暖かい秋晴れの日に学びあいの会に出た。勤労感謝の日。昔風にいえば新嘗祭。どの社会にも見られる秋の収穫の祝い。とはいえ、現在では、年間最後の祝日といった方がわかりやすいか。連休の最後の日だったので、出席者の数はいつもよりは少なかった。
今回は、第17章「中世から近代への胎動」、第18章「宗教改革と反宗教改革」の2章が取り上げられた。近代社会への入り口の話で、どのように整理するかは論者の視点が問われる。岩島師はあくまで「教会論」の視点から見ていく。本書の特徴である。
第17章 中世から近代への胎動
Ⅰ 中世後期の時代的特徴(1)
ヨーロッパ中世は神の秩序への信頼で成り立っていた。14世紀以降この信頼感は崩壊していく。これが教会にも打撃を与えていく。この経緯は、アヴィニヨンの捕囚(1309~77)(2)→シスマ(教会大分裂 1378~1417)→宗教改革(95ヶ条は1517)→近代教会(トリエント公会議は1545~63) へという流れで説明されることが多い。岩島師は時代的特徴として以下の4点を挙げている。
①信仰と理性の分離(スコトゥスやオッカム)・主意主義的信仰主義的な信仰の理解・個の自由
②新しい人間像の開花(ルネッサンス)(3)
③社会・国家が教会・教皇の支配から離脱する(一つの頭から二つの頭をもつ社会への変化)
④個人的キリストへの信仰(敬虔主義)の傾向:『キリストに倣いて』など’3)
Ⅱ 教皇絶対主義(Conciliarism)
シスマ(教会大分裂)のなかで、教皇では教会という組織が持たないということがはっきりしてくる。教皇が二人も三人も並立し、教皇がバチカンに住まない期間が7代70年近くも続くと、教会は組織として教皇以外によりどころを求めざるを得なくなる。公会議だ(5)。公会議が拠り所として求められてくる、または力を振るい始める。教皇絶対主義に対抗する公会議至上主義の登場だ。
教皇と公会議とどちらが上なのか。教皇は公会議が選出する。しかし教皇はやがて枢機卿を選んで公会議を牽制する。これは神学の問題ではなく、組織の問題だ。現在は(21世紀は)教皇の方が強いという評価が多いようだが、本書刊行の段階では(1987年)岩島師ははっきりした判断は下していない。両者は拮抗しているという評価のようだ。
1 教皇の権威の強化と崩壊
グレゴリウス7世(1020-85)以降、教皇は俗権との争いに勝利し、圧倒的地位を獲得する。教皇権はイノケンティウス3世(1198-1216)の時に絶頂に達する(6)。1215年の第4ラテラノ公会議で西欧圏での指導的地位が確保された。そして、ボニフチウス8世(1234-1303)の勅書「ウナム・サンクタム」(唯一・聖なる教会)(1302)(7)は、教皇は「キリストの代理人」であり、「俗界の権威者(皇帝)は精神界の権威者(教皇)に従うべし」と宣言し、教皇中心主義の思想が確立する。
2 教皇権の没落
「ウナム・サンクタム」という文書の上では教皇権は極限にまで拡大されたが、教皇はアナーニに滞在中国王一派に幽閉され(1303年のアナーニ事件)た。教皇は関係者を破門するが何の効果もない。実質的教皇権は無くなっていた。教皇は失意のうちに世を去る。そして「アヴィニヨンの捕囚」(1305~1378)(8)から大シスマ(教会大分裂 1378-1417)を経て、教皇の権威の失墜は決定的となる。
Ⅲ 公会議至上主義(Concilarisumus)
大シスマにより、教会を指導するのは教皇ではないことが明らかになる。公会議が唯一の拠り所となる。
コンスタンツ公会議(1414-18)が3人の対立教皇を廃止させ統一教皇マルティヌス5世を選出し、公会議の決定は教皇でさえ覆せないと教令で規定した。ここに大シスマは解消され、公会議至上主義は最盛期を迎えた。だが、この公会議はヨハネス・フスを異端として焚刑に処したため(1415)、フス派のプラハ市民を蜂起させることになる(フス戦争 1419-36 宗教改革が始まるきっかけとなる)。
ついでバーゼル公会議(1431-37)は教皇マルティヌス5世によって1431年に招集され、同年エゥゲニウス4世によってスイスのバーゼルで開催された。公会議至上主義者の司教たちが主導権を握る。いろいろな経緯があり、開催地はフェラーラに、次いでフィレンツに移動する。結局1438-43年に教皇の裁治首位権が確認され、教皇の権威が再興される。ここに教皇主義(Papalismus)が成立する。
Ⅳ ウィクリフとフスの予定論的教会論
この間、教会の世俗化が進む中で、各地で教会の改革を求める運動が起こる。
① 14世紀後半には、オックスフォード大学の神学教授ウィクリフ Wycliffe (1320-84)は教皇権を否定し、教会財産の国庫への没収を認め、イングランドの教会および国王は教皇から独立すべきだと主張した。教義では聖書主義を唱え、聖書の英訳をおこなった。教会の本質は「救済を予定された者の集い」であるという予定論を展開し、「見えざる教会」を主張した。かれの説に対してグレゴリウス11世は査問し(1377)、異端とみなした。だがかれはランカスター公の保護のもとに生き延びる。
②プラハ大学の神学教授フス Huss (1370-1415)はウィクリフの説に共鳴し、教会の土地所有や贖宥状を批判し、破門されるが、国王の支持があり断罪を免れる。聖書のチェコ語訳をおこなう。神学的にはアウグスティヌスの内面主義、精神主義に回帰した。聖者の教会(見えざる教会)と秘跡の教会(見える教会)を区別した。フスの著作はチェコ文学の古典とされているという。1414年にコンスタンツ公会議に召喚され、ウィクリフの説の否認と自説の撤回を要求されるが、それを拒否した。そのため翌年焚刑に処せられた。
(ヤン・フス像)
やがてフス戦争(1419-36)が始まり、宗教改革の口火が切られていく。フス派はたびたび皇帝軍を破るが、やがて内部分裂が起こり、カトリック教会連合軍に敗れる。このフス戦争はドイツに対するチェコ人の民族運動という性格も持っていたようだ。
岩島師は、ウィクリフとフスの説はオッカムの影響下にあり(9)、個人的信仰という近代人の教会観の萌芽だったとまとめている。
注
1 中世とか中世後期とかいうが、いつのことを指すのか限定するのは難しいようだ。13世紀をヨーロッパキリスト教世界の頂点と見なすなら、中世後期とは14世紀以降を指していると思われる。
2 「バビロン捕囚」(1309-77)ともいう。これはユダヤ人がバビロニアに連行された紀元前586-前538の苦難の歴史になぞらえている。
3 大航海時代とか科学革命とか通常の歴史解説書で触れられる経緯は言及されない。修道会の変化など教会論にも影響を与えていると思われるが、あえて触れないのは岩島師の歴史観なのであろう。4 師は敬虔主義(Pietsmus)の登場を重視しているようだ。教会論の発展にとり重要だったのだろう。敬虔主義とは、17世紀後半から18世紀の主のドイツで起こった信仰覚醒運動をさす。神学的にはプロテスタント正統派神学(ルター派などの領邦教会)に対抗して個人の信仰・道徳・実践を重視し、教会の法規や典例、教義を重視しない運動。あまり違いを強調しすぎることはよくないが、ドイツの思想史や文化への影響は大きかったようだ。運動ではシュペーナーの『敬虔なる願望』(1675)に教会改革案が載っているというが私は読んだことはない。
トマス・ア・ケンピス(1380-1471)の『キリストにならいて』にはいくつもの邦訳があり、信者ならだれでも一度は手にしたことがあるだろう。まるで修道院生活を描いているようで、徹底的な自己放棄と自己否定が信仰を受け入れる道であり、キリストに倣う途であると言っているようだ。こう言うとなにか陰鬱な道徳書・倫理書みたいだが、文章(祈り)には明るさというか透明性がある。旧約聖書の「コヘレトの言葉(伝道の書)」が与える印象とは違う。ちなみにトマス・ア・ケンピスはわたしの堅信名である。ケンピス村のトマスということだろうが、ケンピスは現在のケンペンのことのようだ。トマス・ア・ケンピスは実在が疑われたこともあるが、現在は実在したことが受け入れられているようだ。
5 公会議 Ecumenical Council はもともとは新約聖書にある教会会議に原型があるとされる。2世紀中頃から各地の司教たちが教理や教会についての正統的立場を確認するために「部分」教会会議を開いていたようだ。「全体」教会会議つまり第1回の公会議はアレイオスの異端に対処したニカイア公会議(325)である。
6 この時代、日本では鎌倉幕府が始まり、中国では南宋が滅亡の時期に入り始める。西ヨーロッパでは神聖ローマ帝国でハプスブルク家が拡大し、フランス王国はカペー朝の頂点にある。小アジアではビザンツ帝国(東ローマ帝国)がほぼ滅亡し、地中海世界・インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化が進んでいた。
7 ボニファティウス8世はフランス王フィリップ4世とフランス国内の教皇課税(教会領に教皇が課税する権利)をめぐって争い、この勅書を通して教皇中心主義を宣言したという。
「ウナム・サンクタム」は回勅ではなく勅書と呼ばれている。回勅はもともとは教皇の回状 Litterae encyclicae を意味していただけらしいが、現代では回勅は教皇から全世界の司教宛に出される勅命を指すとされている。この意味内容の変化は18世紀以降のことのようだ。そして、勅書は教皇の出す勅令、勅許、書簡、教令などすべてを含む言葉のようだ。たとえば、現在のフランシスコ教皇が出された『ラウダート・シ ともに暮らす家を大切に』(2015)(わたしの主よ、あなたはたたえられますように という意味 教会の文書は書き出しの文字が書名になる)は「回勅」だが、『キリストは生きている』(2019)は「使徒的勧告」だ。使徒的勧告は司教たち(シノドス(世界代表司教会議)など)がまとめたものを教皇が発表するもので、重要度は回勅より低いようだ。つまり回勅と勧告は教皇と使徒(司教)の関係を反映するようだ。
8 アナーニ事件後、クレメンス5世は教皇庁を南フランスのアヴィニヨンに移す。以後7代約70年にわたり教皇はフランス王の支配下に置かれる。教皇もフランス人がなる。これは古代のユダヤ人の苦難になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」とも言われる(バビロン捕囚は紀元前586ー前538)。
1378年に教皇庁はグレゴリウス11世によりローマに戻され、次の教皇ウルバヌス6世はイタリア人にもどる。だがフランスの枢機卿は対立教皇クレメンス7世を立て、アヴィニヨンにふたたび教皇庁を設置した。フランス国王フィリップスは教皇に圧力を加え、「ウナム・サンクタム」を撤回させ、アナーニ事件の関係者を赦免させた。フランス・ナポリ・スコットランドがこのアヴィニヨン派を支持し、イタリア諸国・ドイツ諸侯・イングランドなどはローマ派を支持した。ここに教会の大分裂(シスマ)がおこる。教皇の権威は完全に失墜した。
この辺の歴史的叙述は岩島師は省いている。教会論としてはあまり重要とはみなしていないようだ。
9 オッカム William of Ockham (1285-1347) はイギリスのスコラ哲学者。普遍論争では唯名論の立場に立つ(普遍という性格は事物にではなく言語にあるという主張)。哲学的には主意主義(意思主義)を唱え、行為の善悪は意思の働きの是非で決まるとした。教皇権については、霊的な事柄についてのみ認め、世俗的事柄は教皇権から独立しているとした。教会論では「見えざる教会」(信徒の霊的共同体)と「見える教会」(現実の現行の教会)を区別し、前者は不可謬だが後者は誤ることもあるとして、公会議が教皇を替えることも可能だと主張した。「オッカムの剃刀 Ockam's razor」という格言で知られる。オッカムの剃刀とは、議論の中で必然性なしに不必要な仮定を置いてはならないという規則のこと。節減の原理とか節約の原理 principle of economy とも呼ばれるようだ。