唯物論者

唯物論の再構築

価値と価値実体

2010-12-31 11:19:04 | 資本論の見直し

資本論1巻17p559「より多い労働とより少ない労働との交換を、一方は対象化された労働で他方は生きている労働だという形態の相違から引き出すことは、なんの役にもたたない。このやり方は、商品の価値は、その商品に現実に対象化されている労働の量によってではなく、その生産に必要な労働の量によって規定されるのだから、ますます馬鹿げたものになる。ある商品が6時間労働時間を表しているとしよう。それを3時間で生産することができる発明がなされるならば、すでに生産されている商品の価値も半分だけ下がる。今ではその商品は、以前のように6時間ではなく、3時間の必要な社会的労働を表している。つまり、その商品の価値量を規定するものは、その商品の生産に必要な労働の量であって、労働の対象的形態ではないのである。」


 上記のマルクスの記述は商品価値を、商品に対象化された具体的な労働力量ではなく、商品の再生産に要する抽象的な労働力量に扱っている。しかし一方で商品価値の実体は、商品に対象化された具体的な労働力量と理解され、
2010/12/28時点のウィキペディアでの労働力価値論でもマルクスを対象化労働力量論者に仕立て上げている。ひとまずマルクスの見解がどうなのかはさておき、唯物論者は労働価値論での商品の価値と価値実体のそれぞれの定義を行い、両者の関係を整理しておく必要がある。そうでないと、観念論者が労働価値論を都合よくねじまげて流布し、唯物論者がその訂正をするいたちごっこがいつまでも続くからである。とくに商品価値を対象化された労働力量に扱うのは、労働価値論の攻撃材料として非常に有効なものである。このために商品価値を対象化された労働力量に仕立て上げる見解は、観念論者にとって一種の信仰ですらある。


 投下労働価値説において、剰余労働を含まない商品の場合、その価値は再生産に必要な労働力量であるが、その価値実体は対象化された労働力量である。価値が剰余労働を含まず、なおかつ価値と価値実体が乖離する場合、価値と価値実体の両者の関係は、未来と過去の関係になぞらえることができる。未来の出来事はまだ到来していない形で現在にある一方で、過去の出来事はすでに消失した形で現在にある。両者は実在しない二者として、密接に現在で結合している。ハイデガーやサルトルの現象学を知る人には、なじみの時間的構図がここにある。この構図をさらに、再生産用労働力量と対象化労働力量の価格関係としてなぞらえると、再生産用労働力量は商品市場で承認された現在以後の生産コストとなり、対象化労働力量は過去の生産コストとなる。冒頭の引用に即せば、発明以前の生産コストは6であり、発明以後の生産コストは3であり、今では商品価格も6ではなく3に扱われる。つまりこの商品の価値実体は6なのだが、この商品の価値は3なのである。


 消失して実在しないはずの過去が、いかにして現在と未来に影響をもたらすのか? この謎にサルトルは悩まされた。フッサールのように過去が現在を拘束しないとする考え方を、ハイデガーにならってサルトルも排除する。しかし過去が現在に反映するためのルートが閉ざされているなら、過去は現在への影響力をもたないことになる。それでは過去とは、単なる背後的実体という幻にすぎないのか?  そしてハイデガー以前に、同じ問題にマルクスも悩んだはずである。価値実体が価値として現象するためのルートが閉ざされているなら、対象化された労働力量も価格決定で役割をもたないことになる。それでは価値実体とは、単なる背後的実体という幻にすぎないのか? この答えを得る上でサルトルに比べてマルクスにとって有利なのは、形而上学上の時間理論における過去と未来の関係と違い、経済学上の価値理論における過去と未来の関係は、現実経済の価格運動が具体例を示してくれる点である。


 上記では価値を現在以降の再生産用労働力量、価値実体を過去の対象化労働力量、としてそれぞれ説明したが、実は価値も価値実体も両方とも現在にある。価値を具現する商品は、次代を担う新式の生産過程によって生産される商品であり、価値実体を具現する商品は、前世代を担った旧式の生産過程によって生産される商品である。つまり価値と価値実体の乖離は、商品市場でのみ発生するものであり、基本的に個別の商品生産者では発生しない。個別の商品生産者で価値と価値実体の乖離が発生する場合とは、コスト割れで商品を売却処分するか、逆に生産コストを上回る高値で商品が買い取られるような特殊な場合になる。 以下では価値と価値実体という不明瞭な表現をやめて、価値を未来価値、価値実体を過去価値、とそれぞれを明示的に表現することにする。


 未来価値と過去価値は、両方とも商品生産のための労働力量にすぎず、互いに無関係な別物ではない。とくに変更不可能な過去価値と異なり、未来価値は常に過去価値の影響下にある。ただし未来価値が過去価値に影響を受けるのは、経験的な価格イメージの残留という観念的理由に従っているのではない。それは、商品生産過程の同一性という物理的理由に従っている。 したがって商品生産過程の合理化や機械導入などが進むと、手始めに未来価値の低廉化が発生する。しかし市場で旧形態の生産過程の商品が支配的な間は、未来価値の商品も過去価値で売買される。この未来価値と過去価値の差額は、新形態の生産過程の商品の売り手に特別剰余価値としてもたらされる。 未来価値が未来価値のままでいられるのは、新形態の生産過程が新形態の生産過程のままでいられる間だけである。いずれの商品生産者も新形態の生産過程を採用するなら、もしくは旧形態の生産過程の商品生産者が市場から駆逐されたのなら、それはすでに新形態の生産過程では無い。そのときにはすでに未来価値も過去価値に反映しており、両価値の間に差異も無い。 上記内容が未来価値と過去価値、つまり価値と価値実体の差異と関係、および両者の運動形態である。


 実存主義の時間理論では、過去と現在と未来の相関を脱自構造から説明する。脱自構造では、過去は古い現在の抜け殻として現在にあり、未来は新しい現在の到達点として現在にある。言い直すと、過去は現在へと抜け出るが、過去は古い現在の抜け殻として現在を反映する。現在は未来へと抜け出るが、未来は新しい現在の候補として現在を反映する。 マルクスは実存主義のような時間理論を明示していないのだが、特別剰余価値の説明は、基本的に実存主義と同じ時間理論を示している。しかし不変資本価値が商品価値にもたらす影響の記述はそうではない。マルクスは不変資本に対象化された労働力量を商品価値に転移させている。実際にはマルクスは過去が現在に反映するルートを理解していないのである。このためにマルクスが採用したのは、ヘーゲル弁証法が抱えていた魔術的レトリックの流用である。 商品価値は労働力量である。また商品価値は、それ自身の生産材料の商品価値も含んでいる。しかしそのことは、投下した労働力が商品に塗り込められたり、生産材料に含まれた労働力が商品へと憑依するようなオカルト現象を必要としない。個別の生産者にとって、生産過程での機械を含む生産材料の価値は、それらを購買した時点の価値、つまり対象化された労働力量かもしれない。しかし商品市場にとって、それら生産材料の価値は、常に現時点の価値、つまり再生産用労働力量だからである。(2010/12/31)




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