唯物論者

唯物論の再構築

原子論

2011-01-21 08:22:31 | 原子論

 ここでは伝統的な哲学的原子論と現状の理論物理学の科学的世界観を照らし合わせる形で、原子論一般を整理する。

 ゼノンのパラドックスとして有名なアキレウスと亀の話がある。アキレウスの前に亀が歩いており、アキレウスが亀のいた位置に到着しても、その間に亀は前に進んでいる。アキレウスがさらに次に亀のいた位置に到着しても、やはりその間に亀はさらに前に進んでいる。これをいくら繰り返してもアキレウスは亀に追いつけない、という話である。数学的には、アキレウスと亀の間の距離短縮回数を無限大にして収束させ、この問題を解決している。もちろんそんなことをしなくても、両者間の距離を関数化した一次方程式を解けば、アキレウスが亀に追いつく時間を算出できる。しかしこの話は、追いかけっこを無限に繰り返したあげくの両者の距離が、それ以上に分割できない最小単位をもつのを示している。そうでなければ、まさしくアキレウスは亀に追いつけないためである。上記は、空間の最小単位の存在証明になるが、それは同時に時間の最小単位の存在証明でもある。時間単位は、空間単位を基準にしなければ成立し得ないためである。
 エレア派が示したこのプランク的な最小単位の存在は、レウキッポスやデモクリトス、エピクロスの原子論に連繋している。彼らの原子論は、万物を分解すると最終的に原子という最小単位にたどり着く、という理屈である。分割不可能な原子は最小単位の存在証明を前提にしており、その意味でレーニンが言うような永久分割可能性は、唯物論の論外となる間抜け理論である。また現代物理学の言う原子は、古代ギリシャの唯物論が考えた原子とは違い、現代の素粒子が古代ギリシャの原子に相当する。なお注意すべきは、ここでの原子は、万物を構成する質料の最小単位だということである。

 デモクリトスらのはるか後世になって、ライプニッツの単子論が登場する。単子は、空間全体に隙間無く無数に存在するものである。逆に言えば、空間の座標点こそが単子である。単子は、原子との比較で言えば、万物を構成する形相の最小単位である。その点が、原子と単子を似て非なるものにする。原子は最小単位ながら、原子それぞれの固有の性質をもっている。ただし原子の性質には、限られたパターンだけが認められている。一方の単子も、単子それぞれの固有の性質をもっている。それどころか単子の性質には、無限のパターンが認められており、一つとして同じ性質の単子は無い。ところが実際にはその正反対に、単子は最小単位として、単子それぞれの固有の性質をもち得ない。なぜなら単子は空間的大きさを持たず、他在に影響を与えることができないからである。単子は液晶パネル上に敷き詰められた液晶と同様に、定められた空間座標を動くこともできない単なる情報放射点にすぎない。したがって単子が見せる無限の性質は、単子の間で偶然に整合した一種の幻覚なのである。このためにライプニッツは、単子それぞれの固有の性質を単子の外部から導入した。それは単子の外部に立つ神的叡智である。
 残念ながらライプニッツは、神的叡智を持ち出した段階で、自らの優れた着想を台無しにした。それにより単子論が示した世界は、別世界の映像に成り下がったのである。ライプニッツには、生命起源の論争での、別宇宙から生命が飛来したという論調と同じ運命が待つ。神的叡智の導入は、世界構造の謎を、神的叡智世界構造の謎へと舞台を変えただけにした。結果的に物世界に対する物自体世界を想定したカントや、表象世界に対する意思世界を想定したショーペンハウアーと同様に、ライプニッツは単子世界に対する神的叡智世界を想定しただけになった。

 しかし現代の素粒子論の世界観は、デモクリトスよりライプニッツに近似している。素粒子論では、空間の1点は無でなく空であり、そこにエネルギーが蓄積されればその1点は質量をもつとしているためである。ただし空間の1点にエネルギーを蓄積させたのは、神的叡智ではない。空間の1点の現在状態は、直前の隣接する空間点の過去状態を反映しただけである。
 反射とか反映とかの表現は、鏡像反射のように鏡像と被写体を同時的に見させる誤解を生む。鏡が現在写している像は、現在の被写体ではなく、直前の過去の被写体である。つまり鏡に映っているのは、神ではなく、過去の被写体である。同様に空間の1点にエネルギーを蓄積したのは、神的叡智ではなく、過去の物質である。
 ライプニッツ単子論の欠陥は、同時にデモクリトス原子論の欠落部分も明らかにする。原子それぞれの固有の性質は、固定的なものではない。ライプニッツ流に言えば、原子それぞれが神的叡智を内蔵していたのである。それらの欠陥を原子論と単子論でそれぞれカバーするなら、原子と単子は同一物になる。
 とはいえ、原子と単子の区別は残る。原子は質料であり、単子は形相のためである。つまり単子のイメージは、原子の汎化した姿になっている。原子はもちろんとして、単子も空間の位置移動ができるかもしれない。しかし単子間の位置移動は、同じ物が同じ物に位置を入れ替えるだけとなる。その限りで、単子の位置移動は無意味である。

 単子は汎用素粒子であり、真空専用元素のエーテルと異なる。しかし単子は、エーテルと同様に、光などの運動エネルギー伝播の説明に有効である。ところが逆に単子は、原子と違い、質量などの位置エネルギー伝播の説明に困難がある。単子論はもともと、このような運動エネルギー伝播と位置エネルギー伝播の差異を、全て神的叡智に委ねる形で無視していた。そのために両エネルギー伝播の差異を、単子自体の構造として考える必要も無かった。この点が、筆者にとって今後の原子論の検討課題になっている。
 なおアインシュタインは、エーテルを物質ではなく、重力場や電磁場の基体となる空間に扱うことを提唱している。その提唱と単子論の要求は、同一である。しかしその提唱が、空間を無に扱うのに対し、単子論はあくまでも、空間を無に扱うのを拒否するものである。
(2011/01/21)

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