資本主義社会において労働者に対して資本家は、生産手段の所有者として現われる。このような生産手段の所有権は、形式的には全ての人間に開放されており、労働者も生産手段の所有者になり得る。しかし生産手段の所有権は、現実には生まれついての富者だけに開放されており、労働者は生産手段の所有者になれない。つまり労働者から見た資本家は、生産手段の所有者どころか、生産手段の実質的な独占者である。そして貧困のうちに生まれた労働者は、貧困のうちに死ぬ運命から逃れられない。つまり労働者の罪は、生まれてきたことであり、生きていることは、労働者に与えられた罰となっている。しかし資本家によるこの生産手段の実質的な独占も、他の資本家に対する生産手段の独占としてまでは保証されない。したがって他の資本家は、同種の生産手段を所有し、同種の商品生産を行うことがいつでも可能である。ただしもし資本家の生産手段の所有権が、他の資本家に対する生産手段の独占として保証されるなら、その資本家は独占資本家としての利益を得られる。逆に言えば、他の資本家が同種の生産手段を所有するのを不可能にする条件、または同種の商品生産を行うのを不可能にする条件が成立するなら、その資本家は独占資本家としての利益を得られる。この独占資本家が得る特別利益とは、一般的な剰余価値を上回る特別な価値であり、すなわち特別剰余価値である。限界効用理論が労働価値論に対抗するために引き合いに出す数多くの不等価交換の例は、この特別剰余価値をもたらす独占の成り立ちを明らかにすることで説明可能である。つまり商品交換における商品相互の生産に要する労働力量の不等価は、全て特別剰余価値から説明される。それは芸術的技能のような生産者個体に粘着した独占、土地所有権のような身分制度に基づく独占、さらに石油採掘権のような国家的権力に基づく独占の全てを包括する。
特別剰余価値を得るために、他の資本に対して生産手段の独占的権利を勝ち取る方法には、新技術に対する特許、またはギルドのような技能独占、地理的特異性などの優位な生産インフラの独占、さらには市場を介さない同業者間の価格操作や癒着官僚による便宜を通じた独占、または関税障壁を含めた国家権力を通じた独占など種々多彩に存在する。この独占は、次の2系統に分類可能である。一つは、商品機能の優位に基づく技能的独占であり、もう一つは権力を背景にした暴力に基づく独占である。言い直せば特別剰余価値の基礎には、技術進歩や芸術および職人的気概が生み出す技能的独占と、生産や販路の身分制度的支配を目指す暴力的独占が存在する。商品の機能的優位に基づく独占の場合、機能的優位が生産した商品に憑依する形で、独占は商品にブランド力を与える。そしてブランド商品ではない同系列の商品には、ブランドではないことにおいて、負のブランド力を与える。しかし暴力的な商品支配に基づく独占の場合、独占は商品にブランド力を与えない。ただしこの独占は、商品に逆の負のブランド力を与えるとも限らない。なぜなら暴力的独占の場合、消費者が該当商品の機能的劣位を確認するための、比較商品が市場に存在しないからである。そのことが示すのは、暴力的独占が実質的に生産力発展の桎梏だということである。なぜなら暴力に根拠付けられた独占は、自らの商品の機能的劣位を覆い隠すために、機能的優位に立つ商品の登場を暴力的に排除するからである。
資本主義の擁護者は、技能的独占に資本主義の美点を見出す。一方で資本主義の否定者は、暴力的独占に資本主義の欠点を見出す。技能的独占の成立には、芸術表現も含めて、技術革新の機会を社会が保証し、そのような属人的才能に基づく利益独占の機会を個人に与える社会秩序が必要である。資本主義の擁護者は、それこそが資本主義だと考えている。一方で暴力的独占の成立には、芸術表現も含めて、技術革新の機会を社会が排除し、そのような属人的才能に基づく利益独占の基礎を個人から取り上げる社会秩序が必要である。資本主義の否定者は、それこそが資本主義だと考えている。筆者を含めた資本主義否定論からすれば、資本主義擁護論は、権力を媒介にした生産や販路の独占を、あたかも個人の才能のごとく扱う虚偽の主張に映る。さらには、時として現われるような、土地所有に代表された身分制度を、あたかも個人の才能としてみなす主張こそが、資本主義擁護論の本音だと資本主義否定論は考えている。さしあたり筆者は、ここで属人的才能に基づく利益独占に異論を挟む気は無い。問題は技能的独占にあるのではなく、暴力に根拠付けられた利益独占そのものだからである。とくに土地は、剰余価値一般の本質を端的に表現した独占商品だと言える。
土地は、地権者に地代をもたらす。しかしそれは労働生産物ではない。それは太古から地上に存在し続けてきた自然物である。つまり土地に対してその再生産に要する労働力総量を問うのは、最初から無意味である。土地がもたらす利益の根拠は、その使用の権利的独占だけにある。そのことが端的に示すのは、所有それ自体が所有者に利益をもたらすという、特別剰余価値を含めた剰余価値一般の本質である。個人の持つ能力がその個人に利益をもたらすのは、理の当然に見える。個人の能力を、他者は所有できないからである。しかし個人が所有を宣言した土地が、その個人に利益をもたらすのは、理の当然ではない。さらに個人が他者の所有を宣言して、他者の収穫を受け取るのは悪である。そのことの是認は、特定の人間による人間一般に対する暴力的支配の是認だからである。 個人が他者の所有を宣言するためには、個人による他者の暴力的支配が必要である。過去を通じて、原始共産社会を除く人間世界では、特定の人間による人間一般に対する暴力的支配が、所有の生来的不均等を支えてきた。刻印を押すことだけで生まれた空想上の所有権を、暴力的に強制通用させるのが、旧世界の国家の基本的役割である。そしてその中心にあったのが、暴力を背景にした土地の独占権の庇護である。昔も今も搾取の前提は、一方に生まれついての所有を宣言し、他方に生まれついての非所有を宣言する社会構造である。もちろん旧時代と違って資本主義は、明示的に貧者と富者に分離した社会構造の宣言、すなわち身分制度を破棄している。ただしそれは建前であり、実際にはいまだに越え難い所有の壁が存在する。いかなる階級社会であっても、貧者は生まれついての貧者なのである。現代の階級社会は、たまに一部の貧者を成金にし、彼の被害者意識を一転させて体制賛美を連呼させることがある。しかしそれは、旧世界で勲章を頂戴した奴隷が、封建領主に忠誠を誓うのと同じ構図である。もし忠誠に値する領主が本当に存在するなら、貧困を撲滅した王だけがそれに値する。当然のこととして、この王の中の王は、所有の生来的不均等を是認しない。 暴力的独占がもたらす特別剰余価値は、純粋な不労所得である。旧世界において土地の所有権は、支配者が暴力的に民衆を屈服させることで成立した。そしてこの構図は、現代資本主義にあっても変わっていない。したがって地代とは、地権者が国家の名のもとに、暴力的に貧民から収奪する不労所得の名称である。古典派経済学の時代からマルクスに至るまでの労働価値論は、このような不労所得に対する価値法則の適用を挑戦してきた。しかし商品の生産にあたり労働力を要しない商品に対して、労働価値論が有効なのかという基本的な疑問は、現代に至るまで無視され続けており、その間隙に割り込む形で限界効用理論が登場した。リカードは、肥沃化に必要な労働量だけで地代を説明することにより、頑強に投下労働価値説の堅持に挑んだ。一方でアダム・スミスやマルクスの絶対地代論は、土地に対するみなし労働量を通じて地代を説明している。明らかにその地代論は、主観的労働量で価値量を説明した支配労働価値説である。しかしそれは、価値法則から外れた商品の価値を、いかにして同じ価値法則で説明するかの苦闘の末の妥協である。地代を念頭にした特別剰余価値に対する労働価値論の適用は、筆者がホームページで展開した資本論の再構築で説明済み(労働力需要vs商品市場)なので、ここでは割愛する。とにかく価値法則から外れた商品の価値の説明に必要なのは、一旦その商品を価値法則から解放した後に、その商品に対する価値法則の作用範囲と作用条件を見極めることである。(2012/08/07)
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