唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 本質論 解題(2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論)

2021-04-08 15:46:05 | ヘーゲル大論理学本質論

ヘーゲル論理学とマルクス商品論の親和は、一般によく言われているし、マルクス自身も認めるところである。ところがどこがどのように親和しているのかと言うと、あまり多くの説明はされていない。理由はヘーゲル論理学の難解さにあり、そもそもマルクス自身もヘーゲル論理学との相関の詳細を語っていないことにある。以下は存在論と本質論の各第一章中盤から各第二章終端までの論理展開を、おもに本質論を念頭にして商品論として敷衍したものである。この敷衍においてマルクスによるヘーゲルの追従と読み替えの全貌が見えてくるはずである。


・限界と対立

 労働は労働生産物となることにおいて、自己を消滅させる。その存在と無の境界は、労働生産物にとっても同様である。すなわち労働生産物は、自らの生誕の前は無である。この生成と消滅の運動は、労働生産物が労働になる場面でも起きている。労働生産物は労働となることにおいて、自己を消滅させる。そして労働は自らの生誕の前は無である。それゆえに労働は創造主として自ら労働生産物に対する積極者であるが、労働生産物もまた創造主として労働に対する積極者である。またそのような相関にあるからこそ、両者は互いを必要とする。労働と労働生産物は異なる二本質であり、相互に不等な相手を排斥して対立する。両者の間には両者にとって不可侵な限界が存在する。労働はその限界の先では労働生産物であり、労働ではない。労働生産物もその限界の前では労働であり、労働生産物ではない。あるいは労働生産物はその限界の先では労働であり、労働生産物ではない。労働もその限界の前では労働生産物であり、労働ではない。


・対自存在と根拠

 労働が労働生産物に成る変化は、変化の対極に価値を擁立する。価値は観念として変化から遊離した労働であり、かつ労働生産物である。それは両者の限界から遊離して自己自身の限界を俯瞰する両者の自己である。すなわち価値は労働と労働生産物が擁立する対自存在である。労働と労働生産物は、価値を媒介にして自己を知る。価値は限界から自由な限定存在であり、実践において限界を超越する。それゆえに価値が擁立されると、労働と労働生産物が持つ積極性も価値の側に移行する。そこでの積極者は価値であり、労働と労働生産物は受動者である。またそのように価値は自己原因なので、根拠である。したがって価値は自己より前の変化の遡及を許さない。すなわち価値を規定する価値は無い。なおここで擁立される価値は、労働でもあり、労働生産物でもあり、したがって使用価値でもあり、交換価値でもあるような価値一般である。その対自的確定は、恣意に留まる。


・形式

 価値の擁立では、まず労働生産物に対して労働が廃棄され、次に労働に対して労働生産物が廃棄される。各局面で根拠づけるものは否定され、元の根拠づけに復帰する。しかし積極者としての根拠は、姿を変えながら自己同一である。それゆえに対自においてその根拠が価値として擁立される。しかし自己同一なのは積極者だけでなく、受動者も同じである。そこで価値が労働と労働生産物を根拠づける関係は、価値と別に擁立される。それは労働に対して労働生産物を根拠づける形式であり、労働生産物に対して労働を根拠づける形式である。いずれにおいても形式は、労働の使用価値であり、労働生産物の使用価値を成す。そしてその形式に従わない労働は労働ではなく、労働生産物も労働生産物ではない。使用価値は労働と労働生産物を限界づける積極者である。


・質料

 一方で形式に対して無関心な労働と労働生産物も、それなりに労働であり、労働生産物である。むしろ使用価値に満たさないことにより、労働と労働生産物は形式と区別される。そして形式は積極者である。したがってその形式との区別は、労働と労働生産物を形式づけられる受動者にする。そのような無形式な労働と労働生産物は、使用価値の質料である。無形式な労働と労働生産物は、使用価値に対して無関心であり、それゆえに受動的物体にすぎない。言い換えると形式に対するそれは、単なる原材料である。ここでの原材料としての無差別は、労働と非労働、労働生産物と非労働生産物、さらには労働と労働生産物の無差別である。したがって質料は、それらの区別を廃棄している。またそれだからこそそれらの質料は、限界を超越して連続する。すなわち形式における分断を連続させるのは、質料である。そしてこの質料の無差別が、労働と非労働、労働生産物と非労働生産物、さらには労働と労働生産物の全てを等しく単なる生産物にする。


・内容

 形式と質料の統一は、内容を擁立する。上記における形式と質料は、使用価値と原材料であった。そしてその使用価値と原材料の統一は、形式づけられた生産物を擁立する。とは言えこの形式づけられた生産物は、やはり労働および労働生産物である。したがってその形式と質料の統一は、労働および労働生産物の自己復帰である。ただしこの労働および労働生産物は、最初の労働および労働生産物ではない。それらは使用価値と原材料の統一体であり、形式と質料の統一体である。それは外化した価値一般である。それゆえにその統一体は、使用価値と異なる。統一体における自らの根拠に対する忠誠は、使用価値を統一体に外的な形式として排斥している。使用価値も形式として生産物を根拠づける一つの根拠である。しかしそれはもともとの価値一般としての根拠と対立しており、生産物から排斥されている。それは限定された根拠である。


・限定された根拠

 根拠としての価値一般は無限定である。それに対して使用価値は限定された価値である。ただしその限定は恣意的である。それゆえに使用価値は価値一般を限定し得ない。しかし使用価値は、形式として労働を限定して労働生産物を擁立し、さらに労働生産物を限定して労働を擁立する。おそらく労働者は労働と労働生産物の使用価値を、生活の必要において経験的に理解する。ところが使用価値の恣意は、この経験的な使用価値とも乖離する。例えば使用価値は、領主の命令や宗教的信条の形で労働と労働生産物を限定する。その場合に労働者に労働させ、労働生産物を規定する使用価値は、領主の命令や宗教的信条である。使用価値は労働の根拠なので、根拠のゆえに遡及できない。強いてそれを遡及すると、例えば領主の命令は、領主の趣味であり、その趣味は領主の幼年時の習慣であり、その習慣は一族の伝統であり、その伝統はまた無限遡及された何かの根拠に従う。どちらにせよそのような使用価値は、労働と労働生産物に対して外的であり、無価値でさえある。しかもその遡及は、外的な根拠の言い換えにすぎない。すなわち単なる同語反復である。この外的な使用価値に対し、労働と労働生産物の内部に領主の命令や宗教的信条を搬入する試みがされるかもしれない。しかしそのようなものは、労働と労働生産物の内に無い。


・実在的根拠

 実在する根拠づけの内容限定は、一方に根拠づける根底、他方に根拠づけられた他在として現れる。ここでの根拠づける根底は、実在的根拠である。単純に言えば、限定された根拠が形式であるなら、この実在的根拠は質料である。したがってここでの他在は、質料が実在化させた根拠づけの形式である。労働が労働生産物に転化する場面では、労働は根拠づける根底であり、労働生産物は根拠づけられた他在である。また労働生産物が労働に転化する場面では、労働生産物は根拠づける根底であり、労働は根拠づけられた他在である。いずれにおいても根拠づけられた他在は、根拠づける根底を本質として含み、それに非本質な内容を付加する。しかし根拠づけられた他在における非本質な内容は、本質に根拠づけられたものではない。この点に無関心な二者の根拠づけは、二者の偶然な結合でしかない。それは労働の偶然な結果として労働生産物を扱い、労働生産物の偶然な結果として労働を扱うだけである。それは根拠としての自然が偶然に結果を生むのと変わらない。このような実在的根拠は、根底と他在を分裂させ、本質と個物、すなわち原因と結果を分裂させる。


・完全な根拠

 実在的根拠が他在を根拠づける場面では、実在的根拠は廃棄され、他在が擁立される。擁立される他在を根拠づけるのは、実在的根拠が擁する自己の本質である。したがって擁立された他在は、実在的根拠にとって外化した自己である。一方で実在的根拠を根拠たらしめるのは、他在の自己の本質である。それが実在的根拠の内に認められないなら、実在的根拠は他在と無関係である。ただし擁立される他在にとって実在的根拠は、廃棄された自己自身である。根拠づけにおいて実在的根拠と他在は、互いに相手を自己の本質とする。しかし擁立された他在は、実在的根拠の本質と異なる非本質な内容を含む。そして実在的根拠も、他在の本質と異なる非本質な内容を含む。この双方における本質と非本質の混在が、実在的根拠の根拠づけを偶然にした。しかしその混沌は、全体において閉じている。そこでの実在的根拠は他在を根拠づけ、次に他在が実在的根拠となって別の他在を根拠づけ、その根拠づけの最後の他在が実在的根拠となって最初の実在的根拠を根拠づける。この根拠づけの円環では、根拠づけの偶然は消失する。もし根拠づけが偶然であるなら、根拠づけの円環も成立しない。したがってさしあたり実在的根拠が他在を根拠づけ、その他在が最初の実在的根拠を根拠づけるなら、その根拠づけは完全である。その完全な根拠は、実在的根拠にとって外化した自己であり、他在にとって自己自身の過去的契機である。いずれにおいてもそれは、双方の第三者である。


・相対的無制約者

 根拠の不完全は、価値の不完全である。しかし不完全でも価値は、他者を根拠づける。具体的に言えば、実在的根拠は他在を使用価値として擁立する。擁立する実在的根拠にとって他在の使用価値は、自己の本質を構成する。しかし擁立された他在にとって、その使用価値が自己の本質を成すと限らない。また擁立された他在にとって実在的根拠は廃棄されており、したがってその使用価値の限定からも自由である。そのような使用価値は、せいぜい他在の外面に謬着するだけである。またそもそも実在的根拠が、他在を使用価値として擁立できたかどうかも怪しい。このとき今度は他在が勝手に自己の本質を使用価値として僭称する。実在的根拠と他在の双方における一方通行の価値付けは、使用価値を恣意的な価値に終わらせる。そのような価値は、不完全な相対的価値に留まる。


・絶対的無制約者

 価値が完全であるためには、その根拠としての完全性を求められる。すなわち実在的根拠が他在を根拠づけ、その他在が最初の実在的根拠を根拠づける必要がある。そうでない価値は、相対的価値であるにすぎない。そのような相対的価値は、根拠づけの連続に耐えられずに消滅する。このときは他在が実在的根拠となって元の実在的根拠を他在として擁立することができず、根拠づけの円環も途切れてしまう。円環における根拠づけの連続を支える条件は、根拠づけにおける実在的根拠とそれが擁立する他在の価値的等価である。したがって労働が労働生産物を擁立し、労働生産物が元の労働を擁立する場合、労働とそれが擁立する労働生産物は、等価値でなければいけない。この価値の現実的連繋では、使用価値は単なる使命や効用の姿に留まることができない。先に見た使用価値の恣意が、使用価値を相対的価値に押しとどめるからである。それゆえに生産物の使用価値は、他者のための空虚な使命や効用ではない。その原初的な使用価値は、生産物の自己維持を始元とする。それゆえに価値は直接に労働を維持する使用価値へと回帰する。ただし単純な自己維持は、過去的契機となった始元的価値である。それは価値の単純な直接態である。それに対して労働の自己維持は、生産物を擁立して自らを擁立する全体として現れる。この自己回帰する自己維持の全体が事(仕事)である。それは完全な根拠としての絶対的価値である。それは自己復帰する労働の脱自である。


・拡散と凝集

 根拠づけにおいて根拠は、制約を前提する。そして根拠自身は、根拠づけを限定する形式である。労働が労働生産物を擁立する局面では、原材料が制約になっている。そして労働自身は、労働生産物を擁立する形式である。しかしこれに続く労働生産物が労働を擁立する局面では、労働生産物の原材料は労働であり。労働生産物自身は労働を擁立する形式となる。始まりの原材料の制約は労働生産物として現れ、再び労働が労働生産物を擁立する局面が始まる。最初の局面では労働の自己自身が廃棄されて、労働は労働生産物の自己となる。続く局面では労働生産物の自己自身が廃棄されて、労働生産物は労働の自己に復帰する。それぞれの局面は、労働の脱自、または反省の各局面である。すなわちそれは、労働の自己超出と自己復帰の各局面である。その局面の全体は、労働の自己が労働生産物へと拡散し、再び労働の自己に凝集する過程である。。


・実存

 根拠づけの全体の過程において根拠は制約に転化し、制約は根拠に転化する。それゆえに制約と根拠は排他的に統一される。制約は事における質料に過ぎず、根拠も事における形式に過ぎない。制約と根拠の単なる契機化は、事だけを現実的にする。すなわち事だけが実存である。単純に見るとこの事は、労働と労働生産物の自己を否定する。それらはいずれも事において単なる生産物である。ただし労働生産物はもともと物体である。したがって物体化させられるのは、もっぱら労働である。また労働が擁立する労働生産物は、物体ではなく奴隷労働でもあり得る。これらの労働と労働生産物の癒合は、労働の物体化を促進する。いずれにおいても労働の実存は、事の実存化において否定される。


・量と物自体

 労働の自己が労働生産物へと拡散する局面だけを捉える場合、労働の自己は全て他者の自己に転じる。労働は労働生産物の実在的根拠であるが、労働生産物の擁立において根拠としての自己を廃棄する。それゆえに労働生産物にとって労働は過去的契機に過ぎない。この廃棄が労働生産物を物体として自立させる。すなわち物体は外化した労働である。言い換えるとそれは現象した労働である。労働の質が軒並み労働生産物として現象する一方、労働自身は質を他者に吸い取られた抜け殻となる。それは質を喪失した純粋本質である。しかしそれは質的限定を持たない無限定な存在である。そしてその質的無限定において、労働の自己は純粋自我として実存する。この純粋自我は質の対極であり、すなわち量である。それは廃棄された実在的根拠としての物自体である。


・連続量と分離量

 労働の自己が労働生産物から凝集する局面では、労働は事の全体と部分の排他的統一として現れる。労働は労働生産物の自己同一な全体であり、その区別された部分は労働の特性になっている。それは外化において労働生産物の特質として現れる。したがって労働は特性により自己を限定し、それを労働生産物の特質として表現する。ただしその特質の自己同一な基体は、拡散において分裂した労働である。自己同一な全体としての労働は、最初の労働と同じものである。それは労働生産物から凝集する他の労働についても該当する。したがって現れ出る多くの労働の間に差異は無い。それゆえに労働同士は、無差別な量として連続する。一方で労働の特性は、無差別な労働の間に差異をもたらす。そしてその差異は、労働生産物の差異として現れる。したがって全体としての労働と逆に、部分としての労働は最初の労働と異なる。それは労働生産物から凝集する他の労働についても該当する。現れ出る多くの労働は差異しており、労働同士は異なる量として分離する。


・限定量と現象

 量は連続において同一であり、分離において異なる。それゆえに量の多少と無関係に恣意的限定が量に対して可能となる。もちろんこの恣意的限定の原型は、量の分離が既に用意している。その量を限定するのは、自己自身を都度反省する自己である。ただしここでの自己は、自己自身を根拠にした現象である。それは自己自身として外化して実存する自己ではない。すなわちここでの自己は限定量であり、無限定量としての自己ではない。これと同様に、無限定量としての労働を限定するのは、労働自らによる労働生産物の恣意的な消費である。この消費する労働は、労働生産物を根拠にして現象する。それは労働生産物として外化して実存する労働ではない。労働は労働生産物を媒介にして自己へと復帰することで、自らの量を限定する。例えばそれは農作物の生産と消費の間隔において労働量を限定する。その限定量に対応する労働生産物も、労働量の成果として現象した労働である。


・法則

 労働は限定の限界の先に自らを労働生産物として擁立する。しかしその脱自は再び労働生産物の消費において労働の自己に復帰する。脱自の反復は労働の外延を拡げ、それを労働の外延量と成す。しかし労働の無差別は、外延の全体を労働量と成し、逆にその含む限定量を労働の内包量にする。ただし脱自した労働にとって、いずれの限定量も自己の他者である。そして労働にとっての自己の他者は、労働生産物である。労働生産物は、外化した労働であり、すなわち現象した労働である。しかもそれは労働の根拠でもある。このことから労働と労働生産物の根拠関係は、逆転する。すなわち労働が労働生産物を根拠づけるのではなく、労働生産物が労働を根拠づけるようになる。このような労働生産物は、労働を規定する法則の即自態である。それは自由な労働の成果でありながら、逆に形式として労働を制約する。ただしその制約は、自由な労働を維持する上で不可欠なものである。また後から気づくことなのだが、そもそも最初に現れた自由な労働においても、その制約は前提になっている。すなわち労働生産物は、人為的に再現された自然に過ぎない。


・悪無限と現象世界

 実存世界が本質と非本質の単なる全体であったのに対し、現象世界はそれを根拠と現象、制約と無制約が結合する全体として現す。両世界は別物ではなく、脱自した実存世界が現象世界であり、両世界自体が根拠と現象、制約と無制約として結合している。しかし現象世界はそれ自身がまた実存世界であり、その脱自は新たな現象世界を擁立する。法則は上位法則の制約を前提し、自らを下位法則とする。しかしこの法則展開の無限進行は、物自体に対する認識深化の無限進行と同じ悪無限である。その無限進行は物自体に到達しないし、本質法則にも到達しない。限定量として現れた個々の労働と労働生産物を精緻に分析して結合法則を樹立しても、その前提には再び法則が前提した別の労働と労働生産物が現れる。それは或る労働生産物をなんらかの労働で規定し、その労働を別の労働生産物で規定する単なる悪循環である。


・無限量と超感覚的世界

 限定量の外延と内包の無限超出は、その究極に無限大や無限小を擁立する。さしあたりそれは到達不能な無限量として限定される。この悪無限の形式は、現象世界の無限超出にも成立し、到達不能な無限世界は超感覚的世界として擁立される。それは現象する物体世界の彼岸に立つ無限定な物自体のイデア世界である。現象世界で労働生産物を根拠づけるのは、無限遡及可能な労働である。一方の超感覚的世界で労働生産物を根拠づけるのは、なにがしかのイデアである。さしあたりそれは価値として表現される。価値については先に変化の対極に現れる労働かつ労働生産物として現れ、最終的に事(仕事)として示された。ここでの事(仕事)は、労働が労働生産物を擁立し、それを消費する全体である。判りやすく言うならそれは、労働し飲食して衣服を着て住居に家族と暮らす人間生活全体である。したがって価値とは、イデア的抽象された人間生活である。そしてこの超感覚的世界の人間生活のイデアが、現象世界の労働生産物を価値づける。


・限定量と無限量、現象世界と超感覚的世界の統一

 現象世界において労働生産物を根拠づけるのは労働である。その根拠づけが超感覚的世界による現象世界の根拠づけと排他的に統一されるなら、労働はそのままこの人間生活のイデアとして現れなければいけない。同じことを労働の脱自と自己復帰の全体で見直すなら、それはイデア的人間生活が労働生産物として外化し、現実の人間生活へと回帰する運動として現れる。しかしイデア的人間生活は無限定な物自体である。せいぜいそれは直観的にイメージされた理想的な人間生活の観念に過ぎない。これに対して現実の人間生活は、自然と社会に対峙する生の労働生活である。そこでの労働生産物の全体は、人間生活の全体と同一でなければいけない。しかしそれが本当に観念が物体と等しいのか、または認識内容が認識対象と等しいのかに保証は無い。それでもこの不可知論的現実に対して人間は、イデア的人間生活と労働生産物の等価を直観的に信じざるを得ない。そしてもっぱらその等価の妥当性は、自らの生活維持により経験的に知られる。もし労働生産物とイデア的人間生活が等価でなく、しかも労働生産物がイデア的人間生活に不足するなら、その人間は破滅する。つまり認識が観念と物体の一致であるなら、その真理は生の持続により知られる。


・比例量と本質的相関

 無限定な人間生活は、さしあたり恣意的に限定される。しかしその恣意的限定は、労働に対応する労働生産物に量的に制約される。これにより労働と労働生産物の量的対応は、双方の量比例の現実として始まる。それは一方で労働の外延の増加に応じ、増大する労働生産物の量として現れ、他方で労働が内包する労働の分離量に応じ、分離される労働生産物の量として現れる。もちろん実際には労働の量だけでなく、労働の質に応じても労働生産物の量は変化する。しかし無限定な労働を限定量として確定する場面では、労働を限定されたものとして扱う事はできない。すなわちここでの労働は質をもたない。それゆえに労働に対する限定量の確定は、労働と労働生産物の量的単純比例で始まる。質的不足があるとは言え、ここでの労働と労働生産物の量的相関は、観念と物体の相関を体現する。それは、先に要請されたイデア的人間生活と労働生産物の等価を現実量で展開したものである。それゆえに比例量は、観念と物体の本質的相関を現す。


・逆比例と力

 比例量が表現するのは、労働の本質と実存の単純な排他的統一である。それはイデア的人間生活と労働生産物の排他的統一として現れる。ただし両者は等価だと想定されているが、その等価は外面的であり、内面的ではない。しかもその等価は、一方が他方を価値づける一方通行である。すなわち一定量の労働に対して一定量の労働生産物が現れ、一定量の労働生産物に対して一定量の人間生活が現れるだけである。しかしこの比例相関はすぐに逆転する。すなわち一定量の労働生産物に対して一定量の労働が必要であり、一定量の人間生活に対して一定量の労働生産物が必要である。その必要は、一方通行の価値づけの終端に再び労働が現れることにより生まれる。すなわち労働の制約に人間生活が現れることで、無限定な労働が限定されることに従う。それゆえにここでの必要は、そのまま等式において力として現れる。それは以下の等式アを、等式イに変える。

ア)労働×指数=労働生産物

イ)労働=
労働生産物
指数

 最初の等式アの指数は、恣意的限定で始まった労働の他者である。しかしそれは労働を制約する他者であり、労働を根拠づける。それゆえに労働は、等式の変化において指数に逆比例するものとしてその量を限定される。ここでの最初の等式アが労働生産物量の限定式であるのに対し、変換等式イは労働量の限定式になる。


・冪比例と個物

 一方が他方を価値づけるだけの一方通行の相対的価値形態は、自己復帰の必要に従い逆方向の相対的価値形態をもたらす。すなわち一方による他方の価値づけは、人間生活による労働生産物の価値づけ、または労働生産物による労働の価値づけに逆転する。これにより現れる上記等式イが示すのは、労働生産物を媒介にした労働の質的限定である。すなわち指数の逆数は、そのまま労働の質を表現する。しかし同じことは労働生産物にも該当し、アの等式を逆転した次の等式ア’において労働生産物は労働を媒介にして質を表現する。

ア’)労働生産物=労働×指数

この相対的なだけの価値関係は、指数の質に波及する。それは次の等式ウで表現される。

ウ)指数=
労働生産物
労働

 単純な数理で見ると、等式ア’は以下の等式エのように自家撞着である。

エ)労働生産物=労働×指数=労働×(
労働生産物
労働
)=労働生産物

 しかし指数に現れる労働生産物と労働は、左辺の労働生産物と右辺の最初の労働の制約であり、それらを基礎づけるために前提されている。したがって等式エの実際の姿は以下の等式エ’である。

エ’)労働生産物=労働×(
労働生産物0
労働0

 労働生産物の価値は単に労働と指数に限定されているのでなく、仕事の前提となっている労働生産物と労働に限定されている。大雑把に言えば、それは以前の仕事または下準備の仕事が用意する労働生産物と労働の価値である。ここでの労働/労働0の値は労働生産性であり、労働生産物0は原料費と見込まれる。その詳細な分析を無視して言うと、上記の等式エ’は、次の等式エ”に変換できる。

エ”)
労働生産物
労働生産物0
労働
労働0

 この比例式エ”が表現するのは、労働生産物と労働のそれぞれの価値変化が表現する比率の一致である。それぞれの価値変化は、労働生産物と労働のそれぞれの事情に応じて決定される。したがって労働生産物は労働生産物固有の価値変化を式として持ち、労働は労働固有の価値変化を式として持つ。それらの式はそれぞれ労働生産物と労働のそれぞれの固有の質である。それゆえに労働生産物と労働は、互いに異なる個物として現れる。


・度量と現実性

 上記式エ”が表現するのは、労働と労働生産物の双方向の相対的価値形態である。したがってここでの労働と労働生産物の価値相関は、等価形態にある。ただしこれは両辺の価値変化の一般的一致を示すだけである。実際には両辺が相互に相手を規定するので、労働生産性の変化が労働生産物の価値変化を強要し、逆に労働生産物の変化が労働生産性の変化を強要する。しかも強要が不成功に終われば、等式自体が破壊される。すなわち仕事は円環して自己復帰することなく破局を迎える。この破局が意味するのは、労働自体の死滅である。ここでの等式を維持するのは、上記式ウで表現された指数である。労働一単位あたりの労働生産物が、労働と労働生産物の両方に対して常に変化を強要する力となっている。端的に言えばそれは、人間の社会生活に必要な物資の全量だからである。それゆえに不安定な等式の薄氷上にある等価は、等式を維持する不変の指数を目指す。それはまず労働一単位あたりの労働生産物を平均的に維持する生産流通機構の樹立に向かう。そしてそれが樹立するのは、指数の強制力を体現する国家である。すなわち国家とは生産と流通を管理し、労働と労働生産物の等価を維持する暴力装置である。しかし国家による労働と労働生産物の暴力的な価値調停は、それらの価値変化に対していつでも後追いである。しかもそれは対立する労働と労働生産物の間で、もっぱら労働生産物を優位にして価値を調停する。それゆえに労働は、国家と別に双方に中立な力を擁立する。それは労働と労働生産物の双方の自己廃棄の産物であり、両者の相互転化の中間に現れる労働生産物、すなわち貨幣である。それは度量として労働と労働生産物の双方の価値を表現する。労働と労働生産物の両者は、貨幣を媒介にして自らの価値を知る。貨幣は両者の内面に隠れていた指数が外化し、現実となった力である。その現す度量は、人間の社会生活に必要な労働の全量である。貨幣は労働と労働生産物の統一であり、変転する事の運動において唯一の現実性として現れる。

(2021/04/07)


ヘーゲル大論理学 本質論 解題
  1.存在論と本質論の対応
    (1)質と本質
    (2)量と現象
    (3)度量と現実性
  2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
  3.使用価値と交換価値

ヘーゲル大論理学 本質論 要約  ・・・ 本質論の論理展開全体
  1編 本質 1章   ・・・ 印象(仮象)
        2章   ・・・ 反省された限定
        3章   ・・・ 根拠
  2編 現象 1章   ・・・ 実存
        2章   ・・・ 現象
        3章   ・・・ 本質的相関
  3編 現実 1章   ・・・ 絶対者
        2章   ・・・ 現実
        3章   ・・・ 絶対的相関

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