カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

神学講座(その12) ハンス・キュンク Hans Kueng (1928- )

2015-12-07 22:21:01 | 神学
 神学講座は、今日12月7日は、F・カー著『二十世紀のカトリック神学』の第9章「ハンス・キュンク」に入りました。快晴の月曜日ということで参加者は20名を超えていましたでしょうか。お話しの場所もお聖堂から会議室に移り、アットホームな雰囲気のなかでの講義でした。
 いよいよキュンクです。前回のバルタザールが教会の婚姻神秘主義を唱えていわば「反動的な」神学者というラベルを貼られることが多いのと対照的に、キュンクは「あまりにもラディカルな」神学者と呼ばれることが多いようだ。安楽死宣言で話題になったが、おそらくまだ存命なのだと思う。スイス人である。
 キュンクの(カトリック)教会批判は舌鋒鋭く、痛快なくらいはっきりとものをいう。私もかれの『キリスト教思想の形成者たちーパウロからバルトまで』(片山訳・新教出版)を読んだことがあるが、よくここまで言うかと思う箇所がいくつもあった。当然だがバルトへの評価は高い。といって、ベネディクト16世から叱責を受け、神学の教授資格を剥奪されても、教会の外に出ることはなく、教会の中にとどまり批判的視点を貫いている。これが今でも教会の内外にキュンク支持者が多い理由かもしれない。しかし神学者としてはラッティンガー(ベネディクト16世)は学友だし、相互に相手を認め合っていたようだが、キュンクの教会批判は、結局はヴォイティワ(ヨハネ・パウロ二世)批判で頂点に達する。ラッティガーもヴァイティワも神学者としては抜群なのだろうが、キュンクはヨハネ・パウロ二世の権威主義的姿勢を徹底的に批判していく。一般的にはこの二人の教皇様を比べると、教皇としてはヨハネ・パウロ二世のほうが人気が高かったように思うが、キュンクの評価は逆のようだ。ヨハネ・パウロ二世はキュンクたちが作った第二バチカン公会議の成果を崩していった張本人だといわんばかりである。このベネディクト16世がキュンクを叱責するのだから、人の評価は難しい。著者カーによれば、キュンクとベネディクト16世は最後には和解したようだが(これもメディア向けのショウという人もいるようだ)、キュンクはかなり明るく、ねばり強い性格の人のようだ。
 キュンクは、新スコラ主義に基づく7年の神学教育の全課程を修了した希有な神学者だという。哲学4年・神学3年という神学教育(現在は6年制らしいが)を背景に持つが故に彼の主張は説得力があったのかもしれない。H神父様も神学生の時に受けた教会論の講義はほとんどキュンクの教会論だったという。当時の彼の神学の影響力はそれほど大きかったということなのだろう。今日の講義でも、言葉の端々で今でもキュンク ファンかなと思わせる話しっぷりだった。H神父様は、第二バチカン公会議の落とし子の世代の神父様なのかもしれない。
 さて、キュンクの神学は多岐にわたる。バルト義認論の検討とアポカタスタシス(万物復興と訳されることが多い、すべての者が救われるという選びの神学のひとつ)の対置、啓示論における聖書の重視、マリア論、などなどが本章で紹介されている。が、キュンク神学は結局は教皇論、特にその「不可謬性」批判が中心とみてよいだろう。この点に関してK・ラーナーとの相違点や類似点を本章は詳しく論じているが、詳細は省きたい。著者カーが指摘するポイントはいくつもあるが、問題点は訳語にもある。日本語では「不可謬」と訳されるが、Pastor Aeternus (パストール・エテルヌス、永遠の牧者)のことだ。ドイツ語で Unfehlbarkeit, 英語でInfallibility。
英語でも、faltlessness, sinlessness, errorlessness,などと間違って受け取られかねないのと同様に、日本語でも不可謬と訳すとなにか教皇は間違いを犯さない、罪を犯さない、という意味で受け取られかねない。公教要理の本などでは、「信仰に関してのみ」とかいいわけめいた説明がなされているが、キュンクは明快だ。第一バチカン公会議の教皇不可謬性の憲章は間違いだと断定している。どうしてもと言うなら、「不朽性」(Indefectibility)でよいという。
 と、いわれても小生などにはよくわからないが、教皇至上主義と公会議至上主義の対立は教会のアキレス腱だし、教皇至上主義にとっては不可謬性論はコーナーストーンだということはわかる。プロテスタントとの、東方教会との、エキュメニズムの運動が超えるべき神学的課題は大きい。また、公教要理もやっと新スコラ主義から脱したものの、これといった公教要理の定本をわれわれがまだ持てないのも、こういう神学的課題が残されているからなのだろう。
 本章の最後ではグローバリゼーションの倫理という最近のキュンクの関心が紹介されている。科学と信仰の対話、諸宗教との対話、というテーマだ。論点としては、司祭による性的虐待問題とか、ラテン語のミサに戻りたいとかいう声に代表される教会の堕落・沈滞・保守化が批判される。教会の「改革」はいまだ緒に就いたばかりだというのがキュンクの主張のようだ。キュンクから学ぶべき点はまだまだ残っているように思われた。
 最後にH神父様はこう言われた。「キュンクのいうことはよくわかる。でも、それってやっぱり、ヨーロッパの話じゃないの。」
コメント
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