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唐津焼の誕生…「唐津焼を愛でる-器に広がる無限の景色-」 (4/10まで!)

2013年03月22日 | 展覧会
現在開催中の中里家寄贈品展「唐津焼を愛でる-器に広がる無限の景色-」、
古唐津を中心とする61点と陶片47点を展示しています。
入場は無料ですので、この機会にぜひご覧くださいね。


【唐津焼の誕生】

 肥前の陶器、唐津焼の作陶は中世末、1580年代頃に唐津市の北波多地域で始まりました。当時上松浦党の盟主であった波多氏が、朝鮮半島より陶工を呼び、岸岳山麓で開窯したのが始まりと考えられています。
 この岸岳城下の窯群を岸岳系と呼び、唐津焼草創期の窯とされていますが、その製品や窯の構造を見てみると、複数の陶工グループの存在が予想されます。皿屋窯と帆柱窯は、藁灰釉と呼ぶ白濁した釉薬を多用し、飯洞甕上窯・下窯は、灰釉や長石釉をかけた製品を焼いています。また皿屋上(溜池)窯は、壺・甕などタタキ成形の袋物専門の窯で、朝鮮半島の、いわゆる「オンギ」製作集団が渡来したことが明らかです。
 それではなぜこの時期・この地域で、肥前における陶器生産が開始されたのでしょう。九州陶磁文化館の大橋康二氏は、同館特別展の図録『土の美 古唐津』のなかで、以下のように述べられています。
 「16世紀、戦国時代に流通経済が活発になり、人々の生活が豊かになっていく中で、陶磁器に対する需要も増大する。磁器では中国の景徳鎮の染付けや白磁が上流階級の食器として流通し、瀬戸・美濃窯の灰釉陶器皿や天目碗が東日本から関西中心に広く流通した。そうしたエネルギーを基盤に織田信長、豊臣秀吉によって天下が統一される。この信長、秀吉の軍備調達に大きな役割を果たした堺商人が茶の湯をさかんに行い、信長、秀吉時代に茶の湯が流行る。」「天正15年正月3日には九州の島津征伐の出陣に当たり、大坂城で大茶会が催され、博多の豪商神谷宗湛も上洛参会している。5月には島津氏が降伏して九州征伐が終わるが、その結果、波多氏も鍋島氏も秀吉の支配下に入った。天下人秀吉が茶の湯をさかんに行う中で、それまで朝鮮半島との往来をしていた波多氏が、朝鮮の陶工を連れて来て陶器生産をさせようという発想に至ったものと思われる。」とし、肥前陶器の生産には、畿内を中心とする国内事情が大きく影響していたと考えています。
 秀吉の九州平定の翌年、波多氏最後の当主、波多親は鍋島氏と共に上洛しますが、天正17年3月付の波多親書状には、千宗易(利休)・宗及から御茶を給わったこと、名物などを多々拝見したこと、宗易よりは御道具の数々を給わったこと、その上で、家の安泰のためには秀吉に対する奉公を続ける覚悟が第一などと記されています。
 このような状況から「茶陶製作を(秀吉への奉公における)一つの方策として考え出し、」その年代は天正年間でも、波多親の上洛後、天正17年(1589)以降のことであろうと大橋氏は推定しています。
 しかし文禄2年(1593)5月、波多親は朝鮮出兵中、「軍律違反」を理由に、突然改易となりました。改易の背景については様々な解釈がなされていますが、いずれにしろ保護者を失った陶工たちは岸岳山麓を離れ、各地へ散っていったとされています。
(展覧会リーフレットより)


第4回 中里家寄贈品展
「唐津焼を愛でる-器に広がる無限の景色-」

【とき】

  4月10日(水)まで 入場無料
  午前10時-午後6時
  (入場は午後5時30分まで)

【休館日】

  月曜日、4月3日(水)

【ところ】

  唐津市近代図書館 美術ホール(1階)

【主催】

  唐津市教育委員会

【問い合わせ】

  唐津市教育委員会 文化課
  TEL 0955-72-9171

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