2022年度1月の学びあいの会は諸宗教の神学の続きである。オミクロン株の蔓延のせいだろうか出席者は数名だった。
令和4年のお正月明けの私どもの教会は再び厳しい分散ミサに戻る。どの地区(組・班)でも土日のミサのうち月1回ミサの順番が回ってくるかどうかというくらい厳しい。しかも高齢者はミサに出ることはならんという神父様のきついお達しだ。オミクロン株が蔓延しつつあるからだろう。ごミサで聖体拝領ができないとは、教会は危機にあるとしか言いようがない(1)。
今回は宗教的多元主義の主張が詳しく紹介された。だが教会は包括主義の立場に立たざるを得ず、諸宗教の神学は「明快な結論の出しにくい問題」だというのがS氏の結びの言葉だった(2)。
まず宗教的多元主義の主張を見てみよう。宗教的多元主義については辞書的な知識はあってもその詳しい内容はなかなかきれいには整理できない。S氏は以下のようなー比較的好意的なー要約を行い、問題点を提起している。
Ⅴ 宗教的多元主義
1 その成立要因
宗教的多元主義の成立の背景・要因として以下の5点が指摘された。
①啓蒙主義の影響
啓蒙主義梁成村長の合理主義であるから、啓示を合理的に理解する。キリストの唯一の啓示を否定する。ニュートンの理神論(3)、カントの認識論など(4)。
②自由主義神学の台頭
シュトラウス(福音書批判)、B・バウアー(マルコ福音書は想像の産物だとし、イエスの実在を否定)、リッチェル(啓示を強調するもキリスト教の絶対性は否定した)、1980年代の宗教史学派は、教会の伝統的教義を否定し、「自由に神学」した(5)。
③グローバル化による他宗教との接触
他宗教との接触は、各宗教の主張をそれぞれ妥当なものとする傾向を生み出す。
④キリスト教会の変化
第2バチカン公会議にみられる教会の他宗教への態度の変化
⑤現代世界の世俗化傾向
キリスト教にとって、今や脅威は、他宗教ではなく、世俗主義・物質主義・無神論・マルクス主義である。諸宗教が手を携えて対抗する必要がある。
2 宗教的多元主義の出発点
宗教的多元主義の出発点は、排他主義と包括主義への批判である。多元主義によれば、排他主義にせよ、包括主義にせよ、どれもキリスト教中心主義であり、他宗教はその周辺にあるという発想が見られる。包括主義も形を変えた排他主義である。包括主義は、キリストの業(わざ)が他宗教にも密かに働くと言うが、キリスト教以前のバラモン教・仏教がキリストの影響下にあるというのは可能なのか。
3 宗教的多元主義の基本的主張
教会から見れば、宗教的多元主義の主張は次のように整理できる
①宗教の多様性をラディカルに主張している 宗教の文化相対主義をとっている
②各宗教は同等の救いをもたらすと考える あらゆる宗教は究極的存在、すなわち、神あるいは神秘が存在すると考えている
③イエス・キリストの救い主として地位が変化したと考える
④キリスト教そのものの相対化されたと主張する
4 宗教的多元主義の問題点
宗教的多元主義は一般にはなにか良い思想のように思われているが、次のような批判的観点もあることも忘れてならない。多元主義一般の批判が難しいように、宗教的多元主義批判も容易ではない。教会からの批判的指摘で重要なのは以下の2点だ
①宗教的無差別主義の疑問
どんな宗教も同等と見なすことは妥当なのか。宗教の判断基準はないのか(6)。
②キリスト論の問題
イエスの救い主としての地位を相対化する、非規範的キリスト論は妥当なのか。
5 代表的宗教的多元主義者
ここでは主に4人の宗教的多元主義者が紹介される。宗教的多元論者はプロテスタント神学者に多いようだが、カトリックにもいないわけではない。特に、禅の影響を受けたカトリック司祭や神学者には多元論や汎神論へ傾斜が見られると警戒する教会指導者も多いが、禅がカトリックに与えた影響の評価は現時点ではまだ定まっていないようだ(7)。
①J.ヒック(John Hick 1922- )
イギリスの宗教哲学者。宗教多元主義という宗教哲学を唱えた。排他主義を排し、宗教多様性をラディカルに提案した。人類全体に訴えるものを持っているのはキリスト教だけではない。諸宗教は究極的・超越的実在のそれぞれの表現である。父なる神と、ブラフマン、アラー、ダルマカーヤ(8)は同一のものと見なして良い。宗教多元説は今日の宗教間対話に最も有効である。排他主義も包括主義もいずれもキリスト教中心主義であり、そこから神中心の多元主義への転換が必要であるとし、キリストの相対化を主張した。彼の主著『神は多くの名前を持つ』(1980)は遠藤周作に大きな影響を与え、『深い河』の創作日記にも引用されているという。
②P・ニッター(Paul Knittir 1939- )
アメリカの神学者。第二バチカン公会議後に叙階され、1975年に教会を離れる。元カトリック司祭。K・ラーナーのもとで学んだ。主著『No other name ?』(1985)の出版後、宗教的多元論の担い手となる。特に仏教に強い関心を抱いている。上記のヒックはニッターの友人であり同僚でもあるが、ともにラッチンガー枢機卿(名誉教皇ベネディクト16世)に「相対主義」者として批判される。
ニッターによれば、他宗教と関係を持つことは単なる宗教間対話のためではなく、キリスト教のアイデンティティーを探ることを意味する。キリストの唯一性、教会の絶対性を主張することは、イエスキリストと教会の本来の使信を失うことになる。イエスだけではなく、他の「受肉」の可能性を論じる。
キリスト中心ではなく、神中心の宗教観を持つ。救済中心的な多元論で、出発点は解放の神学だという。「抑圧された人々の解放を求める戦い」を諸宗教神学の基礎とする。すべての宗教の目的は人類の一致で、世界の荒廃を止めることにある。神の国は、現世的・博愛的・人道主義的なもので、教会はこれに参加する一機関に過ぎないという。実践に役立たぬキリスト教は不要である。キリストの唯一性は否定し、新約聖書はかならずしもイエスの絶対性を主張していないとした。
ニッターへの批判も多いらしく、特に彼が言う「宗教の重複所属」説(religious double belonging)は現在も論争の的になっているようだ。
少し長くなったので、他の二人の紹介と多元主義批判は次回に回したい。
注
1 教会は文字通り危機下にあると思う。コロナだから、ではすまされない危機下にあると思う。若松英輔・山本芳久両氏は近刊『危機の神学ー無関心というパンデミックを超えて』(2021)のなかで、「コロナも危機も消えてなくなるものではないのだから、教会はもっと外に出よ」と訴えている。コロナより無関心というパンデミックが危機の源であると述べ、危機は「画期」であり、「無関心からの解放」を切に訴えている。両者の主張はどれももっともであり、胸を打つ。ただ少しきれい事に終始し、なかにはポリコレ(political correctness)の響きがする場面もある。この新書はお二人の対話という形をとっているが、実際にはお二人が勝手に自説を展開しており、両者の対立や論争は浮かんでこない。とはいえ、内容はカトリック神学の古典のみならず、プロテスタント神学から西洋哲学・西田哲学・仏教儒教思想までカバーしており、日本のカトリック神学の進歩の一端を垣間見たようで嬉しい限りである。
両人は「外に出よ」というが、反対に「ミサには出るな」と主張する論者も少なからずおられるようだ。私が敬愛するブロガーの一人は「ミサには出ないで、自分で自分を守れ」と繰り返し主張している(http://shelline-oblate.cocolog-nifty.com/blog/2022/01/post-19a7d9.html)。
神父様や典礼係のご苦労を考えれば私のような何か具体的なことが出来るわけではない老人があれこれ言える立場にはないのは十分承知の上だが、今、教会は危機と混乱の最中にいるようだ。危機は教会の歴史上何度もあったといわれればそれまでだが、今回の危機は全地球規模だ。だが教会はいつも祈りに中で危機に向かい合ってきた。今回もみな祈りの中で向き合っている。
『危機の神学』
2 S氏を含めて仏教的環境に囲まれている日本の信徒が、宗教的多元主義に親近感を持つのは致し方ないだろう。遠藤周作の『沈黙』や『深い河』に見られる汎神論一歩手前の宗教的多元主義の影響力は廣く深い。司祭や信徒の中には遠藤周作の世界観に共感できない人は多いが、だからといって包括主義に安住はできない。イスラム教は、個々の信者は別として、教義としては世界がイスラム化するまで戦いは終わらないと説いている。排他主義でなければこの相対主義の世界を生き残れないと考えているようだ。教会が包括主義に固執するだけの時代は終わろうとしているように思える。
3 理神論 deism とは、神は創造行為以外はこの世界にかかわらず、神の摂理は物質的な秩序に限定されるという考え。啓示や預言、奇跡は否定される。
4 カントの認識論という表現で何を意味しているのかは不明だが、啓蒙思想をキリスト教批判の思想とのみ見なすのは一面的だろう。カントのようなドイツ啓蒙主義はむしろキリスト教を近代的に解釈し直すことによってキリスト教神学の発展に寄与したとも言えるのではないか。
5 自由主義神学とは一概に簡単な定義ができない幅広いプロテスタント神学のある立場を指すようだ。普通は、進化論を容認し、聖書学の成果を承認し、批評的な解釈をおこなう点で共通しているようだ。シュライエルマッハーやハルナックが代表者とされることが多いようだが、K・バルトをその中に入れる人もいるようだ。日本では基督教団内のリベラル派と呼ばれ、圧倒的影響力を持っているようだ。
6 日本の宗教統計では宗教の直接的定義はなく、宗教団体の定義がある。
「宗教団体とは. 宗教法人法第2条第1号または第2号に該当する団体で、教義をひろめ、儀式行事を行い,及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体をいう。」 宗教をある信仰を共有する思想体系・観念体系とみなせば、ある社会集団を宗教団体を見なすには基準が必要だ。「集団」ではなく「団体」の定義から始めねばならない。たとえば、オーム真理教(アレフ、光の輪)は宗教か、は難しい問いだ。「宗教の判断基準」といわれても、「制度」論をはずして議論はできないだろう。
7 カト研としてはW・ジョンストン師を思い起こす。師は禅の造詣・実践が深く、遠藤周作『沈黙』の英語版への訳者だったが、同時に『不可知の雲』の日本語への訳者でもあった。ジョンストン師来日50周年記念の時の遠藤周作氏のスピーチは親愛感あふれるものであった。ジョンストン師は、汎神論の傾向があるとイエズス会からは冷眼視されていたようだが、わたしの印象は違う。師は徹底した神秘主義者であり、多元論者でも汎神論者でもなかったと思う。師の祈りはいつもひとつだった。「聖霊、来たりたまえ Come, Holy Spirit」。静かに祈っている師の後ろ姿を何度か見たが、その思いは今も変わらない。
8 ダルマカーヤとは大乗仏教の3身論のなかの「法身」のこと。究極の存在、仏の本質のことを指すらしいが、普通は普賢様のことをいうようだ。