2017年4月の「学び合いの会」は春爛漫の24日に開かれました。遅咲きの桜は散り終わり、素晴らしい五月晴れに恵まれました。山の緑が一年で最も美しい時期です。
今回はヨハネ福音書のなかで描かれる創世記の太祖3人(アブラハム・イサク・ヤコブ)の話です。ヨハネ福音書による三人の太祖の描き方の特徴を明らかにするというものです。創世記の太祖というとどうしてもヨゼフも付け加えて4人とするのが普通だが、ヨハネ福音書ではヨゼフは4-5などで軽く触れられるだけで、三人が中心となっているようだ。
S氏は本論に入る前に、旧約聖書論、特にモーセ五書をめぐる「文書仮説」論を紹介された。創世記を読むときには重要な議論のようなので少し整理しておこう。
旧約聖書という表現はキリスト教からみた言い方で、ユダヤ教では単に「聖書」という。これは大学入試の世界史や倫理・社会の出題問題として良く出されるので誰でも知っているごく常識的な知識だろう。では旧約聖書は何巻(何冊)あるのか。新約は何巻? 数に関して議論しだしたら切りが無いが、普通は、旧約39,新約27で、両方併せて66巻、というのが常識的な答えだろう。ここまではよい。では、旧約聖書の書物の名前をすべて言えますか。カト研の皆さんでも、新約聖書の27冊はなんとか言えても、旧約39冊の名前すべてはなかなか出てこないのではないでしょうか。わたしはとてもでてこない。
実は教会の中には、旧約・新約66巻の名前をすらすらとそらんじることできる人が結構いるのだという。特に、プロテスタント系のミッションスクールや教会学校(日曜学校)に通った人は「聖書」の時間にこれを習って暗記したという。「聖書名目づくし」と呼ばれることもあったらしいが、鉄道唱歌「汽笛一声新橋を」にあわせて覚えるのだという。プロテスタント系の賛美歌集にも載っていたようだ。念のために紹介しておこう。
(旧約聖書)
創出(そうしゅつ)レビ民(みん)申命記(しんめいき) ヨシュア士師(しし)ルツサム列王(れつおう)
歴代(れきだい)エズネヘエステル書(しょ) ヨブ詩(し)箴言(しんげん)伝道(でんどう)雅歌(がか)
イザヤエレ哀(あい)エゼダニル ホセアヨエアモオバヨナミ
ナホムハバククゼパハガイ ゼカリヤマラキの三十九(さんじゅうく)
(新約聖書)
マタイマコルカヨハネ伝(でん) 使徒(しと)ロマコリントガラテヤ書(しょ)
エペソピリコロテサロニケ テモテトピレモンヘブル書(しょ)
ヤコブペテロヨハネユダ ヨハネの黙示(もくし) 二十七(にじゅうしち)
旧新(きゅうしん)両(りょう)約(やく)あわせれば 聖書の数は六十六
ちなみに、書名を載せておこう。
旧約聖書
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記
ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記(上)(下)、列王記(上)(下)
歴代誌(上)(下)、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記
ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、雅歌
イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書
ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書
ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書(ゼファニヤ書)、ハガイ書
ゼカリヤ書、マラキ書
新約聖書
マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書
ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙(1)(2)、ガラテヤの信徒への手紙エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、
テサロニケの信徒への手紙(1)(2)テモテへの手紙(1)(2)、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙 ヤコブの手紙、ペテロの手紙(1)(2)、ヨハネの手紙(1)(2)(3)、ユダの手紙 ヨハネの黙示録
旧約の伝道書の書は現在は「コヘレトの言葉」となっているし、申命記の申命とはその意味は「重ねて命ずる」という意味らしいが、日本語としてはなじみのない言葉である。そのほか翻訳・表記の仕方は聖書によって異なるだろう。そもそも聖書の文書に書名(タイトル)があったわけだはなく、単に書き出しの文字を書名にしていただけかもしれない。そのうえ、「汽笛一声新橋を」の唱歌すら知らない人が増えた今日ではこんな覚え方は廃れてしまったのかもしれない。それにしても聖書をこのようにして教えていたかっての日本の教会の力強さに感銘を受けざるを得ない。名前を覚えたって現物を読まなければね、などと建前論は言わないことにしよう。旧約は新約と違って頭から読み通しやすいといわれるが、なかなか読み切れるものではない。聖書100週間は急いでも2年がかりの勉強となる。
さて、「文書仮説(資料仮説)論」である。旧約はいつ頃書かれたのか、誰が書いたのか、何を書いているのか、などを明らかにするのが聖書学の第一歩なのだろうが、公教要理(カトリック教理)では、モーセ五書(律法書)は捕囚からの解放後、第二神殿完成後のBC6~4世紀頃書き上げられ、その後、預言書(大・小)・歴史書・教訓書(知恵書)が書き加えられ、(文字に書かれた形での)旧約聖書として確定するのはAD90年代、つまりヨハネ福音書が書かれた頃、と教えられるらしい。
問題は、教会がモーセ五書はモーセが書いたと長らく教えてきたが、現代の聖書学は「文書仮説」のもとにこの説を修正している点だ。つまり、「J・E・D・P」説である。カト研の皆様にはなじみのある議論だが、さすが公教要理には出てこないだろう。簡単に言えば、旧約は4伝承から作られているという説である。旧約聖書はもちろん伝承や口伝などの資料に基礎を持っているのだろうが、文書の形での資料としては、 ①ヤーヴェ伝承(J) ②エロヒム伝承(E) ③申命記史家文書(D) ④祭司文書(P) があり、これらを集大成したのがモーセ五書というわけだ。JEDP論は、イスラエルの歴史、旧約聖書の成立史の知識が無いと理解しづらいので、S氏は今回は深入りされなかった。
それでは、ヨハネ福音書は創世記をどのように描いているのか。その描き方の特徴は何か。創世記はよく知られているように、大きく見て二つの部分からなる。一つは1章~11章が描く「天地創造物語」、12章~50章が「族長物語」で太祖の話である。最初の第一部は天地・人間の創造とその後の罪の物語で、現在では神話的世界の話とされる。例えば、1章と2章は同じような話が語られている。第一部では、天地の創造、人間の創造、蛇の誘惑(原罪)、カインとアベル(最初の兄弟殺し)、アダムの系図、ノアの洪水と箱舟、バベルの塔、の話が語られる。
だが創世記は第二部の方が重要である。こちらは歴史の世界を語っているからだ。アブラハムの召命に始まり、イザク・ヤコブ・ヨゼフのアブラハム一族4代にわたる家族の歴史を書いている。創世記の太祖とはこの4人、アブラハム・イザク・ヤコブ・ヨゼフを指す。阿刀田高はその著『旧約聖書を知っていますか』(1991)で、「アイヤー、ヨッ」と叫んでこの4人の名前を覚えろと言う。アはアブラハム、イはイザク、ヤはヤコブ、ヨッはヨゼフ、というわけだ。聖書に出てくるカタカナ表記の人名はどれも覚えづらいが、この4人が区別できないと創世記は読めないからだという。もっともな話で、旧約にはこのあと、モーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモン、など錚々たる英雄たちが登場してくる。「アイヤー、ヨッ」は覚えやすい。
さて、アブラハムである。アブラハムはヨハネ福音書の第8章に登場してくる。第8章は、仮庵祭(かりいおさいと読む 秋の収穫を祝うユダヤ教の3大祭りの一つ 最近はあちこちでスッカーと呼ばれる仮小屋のミニチュアを見ること多い)におけるイエスの説教とユダヤ人の論争を取り上げた第7章の続きだ。ヨハネ8-33でわたしたちはアブラハムの子孫であるといい、8-39~47では「反対者たちの父」とし、8-48~59では、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」、つまり、神の名は「わたしはある」であるとし、イエスの神性を表現している。
イサクは第3章に登場してくる。3-1~21は「イエスとニコデモ」の話で、イサクは明示的には言及されないが、伝統的にイサクの話とされているようだ。ニコデモはファリサイ派の最も偉い人(最高法院の議員)だが、イエスのシンパとして描かれる。3-15「それは、信じるものが皆、人の子によって永遠の命を得るためである」はイエスによる贖罪を語るが、この「永遠の命」という言葉はヨハネ福音書に17回も登場するという。他方、「神の国」という表現はわずか2回のみという。ヨハネ福音書が象徴的表現を好むことを良く表している。
ヨハネ3-16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」は誰が読んでもイエスの言葉としては不自然だ。自分で自分にそんなことを言うとは思えない。これは昔からヨハネ教団のケリグマ(福音の告知とか宣教と訳されることが多い)で、創世記22-1~18が下敷きになっていると説明されているようだ。
ヤコブは第4章に登場する。4-1~26「イエスとサマリアの女」の話だ。4-5「ヤコブがその子ヨセフに与えた土地」とあり、これは創世記33-19、48-22、48-22に重なるという。また、4-11は「ヤコブの井戸」のことで、現在でも30メートルを超す深い井戸として残っているらしい。4-12「あなたは、わたしたちの父ヤコブより偉いのですか」は、太祖ヤコブの偉大さを伝える。
実は1章の1-43~51「フィリポとナタナエル、弟子となる」もヤコブを示しているという。1-50「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」の「もっと偉大なこと」とは何のことなのか。続く第2章のカナの婚礼での奇跡のことか、それともヨハネ福音書全体を指すのか、と昔から議論されてきたらしい。今でも決着がついていないのであろうか。
1-51「天が開け、神の天使たちが人のこの上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」は、ヨハネ福音書のなかで最も難解な節だという。背後には創世記28-10~13の「ヤコブのはしご」の話があることはアウグスティヌス以来の定説とのことだが、一致した理解と定説がまだないということなのだろうか。絵画も多く描かれてきたようだ。ブレイクの「ヤコブの夢」(1805)、フセペ・デ・リベーラの「ヤコブの夢」(1639)など我々もどこかで見たことのある絵であろう。
S氏は最後にヨハネ福音書におけるイエスの称号についての特徴を説明された。プロローグでは、イエスは次のように呼ばれる。言(ロゴス)(1-1)、命(1-4)、ひかり(1-4)、ひとり子(1-14)、真理(1-14)、ひとり子である神(1-18)などだ。また、プロローグ以降では、神の子羊(1-29,1-36)、神の子(1-34,1-49)、メシア(1-41)、イスラエルの王(1-49)、人の子(1-51)などもイエスの称号だ。これらはヨハネ福音書に特徴的なキリスト論的称号なのだという。ヨハネ福音書の独自性を示すテーマである。
S氏によると、今日の話は神学的には特に目新しい義論はなかったので、次回は神学的にいろいろな論点を含む「山上の垂訓(説教)」の話、「真福八端」論に進みたいという。楽しみにしたい。