木彫り倶楽部 more

本来は、木彫り教室のブログでしたが。。。還暦を迎え自然農にはまり、自然からの恵みや日々の気づきを気ままに綴っております。

食べることは生きること 農業から学ぶ

2022年05月31日 | つぶやき
昨日は雨☔恵みの雨
実は一昨日の五名は水が無かった
池の水位が下がり流れて来ない。

ゴミは当然ですが、洗い物も全て持ち帰り自宅で後片付け。昼前で完了😁

Nさんは今日も苗の様子を見に行き、水を補給してくださったようです


棚田の米作りイベントは前半終了しましたが稲作はここから始まります

降水量の少ない香川県

山間部の棚田の維持は、想像以上に過酷です。でもそれゆえ人が去り自然豊か。
皮肉だなぁ…人間は地球にとってのガン細胞なのかもしれません。

一昨日車で休憩しているときに、外を飛び交う蝶や蛾の種類が多いことに驚いた❗️
中でも小さいシジミ蝶の種類が多い

紋白蝶や揚羽蝶は街中でもよく見かけますが、シジミ蝶はほとんど見なくなりました。
貴重な水生昆虫も多く棲む五名の里

ここの棚田は、Gomyo倶楽部のメンバーと石田高校の先生や生徒達がいなければ保持できません。今まで守ってくださったHさんのご意志を引き継ぎ頑張っていますが、所有者は別の方。いろいろと大人の問題が出てきそうです😔

や植物にかぶれる私は、準備と後片付けぐらいしかできないけれど、わずかでも関われることが嬉しい😃💕

去年のゲスト体験も勉強になりましたが、
今年はメンバーとしてお手伝いすることで、より深い経験をさせてもらっています。

米作りは手間がかかる大変な作業です。
でも日本人の主食の米。誰かがやらねばならぬこと。
明治維新までは、米を作る農民を大事にしました。地位の一番高い武士の報酬はお金ではなく米でした。米の保存期間は長くて3年
湿度の高い日本ではカビるか腐るので貯蔵して私腹を肥やすことができない。
賢い制度だったと思います。

議員さんの報酬も米にすればいいのに😝

そしたら、もっと農業を大事にするようになるでしょう。農業を大事にすれば、自然を守る気持ちになるだろう。

食の安心&安全は国の最優先事項だと思う
おっと、横道にそれました😁

ここのお米は富田神社への奉納米
多くの人を養える訳ではないけれど、田作り、米作りを通して、先人達の知恵と技能が学べる場所として残さねばならないと思います。

香川大学からも多くの方が来てくださった
三木の里山保全からも来てくださった
この貴重な環境と活動がずっと続きますようにと願わずにはおれません✨

だって…農業を知らない子ども達ばかりになったら、何を食べて生きていくのでしょう?
外国から買うのでしょうか?
それとも、合成人工食材のようなものができるのでしょうか?

食べることは生きること

環境を汚せば、食べるものも汚染される
水は命の水

人間も自然の一部
それを忘れてはいけないと思う






コメント (2)
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食べる事は生きること 多様性

2022年05月31日 | 子育て
何をどのように食べるのかは、人生をどう生きるのかに繋がっていると思う
点滴や栄養補助食品でも生きられるかもしれません。でもそれは、合成化学肥料で育った水耕栽培の野菜のようなもの。全て管理され虫も付かずキレイな野菜。味も遺伝子組み換えで美味しいかもしれない。美味しいものが栄養価が高いとは限らない。本当は逆。
そして環境が変われば、適応力がなくすぐ枯れてしまうでしょう。

子ども達をそんな人間に育てていませんか?
収穫した野菜を見て思う。不揃いだったり、虫食いがあると、食べるために手間がかかります。均一なら楽なのです。管理しやすいのです。

人間も知らず知らずのうちに、管理する側とされる側に別けられていませんか?
大事な子ども達を、管理されて食べられる(搾取される)人間に育ててはいませんか?

20歳の時、教育実習に行った母校の中学校で『生徒管理』という言葉に違和感があり教員を目指すことを止めました。

その違和感の元が何だったのか…最近それにようやく気付きました。戦後教育…それこそが管理された水耕栽培のような人間を作ること。

均一で従順な労働力としての人間育成
管理しやすい人間の育成が、今の義務教育の本質のように思うのです。(現場の先生の事ではありません。教育指導要領がそうなっているのです)
算数のさくらんぼ算なんてその最たるもの。

人間は不揃いで当たり前
傷ついたことのない人間なんていません
だからこそ、守らなければいけない
でもそれは、他人が外から守るのではなく、自ら守れるように支援でなければいけないと思う
傷ついたり躓いたりしながら、それを乗り越えるから、味がある人生がおくれるのだと思うのです。

苦があるから楽がある
悲しみがあるから喜びを知る
それが生きることではないでしょうか?

管理する側(グローバリスト?ディープステート?)には、邪魔な人間の個性や感情。
それらを一見認めるような『多様性』という言葉に違和感があります。

本来、人は一人一人違う。多様な生き物。
だからお互いの違いを認め、集団の中では同じ所を見つけ、繋がりを保たねばならない。お互いの個性を重んじるからこそ、自重し謙虚でなくてはならないのに、『多様性』という言葉で、自己中心的な考えを肯定する風潮に違和感があるのです。
個人がバラバラになって喜ぶのは、管理する者です。団結すれば強力でも、個は弱い。コントロールしやすくなるから。

違いは主張するものではなく、黙って認めあうもの。違いを主張しあえば、争いになる。

沈黙は金なり
口は災いの元

なぜそんな当たり前のことをわざわざ声高に言うのかが私には理解できない。

認めてもらっていると思えば、主張しないでしょう。認められていないと思うから、主張するのかもしれません…

そもそも全員の人に認められるには、相当の努力と天性が必要だと思う。
大体は10人中1人か2人。1人でも自分を認めてくれる人がいればいい方だと思う。

十人十色
認める人もいれば認めない人もいる
それで良いのではないだろうか?
人はみんな違うのだから、みんなが認めなければいけないと言うことはないと思う

それを、認めるから良い・認めないから悪いにすり替えるから、争いになる

自分の個性を認めていないのは、相手ではなく自分自身。
誰が良い始めた言葉かは知りませんが、その人自身のコンプレックスが生んだ言葉が『多様性』のような気がします
人にどう思われようが、自分らしく生きればいいと思う。あなたが自分を認め輝いていれば、周りも自然と認めるようになる。

主張したければすればいい。でも、主張したから全員が認めなければいけないと言うのはおかしいと思う。

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