唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(C章Ab.観察的心理学、Ac.人相術/頭蓋骨論)

2016-07-18 11:18:33 | ヘーゲル精神現象学

 C章A節で理性についての記述を観察理性から始めたヘーゲルは、法則を数量的経験則で語ることしかできない観察理性について、さらに観察的心理学と人相術/頭蓋骨論においてその具体的な形態を示す。ここでは精神現象学のC章A節のa項で説明した観察理性についての補足記述であり、かつ実践理性への橋頭保でもあるb項とc項を概観する。

[C章Ab全体の概要]

 自己意識の観察において理性は、有機体における自律する自由を見い出す。そこで観察が見出した純粋思惟が、ストア式独我論や不可知論であった。この純粋思惟は、自己自身の法則だけを真理とみなし、他在の法則を虚偽に扱う。しかしこの独断の内容は、自己自身と自己が分裂する自己意識なので、その静止的な各種法則の不整合を避けることをできない。それだからこそ観察における法則は、数量的経験則に落ち着かざるを得ない。自らの否定性を自覚していない観察にとって、実践はまだ自らと別の存在なのである。これと同じ理由で観察的心理学は、即自存在する環境世界と対自存在する個人の間の相関説明を断念する。しかし両者は分離しているわけではなく、目的と現実の必然的相関において有機的に統一している。


[C章Ac全体の概要]

 対自存在する意識としての個人は、即自存在する身体に規定される。一方でこの身体は、意識の対他存在でもある。ただし言葉や労働などの行為結果に個性表現の偶然があるように、身体の個性表現も偶然に留まる。しかも行為自体での個性が個人に即しているのに対し、身体での個性は分解された対他存在になっている。ところがその一方で個性は、やはり身体においてまず外化し、その後に現実世界において外在的現実を持つし、ときには自己に向けた外在的現実を持つ。ただし個性自身は、それらの外在的現実に信を置かず、意識と行為に自らの居場所を求める。このような個性自身の判断と逆に、人相術は身体外形と個性の間に法則を見い出そうとする。ただし人相術は、思い込まれた外面から思い込まれた内面を見い出すための思い込みの法則を見い出すだけである。しかし個性が原因となり身体へと結果するためには、個性も身体器官としての身体を持つ必要がある。それも身体の外を対象にした手足のような身体器官ではなく、自らの身体を対象にした臓器のような身体器官である。個性は道具ではなく、意識の形式だからである。ただしそのような身体器官は、身体の外に向かう対他存在ではない。そこでそのような臓器を探そうとするなら、個性を捉えるための観察対象として頭部だけが残る。とくに頭蓋骨は、意識から遊離した受動的に過ぎないだけの物である。このことは頭蓋骨に、隣接する脳髄に含まれた個性の表現可能性を与える。しかし実際には個性の自由と頭蓋骨の評価方法の不在が、頭蓋骨論に人相論と同様の困難をもたらす。ところが自己意識は、このような観察理性の恣意的な仮説を理由にして、内面が外面に現れるとする理性の論理を拒否することもできない。なぜならそのような後退は、弁証法の悪循環に帰結するからである。もともと感覚の対象は、知覚の段階で消失している。その代わりに自己意識は、自己自身を自己の客体として、すなわち物として観察するしかない。そのようなことで実は人相論や頭蓋骨論にも観察理性の優位点が含まれてもいる。意識と物の同一とは、対象の真性の確立であり、対象の形式性の確立であり、カテゴリーの確立だからである。このような真性の確立は、自己否定が自己意識を単純に理性として現わしたのと違い、自己意識を理性たらしめる。このときにカテゴリーには、主語を対立する述語に結合する無限判断(肯定型無限判断)が現れる。観察における意識は、自己自身を対象の直接態に結合しようと試みた。しかし実際には意識は、自己否定を通じて自己自身を対立する対象と結合する。このような理性は、物を対象にした観察では既になく、自己意識を目的にしてその実現を目指す実践へと転化している。ただしこの無限判断は、表象の連繋ではなく、概念の連繋を必要とする。


1)観察と実践

 非有機体における個別者は、一般者として自己に帰らない。そもそも非有機体において自己が、直接に一般者と個別者の関係に関与することは無い。一方で有機体における個別者は、一般者として自己に帰る。つまり有機体は、自己が自己自身を決める自由な概念である。しかし観察がこの自由な概念に気付くのは、自己意識の観察においてである。そして観察が最初に見出す自由な概念は、思惟の法則である。もちろんその始まりの純粋思惟は、ストア主義や懐疑主義として現れたものである。純粋思惟では、実在する真理は自己自身とその法則だけである。反対にそこでの他在とその法則は、実在性を持たない虚偽として現れる。この純粋思惟の独断は、自らの内で自己自身と自己が分裂する自己意識を内容にする。そしてそのことは、純粋思惟の内容であるだけではなく、内容の形式にもなっている。しかし観察はその内容を静止的対象として捉えるので、内容において現れる各種法則の不整合を避けることをできない。そこで観察はその不整合を数量で表現し、その経験則をもって法則に代えた。なぜなら観察は対象の静止を知の本性とみなし、否定を知の法則として説明するからである。ところがもともと思惟は、否定を自らの内に含む自立した存在であり、すなわち実践する意識である。したがって本来なら観察も、自ずと実践へと導かれる。しかし観察は自己意識が内に含む否定を自覚していないので、観察には実践が自らと別の存在のように見えてしまう。


2)観察的心理学

 精神は他者に応じて異なる行動を選択する。その行動パターンは、自分が他者に適合する行動と、その反対に他者を自分に適合させる行動を二極にして現れる。ここでの自分は個別性としての自己自身であり、他者は一般的存在としての自己である。そして意識は、各種法則を、不整合な形かもしれないせよ、自己意識に統一する。もちろんこのことは、意識の行動パターンの選択としても現れる。そしてこの統合についての自由な意識の形式こそが、個性である。ところが観察は、そのような自由な意識を一般性の形式に組み込もうとする。しかしそれは矛盾した試みである。なるほどこのような心理の個別性を形成したのは、有機体自身と有機体を取り巻く非有機的自然の二つがそれぞれ持つ個性である。そして個性は一般を含んでおり、観察の対象となる。しかしその現実は、個別性の形式にこそふさわしい。それと言うのも、行動パターンの選択自体がそもそも個性だからである。したがって環境に規定されたように見える行動にしても、その行動は環境に対応して現れ出ただけの既存の個性にすぎない。それゆえに一般としての環境が個別意識に対して影響を持つためには、環境もまた自らを特殊な境遇として個別意識に組み込む必要がある。ただしこの場合にそのような境遇が個別意識を規定するとしても、個別意識の自由がその現実を決めるので、この二者の間に静止的二者の間で見られるような法則性は無い。即自存在する環境世界と対自存在する個人の相関を説明できない観察的心理学は、両者を別物として分離する。しかし両者は分離しているわけではなく、目的と現実の必然的相関において有機的に統一している。


3)個性と身体、行為と結果

 個別意識が特殊化した境遇に規定されたように、対自存在する意識としての個人は、即自存在する身体に規定される。ただし境遇が個別意識に対立していたのと違い、個人における身体は意識の外在的現実でもある。すなわち身体器官は、意識の働きの対他存在でもある。一方でこの身体器官を通じて外化した言葉や労働などの行為結果は、個人の外在的現実でありながら個人から自立している。それらは意図的粉飾や技術不足において、元の個人と別の意識として現れることさえある。このような個性表現の偶然性は、行為結果に限らず、個人の外在的現実の全体に該当する。身体に関しても、個性の外化でありつつも偶然に個性を表現するだけという点は、行為結果と同じである。当然ながらそのように必然的相関を持たない二者の間に、法則は成立しない。ところがそのような二者、例えば運命と手相、または運命と人相の間に、完全な分離があるわけでもない。なぜならそれらは皆、個性の外在的現実でもあるからである。ただしそれらにおいて、個性は分解された状態で対他存在している。それらとの比較で言えば、同じような対他存在でも行為結果をもたらす行為自体は、個性が分解されていないし個人に即している。したがって個性は、やはり身体においてまず外化し、その後に現実世界において外在的現実を持つわけである。また個性はそれだけではなく、ときには他者に対してではなく、自己に向けた外在的現実を持つ。しかし個性自身は、それらの外在的現実に信を置かず、意識と行為に自らの居場所を求める。


4)人相術

 人相術は身体外形から個性を捉えようとして、両者の間の法則を見い出そうとする。ただしそれは、身体外形を個性の外在的現実とみなすが、身体外形の評価方法を定めているわけではない。また人相術が考える個性は、意識の形式ではなく意図や自覚であるが、それらは内在的理念ではなく、思い込まれただけの内在的理念であり、実際には自己に対する外在的現実である。したがって人相術は、思い込まれた外面から思い込まれた内面を見い出すための思い込みの法則を見い出そうとしている。しかし実際の場面における行為は、静止した外形を否定し、さらに無際限な意図や自覚を否定することにより、外面と内面のいずれにおいても思い込みを廃棄する。したがって個性が外化したところの外在的現実も、思い込みではなく、現実的な物として現れる。また内面と外面の関係は、内面を原因とした結果が外面として現れる因果関係である。個性が原因となり身体へと結果するためには、個性も身体器官としての身体を持つ必要がある。ただし個性は道具ではなく、意識の形式である。したがって個性が持つ身体も、身体の外を対象にした手足のような身体器官ではなく、自らの身体を対象にした臓器のような身体器官である。しかしそのような身体器官は、身体の外に向かう対他存在ではない。それでも身体外形を個性を捉えるための観察対象として選ぶなら、身体器官における個性の対他存在を探す必要がある。


5)頭蓋骨論

 神経系組織を除く臓器の動きは、個人に特有のものではなく、身体の外に向かう個性の対他存在にもなっていない。しかし神経系組織の動きはそうではない。また神経系組織は頭部と脊柱に部位として分かれるが、脊柱は頭部の頭部以外に対する情報通路に過ぎない。それゆえ個性を捉えるための観察対象は、頭部だけとなる。しかし頭部自体は、個性が身体の外に向かう前の静止した現在であり、それに留まる限りで死んだ対他存在である。したがって頭部も脳髄と頭蓋骨に部位として分かれるが、自由な存在は脳髄なので、両者に規定関係があるとすれば、脳髄が頭蓋骨を規定する。ただしこの頭蓋骨と脳髄の関係は形と質の関係であり、しかもそれぞれが有機体として自立している。それゆえ両者の関係は、葡萄の形状とその味の関係と同じように外面的必然性に留まる。ところがそれにも関わらず観察は、頭蓋骨から個性を捉えようとし、両者の間の法則を見い出そうと試みる。そこで生まれたのが、頭蓋骨論である。
 観察にとって脳髄は個性の存在であり、頭蓋骨はその物理的支柱である。ただし頭蓋骨自体は、自己に帰ることもなければ他者に対することもない自立存在である。すなわち頭蓋骨は、意識から遊離した受動的に過ぎないだけの物である。このことは頭蓋骨に、隣接する脳髄に含まれた個性の表現可能性を与える。しかし実際には個性の自由と頭蓋骨の評価方法の不在が、頭蓋骨論に人相論と同様の困難をもたらす。ところが頭蓋骨論は、頭蓋骨の外形に結び付けて、脳髄が含む個性に連携しただけの運命の繋がり、さらに発現見通しの不明な個人の素質を占うまでに至る。ここでの頭蓋骨論の自己正当化は、次のようにして行われる。第一の正当化は、外面が内面の現れであると言う理性の論理に従っている。第二の正当化は、頭蓋骨と個性の間にあると頭蓋骨論自身がみなした動物における頭蓋骨法則との類比である。そして第三の正当化は、自らの示した占いの結果はまだ実現していないとの説明である。しかし頭蓋骨と個性の間に想定された動物における頭蓋骨法則は、それ自身が証明されているわけではない。また個性と頭蓋骨は相互に対して自由なので、所詮その占いは当たるも八卦であり、はずれるのも八卦である。


6)自己否定する無限判断

 自己意識は、観察理性が提示した恣意的な仮説に憤慨し、その恣意を根拠づける論理まで拒否しようとする。すなわち自己意識は、内面が外面に現れるとする理性の論理を拒否しようとする。ところがこの論理の拒否は因果の否定であり、因果の否定はストア式独我論ないし不可知論へと自己意識が後退することである。もちろんそのような意識の後退は、それ自体が弁証法の悪循環に帰結する。もともと感覚の対象は、知覚の段階で消失している。このことから意識にとって、有機的過程となった自己自身だけが対象として現れた。さらに自由な有機体としての意識では、対象とは生命維持の目的である。しかし理性における自己否定は、自己自身を意識ではないものとして放逐する。それだからこそ自己意識において自己自身は自己の客体となり、すなわち物として観察される。そのようなことでヘーゲルは、人相論や頭蓋骨論の罵る一方で、それらに観察理性の優位点を見い出してもいる。つまり実際にはヘーゲルは人相論を完全否定していないし、頭蓋骨論に至っては人相論よりずっと肯定的に評価している。観察において精神の存在が物として現れることは、理性を感覚的意識へと回帰させる。しかしここで現れる意識と物の統一、すなわち意識と対象の統一は、対象の真性の確立であり、対象の形式性の確立であり、カテゴリーの確立である。このような真性の確立は、自己否定が自己意識を単純に理性として現わしたのと違い、自己意識を理性たらしめる。このときにカテゴリーに現れる「意識は物である」とする命題は、主語を対立する述語に結合する無限判断(肯定型無限判断)である。観察における意識は、自己自身を対象の直接態に結合しようと試みた。しかし実際には意識は、自己否定を通じて自己自身を対立する対象と結合する。このような理性は、物を対象にした観察では既になく、自己意識を目的にしてその実現を目指す実践へと転化している。ただし観察が示す無限判断における対立する主語と述語の結合は、それが頭蓋骨論に見られたような表象の連繋に留まるのであれば、概念の連繋として必然的なものとならない。

(2016/07/18)続く⇒(精神現象学C-B) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学C-Aa)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項    ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項   ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項   ・・・ 良心
  E章 A/B節   ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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