以上概観してきたように、キリスト教と他宗教を巡る議論は様々な形で展開された。結局これらの議論は三つの立場に整理されていったようだ。ここではイギリスの神学者アラン・レイスの分類を見てみたい(1)。宗教的排他主義・包括主義・多元主義の三つである。これはキリスト教の救済論の中で「レイスの三類型」と呼ばれ、最も標準的な類型論のようだ。とはいえ時代的制約もあり、現代の議論までは射程距離に入っていない(2)。
Ⅳ 現代における他宗教観の三つの方向
S氏はここでは「方向」と表現しているが、「類型」と言い換えてみる。それは、教会が三つの異なった方向を目指しているという意味ではなく、救済論には三つの類型があり、教会の他宗教観はこの三類型からみるとよく見えるようになるという意味だ。どれか一つが正しいとか、どれか一つの方向に進まねばならないという意味ではない。性急な判断は正確な理解を妨げかねない。
1 宗教的排他主義 Exclusivism
特定の宗教を絶対視する思想のこと。ある一つの宗教だけが正しい、真理であると主張する教義を持っている宗教のことである。キリスト教では、救済には、神の子イエスへの信仰とその教会への帰属が必要であるとする立場を指す。カトリックの「教会の外に救いなし」説、プロテスタントの「キリスト教の外に救いなし」説をさす。
カトリック教会では第2バチカン公会議でこの排他主義を否定したが、今日でもこの排他主義を奉ずる信徒が存在すると言われる。プロテスタントでも、福音派の原理主義者にもこの立場をとる者が多いと言われるが(3)、日本の自由主義神学系のプロテスタント教会には、この排他主義をとらない教会が多いという。現在のカトリック教会はこの宗教的排他主義を批判している。実際今日のグローバル化が進んだ世界で他宗教の存在を否定することは現実的ではないだろう。
2 宗教的包括主義 Inclusivism
一般的に言えば、他宗教の存在を認め、その教えに一定の価値があることを認めながらも、自分の宗教の方が優れていると考える思想である。現在のカトリック教会はこの立場に立っていると言われる。
2-1 包括主義の概要
① 他宗教の神についての認識を認める。一般的啓示を認める
② 神は全歴史の中に現存し、行為している
③ キリスト教以外の神認識も一つの啓示である
④ 多くの宗教はキリスト教のように「歴史における神の実存」といいう認識を持っていない
⑤ キリスト教以外の宗教の神認識は、キリストの決定的啓示へ導くもので、準備的啓示である
このように、カトリックの宗教的包括主義の立場は、他宗教を尊重する点で排他主義的ではないが、歴史への神の介入を想定している点で包括主義一般とは異なっているようだ。
2-2 包括主義の意味
① 神と人との仲介者はイエス・キリストのみである。イエス・キリストの救いは、キリスト者に対しては教会を通して与えられる。
② 同時にキリストの救いは、他宗教の内にも隠れた形でその固有の伝統を通してもたらされる。
③ 他の宗教を信じる者は、キリストに至る完成を望んでいる「潜在的なキリスト者」あるいは「無名のキリスト者」である限りにおいて、救われる。
このように、包括主義と言ってもカトリックのそれはかなり限定的である印象を受ける。無名のキリスト者とは、誰でも良いというわけではなく、キリストによる完成を望んでいる者とされている点が特徴的だ。
2-3 カトリック教会と包括主義
カトリック教会の教えには第2バチカン公会議以前から包括主義的傾向が存在していた。カトリック教会は、プロテスタント諸派のように、古代イスラエルとキリストという特殊啓示にとらわれず、一般啓示を認めてきた。例えば、トリエント公会議の「秘跡を受ける望み」の思想、ヤンセニズムの拒否、ピオ9世の回勅などにその姿勢を認めることができる。
この姿勢は1960年代に入り表面化し、第2バチカン公会議において他宗教における救いを正式に認め、包括主義的立場をとった。
2-4 K・ラーナー Karl Rahner (1904-1984)の思想
カトリックでは包括主義はカール・ラーナーと結びつけて理解されることが多い。ラーナーは第2バチカン公会議で活躍しただけではなく、その後も影響力は大きかった。ある時期カトリック神学者の大多数は包括主義一辺倒になったと言われる(4)。かれの主張を次のようにまとめてみる。
① 神の普遍的救済意志は、キリスト教以外の宗教にも含まれているはずである
② キリスト教以外の宗教は、キリストという真の啓示に至る架け橋として積極的役割を有する
③ キリストは諸宗教の中にもその霊によって現存し、働いておられる
④ もしキリスト者がこれを否定するのならば、救済を非歴史的方法で理解しなければならない。しかしそれはキリスト教の歴史的・社会的・教会的性格と矛盾する。
⑤ このことは、キリスト教と他宗教との関係を並列的に理解することではない
⑥ キリスト教以外の宗教の信者はキリストによって救われている(「無名のキリスト者」である)
2-5 H・キュンクのラーナー批判
キュンク Hans Kueng (1928-2021)は、スイスの神学者(司祭)で、ヨハネ・パウロ2世をはじめバチカンを厳しく批判した神学者としてよく知られている。司祭の独身制、女性司祭禁止、改革への抵抗姿勢などの点でキュンクのヴァチカン批判は厳しいものがあったが、ラッチンガー(ベネディクト16世名誉教皇)とならぶ20世紀の代表的カトリック神学者と評されているようだ。残念にも今年4月に訃報が伝えられたばかりである。このキュンクがラーナーの包括主義(包摂主義)を批判している。
キュンクは、ラーナーが他宗教の救いをキリストに至る暫定的なものだとする見解を批判し、他宗教は多元的にそれぞれの救いの道を開いていると主張した。一体誰が「無名のキリスト者」 ein anonymer Christ と呼ばれることを喜ぶか。キリスト者が「無名の仏教徒」と呼ばれたらどんな気持ちになるか、と問う。
キュンクは、キリスト教の絶対視(たとえばバルト)も相対視(たとえばトインビー、ヤスパース、ヒック)も両極端だとして批判する。つまり排他主義も多元主義も批判する。そして他宗教との「対話」を提唱する。キリスト教は「触媒」として世界宗教の中で奉仕する役割を担っていると主張した。
このキュンクの「宗教間対話説」はやがて「世界倫理説」へと発展するが、これは包括主義から多元主義への変化への徴であったという解釈もあるようだ(5)。
ラーナーとキュンク
3 宗教的多元主義 Pluralism
政治的多元主義はコーポラティズム論との比較で論じられることが多いが、宗教的多元主義にはそういう視点も歴史的背景もないようだ。宗教的多元主義は、単に複数の宗教が存在して、相互にその存在を認め合いましょうという程度の思想として理解されることが多い。かなり漠然とした理解だ。
理論的には宗教的多元主義はJ・ヒックをベースとして論じられることが多いが、ここではカトリックが宗教的多元主義をどうみているかを見てみる。
神は、様々な民族にそれぞれの状況に応じて、違った仕方で、自らを啓示したと考えられる。イエス・キリストの救いが唯一絶対で、決定的意味を持つと考える必要は無い。おのおのの宗教は救いに関して独自の役割を担っている。イエス・キリストはキリスト者にとっての道であり、キリスト者以外の者にとってはそれぞれの宗教的伝統による別の道がある。
以上、救済に関する「レイスの三類型」をみてきたが、どれも救済論を念頭に置いている。カトリック教会から見れば包括主義の立場への立脚はしばらく続いていくだろう。けれども、救済を考えない宗教、たとえば輪廻とか悟りの観念を中心とする宗教をこの三類型で議論することは難しいようにも思える。平和資源としてキリスト教を捉える平和資源論も、包括主義の発展形態とみるか、多元主義の新たな展開とみるかは議論の分かれるところだろう。キリスト教の平和思想の展開を見守りたい。
注
1 Alan Race, Christians and Religious Pluralism: Patterns in the Christian Theology of Religions, 1983。 宇田進 『現代福音主義神学』 2002。福音主義神学の総帥だった宇田進氏は先日亡くなったばかりのようだ。教団系はバルト神学系らしいので自由主義神学系といいきれるかどうかわからないが、宇田氏は福音主義派だという。
2 たとえば、カトリシズムと多元主義は繋がりうると主張するチャールズ・テイラーの議論などがある(高田宏史『世俗と宗教のあいだ』風行社 2011)。
3 K・バルト(1858-1922)の福音主義神学では、啓示はただ一回イエスにおいてのみなされたとするようだ。つまり、キリストに先立つ旧約の啓示、自然神学的神認識(啓示によらない、理性による神認識)は否定されるという。他宗教、異邦人の宗教は人間の作り出したもので罪であると考えたという。こういう文脈でバルトを排他主義の立場に立つときめつけるのは議論のあるところだろうが、アメリカで支配的な原理主義的福音主義は排他主義と親和性があるという意味だと理解しておきたい。
4 K・ラーナーの訳本はたくさんある。わたしが知ったのは小林珍雄先生の訳本の時代だが、現在は稲垣先生や百瀬師のものがよく読まれると聞く。
5 宗教的多元論の主唱者であったジョン・ヒック(イギリスの宗教哲学者)がよく引用されるようだ。