世界一周の記録

2006年8月から2008年9月まで2年1ヶ月の世界一周放浪の旅をしていました。その旅の記録です。

2007/2/11-2/14 ウガンダ ナイル源流にて

2007年02月17日 05時07分27秒 | アフリカ

ここはヨーロッパか?と錯覚するような豪華快適夜行バスでウガンダの首都カンパラへ。現地では「タクシー」と呼ばれるトヨタハイエースのミニバスに乗り換えて、その日のうちにビクトリア湖畔のジンジャという町へ移動してきました。ウガンダに来た目的はただ一つ、ここジンジャでラフティングをすることです。ラフティングというのは、僕も良く知らなかったのですが、ガイドブックのロンリープラネットによると、ボートに乗って急流を下り、アドレナリンを放出させるアクティビティなのだそうです。ここジンジャのラフティングは世界でも最も激しいラフティングができる場所の一つだそうです。


道端でパイナップルを切り売りしている人。ウガンダ辺りから顔つきが同じ黒人でも変わってきました。男女ともガッツ石松とか郷ミノル(BE-BOP)タイプの人が増えてきました。パイナップルは美味いです。

着いた日は、ナイル川の源流を見に行きました。ナイル川というとエジプトの川というイメージが強いですが、実はここウガンダが源流なのです。(エチオピアにも青ナイルというもう一つの源流があります)ここから6400kmという距離を3ヶ月もの時間をかけて流れて行き、地中海に注ぐのだそうです。源流といわれる場所は、なんて事の無い普通の川なのですが、これがナイルの源流だと思うと、逆ルートを1ヶ月かけて旅してきた僕にとって、なんとなく胸に迫るものがあったのでした。

街灯が全く無いジンジャの町でガスランプを使って商売する露天商の人たち

翌日ついにラフティングへ。申し込み方法などが良くわからないので、町の旅行代理店へ行きました。なんと値段は95アメリカドル!高い高いと聞いてはいたが、まさかここまで高いとは。他の旅行代理店を回ったりして、なんとか90ドルまで値切ることができました。しかし、この値段交渉のせいで時間がかかってしまい、集合時間を過ぎてしまったため、かなり慌しくラフティング現場に急行しなければいけなくなりました。朝食も食べれず、トイレもいけないまま、川辺の集合場所に行くと、他の参加者達20人くらいはもう準備万端でインストラクターの説明を聞いています。僕が着替えて準備が終わると同時に、みんなでボートとともに水の中へ入っていきました。

ラフティングの写真は無いので、申し込んだオフィスの壁の絵でイメージつかんでもらえたらと思います。


一つのボートには、客が6人+ガイドが1人の7人です。そして恐れていた通り、僕以外の6人は欧米人中心で、彼らは全員英語がペラペラで、全く会話に入れません。(僕以外にも日本人は一人いたのですが、彼は欧米人並に英語ペラペラで、その上欧米人以上に陽気でグループ会話を好むので、僕の相手はしてくれませんでした。)ガイドのラフティングに関する説明も7割しか聞き取れません。そのため緊張感は否が応にも高まります。でもその分スリル満点です。何度もおしっこが漏れるかと思いました。朝トイレに行けなかった為に、かなり我慢してたということもあります。しかし、途中ついに我慢できずになって、ガイドに申し出たら川の中でしろと言われました。確かに、どう考えても周りにはトイレらしきものはないので仕方がありません。みんなに見て見ぬ振りをされながらボートから川に飛び込み、水中にしました。水中での初体験です。なんとか用をたし終え、ボートにあがりましたが、僕はみんなとは打ち解けていなかったため、欧米人たちの僕を見る目がさらによそよそしくなったような気がしました。

という辛い思い出もあるのですが、ラフティングは素晴らしかったです。緑に囲まれた素晴らしい雰囲気の中、穏やかな川をのんびり進んでいると思ったら、突然急流が現れます。そこを、必死にオールを漕いだり、ボートの中に全員で沈み込んだりしながら、越えていくのです。急流は全部で12あり、その中の5つがグレード5と言われて最も激しいクラスのものです。3メートルほどの滝を落ちたり、2メートル程の波がいくつも連続するのを越えて行ったり、自然の大迫力を間近で体感できます。そして、僕たちのボートは5つのグレード5のうち、なんと4つで転覆してしまいました。つまりほとんどアウトだったわけです。「急流下り」というか「急流溺れ+救助」みたいな感じです。ここのラフティングでは転覆することは織り込み済みで、急流の周辺にはレスキューの人達が数名待機してくれているので、安心です。安心とは言っても、転覆して川底深くに飲み込まれてなかなか浮き上がれない時や、急流に流されながら激しい波に揉まれて川の水を大量に飲みながらアップアップしている時などは、「こりゃ死ぬかも」というスリルをかなり味わうことができます。

カンパラに戻って泊まった宿では、アスワン以来の旅仲間Oさんとの再会がありました。また、Oさんと同部屋だった日本人の人は、ウガンダに20年以上住んでいて、両親がエイズで死んだ子供達の孤児院をやっているという方でした。すごい。

僕の同部屋は、コンゴ(旧ザイール)人3人組で、彼らは東アフリカ中心に手広く商売をしている人達でした。その内の一人が英語が話せて、コンゴの文化について語ってくれました。コンゴでは、生まれた子供は10歳までに半分くらいが死ぬそうです。死因はマラリアの他に、隣人による毒殺があるそうです。僕は耳を疑いました。どういうこと?と聞き返しました。彼が言うには、コンゴでは生活が苦しく、子供を養育できなくなってくると、隣人に頼んで子供を毒殺してもらうそうです。そのようなことを頼めるくらい、隣人との付き合いは重要で、特殊な深い繋がりを持っているのだそうです。。。

カンパラの町は見所は全く無いです。中途半端な都会です。坂道が多く、道の舗装状態は悪く、砂埃や排気ガスも多く、町歩きは疲れます。英語が公用語ということもあって、ケニアの地方都市の様な印象でした。

今は、ルワンダの首都キガリです。次はタンザニアに行く予定です。タンザニアでは、サファリツアー、キリマンジャロ登山(高額のため微妙)、ザンジバル島観光など、アフリカ観光のメインディッシュが待っている予定です。


2007/2/8-10 ナイロビの日々

2007年02月14日 01時38分21秒 | アフリカ


ケニヤと言えばマサイマラ国立公園でのサファリツアーが有名なのですが、僕はサファリツアーはタンザニアで行くことにしたので、ケニアでは行きません。そうなると、ナイロビでは全く観光するところはありません。その上、ナイロビといえば悪名高き犯罪都市。拳銃やナイフを使った凶悪犯罪が横行しているところだそうです。出歩けるのは昼間だけ、しかも宿の周辺のみに限られます。その宿の周辺は、夜になるとナイロビで最も治安が悪いところになるそうです。実際に、宿の前の通りは夜になると街灯が少なくて暗く、人通りも少ないし、ものすごく恐ろしい雰囲気です。夕食を食べるときだけは、仕方なく外に出かけるのですが、すれ違う黒人が全員強盗に見えてかなりびびります。もちろん昼間出かけるときもデイパックなどは持ち歩かずに、しかもポケットが膨れているといけないので、財布やカメラも宿に置きっぱなしです。小銭だけをポケットに入れて外出です。なので、今後アフリカを脱出するまでは、都会の写真は少なくなる予定です。上の写真は勇気を振り絞って撮った一枚です。
というのは、さすがに大げさで、昼間に大通りを歩いている限りは、かなり安全だと思います。しかし、念には念を入れて、安全には最大限気を使っていく所存です。

ナイロビではニューケニアロッジという宿に泊まりました。ここにはネコがいます。大人のネコ1匹と子猫が2匹です。ちなみに、僕は猫派だけど猫アレルギーというつらい体質です。猫を触った手で自分の顔を触ると目が痒くなったり、くしゃみが出るのです。しかし、大人のネコの方が異常に人懐こくて、昼間から散々絡んできます。その上、夜になってもその攻撃は止むことはありませんでした。夜寝ている時に、「どうも枕の寝心地が悪いなあ。頭に何かが当たっているけど。。。うむぅ。寝られん。」と思って起きたら、犯人はその猫でした。枕の3分の2程を占領してスヤスヤと寝てやがるのです。しかも、かなり熟睡しているらしく(もしくは起きてて嫌がらせをしているのか)押してのけようとしても全然動きません。仕方なく朝までほっておきました。快適な宿に泊まっているはずが、エチオピアから続く寝不足が取れません。。。

昼間から全開で客のベッドを占領するネコ

今は、ウガンダのカンパラにいます。相変わらずネット環境は悪いです。
ウガンダではラフティングというものに初挑戦しました。その話は、また今度。

明日の朝にルワンダに移動します。ルワンダでは虐殺記念館に行く予定です。


2007/2/4-7 ナイロビへの道

2007年02月10日 18時31分39秒 | アフリカ

2007/2/4-7 ナイロビへの道

アジスアベバでの快適な宿・おいしいイタリア料理・その他もろもろの文明の力に、泣く泣く別れを告げて、ケニアのナイロビを目指して移動を開始しました。しばらくは、悪路との戦いが続きます。

ちなみに、エジプト~南アフリカの東アフリカ縦断ルートでは、エジプト、スーダン、エチオピアの北東部分だけが治安上問題が無い国とされています。実際に旅をした感じでも治安はとても良かったです。しかし、ケニヤから南アフリカまでの国々(つまり、この後僕が通る国)は全て治安上の問題があるそうです。その上、マラリアという健康上の脅威もあるという。。。こういうことを考えていると、行くのが嫌になってきますね。。。でも、行くと言ったからには行かないと行けないので、仕方なく行きます。ああ、怖い。。。

2月4日 アワサへ移動

アジスアベバからは首都だけあってバスが頻発しているので、朝5時半にバス駅に行く必要がありません。これはありがたいです。朝9時ごろ、まだ客があまり乗っていないバスに乗り込み、前の方の2列席の窓際をゲットしました。(エチオピアのバスは2列と3列の座席があり、2列の方が楽なことが多いです)しかし、だんだんと客が増え、荷物が増え、満席になってもまだ客を入れようとしています。そして、結局僕の席は2列席に成人男性3人が座り、しかも大きい旅行カバンが足元に置かれるという、拷問のような状況に。ただでさえ、エチオピアのバスは座席が小さく、前後の間隔も狭く、しかも前の座席の後ろには金具が飛び出たりしていて膝があたると痛い、という定員乗車でもキツイ状況なのに。道が舗装されていて揺れが少なかったことが唯一の救いです。

アワサは思ったよりも随分と発展した町で、大きな液晶テレビがあるレストラン・バーで美味しいピザを食べました。

アワサ湖。

2月5日 国境の町モヤレへ移動

この日は、また前までのように朝5時半に真っ暗の中バス駅へ。モヤレへの直通バスは無く、まずはディレという町までミニバスで行って乗り換えろと言われ、仕方なくディレへ。(ちなみに、このバスでも2人席に3人で座りました。)しかし、ディレに着いても、「モヤレ行きは無い。ヤベロまで行って、そこで乗り換えろ」と言われてしまいました。この時点でかなりがっかりしたのですが、エチオピア人に「そうがっかりするな。きっとヤベロからすぐモヤレに行けるよ。神様がついてるよ。」などと言われ、渋々バスへ乗りました。ヤベロには、16時頃着きました。

ヤベロまでの車窓の風景。原始時代か?

本当にバスがあるかどうか不安になりながら、モヤレ行きのバスを待つエチオピア人達と、ガソリンステーションとホテルがそれぞれ一軒ずつある以外は何も無い場所で、ひたすら、いつ来るかも本当に来るかもわからないバスを待ちました。1時間後ようやくバスが来ました。やった!と思いながら乗り込みました。しかし、発車間際になり、なぜか突然乗客全員が降ろされてしまいました。バスは無情にも空の状態で去って行きました。同じくモヤレ行きのエチオピア人達と途方に暮れました。暗くなっていく空に不安になりながら、ヒッチハイクでもしようと思いながら、車を待ちました。幸い車は15分ほどですぐに来ました。小型トラックです。座席も何も無い剥き出しの荷台にエチオピア人達とぎゅうぎゅうになりながら、詰め込まれました。この際、贅沢は言えません。


トラックはすごいスピードで走るので、揺れと風がきついです。揺れの衝撃ははダイレクトにお尻に衝撃を与えます。次第に空は暗くなり、街灯も何も無い未舗装の道をひたすら走ります。見上げると満天の星空です。途中木材の積込みなどがあり、ほとんど座るスペースの無い過酷な環境になりながらも、ひたすら耐えること3時間半。ついにモヤレに到着しました。
エチオピア最後の夕食は、食あたりになって以来拒否反応が出るインジェラです。この町では、それ以外に選択肢はありません。残った精神力を使い切り、吐き気と戦い、なんとか半分ほどを胃に詰め込みました。しかし、やはり翌朝下痢になってしまいました。
この先に待つモヤレ~ナイロビ間が最もきついと言われているのに、その前日に僕は疲れ果ててしまったのでした。

2月6日~7日 ナイロビへ

翌朝、徒歩で国境を渡りケニアに無事入国しました。出国審査も入国審査も僕以外に旅行者がいないのであっという間に終わりました。ケニアに入ると早速バスやローリーの客引きや、闇両替屋が押し寄せてきました。そいつらが言うにはナイロビ行きのバスがあるというではないですか。この悪名高きモヤレ~ナイロビ間には3つの選択肢があります。1.バス、2.ローリー(荷物を運ぶトラックのこと)の助手席、3.ローリーの荷台、の3択です。もちろん3番がダントツで最もきついので、1か2がいいのですが、事前情報でエチオピア・ソマリア間のいざこざの影響でバスが無くなっていると聞いていたのです。闇両替屋をやりすごして、銀行で両替をしたのですが、なんとも手際の悪い銀行で30分ほど時間がかかりました。なんと、その間にバスは行ってしまっていました。がっかりです。最後の頼みのローリーの助手席もケニヤ人で満席です。客引き達は、猛烈な勢いで「早く荷台に乗らんか!」と急き立てて来ます。客引きはうざいのですが、この全く何も無い町でもう一泊することはしたくないので、ローリーの荷台に仕方なく乗り込みました。ローリーは、僕が乗り込むとすぐに出発しました。出発は午前10時でした。

ローリーの荷台

初めは荷台の上の枠組みの上に座りました。下のほうが断然楽そうだったので下にいたのですが、上にいるケニヤ人達に「上にあがってこいよ!」と言われたので、登ってみたのですが、これはきつかったです。まず揺れが凄い。道は未舗装で、めちゃくちゃでこぼこです。振り落とされないためには、かなり真剣に枠組みにつかまらないといけません。そして、顔面に砂混じりの風が強く吹き付けてきます。前を向いて目を開けているのがきついです。しかし、目をつぶっていると、ちょうど乗客の顔の高さにある木の枝がたまに現れるので顔面を激しく打ち付けられてしまいます。ただナイロビに行きたいだけなのに、なぜこんな命がけの冒険をしなければいけないのでしょうか。30分で我慢できなくなり、荷台の中に降りました。荷台の中は体勢は楽なのですが、砂埃が凄いです。あっというまに全身が砂まみれです。暑いので汗をかいているので、泥だらけです。

昼食休憩の時にケニア人におごってもらった豆御飯。久しぶりの米に歓喜の涙が出そうになりました。

こんな道をひたすら走ります。

ナイロビまで3分の1進んだマルサビットという町に夕方5時ごろ到着。ここまで7時間。まだまだ先は長いなあ。
ここで乗客がどどっと増えました。今までは広い荷台を一人で独占状態だったのが、人も荷物も増えて、ぎゅうぎゅう詰めです。なんとか足を伸ばせるスペースを確保できましたが、激しい揺れのためまったく寝れません。気温も凄い勢いで下がっていきます。昼間は確実に暑かったのが、今ははっきりいって寒いです。揺れ、寒さ、砂埃、さらに昨日から続く下痢、それらとひたすら戦うこと12時間、深夜3時にイシオロという町に到着しました。

ここでローリー荷台の乗客がみんな降りて行きます。これで荷台のスペースが増えてうれしいなと思っていると、仲良くなったケニア人がローリーの外で僕を呼んでいます。なんと、ローリーはナイロビまで行くそうなのですが、荷台の乗客はイシオロで全員降りなければ行けないそうです。ナイロビ行きのバスは朝7時発だそうです。3時間の休憩のためだけにホテルに泊まりました。他のケニア人たちはホテルに泊まらずにバスの発着所(といっても屋外。ベンチもなし)でひたすらバスを待つそうです。すごいなあ。ケニア人は。20時間の移動の間ずっと荷台の上の骨組みのところにつかまっているし、その後でホテルの休憩も必要としないし、僕には超人のように思えます。
2時間ほどホテルで寝てナイロビ行きのバスに乗りました。バス移動の快適さは、エチオピアとは変わりました。車体は古くて座席は狭いのですが、定員以上の人を詰め込まないし、指定席をみんな守るし、ラジオ放送は英語だし、独特の体臭もしないし、違う国に来たという実感が湧きました。
バスは12時にナイロビに到着しました。バスを降りたとたんに、タクシーの客引きが押し寄せてきました。初めはバスを使おうと思ったのですが、あまりに疲れていたのと、ナイロビの治安にびびっていたのとで、タクシーでホテルの前まで行くことにしました。しかし、この客引きの争いには困惑しました。客引き同士が、「こいつは悪い奴だ。」「こいつこそお前をだまそうとしている。」などと言い争い、周りの通行人も混じって「こいつを信じろ。」「いや、こいつのいうことを聞かないとお前はひどい目にあうぞ。」などと言ってきます。なんなんだ、いったい。もう、何も信じられません。頼むから静かにしてくれ。客引きが連れてきたタクシードライバーのうち、老人のドライバーを選びました。何かあっても逃げれそうなので。タクシーに乗っている間は、どこか人気の無いところに連れて行かれないだろうか、と内心めちゃめちゃ警戒してたのですが、無事目当ての宿に着きました。昼の12時半です。前日の朝9時に宿を出てから27時間半。長かった移動がようやく終わりました。

とにかく僕は疲れました。



2007/2/1-2/3 エチオピアの首都アジスアベバ

2007年02月04日 03時08分21秒 | アフリカ

前回も書きましたがアジスアベバはこれまで訪れた北部の町と比べてかなり都会です。別世界です。しかし冷静に考えると、全然都会ではありません。都会と呼ぶのは結構無理があります。日本ならむしろ田舎です。

しかし、これまでの町がこんな感じ↓なのに比べると、

↓こんな感じのアジスアベバは、断然都会と思えて、テンションもあがるのです。

高層ビルもあり、上の写真のようなおしゃれなカフェまであります。イタリア料理の美味しい店も何件かあります。食あたりでかなり栄養不足になった体に、久しぶりのイタリア料理でたっぷり栄養補給しました。
その上、温泉もあります。もちろん着いた次の日に行きました。しかし、地元民達で大混雑。150円くらいと安いですしね。3時間も待ちました。でも、待った甲斐ありです。めちゃめちゃ気持ち良かったです。スーダン以降の旅の疲れが一気にとれた感じです。

フレッシュジュースもおいしいです。写真はエチオピア名物のミックスフレッシュジュース。毎日飲んでます。濃厚な味わいがたまりません。

しかし、そんなプチ都会っぷりも町の中心から10分もあるけば、今まで同様の未発展なゾーンになります。町の中心部にしても、よくよく見てみると、乞食も多いし、なぜか町のメインストリート(車や人の交通量がかなり多い)を羊飼いが羊の群れを連れて歩いていたりもします。気さくな現地人達がひっきりなしに声をかけてくるし、なかなか楽しい町ではあります。

いろんな日本人との出会いもありました。ダハブやカイロで一緒だった世界一周中のS君(彼も今後ケープタウンを目指すそう)とも再会できました。他にも、昔旅行者として訪れた時にいたくエチオピアを気に入り、なんとエチオピア大学に留学したというY君(とても親切)、日本の大学からエチオピアの研究に来ているという人達、他にも何人もの旅行者と出会い、みんながなかなかカラフルなキャラで、とても刺激的でした。そのうちの一人から、実際にタンザニアで強盗にあったという話を聞きました。こういった強盗の話は、人づてではなく、実際に本人から聞くと、怖さ倍増ですね・・・

最古の人類ルーシーの骨の化石

ルーシーが実際どんなだったかの想像図

明日アジスアベバを出る予定です。一路ナイロビを目指します。4~6日かかる予定です。ナイロビに着くまでは、またしばらくネット環境から遠ざかる予定です。


2007/1/22-31 エチオピア・ハードな旅

2007年02月02日 17時25分48秒 | アフリカ

エチオピアはネット環境が良くないのでまた更新が遅くなってしまいました。
現在、エチオピアの首都アジスアベバです。さすが首都だけあってこれまでの滞在都市とは比べ物にならないくらい都会です。今までの未開民族の村々は何だったの?本当に同じ国?という感じです。

エチオピアから、ついに旅がハードになってきました。さすがアフリカという感じです。

<エチオピアうんちく>
エチオピアは最古の人類といわれるルーシーが発見された国です。しかし世界で最も発展の遅れている国でもあります。国土が山や丘ばかりの高地なので、赤道にかなり近いにも関わらず気候は過ごしやすいです。宗教はクリスチャンとムスリムが6:4くらいらしいです。

<エチオピア所感>
・現地人にうざいやつがいる。スーダン人が天使に思える。顔はスーダン人とあまり変わらず、黒人とアラブ人の中間のような感じだが、目つきが険しくなった気がする。ただ、暴力的な雰囲気は無い。治安はよさげ。
・親切な人がとても多い。よく食堂で食事(インジェラ)をおごってもらっている。しかし、少数のうざいやつがとことんうざい。子供は無邪気でかわいい。うざいやつもいるが。
・基本は洋服だが、辺境民族の人達がマントに裸足という風貌で町を歩いていたりもする。

・移動がつらい。かなりつらい。町と町の間の移動は、基本はバスで、毎日朝6時に出発するため、毎日早朝の5時に起きなければいけない。未舗装の道路で、かなり揺れるし、砂埃が大量に車内に入ってきて服もかばんもどろどろになる。鼻も口も砂だらけ。バス内に立ち込めるエチオピア人の独特の体臭も鼻につく。時間も短くて5時間、普通に12時間くらいかかったりする。しかし、距離的には300kmくらいしか進んでなかったり。
・ただし、車窓からの景色は素晴らしい。山や丘の連なるダイナミックな景色に移動のつらさも多少紛らわされる。

・食事はインジェラかスパゲティなどイタリアン。インジェラというのは、エチオピア独自の食べ物で、びろーんと広がった大きいクレープ生地のようなもの(雑巾とも評される)。それに辛いスープや肉などを合わせて食べる。インジェラは酸っぱくて日本人の口には合わないと聞いていたが、思ったほどまずくはない。もちろん、うまくもない。ああ、日本食が食べたい・・・
⇒これを書いた後に食あたりになった。その後インジェラに対して拒否反応が。。。
・首都アジスアベバのイタリアンは結構いける。

・ホテルについて。水シャワーのところが多い。断水と停電は日常茶飯事。さあ、気合を入れて水シャワーを浴びるぞと思ったところで断水になることもあり、かなり辛い。
・エチオピア名物の南京虫には幸い今のところやれれていない。虫対策として、まずベッドを中心に部屋中に殺虫剤を撒き、ベッドがすっぽり隠れるようにシーツをひき、その上で寝袋で寝ている。南京虫にやられた人の話では痒くて寝れないらしい。できればやられずにエチオピアを出国したい。ノミには割りとやられている。

 

 

○ここまでの移動と観光

<1/22 スーダン・ハルツームからゲダレフへ>

宿のおっちゃんにホットシャワー出る?と聞いたら「ホットシャワーはない。アフリカンシャワーだ。」と言われました。何かと思ったら、ホテルの水周りが全て汲み置きだった。洗面台もシャワーもあるのだが、ピクリとも水は出ません。この旅で初めて行水を行いました。これが、アフリカンシャワーね。

<1/23 エチオピア国境越え(ガラバート、メテマ、シェハディ)>

いきなり、ゲダレフでバスの出発を3時間待たされました。初めバスのおっちゃんは15分とか言っていたが・・・。
国境までの道は、凄いゆれと暑さと埃でした。

待ち時間にその辺の市場を冷やかす。でっかいスイカとスーダン人。

ようやくスーダンを出国してエチオピアに入ったら、わらぶきの小屋がイミグレだった。さすが、エチオピア。噂には聞いていたが、実際に来て見るとその発展途上ぶりはかなり衝撃的です。
国境を越えたとたん、人々の顔つきがかわりました。エチオピア人はやけに目つきが険しいです。そして、闇両替やホテルの客引きや、ガイド料請求など、歩いているとうざい現地人が次々とやってきます。スーダンとは別の国なのね、と実感します。
メテマからシェハディという小さい町に移動してそこで一泊しました。着いたのは夕暮れ時でした。しかし、この町(村?)には街灯が無いです。めちゃくちゃ暗いです。星が綺麗です。しかし、ヤギのむれが道の真ん中で寝ているので、空を見上げて歩いていると、うっかり蹴飛ばしそうになります。

<1/24 ゴンダール>
この日から毎朝5時おきの毎日が始まりました。しかし、5時に起きても電気が来ていないので真っ暗闇です。満点の星空です。ホテルのトイレが尋常ではなく汚かったので、我慢しました。頼むからウ○コはトイレの穴にしてくれ。頼むから使った後は水で流してくれ。
早朝のバスターミナルは、エチオピア人たちが殺到して大混乱です。もみくちゃになりながら席取り合戦が繰り広げられていました。Oさんのおかげで(エジプトアスワンから一緒に行動している日本人旅行者)なんとか席が確保できましたが、中には席が無く立っている人もいます。この悪路の中で、数時間バスで立ちっ放しというのは、僕にはかなり無理があるのですが、エチオピア人の子供は割りと平気な顔をして立っていました。
正午ごろにゴンダール着。ゴンダールは、それなりの町でした。久しぶりに舗装されている道に来ました。やっぱり舗装されている道はすばらしい。

エチオピア名物、ユー!ユー!言いながらついてくるガキんちょ。にくたらしくてかわいい(にくかわ)。

ここで、アスワン以来、1週間以上行動を共にしたOさんとは別ルートになります。久しぶりの一人旅です。エチオピアでの一人旅、不安は大きいです。

<1/25 バハルダール>
バハルダールへ向かうバスで早速トラブル発生です。早めに行ってチケットを買って席を確保して出発を待っていたら、「お前のバスはこっちだ」と言われたのでバスを変更。昨日もこの展開だったぞ。頼むぞエチオピア人。とか思っていたら、その移った先のバスの乗客達が8割くらいバスを降りていきました。ひょっとしてこのバスも違うのか?と思って少しだけ残った乗客に「バハルダール行きか?」と確認して大丈夫だったので、安心して乗っていました。しかし、バス発車後の検札の時に、なんと、「このチケットは別のバスのチケットだから、お前はもう一回料金を払え。」と言われてしまいました。そんなことできるか!と日本語でわめきちらしました。(検札が英語できないやつだったので)周りの乗客で一人だけ英語ができるやつがいたので、彼に一生懸命お願いしてなんとか料金を2回払うことは阻止できました。一人になったとたんこのトラブルか・・・。
バハルダールではタナ湖の教会を観光しました。しかし、ガイドの客引きがうざい町です。

<1/26 ラリベラへの移動>
次の日は、エチオピア最大の観光地ラリベラへ移動です。
ラリベラ行きのバスでは、チケット詐欺に会いました。バス会社とは関係ない奴が、さもバス会社の人間のように装って僕にチケットを売って来ました。僕には見分ける術が無かったので思わずそいつからチケットを買ってしまいました。小銭が無かったので、料金の倍の値段のお札を彼に渡してチケットを受け取りました。しかし、彼はお釣は後でチケット係が払うから、と言って僕を安心させておき、僕と雑談をしながら時間を稼いで、バス発車の間際にバスから降りて逃げていったのです。この時はまだ騙されたとは気づいてなく、オフィシャルのチケット係の人に「お釣を返して」と頼めば返してもらえると思っていました。しかし、彼は返してくれません。しかも、英語も話せないので話が通じません。頭にきて日本語でわめきまくったら、周りの乗客はヘラヘラ笑っています。親切なエチオピア人が「お前はだまされたのだ。今後気をつけろ」と言ってくれました。しかし、連日のトラブルにエチオピアへの怒りが爆発です。「Bad counry!Bad coutry!」と英語のわからない人にも通じるように、怒りをぶつけました。すると英語のできるエチオピア人がさすがにそこまで言われるとまずいと思ったのか、色々とお釣が返ってくるようにチケット係に掛け合ってくれたり(しかし返ってこず)、色々と話しかけてくれて、なだめてくれたりしてきました。昼食もおごってくれました。損したのはたかだか800円くらいなので、気分はすぐに良くなりました。しかし、道は悪く、バスは滅茶苦茶揺れています。なんて移動がしんどい国なんだ、と疲れ果てましたが、まだこの日の移動は終わりません。

昼食休憩でインジェラをごちそうしてくれた3人組。

バスは3時くらいにガシェナという町に着いたのですが、なんと乗っていたバスがここで終わりなので、ラリベラ行きは乗り換えなければ行けない、チケットもまた買わなければいけない、と言われてしまいました。ラリベラ行きのチケットを買ったのに、しかも倍額払っているのに、なんという仕打ちだ!と思っていたら、チケット係がガシェナからラリベラまでのチケット代金を返してくれました。そして、30分ほど待ってようやく来たラリベラ行きのバスに乗ろうとしたら、なんと満席。また、がくっと来たのですが、すぐに次のバスがやってきて、急いで乗り込みました。しかし、そのバス料金はなんと返金してくれた額の1.5倍!仕方ないので渋々払いました。しかし、その後、エチオピア人たちが払っている額を見ると、ちょうど返金された額と同額です。チケットを見るとちょうど返金された額が書かれています。かなり頭に来ましたが、車内の揺れ、暑さ、ここまでの疲れ、により、もうどうでも良くなってきました。たかが50円くらいの損ですし。ただ、エチオピア人を信用することは今後二度とないでしょう。

バスが途中で立ち寄った村。エチオピアでは町と町の間にこういう未開の村がたくさんあります。弥生時代に迷い込んだのかと思ってしまいます。(クロノトリガーの原始時代みたいでもある)

6時にラリベラ到着。朝6時から12時間の移動です。それにしても、疲れました。

この日、ラリベラでは女性の日本人旅行者Tさんに出会いました。Tさんも世界一周中で、エリトリアからソマリランドへ船で渡り、エチオピアでヒッチハイクを駆使しながら旅をしているそうです。すごい。しかも、この後はエリトリアから船をヒッチしてエジプトへ渡るそうです。すごい。同じくここで出会ったエチオピア系スーダン人ダニエルとTさんと地元エチオピア人達と地元のバーでエチオピア特産の蜂蜜ワインを飲んで過ごしていると、いつのまにかこの日の疲れもすっかり忘れたのでした。

<1/27-1/28 ラリベラ>
久しぶりに朝の5時に起きない朝。すばらしいです。エチオピア随一の観光地ラリベラを観光しました。

この日は土曜日でサタデーマーケットがありました。近隣の村々からたくさんの人達が集まって来ます。徒歩でいくつもの山を重い荷物を背負って越えてくる様子は圧巻です。

そして、岩窟教会群。12もの教会が、一枚岩を彫りぬいて作られています。特に聖ギオルギスは圧巻でした。

宿にたむろしているエチオピア人に昼飯をおごってもらいながら、色々と会話しました。彼らは、アーミーだったり(つい最近のソマリア攻撃にも参加していたらしい)、デルグ(一昔前のエチオピアの社会革命家)出身のやくざだったり、貧乏学生だったり、境遇は様々だったのですが、共通しているのが宗教・政治・社会問題に関して知識が豊富だということでした。英語も上手だし。エチオピア人を少し見直すことになりました。ただ、彼らはキリスト教徒で、ムスリムのことをかなり悪く言っていたのは、少し悲しかったです。

また、ラリベラでは観光地から少し離れた村で学生達と話をする機会がありました。一通り雑談した後、いつものように「俺達は貧乏だ。助けてくれ。勉強をする本を買ってくれ。」と言われて、いつものようにげんなりして「悪いが助けてあげることはできない」といって断りました。でも、彼らはそれで僕を悪く言うでもなく、「別にいいよ。きにするな。」という感じで、とても爽やかで良い感じでした。その上、別れ際に、聖ギオルギスを模したペンダントを僕にくれて、「ずっと俺のこと覚えていてくれよ」と言いました。ますますエチオピア人を見直すことになりました。

いっちょまえにポージングするガキンチョ

<1/29-1/31 アジスアベバへの移動>
ついに体調を壊しました。多分食あたりです。下痢と嘔吐です。なにが原因かは、心当たりがありすぎます。チャット(噛んで楽しむ葉っぱ)を飲み込んだこと、不衛生な手での食事、生水、移動の疲れ、などなど・・・。ラリベラからデシェというところで一泊して次の日にアジスアベバへ行く予定だったのですが、デシェでもう一泊して体調回復を待つことにしました。その間何も食べずに、体内の食物を全て嘔吐と下痢で出し切ると楽になってきました。

アジスアベバ行きのバスではついに大きなトラブルなく(小さなものはあるが)無事12時間の旅路の末、アジスアベバにつきました。まる2日間まともに食べていないのでフラフラになりながらも、親切な現地人とエチオピア大学に留学中の日本人Y君のおかげで、無事ホテルにチェックインできました。あー、疲れた。そして、腹減った。
しかし、チェックインと同時に外は激しい雷雨になりました。早く外へ出て噂のおいしいイタリア料理を食べたいのに。。。なんという仕打ち。


アジスアベバの後は一路ケニアの首都ナイロビを目指して移動します。噂ではこの移動が東アフリカで最もきついとか。。。不安で胸一杯です。