーではなく、自らの子供を守ると言う純粋な自己倫理に従い、国家権力と対決している。このようにイーストウッドが時代背景を省いた描き方を選択したのは、政治的タカ派を自認する彼自身の自己防衛の要素もありそうである。そうではないと彼は、この映画を通じてアメリカ社会の中で、単なるリベラルではなく共産主義者として誤解されたかもしれない。実際に2006年の「硫黄島からの手紙」でイーストウッドは、日本の全体主義の中で弾圧された共産主義者の家族のエピソードを同情的に取り上げている。ただし彼は、自らが唯物論者ではないのを2010年の宗教的映画「ヒアアフタ―」によりわざわざ自己証明している。唯物論を忌避するアメリカ社会において自らの信仰姿勢を強調するのは、想像以上に必要な事柄なのかもしれない。いずれにせよ映画に余計な思想を持ち込むのは、主人公を単なる政治的活動家、または宗教的狂信者に変えてしまう可能性がある。したがってこの映画が時代的背景描写を省いたのは、多くの観客を映画に共感させる上でも妥当な選択だったのかもしれない。
上述のようにこの映画のオカルトは、筆者の勘違いであった。しかしこの映画が描いた現実世界の非合理は、オカルト以上に恐ろしかった。無力な母親が行った妥協とも言えないような妥協、それもやむを得ない状況下の強制された妥協が、極限的状況において国家権力との対決を迫られるまで彼女を追い詰める。彼女を支えたのは、自らの妥協が息子の死に直結するという直観だけである。果たして一般市民は、と言うよりも筆者は、彼女のように信念を貫いて、権力による執拗な屈服要求に耐えられるであろうか? とてもではないが、自分にできる気はしない。「チェンジリング」に描かれたような非合理な現実は、20世紀においてファシズムや共産主義の形で出現した。それらの全体主義は、自らのイデオロギーに屈服しない大衆に容赦のない拷問と死を与えた。とくにロシア革命後に共産主義体制が起こした知識人や宗教家、さらにはボリシェビキ同胞を含む体制批判者に加えた拷問と虐殺は、他を圧倒するものであった。しかもその極北の世界にはどこからも希望の光が差すことは無く、濡れ衣と密告においてその地に暮らしていた人間としての肉体と精神は、完全に破壊されてしまった。その世界で人間的であることは針の穴を抜けるより困難であり、よほど地獄の生活の方がまだ人間的なのではないかとさえ思われた。それに比べれば「チェンジリング」の主人公の置かれた境遇は、まだ恵まれた境遇である。仕事を含めて生活の全てを奪われたとは言え、彼女は社会の敵として周囲から排斥されたわけではなく、その拷問も精神病院で加えられる電気ショックだけだからである。それであってもやはり映画の前半で進行する彼女の孤独な戦いは、絶望的であった。彼女は勝ち目の無い戦いを前にして、出口が見えないまま、自らの実質的な死を覚悟しなければならなかったからである。しかしこの映画は後半に入ると、精神病院の内外で宗教者を中心に彼女を支援する顔ぶれが集結し、権力の横暴を暴露してゆくという心強い展開に移る。結果的に映画は、アメリカの民主主義伝統に対する信頼を醸成する愛国映画に仕上がっている。さすがにここで描かれるアメリカ民主主義は、腐っても鯛である。その輝きは、日本を含めて他国の追随を許さない。「無防備都市」のような他国の映画では、死ぬことでしか人間は、人間に成り得なかった。それに比べるとここでの人間の条件は、全く狭き門ではない。そのことの安堵感を通じてこの映画は、最終的に現実世界の非合理が、人間の合理の前にいつかは融解するという希望を観客に伝えることに成功している。
ただしイーストウッドが訴える合理性は、唯物論的合理性ではなく、カント流の先験的道徳律の配下にある観念論的合理性である。そのことは、「ヒアアフタ―」でイーストウッドが死後世界の実在論を擁護したことに現われている。明らかに彼は、この映画を通じて人格的な神の実在に対する自らの確信を世界にアピールしている。ちなみに筆者は、この「ヒアアフタ―」も結構好きである。正直なところ冥土で母との再会ができるなら、筆者にとっても嬉しい限りである。またオカルトとはいえこの映画は、非合理に対する屈服よりも、合理に対する信頼を訴える内容になっている。これらの意味で「ヒアアフタ―」のハッピーエンドは、心を熱くさせる。しかしそこには、キェルケゴールの実存主義が持っていたのと同じような優位点、そして同じ欠陥が再現している。キェルケゴールと同様にイーストウッドも、信仰への帰依をした後に理性がどこを目指すのかについて沈黙しているからである。「ヒアアフタ―」は、登場人物たちの運命が予定調和を迎えたところで物語を終える。しかし登場人物たちのその後の人生が、例えば水業や火業の宗教的修練の日々だとしたら、または禁欲と節制の中で偶像の前に祈りを捧げるだけの日々だとしたら、またはありそうな展開で言えば、死後世界と神の実在を世間に流布するだけの日々だとしたら、そこには次のような問いが生まれなければならない。そのような信仰生活は、神が要求する人間のあり方なのか? そのような善は、単なる宗教的自慰行為ではないのか? このような疑問は、神の実在を確信した直後に、その確信自体をその反対物へと転じざるを得ない。すなわち神の実在の確信は、逆に神の実在の確信の拒否を理性に命じる。キェルケゴールは、世俗世界との対決を予期しつつ、それがどのように行なわれるべきかを答える間も無く人生を終えた。彼に比べると存命中のイーストウッドがどのような方向に進むのかは、もしかしたら予断を許さないかもしれない。しかしオカルトは、もっぱら自らの非合理において、合理に敵対せざるを得ない。それは往々にして、宗教者の権益を非難し侵犯する貧者の群れを悪魔に扱い、逆に宗教者の権益を擁護し貢献する吸血鬼たちを天使の仲間に仕立て上げる。そこでの宗教者たちは、見た目は神の僕であるが、正体は悪魔の僕にすぎない。このような実体の逆転が起きたのは真理の基準として、事実を適用せずに理念を適用したためであり、自然法を適用せずに道徳律を適用したためであり、物理を適用せずに観念を適用したためであり、すなわち唯物論を適用せずに観念論を適用したことに拠っている。その意味で「ヒアアフタ―」は、その芸術的完成度の高さが逆に宗教的毒素を生む危険を高めている。つまりこの映画は、観客の理性をオカルトの中に沈潜させ、文字通りの阿片として作用する可能性が高い作品になっている。しかもオカルトは、単なる阿片であることを超えて、事実と物理に敵対し、唯物論の排斥に進むケースが多い。だからこそ唯物論者は、オカルトを許すことができない。いかなる非合理であろうとも、それは合理に敵対するものだからである。
基本的に科学は、オカルトを排除する。もちろん実際には心理学や社会学、経済学などの社会科学を中心に、意識が論理を規定する諸派も幅広く存在している。しかしそれらの諸派は、表立ったオカルトの是認を拒否しているし、そもそも自らのオカルトを自覚することも無い。一方で芸術は、科学と違い、オカルトを容認するものである。もちろん史記・伝記、または自然主義文学を中心に、事実や現実性が物語を構成する芸術分野も無いわけではない。ただしそれらは、表立った唯物論の是認を必要としないし、そもそも自らの唯物論を自覚することもほとんど無い。4者の関係を見ると、科学におけるオカルトの拒否がオカルトを憤慨させる一方で、芸術によるオカルトの容認は唯物論を憤慨させている。科学に対するこのオカルトの憤慨は、もっぱら単なる嫉妬である。世界は、オカルトを差し置き、科学に対して信頼を置く。そのことは世界が情報の真性を、事実や現実性に求めることに拠っている。もちろんオカルトはそのことを見て、自らの非合理や虚偽性を反省する気は無い。それにもかかわらずオカルトは、自らが科学に成り代わることを夢想する。ただしそのオカルトの野望は、挫折を運命付けられている。肝心の科学に求められる資質を、オカルトは理解していないからである。一方の芸術に対する唯物論的憤慨は、もっぱら的外れな誤解と短気に基づく。このうちの的外れな誤解は、唯物論者におけるフィクションの字義に対する無理解に由来する。そして残り一つの短気は、芸術の弁証法に対する唯物論者の忍耐力の欠如に由来する。
フィクションとは、物語において存在者とその相関関係のでっち上げを行なうことである。したがって芸術は、ノンフィクションを自らに銘打たない限り、物理および事実に対応した物語を義務づけられることは無い。この観点で言うなら、芸術の本分は科学ではなく、むしろオカルトにある。しかし物理を無視した物語というのは、それなりに難しいことである。原因や動機も無しに事象を変化させたり、離れた空間に瞬時に移動したり、何度死んでも生き返ったり、場面が変わるたびに発言が違ったりと、制約なしに物語が進行するなら、物語は自らの落としどころを失ってしまうからである。そもそも“何でも可能”というのは、制約の欠如において必然性を軒並み消滅させる。それは因果を崩壊に導き、物語を死滅させる。だからこそオカルト世界でさえ、例えば聖水が吸血鬼退治に有効であるとか、銀の銃弾が狼男退治に有効であるとか、何らかの制約を導入して物語の成立を図らざるを得ない。結果的にオカルトは、芸術の本来の姿であったのにも関わらず、その出発点において最終的に芸術に拒否される運命を約束されている。したがって芸術に登場するオカルトについて唯物論者は、風紀委員のごとく一々反応する必要は無い。日本最初のフィクションと言われる「竹取物語」も、SFかオカルトのような物語である。ちなみにフィクションの枠を超えて流布されるオカルトのほとんどは、粉砕されるだけの理由を持っている。それは、全ての非合理が粉砕されるだけの理由を持っているのと何も変わらない。そのことはつまり、次のように言って良いであろう。すなわち、理屈に通らない論理を好きな人だけが、または非合理な現実を受容できる人だけが、オカルトを受容する権利をもっている、と言うことである。少なくとも筆者は、筋の通らない理屈を聞かされると、怒りで我を忘れそうになる。したがってオカルトを受容するのは、筆者には無理である。
(2013/12/23)