創世記には二つの創造物語が並列されている。1章と2章はそのまま連続しているわけではない。
Ⅲ 旧約聖書
1 創世記
聖書の創造物語は、神・人・自然の創造に関する教説の重要な典拠である。人は、創造の始原に立ち返り、自らの生存の意義を確認する。自分は何のために生まれてきたのか。どこに向かっているのか。創造物語の根底には強烈な救済論的志向がある。つまり、救済と選びの信仰がある。
創世記には実は二つの創造物語が並列されている。一般にはあまり知られていない論点なので少し詳しく見ていこう。これを理解するには、たとえば創世記1章と2章の違いを理解するためには、聖書の交差配列や旧約聖書についての知識が必要になってくる。誰でも知っている話と言われればそれまでだが、前もって少し整理しておきたい。
旧約聖書は一応紀元90年頃編纂されて成立したとされる。旧約聖書というのはキリスト教側からの呼称で、2世紀頃の初期キリスト教会がつけた名称のようだ。パウロや初期の福音書記者たちは当然この名称は知らないし、使っていない。ユダヤ教ではヘブライ語で書かれた聖典がまとめられたのはその頃(紀元1世紀頃)としているようだが、諸説あるようだ。最も古い書物は紀元前1500年頃というから古い(1)。
その成立過程を見てみよう(2)。
【旧約聖書の成立過程】
ギリシャ語訳聖書が多様な歴史的背景、地理的背景を持つことが解る。
旧約39巻は普通4つに分けられる。①モーゼ5書 ②歴史書 ③知恵文学 ④預言書 の4部門だ(3)。
旧約聖書の中でモーセ5書はユダヤ教のトーラーで、律法ともいわれる。創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記からなる(4)。
モーセ5書は、1000年以上にわたる伝承の保持の結果として歴史の中で生成されてきた。編集した人も、地域も、時代も異なるが、彼らは伝承を尊重しながらも、その中の事柄や言葉を、思想や解釈を絶対視しないで、保持してきたようだ。その意味でモーセ5書は矛盾に満ちた書であり、複雑な構造を持っているという。
だが、そこにこめられた編集者の意図を見逃してはならない。例えば、1章と2章は重複し、関連性は見られないが、編集者はそれぞれの資料を切り捨てることが出来なかったと考えられる。二つの創造物語はこうして残されてきたのであろう。ここに、現代人の感性からすれば、矛盾、不可解、奇妙に見える表現や内容が見いだされるのは当然だが、全体を貫く編集者たちの意図と、信仰を忘れてはならないだろう。
以下に挙げる口頭伝承は「資料仮説」と呼ばれる。モーセ5書が、旧約聖書が、書かれた背景、資料が複数あることを示している。この資料仮説そのものも広く受け入れられているわけではなく、批判もあるようだが、モーセ5書がなぜこれほど複雑なのかを示してくれるだろう。
【口頭伝承】
①祭司資料(P資料) 創1:1~2-4a
創世記は GENESIS (ギリシャ語 γένεσις) と呼ぶ。創世記は1章の1の「初めに、神は天地を創造された」から始まる。2章の4aまで続き、「これが天地創造の由来である」と書かれている。これが第1の創造物語である。
この由来という訳語は、新共同訳では「由来」、フランシスコ会訳では「経緯」、聖書協会訳では「次第」とされるが、ギリシャ語訳から来ている。
創世記には、思想的には、申命記史家の契約思想、第二イザヤの救済論、エゼキエル書の「主の栄光」説などの影響がみられるという。
また、歴史的に見れば、捕囚期後半のバビロンで成立したものとみられ、捕囚民への希望を伝える文書となっている。J資料(ヤーヴィスト資料)より新しく、後に追加されたもののようだ。
メソポタミア神話「エヌマ・エリシア」との関連があると言われる。天の水の話(創1:7,詩148:4-6)、洪水の原因、生命の泉の話などだ。地は混沌という話も同じらしい(創1:10,ヨブ6:18,イザ24:10)。
文学的には、章の構成はユダヤ人独特の「交差配列」で(5)、J資料に較べて整然とした洗練された文体だという。
②ヤーヴィスト資料(J資料) 創2:4b=3-24
2章の4bは「主なる神が地と天を造られたとき・・・」から始まる。これは1章とは別の創造物語のようだ。
J資料はP資料より古く、紀元前950年頃のもので、素朴であり、神を擬人化している点が特徴だという。天地の創造物語に加えて、原初の人間の物語がある。人祖とエデンの園の物語がある。土から作られた無価値で卑小な人間に、神は命の息を吹き込むという話だ。古代メソポタミアのリギガメシュ叙事詩でも、神は粘土で形作ったものに神の血や肉を混ぜて人間を作るが、神の生命を吹き込むということはないという。無からの創造という発想もないようだ。
神はさらに女を作り、男女のパートナーシップが成立する。そして人間はすべての生物の名づけ主となり、神の代わりに、そして神のために、世界を管理する。人間のみが神と独自の関係を持つとされる(6)。
注
1 たとえば、古事記は712年、日本書紀は720年完成という。日本神話では天地開闢から日本列島の形成が語られるが、紀元前1500年代は日本は縄文時代でハード型土偶が流行っていた時代だ。
2 七十人訳とは70人訳ギリシャ語旧約聖書のこと。ヴルガダ訳ラテン語聖書は16世紀以降、カトリック教会の公認聖書となっている。
3 聖書は全66巻といわれるが、旧約39巻、新約27巻のことで、続編13巻は含んでいないようだ。日本語の新共同訳、協会共同訳には旧約聖書続編も含まれている。なお、聖書の各書の配列の順番は時系列順ではない。どういう経緯でこう言う配列で聖書が編纂されたかは聖書学の話になる。
4 創世記は天地創造の物語。出エジプト記はモーセがユダヤ人を率いてエジプトから脱出させる物語。レビ記は律法の細則集。レビとは人名、部族の名前。民数記とはイスラエルの2回にわたる人口調査に由来するが、中身は物語と律法の混合体である。申命記とは死を前にしたモーセがおこなった三つの長い説教が中心である。申命とは命令を改めて申し伝えるという意味のようだ。なお、歴史書では約束の地に到着してからのイスラエルの民の歴史が描かれる。知恵の書は箴言、詩篇、雅歌、ヨブ記、有名なコヘレトの言葉(昔の伝道の書)、人生の不条理を描くヨブ記などが含まれる。預言の書ではイザヤ書以下預言者が語った未来が語られる。おのおのにどの書が含まれるかは聖書をみていただきたい。
5 聖書の交差配列についてはかってこのブログで触れたことがある(2018年10月23日投稿)。
6 人間は自然の一部であるという考え方ではない。人間が手を加えない、伸び放題の山林を自然と呼ぶのか、それともきれいに管理された山林を自然と呼ぶのか。キリスト教の独特の自然観、人間観は長い歴史的背景を持つようだ。