唯物論者

唯物論の再構築

宗教2

2014-09-28 21:33:46 | 思想断片

 ソ連崩壊後20年以上を経過したの昨今の世界を見ると、共産主義に代わってイスラム原理主義が台頭し、かつて世界をにぎわせていた資本所有を巡る階級対立も、イスラムとイスラム以外の間の宗教対立にすっかり入れ替わった感がある。もちろんイスラム圏から外れた南米やインド周辺では共産主義がいまだ活発な動きをしているのだが、かつてのように国家支配層と熾烈な戦争状態を続けているような共産主義勢力はほとんど見当たらない。そもそもこれらの地域の共産主義勢力にしても、既に体制内化を目指して穏健化しており、ネパールに至っては与党も野党も共産党であり、共産党同士のくせに互いに激しく対立し合っている。一方で日米欧先進国の共産党は、色褪せた過去の遺物になっており、イタリア共産党のように左翼政党から保守政党に転身した成功例を除けば、ほぼ壊滅状態にあると言って良さそうである。日本共産党も、機関紙収益の赤字化により、その消滅が既に秒読み段階にあるとの噂である。ちなみに最終形を言えばイタリア共産党は、第二インターの系譜を80年遅れで後追いしただけとなっている。このような賞味期限切れ状態の共産主義と違い、現在のところ全世界の支配層の恐怖の的になっているのがイスラム原理主義である。ただしイスラム原理主義に恐怖を感じているのは、支配層だけではない。おそらく先進国の一般庶民のかなり多くが、イスラム原理主義に恐怖を感じている。それと言うのもイスラム原理主義のテロは、イスラムを弾圧した共産主義や他宗派への攻撃に留まらず、欧米の自由な政治・芸術・文化・思想に対する全面的憎悪、さらには先進国の一般庶民を巻き込む単なる無差別テロとして現れているからである。
 よく知られているようにイスラム原理主義の台頭は、共産主義の崩壊と切っても切れない関係にある。有名どころで言えば、ビン・ラーディンを英雄化したのはアフガンの対ソ連ゲリラ活動であり、その支援をしたのは共産主義打倒に燃えるアメリカ帝国主義だったと言う事実が挙げられる。ただしここで述べるべきイスラム原理主義と共産主義の間の注意すべき相関は、両者ともに貧民救済の暴力革命主義を出発点にしていることにある。ソ連崩壊の少し前に始まったイスラム原理主義を飾る最初のトピックは、イランにおけるホメイニ革命勃発である。ホメイニ革命に先立ち、アメリカは1970年代初頭のイランにおける共産主義革命を阻止し、イランの共産主義勢力を壊滅させている。すなわちイランにおけるイスラム原理主義革命とは、共産主義勢力が一掃されたイランの政治基盤の上に咲いた毛色の違う貧者の怒りの花だったわけである。アルカイーダを育成したのもアメリカなら、最初のイスラム原理主義革命を用意したもやはりアメリカだったことは、おそらくアメリカ自身にとって皮肉な巡り合わせのはずである。一方でソ連を筆頭にした既存の共産国家は、看板として共産主義をかざしながら実際には第三世界の貧民救済に無力な存在であった。しかもソ連は国外ではアフガニスタン、国内ではチェチェンに軍事進攻して第三世界の貧者に敵対しており、むしろそのことにより先進国だけでなく第三世界に対しても共産主義への失望を広報する役割を果たしていた。加えて第三世界に跋扈した極左共産ゲリラの多くが、その残虐な革命行動において逆に第三世界の貧民に共産主義への失望を自ら植え付けていた。そしてホメイニ革命の10年後、いよいよソ連崩壊において世界的に共産主義に対する失望が浸透したところで、世界における暴力革命の主体もイスラム原理主義にバトンタッチしている。このような経緯で明らかになることは、今では共産主義ではなく、イスラム原理主義こそが第三世界の貧者の希望を体現していると言う現実である。世界の貧者は、共産主義による合理的な理屈付けに騙されたと思っており、そもそも問題解決に対する合理的精神そのものを拒否しているかのようにさえ見える。

 筆者の感想を言えば、イスラム原理主義のテロは、階級意識を喪失した貧民層の無自覚な階級闘争である。すなわちそれは、理想としての共産主義の死滅により行き場を無くした第三世界の憤怒が、自ら論理的思考を完全に放棄して宗教の権威にすがり、理性的話合いを拒否した暴力として現象したものである。もともとこの種の暴力嗜好は、イスラム原理主義が登場する前までは第三世界の共産ゲリラが体現していた。例えばペルーのセンデロ・ルミノソやフィリピンの新人民軍のような貧民武装集団は、自ら行う残忍な暴力行為を共産主義の名において正当化していた。そして今では全く同じ構図でイスラム原理主義が、自ら行う残忍な暴力行為をイスラムの名において正当化している。もともと第三世界における暴力行為が革命行動たり得る条件は、地域住民の信頼の有無だけである。地域住民の信頼をかち得ずに地域支配の確立に終わるだけの暴力革命とは、単なる左翼ヤクザによる地域支配にすぎない。ただし共産ゲリラにおけるこのような道義の欠如は、第三世界における法秩序と民主主義の欠如がさしあたり正当化していた。しかし少しでもそこに法秩序と民主主義が存在するなら、暴力が持つ道義の欠如は、暴力闘争そのものを容易に非合理へと転化する。この場合に共産ゲリラの前に立ちはだかるのは、暴力闘争停止か共産主義放棄かの選択肢である。もちろんここでは、共産主義を堅持した暴力闘争継続、および共産主義を放棄した暴力闘争停止の二形態は、現状維持策として除外される。したがってさらに上記の選択肢を、次のように言い換えることができる。すなわちその選択肢は、共産主義を堅持した暴力闘争停止か、それとも共産主義を放棄した暴力闘争継続かの選択として現れると言うことである。なぜなら暴力闘争=共産主義の図式は、既にほとんどの第三世界においてさえも、法秩序と民主主義の成立を前にして崩壊していたからである。このうちの後者の選択肢、すなわち共産主義を放棄した暴力闘争継続とは、端的に言うなら合理の放棄、および非合理への自らの純化である。もちろん今ではそれが意味しているのは、共産主義の放棄、および宗教への自らの純化にほかならない。つまり暴力革命の主体が共産主義からイスラム原理主義へと移った変化の示すものは、暴力闘争自体が持つ非合理のさらなる純化なのである。ちなみにこのような非合理の純化により暴力闘争は、自らの物理的制約を不要化し、さらなる過激さを手に入れている。かつての共産主義の暴力闘争を支えていたのは、来世の信仰の実現ではなく、現世の人間生活の実現であった。しかし今のイスラム原理主義の暴力闘争を支えているのは、現世の命ではなく、天国の名誉である。イスラム原理主義において現世の全ての人の命は、自分の命も含めて、神の権威の前に塵に等しいものとなっている。もともとこの人命軽視の感覚は、共産ゲリラの暴力闘争にも見られたものであり、見方によれば共産ゲリラに限らずに第三世界全体の人権感覚として普遍的なものであった。と言うのも、実際に第三世界において人命は塵のように軽く、人間は虫けらの如く扱われていたからである。もちろんこの塵のように軽い人命感覚は、貧民自らの自覚にもなっている。すなわち貧民は、耐えがたいほどの貧困において、自らを生きるに値しない存在だと自覚せざるを得なかったのである。そのことは、例えば自爆テロの実行犯の多くが、支配者に生活の術を奪われた究極の貧者たちであったことにも現れている。そしてかつてはそのような非合理こそが、貧者に支配層への憎悪をもたらし、共産主義へと駆り立てる要因でもあった。ところが困ったことにイスラム原理主義は、この人命軽視の感覚をさらに宗教的権利においてさらに純化するのに成功している。もともとイスラム原理ゲリラに対する極刑の行使は、イスラム原理ゲリラに名誉を与える行為に過ぎない。むしろ彼らは、その極刑を受けることにおいて殉死するのを望んでさえいるからである。自分の命を塵に等しいと絶望する意識は、この塵に等しい自分の命を捨てる場所を探す。イスラム原理主義は、共産主義以上に、死にたがる貧者の期待に応える格好の思想となっている。ただし死にたがる貧者は、イスラム原理主義に自らの死すべき理由を見出すが、イスラム原理主義に正当性を見出しているわけではない。死にたがる貧者にとってそのような合理的説明は、むしろ無粋で余計なお世話にすぎない。彼らは合理的精神に対して、せっかく楽しい夢を見ているのだから、それを覚まさないでくれと哀願しており、だからこそ非合理な精神へと問答無用に撞着している。すなわち彼らは自らの理性を宗教の中に沈殿させ、その覚醒を自ら阻んでいる。端的に言えば彼らの願いとは、唯物論の忌避および観念論への撞着なのである。合理的精神は、イスラム原理テロに合理性を見出せないのだが、そのことはもともと驚くに値しない話である。端的に言えば共産主義の崩壊が意味するものは、合理的精神の歴史的敗北だからである。これまでの現代世界の対立は、少なくとも異なる合理の対決を装っていた。したがってそれらの対立は、合理において解消可能な対立であった。ところが合理的精神の敗北において、人間世界の対立は、非合理との対決へと余儀なく後退している。つまり今では人間の前に待ち構えているのは、合理の通用しない相手をどのように説得するかという、人間理性における最大の困難なのである。

 ソ連崩壊後のアラブ世界における貧困問題は、合理的な武力対立から非合理な暴力衝突に次元を移した。問題解決は話し合いの次元から殴り倒す次元へと後退し、それに合わせて論理としての共産主義も打ち捨てられている。ただし見方を変えればイスラム原理運動が目指すのも、登場当初の共産主義と同じく、貧者による暴力革命の実現である。その限りで人間社会における貧困撲滅問題が、貧者にとって難解な共産主義から、貧者にも判り易いイスラム原理主義へと掲げる看板を替えたと言う点が、この現代という時代の特徴なのだとも言い得る。当然ながらそのような理解は、いつの日かの共産主義の復権が果たされることを期待させるものである。なぜならいかなる非合理も、いつの日か終焉を迎えなければならないからである。それが一体いつ頃のことになるかは不明であるが、その限りで人類の貧困撲滅への一つの挑戦形態として、イスラム原理運動を肯定的に理解することも十分に可能なわけである。
(2014.09.28)


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