旅日記。場所は伊豆の国市、韮山近辺。ときは2018年11月。
どうも~!テケです。(≧◇≦)
さて、伊豆箱根鉄道駿豆線の韮山駅で降りて韮山城までレッツゴーです。
線路沿いにテクテク歩いて写真に車が写っているところを左に曲がって線路を渡ると果てしない一直線の道がど~ん!
広い田んぼが印象的!
歩道には伊豆の国市ゆかりの歴史的人物などが描かれています。陶板製かな?6枚まとめてみました。
まだまだ続くよ♪ ど~こまでも~♬ 左に見える一番手前のこんもりとした山が韮山城址かな。その左の建物が韮山高校で正面が韮山中学です。
韮山駅を降りて30分くらい歩いたでしょうか。右手に公園らしきものが見えてきました。
この地に流された若き日の源頼朝とその恋人の北条政子像がありました。二人が向いてる方向には晴れてれば富士山が見えるはず。。だけど。。。残念、雲が多くて見えなかったです。。^^;
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【解説版 転記】
蛭ヶ島の夫婦(ふたり)
治承元年(一一七七年) 源頼朝(三十一才) 二人はこの地で 北条政子(二十一才)結ばれる
日本史上にその名を残す二人の若き日の姿である
平成十五年秋 吉日
像・寄贈者 佐藤美智子 題字・韮山町長 渡辺解太郎
制作者 山田収
遺跡 蛭ヶ小島(ひるがこじま)
永暦元年(一一六〇)
源頼朝公配流の地
蛭ヶ小島
三嶋大社宮司渡邊清次郎書
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公園名は「蛭が島公園」。歩いていく道から見て奥にもう一つ公園の入り口がありました。
説明看板を転記しておきますね。
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蛭ヶ島(ひるがしま)(源頼朝配流の地跡)
このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝(ひょうえのすけよりとも)配流の地といわれている。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。
永暦元年(一一六O) 十四才でこの地に流された頼朝は、治承四年(一一八O)三十四才で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流二十年間における住居跡等の細部は詳らかではない。 しかし、「吾妻鏡」治承四 年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約一、五粁(km)の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。 このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(一一七七) 頃までの約十七年間を、ここ蛭ヶ島で過したものといえよう。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政二年(一七九O)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されている。 また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当つた荻原正夫が、明治二十六年に建立したものである。
伊豆の国市
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源頼朝の流刑地「蛭ヶ小島」としてテケも知っていましたが、「蛭ヶ島」って表記になってるね。研究者の意見が分かれているようですね。。狩野川がちゃんとした堤防が築かれていないときは中洲にポツンと小島があってそこが居住地だったようなイメージでした。。でも、考えてみれば、流人と言っても当地の豪族の北条氏の娘と対面できる源氏の御曹司(流人でも身分が高いと丁重に扱われていた?)ですから、水害で簡単に流されるような場所には住んでいなかったのかな。中洲の規模や高さにもよるでしょうけど興味のあるところです。
この辺りは遥か昔、狩野川の本流が定まっていなくて分散されて暴れてたんだね。ということは肥沃な土地かな。そういうことで田んぼが多いんだね。最近、知ったけど、上流の天城山は夏に太平洋から湿った風が天城山に当たり上昇気流が雨雲に発達することで雨が多くて年間降水量が4,000mmを超えることもあるって!台風もよく通過するしね。。30数年前に狩野川放水路を見たけど大雨の時はこんな大規模な放水をしないとヤバイんだってびっくりしたよ。。
当時を偲ぶと山沿いに重要施設を造ったんだね。(韮山城と頼朝の時代は全然離れているけど)まあ、山城があってそれを取り囲むようにあったのかな。多分、多くの公共施設は形を変えても洪水対策に限らず、昔から何らかの意味を持ってそこに位置してると思います。なんて思いながら、案内看板があったのでそちらに歩いて行くと韮山中学校に突き当たりました。(寛政五年の古地図を見たら韮山中の場所は田んぼでした。。^^;)
韮山中学校突き当りを案内看板に沿って左に曲がり、フェンス沿いに右に曲がってしばらく行くと、そこから山の麓(ふもと)からグッと登って城池親水公園に出ました。
韮山城跡の看板がありました。たどってきた経路を赤線で入れてみました。
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【案内看板 転記】
韮山城とは
明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、 およそ100年にわたって存続した中世城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地 方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。永正16年(1519)早雲が没したのも韮山城 である。
北条氏の本拠地が小田原に移った後も、韮山城は領国支配と防衛の重要拠点であった。天正 18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際、4万を超える軍勢に包囲されたが、約3 か月にわたって持ちこたえ、小田原城と前後して開城した。その後、徳川家康の家臣内藤信成 が城主となり、慶長6年(1601)信成の駿府転封とともに廃城となった。
韮山城は通称「龍城山」に所在し、本丸・二の丸などの曲輪や、土塁、堀などが良好な状態 で残存している。平時の居館などがあったと思われる平地部分には「御座敷」の字名が残る (現県立韮山高校校地)。また、周辺には本城を囲むように「土手和田砦」、「和田島砦」、 「天ヶ岳砦」、「江川砦」があり、現在でも曲輪や土塁などの遺構が確認できる。
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秀吉による小田原攻めのとき、徳川家康の説得で開城したようです。説得された北条氏規(ほうじょう うじのり)は幼少時に同盟相手の今川の人質に出され、同時期に今川の人質であった家康と親交があったという説があります。今川は人質には比較的自由な生活を送らせてたみたいだから可能性は高いよね。もし旧知の仲だったら双方共に複雑な心境だったでしょうね。
家康が人質時代を過ごした臨済寺の記事⇒今川家の菩提寺 臨済寺で特別拝観と坐禅体験に行ってきました
①振り返れば、城池。釣り人がいました。
②看板右手に本城への登り口がありました。右手が三ノ丸で左手が権現曲輪です。その間の堀切を利用してるようです。でも、だいぶ埋め立てられて築城当時とは違うようです。
③権現曲輪に祀られている熊野権現が見えてきました。
④熊野権現の鳥居です。
熊野権現に参拝していきましょう。
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【案内看板 転記】
由 緒
一、神社名 熊野神社
一、鎮座地 静岡県伊豆の国市韮山字天主百九十五番地
一、祭 神 伊邪那美命(いざなみのみこと)
一、創立年月日 明応九年九月 西暦一五00年 (室町時代)
一、由緒沿革
当社は、後北条の初代伊勢宗瑞(新九郎盛時 通称北条早雲)が 明応二年堀越御所の内紛時に伊豆に進出し、ほどなく伊豆一円を平定し、この地に韮山城を築いた。明応九年韮山城の守護神として伊邪那美命を祀り熊野神社を創建した。
その後、天正十八年(一五九〇年)秀吉の天下統一の戦いで北条氏滅亡後、江川家に於いて社屋を修復して同地区の土手和田村松並の 鎮守の神として祭りつがれ、現在、土手和田区松並地区に於いて 維持管理をしている。
一、境内地 二百五十八坪(江川家所有)
一、氏子崇敬者 二百六十余戶
平成二十八年十二月吉日
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左にたぶん権現曲輪の土塁を見ながら、二ノ丸へと続く階段です。木々の隙間から韮山高校が見えます。
二ノ丸(写真撮り忘れました。。)横を通り、本丸までのまでの狭くて急な道を登ります。歩いてきた西の方面が見渡せました。
さて、いよいよ本丸に到着です。本丸は一番高いところにありますが、本城中枢ではなくて二ノ丸の補助的な役割だったようです。
地図看板のアップです。後日、江川邸も紹介しますね。江川邸のあるところは韮山城が存在してた当時には江川砦として機能していました。
小田原平定で降伏後、徳川家康の家臣である内藤信成が韮山城に入ったけど、信成が駿府に移って廃城となりました。その後、幕府直轄領となり江川砦には代官所が置かれました。
さて、本丸から見た景色ですが、左上の写真は本丸南側を望んだもので「伝塩蔵址」がありました。これは塩蔵と伝承されているようですが、火薬を貯蔵した焔硝蔵(えんしょうぐら)だった可能性が高いようです。
右上の写真は北側を振り返って本丸を見た写真です。
それでは下っていきます。韮山高校の後ろにうっすらと箱根山が見えます。曇っていなければ富士山も見えるはずです。
山城だけあって急斜面ですね。先に見えるのが二ノ丸です。
右奥が二ノ丸です。
二ノ丸の土塁かな。堀切もあるらしいけどよくわからなかったです。じっくり見てないし。。^^;
源頼朝と北条政子が出逢ってから試練を乗り越えて鎌倉幕府を開き滅亡するまでのドラマも詳しく知りたいし、その後、北条早雲から始まった明応4年の巨大地震に乗じて小田原城を奪ったことや明応7年の巨大地震で西・南伊豆地域への侵入を果たすなどの歴史も面白そうなので調べてみよっと!
いつか。。^^;
ではでは、またね~。
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続き記事へ⇒江川邸(旧韮山代官所)は先人の知恵が感じられて面白かった 1/2
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どうも~!テケです。(≧◇≦)
さて、伊豆箱根鉄道駿豆線の韮山駅で降りて韮山城までレッツゴーです。
線路沿いにテクテク歩いて写真に車が写っているところを左に曲がって線路を渡ると果てしない一直線の道がど~ん!
広い田んぼが印象的!
歩道には伊豆の国市ゆかりの歴史的人物などが描かれています。陶板製かな?6枚まとめてみました。
まだまだ続くよ♪ ど~こまでも~♬ 左に見える一番手前のこんもりとした山が韮山城址かな。その左の建物が韮山高校で正面が韮山中学です。
韮山駅を降りて30分くらい歩いたでしょうか。右手に公園らしきものが見えてきました。
この地に流された若き日の源頼朝とその恋人の北条政子像がありました。二人が向いてる方向には晴れてれば富士山が見えるはず。。だけど。。。残念、雲が多くて見えなかったです。。^^;
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【解説版 転記】
蛭ヶ島の夫婦(ふたり)
治承元年(一一七七年) 源頼朝(三十一才) 二人はこの地で 北条政子(二十一才)結ばれる
日本史上にその名を残す二人の若き日の姿である
平成十五年秋 吉日
像・寄贈者 佐藤美智子 題字・韮山町長 渡辺解太郎
制作者 山田収
遺跡 蛭ヶ小島(ひるがこじま)
永暦元年(一一六〇)
源頼朝公配流の地
蛭ヶ小島
三嶋大社宮司渡邊清次郎書
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公園名は「蛭が島公園」。歩いていく道から見て奥にもう一つ公園の入り口がありました。
説明看板を転記しておきますね。
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蛭ヶ島(ひるがしま)(源頼朝配流の地跡)
このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝(ひょうえのすけよりとも)配流の地といわれている。
狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。
永暦元年(一一六O) 十四才でこの地に流された頼朝は、治承四年(一一八O)三十四才で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流二十年間における住居跡等の細部は詳らかではない。 しかし、「吾妻鏡」治承四 年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約一、五粁(km)の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。 このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(一一七七) 頃までの約十七年間を、ここ蛭ヶ島で過したものといえよう。
当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政二年(一七九O)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されている。 また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当つた荻原正夫が、明治二十六年に建立したものである。
伊豆の国市
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源頼朝の流刑地「蛭ヶ小島」としてテケも知っていましたが、「蛭ヶ島」って表記になってるね。研究者の意見が分かれているようですね。。狩野川がちゃんとした堤防が築かれていないときは中洲にポツンと小島があってそこが居住地だったようなイメージでした。。でも、考えてみれば、流人と言っても当地の豪族の北条氏の娘と対面できる源氏の御曹司(流人でも身分が高いと丁重に扱われていた?)ですから、水害で簡単に流されるような場所には住んでいなかったのかな。中洲の規模や高さにもよるでしょうけど興味のあるところです。
この辺りは遥か昔、狩野川の本流が定まっていなくて分散されて暴れてたんだね。ということは肥沃な土地かな。そういうことで田んぼが多いんだね。最近、知ったけど、上流の天城山は夏に太平洋から湿った風が天城山に当たり上昇気流が雨雲に発達することで雨が多くて年間降水量が4,000mmを超えることもあるって!台風もよく通過するしね。。30数年前に狩野川放水路を見たけど大雨の時はこんな大規模な放水をしないとヤバイんだってびっくりしたよ。。
当時を偲ぶと山沿いに重要施設を造ったんだね。(韮山城と頼朝の時代は全然離れているけど)まあ、山城があってそれを取り囲むようにあったのかな。多分、多くの公共施設は形を変えても洪水対策に限らず、昔から何らかの意味を持ってそこに位置してると思います。なんて思いながら、案内看板があったのでそちらに歩いて行くと韮山中学校に突き当たりました。(寛政五年の古地図を見たら韮山中の場所は田んぼでした。。^^;)
韮山中学校突き当りを案内看板に沿って左に曲がり、フェンス沿いに右に曲がってしばらく行くと、そこから山の麓(ふもと)からグッと登って城池親水公園に出ました。
韮山城跡の看板がありました。たどってきた経路を赤線で入れてみました。
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【案内看板 転記】
韮山城とは
明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、 およそ100年にわたって存続した中世城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地 方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。永正16年(1519)早雲が没したのも韮山城 である。
北条氏の本拠地が小田原に移った後も、韮山城は領国支配と防衛の重要拠点であった。天正 18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際、4万を超える軍勢に包囲されたが、約3 か月にわたって持ちこたえ、小田原城と前後して開城した。その後、徳川家康の家臣内藤信成 が城主となり、慶長6年(1601)信成の駿府転封とともに廃城となった。
韮山城は通称「龍城山」に所在し、本丸・二の丸などの曲輪や、土塁、堀などが良好な状態 で残存している。平時の居館などがあったと思われる平地部分には「御座敷」の字名が残る (現県立韮山高校校地)。また、周辺には本城を囲むように「土手和田砦」、「和田島砦」、 「天ヶ岳砦」、「江川砦」があり、現在でも曲輪や土塁などの遺構が確認できる。
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秀吉による小田原攻めのとき、徳川家康の説得で開城したようです。説得された北条氏規(ほうじょう うじのり)は幼少時に同盟相手の今川の人質に出され、同時期に今川の人質であった家康と親交があったという説があります。今川は人質には比較的自由な生活を送らせてたみたいだから可能性は高いよね。もし旧知の仲だったら双方共に複雑な心境だったでしょうね。
家康が人質時代を過ごした臨済寺の記事⇒今川家の菩提寺 臨済寺で特別拝観と坐禅体験に行ってきました
①振り返れば、城池。釣り人がいました。
②看板右手に本城への登り口がありました。右手が三ノ丸で左手が権現曲輪です。その間の堀切を利用してるようです。でも、だいぶ埋め立てられて築城当時とは違うようです。
③権現曲輪に祀られている熊野権現が見えてきました。
④熊野権現の鳥居です。
熊野権現に参拝していきましょう。
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【案内看板 転記】
由 緒
一、神社名 熊野神社
一、鎮座地 静岡県伊豆の国市韮山字天主百九十五番地
一、祭 神 伊邪那美命(いざなみのみこと)
一、創立年月日 明応九年九月 西暦一五00年 (室町時代)
一、由緒沿革
当社は、後北条の初代伊勢宗瑞(新九郎盛時 通称北条早雲)が 明応二年堀越御所の内紛時に伊豆に進出し、ほどなく伊豆一円を平定し、この地に韮山城を築いた。明応九年韮山城の守護神として伊邪那美命を祀り熊野神社を創建した。
その後、天正十八年(一五九〇年)秀吉の天下統一の戦いで北条氏滅亡後、江川家に於いて社屋を修復して同地区の土手和田村松並の 鎮守の神として祭りつがれ、現在、土手和田区松並地区に於いて 維持管理をしている。
一、境内地 二百五十八坪(江川家所有)
一、氏子崇敬者 二百六十余戶
平成二十八年十二月吉日
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左にたぶん権現曲輪の土塁を見ながら、二ノ丸へと続く階段です。木々の隙間から韮山高校が見えます。
二ノ丸(写真撮り忘れました。。)横を通り、本丸までのまでの狭くて急な道を登ります。歩いてきた西の方面が見渡せました。
さて、いよいよ本丸に到着です。本丸は一番高いところにありますが、本城中枢ではなくて二ノ丸の補助的な役割だったようです。
地図看板のアップです。後日、江川邸も紹介しますね。江川邸のあるところは韮山城が存在してた当時には江川砦として機能していました。
小田原平定で降伏後、徳川家康の家臣である内藤信成が韮山城に入ったけど、信成が駿府に移って廃城となりました。その後、幕府直轄領となり江川砦には代官所が置かれました。
さて、本丸から見た景色ですが、左上の写真は本丸南側を望んだもので「伝塩蔵址」がありました。これは塩蔵と伝承されているようですが、火薬を貯蔵した焔硝蔵(えんしょうぐら)だった可能性が高いようです。
右上の写真は北側を振り返って本丸を見た写真です。
それでは下っていきます。韮山高校の後ろにうっすらと箱根山が見えます。曇っていなければ富士山も見えるはずです。
山城だけあって急斜面ですね。先に見えるのが二ノ丸です。
右奥が二ノ丸です。
二ノ丸の土塁かな。堀切もあるらしいけどよくわからなかったです。じっくり見てないし。。^^;
源頼朝と北条政子が出逢ってから試練を乗り越えて鎌倉幕府を開き滅亡するまでのドラマも詳しく知りたいし、その後、北条早雲から始まった明応4年の巨大地震に乗じて小田原城を奪ったことや明応7年の巨大地震で西・南伊豆地域への侵入を果たすなどの歴史も面白そうなので調べてみよっと!
いつか。。^^;
ではでは、またね~。
クリックしていただけると励みになります(*゜▽゜*)
続き記事へ⇒江川邸(旧韮山代官所)は先人の知恵が感じられて面白かった 1/2
三島市の白滝公園で富士山の溶岩を見てきた
村下孝蔵 踊り子と初恋は日本人の感性
JR東海さわやかウォーキング 由比駅ゴール 編
那須高原の那須岳(茶臼岳)で心が洗われた
沼津魚がし鮨 駿河屋久兵衛 沼津店が旨かった~(≧◇≦)
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沼津日枝神社の参拝と沼津魚がし鮨
ラムちゃんコスプレ 美人ジャズピアニスト高木里代子の謎
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