カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ミサが日本語になった時は嬉しかった ー 96歳信徒の信仰の歩み

2023-11-28 14:44:03 | 教会


 「王たるキリスト」の祝日の翌日、つまり教会暦では今年A年最後の週の今日、当教会の信徒の集まりである「アカシアの会」で私どもが敬愛するSさんのお話があった。テーマは「わたしとカトリック信仰」というものだった。96歳(1927年生まれ)のSさんが戦前をどのように過ごし、戦後日本のカトリック教会でどのような信仰生活をおくられてこられたのか、を聴きたいと思い、わたしは普段はあまり出たことのないこの集まりにいそいそと出掛けた。お集まりになったのは10数名で普段ほど多くはなかったようだが、お話はすこぶる興味深いものだった。

 Sさんは次のような順番で話題を提供された。

1 カトリックとの出会い
2 教会と共に
3 頂いたいのち、神と共に歩む日々
4 皆様より少し高齢を経験している私

 1時間以上にわたって、ゆっくりとしかも丁寧に話された(1)。皆さんも初めて聴く話が多かったようでしっかりと聞いておられた。プライバシーに関わるお話多かったのでここでは私が強い印象を受けたお話を少し紹介してみたい。

1 カトリックとの出会い

 昭和2年生まれで6人兄弟姉妹のまんなか。戦前に横浜雙葉の前身校に入られたが学徒動員などを経験されたという(2)。昭和20年8月15日は動員先の工場がなぜか休みになり、自宅で玉音放送を聞かれたという。洗礼を受けたのは1947年で、その後いくつかの教会や修道会でオルガンを教えていたという。当教会はまだ生まれていない時代だ。コロンバン会によって当教会が生まれる経緯の話は興味深かった(3)。

 公会議後の教会の変化についてのSさんの話は興味深かった。ミサなどでの変化はすぐには起こらず、徐々に変わっていったのだという。大きな変化は1970年頃起こったのではないかという(4)。ミサが日本語に変わって理解できるようになったことが一番嬉しかったという。聖書が変わったり、ミサが対面式になったり、聖体拝領のしかたが変わったりといろいろ変化はあったが、やはりミサがラテン語ではなく日本語になったことが一番嬉しかったという。

2 教会と共に

 受洗は1947年6月という。Sさんが以前から勉強されていたこともあり、信者ではない旧華族のご両親も特に反対されなかったという。ここでは当教会の設立建設過程の話が中心だった。初代主任司祭J.K師が1948年に市内に民家を購入し、新しいお聖堂が1950年に献堂された頃の話だ。昔話とはいえ興味深い逸話がたくさん紹介された。

 第二バチカン公会議は1965年に終わるが、変化がすぐに起こったわけではない(5)。Sさんは当時使っていた「弥撒典書」(6)と「ラゲ訳新約聖書」(7)をお持ちになり、当時のミサの様子を説明された。また、教会の中の様々な信徒の集まり(聖歌隊、コールスマリエ、金曜会、敬老会など)の発足の経緯のお話は大変役立った。教会の『50年誌』などにも載っていない話もあり、興味深いものだった。

3 頂いたいのち、神と共に歩む日々

 主にアカシア会の歴史の話だった。J・K師以降主任司祭は次々と変わり、アカシア会の活動も変化があったようだ。大きな変化は、主任司祭が昭和50年代(1970年代後半)に入り、コロンバン会宣教師から横浜教区司祭に変わったことだという(8)。歴代の主任司祭は以後5年から8年くらいの間隔で交替された。現在は日本人司祭としては(任命されたが病気で着任できなかった司祭を含めて)8代目になるようだ。各主任司祭についての思い出話は話が尽きなかった。

4 皆様より少し高齢を経験している私

 Sさんの健康の秘密は誰しも知りたいところだったのでみなさん真剣に聞いておられた。ところがご本人は、特に変わったことはしておらず、「遺伝」ですとケロッとしておられた。長寿のご一族らしい。とはいえ、持病もなく、水泳もしておられるようだ。スカール(ボート競技の一種)が好きだったという話にはみな驚いておられた。高齢期を乗り切る3種の神器があるという。それは2本の杖(両腕)とリュックサックだという。みなさんこの話では盛り上がった。

 最後にみんなでいつも通りSさんのオルガンに合わせて文部省唱歌を歌った。今回は「故郷」と「紅葉」だった。楽譜がなくとも歌える方が多く私は身が縮む思いだった。


1 原稿はご自分でパソコンで書かれたらしく、数ページあった。A4用紙にきれいに印刷され、何度か見直されたようで赤が入っていた。準備してこられたのであろう。
2 昭和10年代のカトリック教会は、「天主公教の信徒」か「皇国の臣民」か、の軋轢に苦しんでいた(三好千春『時の階段を下りながらー近現代日本カトリック教会史序説』2021 オリエンス宗教研究所)。
3 三好氏によれば、戦前の教会はパリ・ミッション(パリ外国宣教会)中心で動いていて、外国人宣教師への依存度は高かった。戦後はフランスのみならずドイツアメリカなどから数多くの修道会が日本に入ってきた。1950年代にはカトリック信者は激増する。年間2万人近い人が洗礼を受けていたという(ちなみに2022年の受洗者数は幼児洗礼を含んでも5千人を切っている)。やがてカトリック教会は、第二バチカン公会議を経て、信徒数だけで言えば、現状維持から衰退の時期に入っていく。
4 第二バチカン公会議は1962~65年。
5 三好氏によれば、日本の司教団の第二バチカン公会議の受け止め方は当初は十分なものではなかったようだ。典礼面でいえば、背面ミサから対面ミサへの変化など典礼の変化はゆっくりとしか進まなかったようだ。このなかで「聖書100週間」の成立など日本が世界に誇るべき習慣が生み出された。とはいえ、最も大きな影響を与えたのは「現代世界憲章」だという。これを契機に日本の司教団は正平協の改組など大きな態勢の変化をめざした。宣教派(信者を増やし、教会を増やすのが大事)と福音派(リベラル化+土着化)の対立が顕在化し、司教団は福音派へと大きく舵を切ったようだ。
6 この「弥撒典書」とは信徒用のもの。司祭が祭壇で用いるものとは異なる。第二バチカン公会議以前はごミサには信徒がこの弥撒典書を持っていく習慣があった。現在は「聖書と典礼」があるので、ミサで読むべき朗読箇所がわかるが、当時は祈祷文も探すのが大変だったという(当然文語。なお、弥撒は当て字、いわば語呂合わせで、ミサ のこと。弥は「あまねく」、撒は「手で撒く」という意味。英語ではMassで、ラテン語の missio(ミッシオ)が語源だという。「派遣」を意味するようだ)。

【弥撒典書】

 


7 このラゲ訳新約聖書も普段使っておられたらしく、今回は「山上の説教」(マタイ5:3~10)の部分をコピーして配られて説明された。このラゲ訳の「我主イエズスキリストの新約聖書」は、ラテン語のヴルガータ訳から1910年に日本語に翻訳されたもので長く使われたという。やがて1957年に口語訳で出るバルバロ訳のベースになっている。バルバロ訳より詳しい注がついているが、それ以上に訳文が流麗なので長続きしたようだ。(私は1964年のバルバロ版は持っているが、ラゲ版は残念ながら持ってはいない。現在はkindleで読める。なお、プロテスタント系では文語訳新約聖書は岩波文庫版(詩篇付き)が手に入れやすい)。聖書研究が発展するにつれてこのあと聖書の改訳が続いていく。『聖書協会共同訳』が最新だが、カトリック教会は現時点ではこの聖書のミサでの使用をまだ明言していない。

【ラゲ訳 我主イエズスキリストの新約聖書】

 

8 日本の教会は修道会の宣教師によって維持発展させられてきたものが多い。神父といえば外国人の宣教師というイメージを持つ人は多かった。第二バチカン公会議以降は各地の修道会管区の教会が教区移管されるようになる。日本のカトリック教会が組織としても自立していく過程だが、それでも教育機関を初めとして修道会の果たす役割は大きかった。やがて現在は多くの修道会が日本から続々と撤退し始めているという。

 

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