久松には、久松五勇士をたたえる顕彰碑がある。
1905年 ロシアのバルチック艦隊が極東に向かって
航行しているのを、いち早く発見した久松の漁師が、
この一報を伝えるために、当時通信施設があった
八重山までサバニを漕いだという話。
しかし日本本土への連絡は信濃丸の方が早かったそうだ。
日本軍は、バルチック艦隊発見のために全国に見張り所を
置き、発見に全力を尽くしたが発見したのは、
離島の漁師だったというのでは面子が保てない。
実際は久松漁師の方が早かったという話もある。
これは定かではないけれど、この出来事は
当時の最大の秘密事項とされ、戦意高揚のプロパガンダに
使われるまで、久松ではかん口令が敷かれた。
これは、当時の人と関わりのある人達から直接
聞いたのだから、間違いない。
オバァも久松出身で、五勇士の親戚にあたる。
生五勇士と関わった数少ない人でもある。
時は流れ・・・・沈没船や海の中の戦跡がブームになったころ、
もしかしてこの島にも戦時中に沈んだ船や飛行機が
あるのではないかと、探したことがある。
伊良部の漁師から「ファントムを海の中で見た」
という話しを聞いて、米軍の資料から
探したこともある。直接問い合わせたところ、戦闘機は
機密が多いので、もし墜落すれば
大がかりな捜索があり、そんな事実はないといわれた。
この話を何気にオバァに話したところ、
「そこらへんに大きな爆撃機が落ちてるさぁ」
と普通に言うではないか。「どうして知っているの?」
と聞いたら、「そこの木の上にあがって見ていたさ。
どこそこのオジィなんかも一緒に見ていたから聞いてごらん。」
そんな事実があったなんて。
「乗組員も空から降りてきたけれど、みんなで叩いてたさぁ」
戦後かん口令が敷かれて、これも最大の秘密事項となったそうだ。
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kijimuna
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