唯物論者

唯物論の再構築

マルクス vs レーニン

2012-06-16 10:39:11 | 失敗した共産主義

 「貧すれば鈍する」という言葉は、貧困が貧者に愚鈍をもたらすことの表現である。しかし現実世界を見ると、「貧すれば貪する」という言葉で、貧者に餓鬼地獄を見出す表現の方がふさわしい場合も往々としてある。唯物史観においてマルクスも、貧困が現実世界に旧世界の汚物を復活させることを指摘した。このような貧者の愚鈍と貪欲は、革命主体としての労働者を蝕み、革命そのものを堕落させる要素である。それにも関わらずマルクスは「ゴータ綱領批判」において、革命政権に対し直接民主主義の導入、すなわち政権運営の貧者への全面的依存を要請した。マルクスにおけるこのような労働者に対する全幅の信頼は、労働者への単なる同情や共感に起因したわけではない。マルクスの考えでは、貧困であることが労働者の証しであり、貧困それ自体が労働者の歴史的役割だったからである。つまりマルクスにおいて革命の必然性は、労働者の革命性だけに支えられている。マルクスは自身を革命の主体とみなしておらず、あくまでも革命の主体を労働者とみなしたのである。
 これに対してレーニンは、労働者独裁の名の元に、ロシアに前衛党による恐怖支配を実現した。レーニンの革命論は、外部注入論に始まる前衛党理論である。この外部注入論とは、簡単に言えば労働者は馬鹿であり、実際の革命主体として前衛党が労働者を牽引してやる必要があると唱えた理屈である。労働者は形式的に革命の主体とみなされているが、実質的な革命の主体は前衛党であり、さらに言うならレーニン自身が革命の主体にほかならなかった。これはレーニンの猜疑心の強い個性を体現した理屈であり、その基調には労働者に対する強い不信感がみなぎっている。このレーニンの理屈は、背景として不可知論を抱えており、その不可知論の打破を前衛党の介在により実現させようとしている。ここで言う不可知論とは、労働者は自らの置かれた非合理な現実を認識できないとする理屈を指す。
 労働者が現実を認識できないとする理屈の原型は、マルクスに遡る。それは、階級社会では支配者の理屈が社会を支配するというイデオロギー論である。このイデオロギー論は、支配者の支配を甘受するために、支配される者が支配者のイデオロギーに自ら染まってゆく奴隷根性を説明したものと受け取ることもできる。実際にレーニンは、労働者は奴隷根性に染まっていると考えており、だからこそ労働者には自らの置かれた非合理な現実を前衛党が教えてやる必要があると考えた。しかもレーニンはマルクスの思想を、労働者が預かり知らないブルジョア思想として位置付けている。このようなレーニンの革命論からすれば、マルクスの革命論は自然発生性に屈服した理屈にほかならない。結果的にレーニンの登場において共産主義は、自らが労働者に対する姿勢においてジレンマに立たされることになった。そのジレンマは、労働者ではなく前衛党が全権を握るのか、体よく言い直せば、愚民政治を捨てて哲人政治を選択するのか、それとも一党独裁を捨てて民主主義を選択するのかにおいて、共産主義を迷走させたのである。

 革命理論におけるレーニン主義的伝統は、マルクスとレーニンの間に横たわる革命論の断絶を見ない。そこでは常に、レーニンの革命論はマルクスの革命論の発展的延長であり、むしろマルクスの革命論の方が非現実的理想主義に扱われている。マルクスとレーニンの革命論の差異は、弁護士と検察官の差異として捉えるのも可である。弁護士は、被告の判断を中心に罰の妥当性を考える。したがって弁護活動での主体は、あくまでも被告であり、弁護士の側に無い。弁護士が被告を差し置いて、単独で上告を決めることはあり得ない。一方の検察官は、検察官自身の判断を中心に罰の妥当性を考える。したがって訴追活動の主体は、原告ではなく、あくまでも検察官の側にある。検察官は原告を差し置いて、単独で起訴を決めることができる。この例えで言えば、マルクスは弁護士であり、レーニンは検察官である。つまりレーニンの言う前衛党とは、検察官であり弁護士ではない。検察官としての前衛党は、階級社会の出口で労働者の革命的資質を問う閻魔大王のような役割を果している。しかし検察の威光は、主権者により権威付けられたものであり、民主主義社会では国民により権威付けされる。それでは前衛党の威光は、一体誰によって権威付けられれば良いのであろうか? 少なくともそれは、前衛党自身によって行われるべきではない。

 国民が総じて貧しかった戦後左翼の労働者観では、貧者は貧しいが故に相互に助け合い、無産者であるが故に私心無く人間の類的普遍性を目指す。このような牧歌的人間論は、マルクスとエンゲルスの著作の至る所に登場しており、共産主義革命の必然性を人倫的側面から支えるものとなっている。しかし高度経済成長期を経て国民が裕福になるにつれて、労働者イコール貧民という図式は過去のものとなった。総じて現代の労働者は、革命を必要と考えておらず、資本主義に対しても不満を感じていないようにさえ見える。当然それは、マルクスとエンゲルスの見解に立てば、革命の必然性そのものの消失である。またそのことは前衛党にとって、自らの存在意義を喪失したことを意味する。しかしレーニンの見解に立てば、労働者はまだ自らの置かれた非合理な現実を認識できないだけでしかない。前衛党は労働者を牽引してやる任務を保持しており、その存在意義も消失していない。しかし富裕化した労働者からすると、レーニン流の前衛党の理屈は奇異なものである。なぜなら労働者自身が問題が見えないと言っているのに、なぜ前衛党は問題が見えると叫んでいるのか理解できないからである。不可知論とは、見えたものの現実性を疑う理屈である。しかしレーニンの前衛党理論では、見えないことの現実性を疑う形で不可知論が復活している。
 マルクスの自由放任な革命論に比べると、レーニンの前衛党理論は、例えて言えば、現実を判っていない子供に現実を教えてあげるだけに留まらず、歩き方やしゃべり方、物事の見方や考え方、さらには生き方までを教えようとするおせっかいで傲慢な理屈に見える。子供が物心つかない従順な年頃ならともかく、そこそこ現実を判っている子供の場合、このようなおせっかいと傲慢は逆に憤慨を覚える。またそこそこ現実を判っている大人の場合、見えてもいない問題点を指摘されても、素直に納得するわけにいかない。指摘を聞いた方は、むしろ見えてもいない問題点をあら探しする前衛党の感性の方が問題に見える。見えないものを見えると言うのは、本来なら宗教家の得意技である。ここでは唯物論を語る前衛党が、宗教家と同じ真似をしている。このために前衛党の熱心さは、まるでカルト教団の宗教的情熱のごとく大人の前に現われる。しかも大人の意識が一度この懐疑状態に入ると、前衛党の熱心さに反比例して、大人の前衛党に対する興味はどんどんと小さくなっていく。レーニンの前衛党理論のジレンマは、ここでも再現されている。
 労働者にも、前衛党の語る社会の問題点は見えている。ただし労働者は、前衛党が語るものを社会の問題点と見ていない。では労働者は、社会の問題点が無いと考えているのかというと、そんなことは無い。むしろ労働者の方が、自ら見通しの立たない生活不安に直面しながら、社会の問題点を見ている。例えば膨れ上がる国の借金や、破綻した年金問題、経済成長に不可欠な子供の合理的意識の低下、頻度を増す衝動殺人への恐怖などである。これらの問題の全ては、資本主義的所有の問題に絡んでおり、資本主義的所有が問題を増幅させている。特に膨れ上がった国の借金は、基本的に自民党による資産家とアメリカへの国費のバラマキによって生まれたものである。自民党は率先して民主党による国民へのバラマキに対して非難をしているが、それは自ら行ってきた資産家へのバラマキに対する非難を封じ込めるための先制パンチであり、簡単に言えばデマゴギーにすぎない。自民党政治において公共事業投資は、体よく国民資産を資産家に引き渡す手段でしかなく、いっそのこと事業実施を省いて政府が直接に資産家に金を渡す方が、無駄な手間も省けたというものである。
 前衛党は、社会の問題点を自ら見る必要も無ければ、それらを労働者に示す必要も無い。前衛党は、労働者の見つめる問題点に立脚すべきである。なぜなら労働者の意識こそが、世界が立ち現われる現象の場だからである。言い換えれば、ヘーゲル以後の哲学が不可知論に対して行ったように、前衛党もまた、現象へと立ち返るべきである。このことは、レーニンの革命論からマルクスの革命論への回帰の指令と言って良い。レーニンの革命論は、意識が世界を規定するだけの単なる観念論にほかならない。
(2012/06/16)


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