真剣道外伝★無端晟輝の残日録

真剣道・基道館宗師範の残しておくべき余談集

オーガニックコーヒーを飲むために

2019年08月20日 | 安全な食品

 

3日に一度ダーリンは、ブラジルの品評会でオーガニック&手作業で史上初めて金賞になった生豆を焙煎してくれる。

これは「安全な食品オルター」が安価に提供してくれている。

 

フェアトレードのペルニーニョさんの豆は1kg 3000円

1杯に使う粉を10gとして(多いし,濃い)  計算すれば単価は30円

これは、素晴らしいコーヒの飲み方です

 

もちろん手作業で細心のタイミングを求められる。

これが、ものすごい煙と焙煎匂を伴う。

 

50m離れた地点でも焙煎していることはすぐわかる。

 

天神山に転居し、1週間がたったころ、ダーリンは以前の任地である某大学の寮に住み着いて、連れてきた野良猫(くろ)を抱いて散歩に出た。

すると見慣れない風景に慌てたくろは逃げ出してしまった。

以降10日戻らなかった。ダーリンの後悔,心痛は、悶えるばかりで見ていて気の毒なばかりか、病気になると思った。

 

でも、コーヒーは焙煎する

 

ある日、ニャーニャーと声がするではないか。

おそらく猫のにおいもついていない新居でも、コーヒーの焙煎は「ああ、大学でもこのにおい」と思い出してくれたに違いない。

 

やせた、くろを抱いたダーリンのほっとした顔は、ぼさつ様かと思った。

 

現在は 幸せかどうかはくろに質問できないので、休題とするが、ごらんのとおりです

 

 

 


中島町営汽船

2019年08月20日 | 転換点

中島町が松山市になった。

温泉郡という名前はどこかに行ったのだろう

 

皆さん〇温印のミカンは 温泉郡のトレードマークでした。

ご存じのとおり、温泉郡は松山市を取り囲むようにありました。旧道後も 温泉郡道後村です。

さみしいですね。

ところで、1980年ごろまで、中島町営汽船はフェリーの中の売店には「進和コーヒー」のうまい本物を売っていた。

 

 

これに乗って大浦に行ったものだ。別に高速船というのもあった。

中島には吉木に福島さんという初めてネーブルを育てたお方がいて、当時の私の会社日興繊維の顧客でした。

また、大浦には池田さんという顧客がいて、月に一度中島を訪問していました。

吉木から峠を超えて大浦に徒歩で向かう、後ろから農協の軽トラが来る、おにーちゃんどこ行くの?

大浦です、それじゃあ乗せてあげるけん、あしも行くところじゃ(古い松山では一人称 あし)

途中で、「ここ見るけん、座っとき」と農協の親切な人はミカン畑に入った、帰ってくるとミカンを手にしている

「あしは、味見をする役もあるけん、あんたも食べて意見を言うたらええ」

1970年代のお話です

 

その絶品のうまさは今では願うべきもない。

 

 

 

今日民間になった中島汽船に電話した。

 

 

現在フェリーの売店ではコーヒーは何を売ってますか?

バリスタです

 

そうか、中島 怒和から出て、一代で四国を制圧した進和コーヒーは、忘れられたか。

陸軍士官で生きて帰ったその人も忘れられたか。

当時の中島の人たちは、それを誇りに思いせっせと飲んだに違いない。

 忽那水軍のきずなは強かったのですが・・・・・

 

電話のねーちゃんは めんどう、という態度だった。

無理もない 中島の思いは民営化にはかなわない。

 

ポンポン船が懐かしいこの頃です。