2023年2月の学び合いの会は晴天のもと、まるで春が来たかのような温かい日に開かれた。まだマスクはとれないが、10名の方が集まった。
今回はルター論である。M・ルター個人を論じるのか、ルター派を論じるのか、その区別は明確ではなかった。カトリック教会とルター派との微妙な関係が反映されたためかもしれない。
表題の「ルターは敵か仲間か」はちょっと大袈裟で気が引けるが、これは私個人がつけたもので勉強会で用いられたものではない。とはいえ、この表題には2つの意味を込めている。
一つは、ドイツ農民戦争(Deutscher Bauenkrieg 1524~25)のなかで農民から見てルターは仲間だったのか、敵だったのか、という意味にもなるし、もう一つは、ルター・ルネッサンスとエキュメニズムの流れのなかで生まれた1999年のバチカンとルター派との和解文書「カトリックの義認の教理についての宣言」のなかで、ヴァチカンからみてルターは敵から味方に変わったのか、という意味も込められている。本報告はルターを肯定的には捉えていないように聞こえた。
今日の論題は、「ルターの改革運動のまとめと残した問題」と題された小笠原優師の30頁余の小稿の紹介・解説であった。これは小笠原師が長らく続けておられる講義「キリスト教2000年史」のなかで用いられたものだという。私はこのペーパーそのものを読んではいないので、この要約は不正確かもしれない。師のこの講義はいずれ単著として公刊されることを期待したい。
目次は以下の通りである。
A ルター神学
1 導入
2 ルター神学の基礎となった種々の要因
3 ルターの覚醒と神学思想
B ルターをどう評価すべきか
1 ルターの正しかった点
2 ルターの問題点
3 ルターの教会改革がキリスト教圏に残した種々の問題
4 教会改革運動の分裂
5 ルターの「自由な教会」の行方
6 ルター派神学の確立
なお、本稿では、宗教改革は「教会改革」と呼ばれる。Reformatio(羅)またはReformation(英・独)は現代日本語では宗教改革と訳されているが、この言葉は改革だけではなく革新とか維新とか刷新とか訳せるが、改革という訳語が定着した経緯ははっきりしない。それよりもこの言葉は意味内容からして「キリストの教会の改革」なのであり、いわば「教会改革」であって「宗教一般の改革」ではない。だがルターの持つ歴史的意義からこの宗教改革という訳語が用いられているのであろう。小笠原師は「宗教改革」は「誤訳」であると断定している(1)。
【M・ルター】
A ルター神学
Ⅰ 導入
1 ルターは自分の神学全体についての組織的叙述はしなかった:ルターは基本的に聖書解釈者であり、神学者ではなかった。説教において、またその時時の状況に応じて、自分の神学的見解を示しただけである。したがって、ルターの神学全体を客観的に組織だてて記述することは困難である。
2 ルターの生きた時代環境:
①イスラム世界との対立、緊張がもたらした社会不安が強かった
②イギリス、フランスは絶対主義国家を確立したが、ドイツ、イタリアは国民国家を成立させることができず、小国の分裂状態であった。
③ローマ教皇は中世以来の教会国家の立場を維持した。教皇領などである。
④フッガーをはじめ(2)、財閥が力を持ち、政治まで支配していた。
⑤農民層は教会と領主に不満を持っていた。
⑥ローマ教会への不満が強かった(教皇庁の中央集権化・贖宥制度・聖職者の堕落など)
Ⅱ ルター思想の基礎となった種々の要因
1 身近になった聖書
当時の人文主義による「源泉回帰」の動きは聖書と古代教父文書の研究を促した。特にエラスムスの聖書運動が与えた影響は大きい(3)。エラスムスの『校正版新約聖書』(1516)はルターの聖書研究に影響を及ぼした。また、印刷技術の発展も大きな要因に一つとされる。
2 アウグスティヌス修道会におけるルターの初期養成
①ルターの思想的基盤を考えるとき、まず彼の家庭環境、すなわち親の影響がよく挙げられる。また、幼年教育時代の「デヴィチオ・モデルナ」運動の影響も忘れてはならないという(4)。
②アウグスティヌス会の初期養成のなかで、修道院の厳格な規律遵守がルターに歪んだ罪意識を産み付けたと言われる。日に何度も指導司祭シュタウビッツに告解を求めた言われる(5)。これはルター自身の生来の内的・精神的問題が原因だと言われる。
③アウグスティヌス修道会では聖書研究が義務付けられていた。ギリシャ語とヘブライ語の習得も行った。この修道会は、オッカム主義に傾斜して(6)、スコラ神学を批判した。しかしルターがトミズムを正しく理解していたかどうかは疑問視されているという。オッカムとともにアウグスティヌスの教説を学んだという。若い時、修道院の規則を厳格に守ることで心の安らぎを得ようとしたが失敗して傷ついたという。
長くなるので、続きは次稿にまわしたい。
注
1 小笠原優『信仰の神秘』 2020,403頁
2 フッガー家 Fugger は16世紀ヨーロッパ最大の国際的金融業者。本店はアウグスブルク。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝とスペイン国王を支えたが、産業革命の中で衰退していく。
3 エラスムス (1466−1536) 西欧ルネッサンス期の最大の人文学者。オランダ・ロッテルダム生まれ。1516年に初めてギリシャ語の新約聖書を校訂し、「校正版新約聖書」を出版した。これはラテン語とギリシャ語の対訳で、ラテン語の注釈がついているという。この業績は16世紀における近代語訳新約聖書の普及に貢献した。普通は『痴愚神礼賛』(1509)の著者として知らている。この本はT・モアに捧げられたもので一種の社会風刺だという。キリスト教信仰は最大の愚行だが実は最高の知恵だと大衆に悟らせる物語だという。エラスムは当初は宗教改革に貢献したが、かれのペラギウス的『自由意志論』はルターの『奴隷意思論』によって批判され、やがてルター派をも含む改革派から絶縁される。
4 「デヴィチオ・モデルナ」運動については前稿ですでに説明してある。オランダのグローテ(1340−84)によって創設された信仰運動で、神への奉仕のために神に自己を捧げることを重視した。具体的には、キリストに従う愛の業を実行することによって神との一致を追求する。スコラ神学による真理の認識を信仰の基軸にする考え方を批判した。知的認識ではなく、信仰体験による愛の追求を目指した。共同体的な修道会ふうの運動で、当時大いに流行したようだ。トマス・アケンピスの『キリストに倣いて』はこの運動の中で生まれたと言われる。広い意味での霊性運動、神秘主義運動とみてもよいのかもしれない。
5 第2バチカン公会議以前には、日本でも、一日に何回もミサにあずかったり、何回も告解したりしてはいけないと、教えられていた気がする。現在は、複数の司祭が一緒にミサをあげても良いようになり、こういう教えも意味を失ったのかもしれない。
6 オッカム(1285−1347) イギリスのフランシスコ会の哲学者。普遍は概念次元の言語だという唯名論の立場を取った。また、意思主義の立場を取り、行為の善悪は意思の働きの有無にょるとした。さらに、教皇不可謬論を批判し、公会議優位説をとり、公会議が教皇を替えることも可能だとした。