イエスの復活は物語として伝承されていく。復活物語は二つの部分を持っている。①空の墓の物語 ②出現物語。 子ども向けのマンガ聖書ではもっともよく好まれる場面だという。
1)「空の墓」の物語
これは、マルコ16:1-8,ヨハネ20:1-10 だ。特に、福音書記者マルコが「三人の女」を登場させてくるのが印象的だ。
「また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた」(マルコ15:40)
女性たちはいつも十字架のイエスのまわりにいた。女性蔑視観のつよいこの時代に福音書がいつも女性の存在を強調していることに驚く。イエスが最初に現れたのも女性だった。
2)「出現」物語
イエスの出現物語は、ヨハネ20:11-18とか、ルカ24:13-35 が中心だ。ここで、「見た」という言葉が繰り返し出てくる。「見た(見る)」と言う言葉には、事実認識(史的認識)と霊的認識の二つの側面があるのだという。
「そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」(ヨハネ20:11)。これは事実の認識だろう。
「わたしは主を見ました」(ヨハネ20:18)。「見た」からと言って「分かった」わけではない。
「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ25:15)。これは霊的認識の話だ。
イエスを直接見たからと言ってそれですぐ信じられたわけではないだろう。本人も、まわりの人も半信半疑だったのではないか。やがて、多くの人が、時間をかけて、イエスを見るなかで、復活の確信が深まっていったのではないか。復活の認識は、突然起こったことではなく、漸進的に起こった出来事のように思える。
川中師は最後にイエスの復活信仰の「射程」を次の二つにまとめられた。
①復活信仰は、イエスの死と復活を通して、人間に時間的制約を超えた永遠性をもたらす
②復活信仰は、人間に水平的超越と垂直的超越をもたらす。垂直的超越とは個人的次元で人間を解放することであり、水平的超越とは歴史的次元で社会を変革することである。
なにか抽象的で奥歯にものが挟まったような言い方だが、師はルカ24:26を引用している。
「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」(協会共同訳)
栄光とは一般に人間や物事のすぐれたことを意味するのだろうが、聖書では主に、神の顕現と神への讃美を意味している。栄光に入るとはそういう意味なのだろう。「射程」が神学用語なのかどうかわたしにはわからないが、詳しくは師の別の著作を期待したい。
川中師の今回の講座は、史的イエス研究に関する深い造詣と聖書学の知見に裏付けられた貴重な講義であった。ヘブライ語やギリシャ語の素養のないわたしには専門的すぎてついて行けないところが多々あったが、史的イエス論に一方的にひきづられない師のスタンスの取り方には学ぶところが多かった。