こういう刺激的な報告を聞くとどうしてもあれこれ思いつきを言いたくなる。少し雑感を述べてみたい。
今日のテーマは結論を先取りして言えばこうだ。神義論は結局義認論によって解決された。義認論も結局は二重予定説によって完成する。神義論の問いには予定説が答えだ。これがプロテスタント神学からの答えであろう。では、カトリック神学はこれになんと応えるのか。これが今日のテーマとなるはずであった。ところが実際には今日はルターの信仰義認論が論じられただけであった。もう少しプロテスタンティズム一般とまではいかないにしても、カルヴィニズムの神義論、義認論、予定説まで議論の範囲を広げて、「信仰のみ論」だけではなく、「聖書のみ論」まで幅広く論じてほしかった。少し思いつくままに印象をつらねてみよう。
まず、ルターの「95箇条の論題」とはどういう性格のものだったのか。ドイツ語では 95Thesen というらしい。日本語では「提題」とも訳すようだ。一種の意見書みたいなものらしい。ルターは1517年にヴィッテンベルク城内の教会の門にこの提題を貼り付けたという。この論題はラテン語で書いてあるのだから、普通の市民は誰も読めない。だが、この時期偶然印刷術が到来し、ドイツ語にすぐに訳されたようだ。やがて、ルター本人の予想を超えて、または予想に反して、一気に普及していく。宗教改革の開始である。 この95箇条論題の主題は「悔悛」で、具体的には教会の贖宥制度を批判しているという(注1)。結果的には教会の秘蹟(サクラメント)と位階制(ヒエラルヒー)を中核とするカトリックの教会制度が批判される。棟居報告にあったように、ルターによれば、救いは各人の信仰のみで、教会に依存しない。この信仰義認論が宗教改革の原理となっていく。(注2)
義認とは難しい言葉だ。カトリックでは義化という言葉を使う。英独ではJustification、Rechtfertigung、というらしい。普通に訳せば、正当化とか弁明、弁解ということにになる。日本語では訳し分ける。また、トマス主義的行為義認論はブルトマン流の信仰義認論(パウロ、ルター)に取って代われたというが(岩波キリスト教辞典)、そう簡単に自由意志論や「良き業」論を否定できるのだろうか。そもそも義認論は神義論(弁神論)Theodicy(Theodizee)とどうつながるのか。
今日の報告を聞くと、どうしてもM.ウエーバー(またはヴェーバー)の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(略して『プロ倫』、『倫理』論文とも)での神義論の議論を思い出さざるを得ない。プロ倫といえば禁欲を中心とする資本主義の精神の話ということになっているが、中心命題は「古代ユダヤ教→原始キリスト教→プロテスタンティズム」という「西洋的エートス」の発達と展開だ。同じ合理化論でも、「ヒンズー教→仏教→儒教」という発達経路との違いが強調される。ニーチェの「パリサイ人としての末人」、「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間、この無に等しい人」で終わるこの論文から、今日の報告をちょっとみつめ直してみたい。(注3)
M.ウエーバーによれば、世界の不完全性についての解決策は歴史的に三つ提示されてきたという。①二元論(ゾロアスター教など)、②輪廻思想(アニミズム、ニーチェの思想など)、があるが、決定的なのは③(二重)予定説の義認論、だという。神が複数いる宗教思想もあるし、善悪ふたつの神を考える宗教思想もある。だが、神はただ一人しかいない、しかもその神は全能である、という思想がいかに特殊で、その思想が、つまり「神観念」が、歴史的に苦難のなかでいかに作られてきたかは、旧約聖書の世界、古代ユダヤ教の世界でしか理解できないという。一神教の世界で義認論は特別の位置を占める。つまり、義認論は一神教でしか解けない問いともいえる。(苦難の)神義論はキリスト教神学の中核だ。
古代ユダヤ教は、真・善・美の対立する「神々の闘争」に終止符を打ち、「魔術からの解放」を実現し、唯一神信仰を確立する。しかしキリスト教は教会の制度化の中で「秘跡」を作り出す。サクラメントはカトリック教会は現在7つ認めている(洗礼・堅信・聖体・赦し・塗油・叙階・結婚)。ウエーバーはそのいくつかを「魔術」の復活と考えていたようだ。この新しい魔術からの解放をあらためて実現するのがプロテスタンティズムである、というのが基本的な考えのようだ。魔術とはウエーバーによれば「神の意志を操作しようとする人間の試み」のことだ。それは雨乞いの儀式からおみくじまで多岐にわたる。ウエーバーをこういう風に理解することが妥当かどうかはわからないが、わたしは折原浩ウエーバー論をそのように理解している。ウエーバーはキリスト教信仰を持っていたのかどうか。母親はまじめなプロテスタントだったようだ。ウエーバーの思想はカルヴィニズムの肯定的評価に傾いていただろうが、カルヴニズムも多様だ。ピュウリタニズムを西洋的エートスの原型と考えていたようだ。ウエーバーはクリスチャンだったかと問うこと自体あまり意味がないのかもしれないが、かれがカトリックを見る目にはバイアスがかかっていることはご本人もわかっている。といって、カトリック教会には批判的ではあれ、カトリシズムに偏見を持っていたとは言えないだろう。冷戦の時代には「ウエーバー対マルクス」という問題の立て方は一世を風靡したが、世俗化が進んだ現代では、「ウエーバー対ニーチェ」(無神論)、または「ウエーバー対シュミット」(カトリック)という問題の立て方の方が魅力的に見える。わたしには現代のウエーバー研究をフォローする力はないが、関心だけは持ち続けたいものだ。
では、神義論とはなにか。岩波哲学思想事典は、「ライプニッツの造語で、・・・狭義には世界での悪の存在に対して創造主たる神を弁護すること・・・広義には神ないし超越者の正義と人間の自由意志との関係での悪の問題を意味する」と定義している。岩波キリスト教辞典では「神の創造によるこの世界は善であるはずである・・・現実には悪の様相を呈している・こうして全能かつ善なる神への信仰と現実観察との間に苦しい葛藤が生じ、同時に両者を調和させる要請が生じた。この調停の思索が神義論である」とする。ともに一般的な説明に終始し、聖書に立ち戻って説明していないところが残念である。項目執筆者はともに専門家だから執筆者の問題と言うより編集方針の問題というべきだろう。ウエーバリアンからみれば神義論を「資本主義の精神」と切り離して論じるのは論外だろうが、これは「羽生/折原論争」などにかかわるのでわたしには手が出ない。(注2)
神義論はどこでも第二イザヤ書から始まる。イザヤは前765年頃生まれたという。イザヤ書は第一・第二・第三イザヤ書からなるらしい。神義論は第二イザヤ書に始まる。、第二イザヤ書はイザヤ書のなかの40章~50章のことで、フランシスコ会訳聖書では「第二部第二イザヤ (40-55章)(一)イスラエルの贖いについての主の計画(40-48章) (二)計画の実行(49-55章)」と題されている。53章は「主の僕の苦難の後の栄光」と題されている。この「主の僕(しもべ)」という思想が神義論の中心となる。ユダヤ人の苦難にたいする怨嗟の感情はニーチェが「ルサンチマン」と呼んだものであり、かれが「神の死」を唱える源になったらしいが、それは中世キリスト教神学の説明への反論だった。悪を「善の欠如」と定義する中世キリスト教神学は、小さな悪は大きな善のなかの一部とみなし、悪の存在を相対化してしまう。少しくらい小さな悪があっても大きな善のためなら致し方ない、になってしまう。これでは、なぜ悪が、不正が、存在するのか、を十分には説明できない。
この「主の僕」の思想は詩篇に引き継がれる。22~25章だ。だから、「なぜ、わたしを見捨てられたのですか」は、神への恨み言ではなく、むしろ神への賛美を意図していた、という解釈はM.ウエーバー『古代ユダヤ教』の主張だ。第二イザヤから詩篇へ。これが神義論の出発点のようだ。
他方、神義論は「ヨブ記」に源を持つとする理解の方がより一般的だろう。「義人の苦難」がヨブ記に一貫して流れるテーマだ。これでもか、これでもか、とヨブは苦しめられる。悪が栄え、義人が苦しむ。善なる世界になぜ悪が跋扈するのか。だが、最後に神はヨブに現れ、語りかけ始める。神義論の始まりである。けれども、神の先在と人間の認識の不完全さが述べられ、結局は悪の問題は先送りされてしまう。ヨブ記に答えのすべてがあるわけではないようだ。
神義論はこのように、一神教的な神観念と世界の不完全性の関係を問う議論である。ウエーバーは一神教とはユダヤ教と部分的にイスラム教と考えていたようで、カトリックは多神教に無限に近づいていると考えていたようだ。カトリックは社会秩序の不正や不完全性にも「神の摂理」のロジックを持ち込まざるを得ないからだ。といって、ウエーバーは一般に思われているほどカトリック教会に偏見を持っていたとも思えない。分析は冷徹だが、偏見ではないように読める。
詩篇22章「僕の苦しみと国々の救い」~25章に立ち戻ろう。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしを見捨てられたのですか」。これは十字架上のイエスのことば「エリ、エリ、レマ、サバクターニ!」(我が神、我が神、なんぞ我を見捨てたもうか)(マタイ27:46 バルバロ訳)である。イエスは十字架の上で苦しみのあまり神に絶望したのか。この言葉は絶望の言葉なのか。それともウエーバーが言うように賛美の言葉なのか。
神義論を「予定説」の文脈で考えてみよう。予定説 Predestination とは「神はあらかじめ定めた者を選び、義とするが、ある者を滅びに予定する」(岩波キリスト教辞典)という思想だ。二重予定説ともいう。では自分はどっちなのか。選ばれているの、選ばれていないの? カルヴァンはその選びの確証には二つの方法があるという。一つは召命、もう一つは義認だ。ここからカルヴィニズムの義認論が始まる。ルターから離れていく。その離れ方は教義的には多様だし、歴史的には血なまぐさい戦いとなる。予定説による神義論であり、今日のルターの義認論からは少し離れたテーマとなる。
「魔術からの解放」論 Entzauberung も義認論を支える。魔術からの解放は普遍的一神教への途をたどることで完成する。だが、いま我々は魔術から解放されているのか。「魔術・奇跡・技術」は、自らの力のおよばないものへの盲目的信頼の対象という意味では同じだ。現代人は魔術を恐れる。奇跡は信じない。しかし(科学)技術は信じる。奇跡は神の力によるが魔術は神の力によらない。だがその境界線はあいまいだ。おなじく、魔術と科学技術との境界もあいまいだ。ベーコン的な人間による自然支配を単純に信ずる者は、自然のなかに隠れている力を発見し利用している自然科学者を盲目的に信じている。われわれ大衆から見れば現代の科学技術者は古代・中世の魔術者とどこが異なるのだろう。
カトリックからみた宗教改革の中心的論点は、「教会の可視性・不可視性」問題だ。(注3)K.シュミットやK・ラーナーがいう、つまり、「見える教会」と「見えない教会」の対立だ。信仰義認論は「信仰のみ」という。予定説は「聖書のみ」という。つまり、神の声を直接聞くと考える。これはカリスマを生み出してくる。カリスマとは「神の恩寵」のことだからだ。見えない教会とは神の恩寵にあずかっている教会と言うことになる。だが、教会は人の集まりで、目に見えるものだ。これは「司教制」につながる。他方、見えない教会の統治はどうするのか。歴史的には 監督制vs長老制vs会衆制 と区別されてきたが、ともに ゼクテ Sekte (教団・宗派・教派など訳は定まらず) として発展する。教会と区別されたゼクテという理念型の話はそれこそウエーバーの宗教社会学の話なので今日の学びあいの会では出てこなかった。改革派の(ルター派ではない)棟居氏に改めて論じてほしいものである。(注4)
注1 例えば、論題の抄訳は http://muso.to/h-ruta-95.htm
注2 折原浩 『ヴエーバー学の未来』未来社 2005
注3 宗教改革を Magistrial Reform 対 Radical Reform に区分する仕方は、大塚史学的な近代主義的ウエーバー解釈を好む人にはあまり受け入れられていないようだ。前者いわば、教会と国家(支配者、お抱えしてくれる領主、城主、王など)を認めるが、後者は明確な区別をつけようとする。前者には、ルター派、聖公会、カルヴィン主義の長老派が入り、後者にはカルヴィン主義の改革派、アナバプティストがはいる。やがて、バプティスト、アーミッシュ、フッタライト、メイナイト、アドベンティスト、ペンテコステ派が生まれてくる。前者にはやがてピューリタン、メソジストなどが生まれてくる。こういう宗教改革の権威主義派対急進派(適訳が見つからないのでこういう言い方をしてみる)という分類は、宗教改革とはカトリック対プロテスタントの闘いで、プロテスタントは形式的には聖書のみ、内容的には信仰のみ(義認論)で共通し、万人司祭主義をとっていると理解して、どの宗派・教派・会はも基本は同じと考えがちなひと達、日本の世界史教科書を支配している一面的な史観に、宗教改革の新しい見方を提示してくれるのではないか。とはいえ、日本人にはあまりなじみの無い分類ではある。
宗教改革は国によって進み具合、進み方が異なる。例えば、カトリックからいえば、イギリスの市民革命(ピューリタン革命1640-60、名誉革命1688-89)は本当に「革命」と呼んでいいのか、むしろ単に教会の分裂を招いた「政変」でしかなかったのではないか、という議論もあるようだ。これは宗教改革はではいつ終わったのか、という問いにつながる。国によって違う。時代によって違う。一つの答えはないだろう。イギリスで言えば、エリザベス一世時代のイギリス国教会の成立をもって終わりとする考え方(角川世界史辞典)もあるらしい。100年後に、「宗教改革600年」の記念の年が来るのだろうか。
注4 ウエーバーの話のついでに少し思い出話を残しておこう。カト研の皆様ももう高齢者の仲間入りしている方が多いでしょうから、老人の繰り言ということでお許し願いたい。テーマは学風の違いとでもいえようか。
わたしは丸山真男先生のゼミでM.ウエーバーを少し読んだ記憶がある。『プロ倫』だったかどうかすら覚えていないが、ゼミの雰囲気が社会学のゼミの雰囲気と違っていて、学風の違いを強く印象づけられた記憶がある。丸山先生はウエーバーの原書と、日本語訳と、英訳とを机の前に並べ、なにか話しておられた。中身はわたしのような初心者の院生にはちんぷんかんぷんだった。ウエーバーの原文は難解なことはよく知られている。そのうえ、関係代名詞や接続詞が多用され、ワン センテンスが一ページにわたるともいわれた。ウエーバーの理論どころかドイツ語すらおぼつかないわたしなんぞについて行けるはずもなかった。指示代名詞が何を指すのかすらわからなかった。ウナギの寝床のような法文系のゼミ室では、奥に先生、その脇に偉い順に助手、院生がきら星の如くならんでいた。われわれ他学科からのぞきに来た院生はもちろん最末席で、遠くの丸山先生がかすかに見えるだけだった。学部からすぐに助手になる人が一番優秀で偉く、院生なんぞは、就職先がないから来たのだろう、屑みたいな者だと言われていた(今はどうか知らない)。丸山先生は一時間半のあまりのゼミで、つまり一時限で、二~三行くらい進むという調子だった。(一学期で一ページ進んだのかどうか)。時代は、60年安保の余燼は残るが「東大紛争」の前で、嵐の前の静けさが支配していた。キャンパスでは新左翼系と代々木の対立が深く進んでいた。だが、丸山ゼミは静かだった。そして丸山先生の口調も静かだった。社会学でも折原浩さんがウエーバー研究会を独自に開いていたが、この時代はまだここも静かだった。というより文献研究に深く沈潜していた。
同じ頃、わたしは社会学の院生として、雑誌「思想」などで丸山先生と一緒に活躍しておられた日高六郎先生のゼミにもでていた。ここでは参加者の院生たちは勝手にしゃべりまくっていた。何かを一緒に読むと言うよりは、日高先生が雑誌か何かに書かれている論文を前もって論評するというものだった。この日高ゼミの自由さというか、オープンさは丸山ゼミとは対照的だった。先生の個性の違いというより、学問の畑の違いなのかなと当時は思っていた。日高先生は「院生は教師を乗り越えていくのが務めだ」などとおだてておられたから、何も知らない院生は一人前の顔をして何かをしゃべっていたのかもしれない。今思えば恥ずかしい限りである。
富永健一先生のゼミも印象深かった。T・パーソンスのSocial Systemかなにかを読んでいたのだろうが、若手バリバリの富永先生は明るい性格で一人でなにかしゃべっていた。当時、パーソンスの機能主義理論の評価は定まっておらず、参加者の院生たちは理解しようと必死だった。パーソンスはウエーバーの訳者だけあってそのの英語は難しいと言われていた。読んでみれば英語そのものとしては難しくはない。ウエーバーのように文法がわからないということはない。だが、英語はわかっても、理屈がわからない。用語の意味がわからない。時々顔を出していた小室直樹さんが富永先生と議論を始めると、われわれビギナーには何を論じているのかすらわからなかった。でも自由だった。福武門下の実証派が多い社会学研究室でも高橋徹門下の理論好きはいた。
アメリカの学生はリーディングアサイメントが多いから徹夜してでも図書館で本を読んで予習する。日本の学生はそれに比べ本を読まない。などとわかったようなことを言う人がいる。日本の学生だって徹夜してでも予習していかなければゼミに出たってただボーとしているだけなのは同じだ。わたしもアメリカの大学にいたことがあるが、勉強しない学生は勉強しない。どこでも同じだ。わたしも教師の端くれとなってゼミを持つようになってみて、ゼミのあり方は多様であることがよくわかった。それは教材やテーマというより、ゼミ生次第なのだ。「学生一流、教師二流」と揶揄される東大は紛争後の東大のことを指しているのかもしれない。
カト研の皆様もこの時期のことは良く覚えておいでの方が多いことだろう。ジョンストン師は上智カト研の指導司祭をやりながら学位論文をまとめつつあった。本郷に住んで東大で非常勤で英語を教えながら四谷まで自転車で通っていた時期である。東大カト研はエルリンハーゲン師が指導司祭だったが、エルリンハーゲン師が突然帰国したこともあり、ジョンストン師は東大カト研の学生も指導していた。ジョンストン師が岡田大司教様やご姉妹に洗礼をさづけられたのもこの頃のことらしい。師は神秘主義神学の研究から禅の実践に深く入り始めた。座禅の日々だったようだ。デュモリン師との交流も深かったようだ。やがて大学紛争が、東大闘争が、時代を変えていく。各大学のカト研が次々と自主解散していく。解体されていったと言うべきかもしれない。ウエーバー風に言えば「神々の闘争」が始まる。後年ジョンストン師が「カト研はどうして無くなったのですか」と問われたときの悲しそうな眼が忘れられない。師には、新左翼もIRAも同じように見えていたのだろうか。この疑問の意味はカト研の皆さんでしかおわかりいただけないだろう。