カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

終末に審判はあるのか ー 終末論(2)(学び合いの会)

2022-09-28 16:55:50 | 神学


Ⅰ 終末論の概念

 終末論 eschatologia(ラ) eschatology(英)とは、最終の事柄(終末)に関する論述のこと。「時間の終わり」または「救いの完成」について(1)聖書が述べていることを吟味する神学的作業をさす。
 伝統的なスコラ神学では、終末論のテーマは、一方では個々の人間の死の後に起こる私審判、煉獄、天国、地獄という出来事を指し、他方では、世界の歴史の終わりの出来事、つまり、キリストの再臨、死者の復活、公審判を指していた。
 だが、20世紀半ばにカトリック神学に起こった人間学への接近により、終末論は「死についての神学」と位置づけられるようになる。人間の、生きている間になされた自由意志に基づく決断が、死に臨んで徹底的なものになると考えるようになる(K・ラーナー、ゼメロート)(2)。
 第二バチカン公会議で現代世界憲章が制定された後、世界史的・宇宙論的次元における完成という考え方が明確に取り入れられるようになった。つまり、終末論とは、神の国において約束されたわれわれ(個人・教会・世界)の究極的将来に対するキリスト教的希望を学問的基礎において解釈するものとして位置づけ直された。その神学的根拠は聖書と教会の伝統の中に見いだされるとした。

Ⅱ 旧約聖書

 旧約聖書は完結した終末論を持っている。終末とは、神が歴史に介入し(3)、イスラエルを救う徹底的な時をさす。それはメシアにより媒介されて実現される(4)。悪人にとっては裁きの時であり、回心する者にとっては恵みの時である。旧約の終末論は、時代と共に展開し、やがて黙示思想に至る。

1 捕囚期以前

 捕囚期前のイスラエルでは不正が横行し、バール礼拝が始まっていた(5)。預言者アモスとそれに続くオセアは、主の日が来て(アモ5:18-20)、裁きが下り、回心する者、貧しい者にとっては救いの時であると主張した(アモ9:11-15,ホセ14:2-10)。
 南のユダ王国に3人の若者、預言者が現れ、おのおの時代を画する。イザヤは終末の日々にも(イザ2:10-17)、インマニエルによる救いを告げる(イザ8:23-29)。アッシリアへの批判だ。
 ミカは、貧しい者・残りの者は裁きを免れ(ミカ5:6-7)、メシアによって救われるとした(ミカ5:1-5)。エルサレムの没落を預言する。
 エレミアは、終末にあってはシナイ契約は無力になり(6)、新しい契約が結ばれるとした(エレ31:31-34)。ユダ王国が新バビロニアに破壊されるという預言だが、結局無視され、紀元前598年以降数回にわたりバビロン捕囚が始まる。

 【シナイ山】(ホレブ山とも シナイ半島)


2 捕囚期時代

 以上の終末論の基本的構造はは捕囚期においても変わらなかったが、バビロン捕囚と帰還という大事件を機に、その視野は世界史的・宇宙論的次元に拡大した。バビロン捕囚の中でユダヤ人独特の文化が生まれ、ユダヤ人という新たな民族的概念、アイデンティティーが生まれた。エゼキエルや第二イザヤなどの預言者が登場し、ヤーウエ信仰を守ろうとした。

 エゼキエルの預言は、イスラエルの裁き→捕囚による破局→神殿の再建と神の恵みによる再興 というもので、人々に希望を与えた。再興への希望は、「枯れた骨の生き返り」(エゼ37:1-11 生き返りは復活とか幻とも訳される)により表されているという。他方かれの終末論は黙示思想的になり、歴史的と言うよりは祭司的な色彩を帯びたという(エゼ28:25-26)。

 第二イザヤは、神がペルシャ王キュロスを用いてイスラエルを救うと救済観を述べ、人々に希望を与えた。救いは、栄光のメシアによるのではなく、「主の僕」によって実現されるとした(イザ52:13-53)(7)。この僕は、人々の罪を贖うメシアであり、ダビデのような政治メシア像は転換される。イエス・キリストの最も明らかな預言とされる。

3 捕囚期以後

 ユダヤ人がエルサレムに帰還した時代に終末論は預言者的終末論から黙示文学的終末論へ移行したと言われる(8)。エズラネヘミアが活躍し、城壁を再建する。
 
 ゼカリアは、終末の到来を超越論的・宇宙論的・予定論的に描き、「七つの幻」として示す(ゼカ1-8)。メシアは、ロバに乗ってエルサレムに来る王として、また、刺し貫かれた者として、二つの異なった類型で描かれる。
 ヨエルは、終末時の神の霊の再臨を描写する。終末の裁きは、イスラエルのみならず世界史的規模へと拡大される。
 ダニエル書は黙示文学の頂点である。その終末の描写は神話的・秘義的・メシア的で、人の子の描き方も宇宙論的である。
 黙示思想の終末論は善悪二元論の傾向が強く、予定論的でもある。預言者的終末論と比べると、終末における悔い改めの要素が希薄で、現実への深いペシミズムが流れている。預言者的終末論は歴史における救いの完成とそれに対する人間の回心と責任を強調するが、黙示思想的終末論は神秘的・秘義的であり、予定説的である。人間の歴史的責任や回心を奪い、グノーシス主義的な(9)現実逃避の傾向を持つ。



1 「または」は「すなわち or」の意のようだ。もともと「時間の終わり」と「救いの完成」は同じではないとされてきたが、新しい終末論・救済論では同じだと言いたいようだ。終末論は歴史の終わりの視点から歴史全体を意味を持つ統一体として理解しようとする。これは独特な歴史観だ。歴史に意味は無いとか、時間は循環するだけだとか考えるとき終末という思想は生まれてこない。
2 K・ラーナーは「無名のキリスト者」論で知られる。O・ゼメロートは共同体論的な神学を展開した。キュンクやラーナーやゼメロートは第二バチカン公会議に大きな理論的影響を与えた。
3 「神が歴史に介入する」とはよく聞く言葉だがその意味するところは多様だ。普通は、神が世界の出来事に介入するということだが、なにかを引き起こすだけではなく、なにかが起きることを防ぐ・妨げる場合も神の介入という人もいる。旧約聖書全体が神の介入の例だともいえるし、イエスの誕生と復活に限定することもあるようだ。
4 メシアとは救世主のことで、「油注がれた者」という意味のようだ。いろいろな説明が可能だろうが、聖書的には、ダビデのような政治的・軍事的な解放者というイメージか、イエスのような受難に代表される神の僕というイメージの二つがあるようだ。メシアを待つ、とはどのような解放者をイメージするかで意味が異なってくるようだ。
5 バール(バアル)とはカナン人の神のこと。最高神では無いが重要な神であったようだ。人間や家畜や作物を不妊・不作・死から救い出すと考えられていた。性的な秘義性を持つといわれ、律法を守らなくともよいと考えていたようだ。聖書によればイスラエル人はカナン人の影響を受けるようになる。
6 シナイ契約とは、モーセがシナイ山で神と結んだ契約のこと。神とイスラエルの民との間で結ばれた契約をさす。神はイスラエルの民の神となり、イスラエルは神の民となる、という契約。十戒を指すこともある(第1戒 わたしのほかに神があってはならない・・・)。
7 イザヤ書の1~39章は第一イザヤ、40~55章は第二イザヤと呼ばれ、捕囚を解放するペルシャ王キュロスの台頭を背景としている。56~66章は第三イザヤで、前520年に始まり前515年に完成したエルサレムの神殿再建が背景となっている。
8 黙示 apocalypse(英)とはもともと「覆いをはがすこと」という意味らしい(岩波哲学思想事典)。転じて世界と歴史の奥義を明らかにすることを意味するようになる。具体的には世界と歴史の終わりを意味することになる。旧約で言えば「ダニエル書」が代表とされるようだ。黙示思想や黙示文学は多岐にわたるようだが、歴史を始まりから終わりに(創造から終末に)直線的につながるものとして理解する点では共通だという。歴史に繰り返しや循環はないと考える独特の時間観念である。ユダヤ教黙示思想はキリスト教を生み出す母胎だったとされる。
9 グノーシス主義とは1~4世紀頃盛んで、古代教会の正統派からは異端とされた思想。霊肉の二元論をとる。グノーシスとは知識・認識を意味し、本質(光・霊)を物質(闇・肉体)よりも重視する。マニ教もグノーシス主義のひとつだという。

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