瞑想修行、エベレスト・トレッキング、美食、たくさんの旅友達との再会、と色々あり、合計8週間近くも滞在したネパールをついに出国して、みたびインドへ入国しました。ちなみに一カ国で8週間の滞在は、タンザニアでの5週間を抜いて一カ国の滞在期間最長記録更新です。
インドでは、ヒンドゥー教の大きなお祭りホーリーをヒンドゥー教の聖地バラナシで見るために、一路バラナシを目指しました。カトマンドゥからバラナシへはバスと電車を乗り継いで約28時間の道のりでした。
ホーリーというのは、みんなで街に繰り出して、色の水や色の粉をかけあって楽しむお祭なのだそうです。しかし、イスタンブールにいる時に、インドに詳しい旅人はこう言いました。
「バラナシのホーリーは凄い。この日は日ごろの差別の元となっているカーストが無くなるので、低カーストの人は日ごろの溜まっている鬱憤を思いっきり発散する。強盗・殺人・レイプは当たり前。外国人も当然狙われる。ホーリーの当日は街には人影がなくなり、警察も逃げ出し、宿の門も閉ざされるので旅行者は外に出してもらえない。」
それ以来、”バラナシのホーリー”というのは常に僕の頭の中にあったのです。そして、タイミング良く僕はバラナシにてホーリーの日を迎えることができました。
バラナシへ来るのは二度目です。今回は、ホーリーの他にも二つ大きな目的があります。一つは、前回来た時は真冬の1月だったので、寒くて出来なかったガンジス川での沐浴(地元インド人や根性ある旅人はその時期でもしてましたが。)。もう一つは、前回は泊まれなかった”伝説の日本人宿・久美子ハウス”に宿泊することでした。何といっても、久美子ハウスは、かの長淵剛やオウム真理教の麻原が宿泊したこともあるという、まさに伝説的な宿です。久美子ハウスには、ホーリー直前のチェックインだったけど、あっさりと無事宿泊できました。久美子さんも、想像していたよりも遥かに感じの良い人だったし、とても居心地は良いです。長淵剛や麻原が泊まっていた時の話も久美子さんから聞けて、すごく面白かったです。朝食と夕食は宿でみんなと一緒に食べるのですが、そのご飯も結構おいしいし、とても良い感じです。これで、僕が勝手に名付けている世界4大日本人宿を全て制覇できました。ああ、すっきりしました。(ちなみにその他の3つは、エジプト・カイロのサファリホテル、メキシコシティーのペンション・アミーゴ、トルコ・イスタンブールのツリー・オブ・ライフです。)
沐浴に関しても、あっさりとクリアできました。今のバラナシは日本の真夏並の暑さなので、川沿いを歩いていると川で気持ち良さそうに泳いでいるインド人達がとても羨ましくて、ついつい近くで見ていると、「おーい、日本人、一緒に泳ごうよ!」と今から川に入ろうとしているインド人達に誘われて、水着も何も用意してなかったけど、その場でパンツ一枚になって、一緒に泳ぎました。
ガンジス川の水は、それはもう、物凄く汚いです。ヒンドゥー最大の聖地であるにもかかわらず、インド人はガンジス川で、ゴミは捨てるし、洗濯はするし、食器は洗うし、体は洗うし、歯を磨くし、死体を焼いて灰を流すし、焼いていない死体をそのまま沈めたりするし、もう、なんでもありです。インド人は、ゴミや死体が浮いているすぐ側で笑顔で泳いだり、洗濯したり、ボートでデートしたりしています。日本人とは、感覚が根本的に全く違っています。日本だと、真っ白でパンパンに膨らんで死臭が漂う腐乱死体が川でプカプカと浮いていたら、腰を抜かすほどびっくりしますよね。でも、それがインドのガンジス川だと、まるで水草か何かが浮いてるかのように、みんなまるで関心を示さないのです。やっぱりインドってすごいですね。
まあ、そういう訳ですので、ガンジス川に顔は絶対につけたくなかったけど、一緒に泳いだインド人がふざけて水をかけてくるので、油断していた僕はもろに顔に水をかけられてしまいました。うをお、唇の隙間から川の水が少し口に入ってしまいました。うげえ、気持ちが悪い・・・。でも、インド人達は老若男女問わず、みんな平気で顔を水につけて気持ち良さそうに泳いでいます。そういえば、この川の水で歯を磨いたり、さらには飲料水として直接飲んだりしていますよね、あなたたち・・・。ほんと、インドってすごいですね。
ゴミだらけの川で沐浴し、神妙にして佇むインド人のおっさん
ゴミの溜まった川岸にて洗濯する(または石に服をたたきつける)人
ゴミが浮き、観光客向けボートが浮いている中で、食器を洗ったり沐浴したりするインド人女性
水牛もいたりします。
ああ、気持ちええ~
さて、ホーリーです。3月21日は前夜祭という感じで子供達が色水をかけあったりして遊ぶ日です。そして、翌日の22日が本番で、一年に一回、大人のインド人が酒を飲んで酔っ払い、全てのカーストが無礼講になる日です。いったいどうなるのでしょうか。期待と不安でワクワクします。(ちなみにインドの祭は太陰暦が元なので毎年日付は変わります。)
まずは、前夜祭の日、久美子さんから宿に置いてある要らない服を上下で150円で買い、色粉を水に溶かしペットボトルに入れて、子供との水掛合戦に向けて出陣しました。子供達は、毎年のことで慣れているし、人数も武器の数も多いし、散々色水を掛けられてしまいました。でも、まあ、たまに童心に返るのは楽しいですね。
さあ出陣!(2回目なので、もう結構色水で汚れている)
翌日は、怖いので外出せずにビルの屋上同士での色水爆弾合戦をしました。水風船やビニール袋に色水を入れて隣のビルの屋上同士で投げ合うのです。これも、インド人軍団に対して弾薬の数の多さで完敗していた僕ら久美子ハウス陣は散々インド人にやられました。でも、たまに隙を見つけて相手方のボスに爆弾が命中したりすると、してやったり!という感じになって楽しいです。まあ、当てられた方の相手ボスが逆に嬉しそうに太鼓をたたいたりするので、むかついたりもしますが。
相手方のインド人軍
一応一番左に座っているおっさんをボスということにして戦いました。
対する我ら久美子ハウス軍
弾薬不足で苦戦気味
色水合戦に飽きて、踊り狂うインド人達
踊るのに飽きると、また色水爆弾を投げてきます。
今年は、例年ほどはバイオレンスではなかったようなので、昼過ぎごろに外出しました。その頃には、すっかり”祭りの後”的な雰囲気で、インド人達の多くは帰宅中であったり、ガンジス川に入って体についた色水を落としたりしていました。でも、中にはまだまだ楽しみ足りない、まだまだおわらへんでえ、というインド人も結構いて、そういう人達が僕のような外人観光客を発見すると、思いっきり絡んできます。ホーリーでのインド人の絡み方は、1.まずは服を破り捨てる、2.色水がべったりとついた手で顔や体に色を塗りたくる(ついでに乳首をつねる)、3.それに飽き足らず直接色粉を掛けてくる、4.そして一緒に踊り、5.その後、「ハッピー・ホーリー!」と言って熱く抱擁する、という感じです。
そうすると、こうなります。
話で聞いていたような”強盗・殺人・レイプ”などは、僕の周りでは全くなかったし、むしろ平和な雰囲気で、みんなハッピーかーい!という感じの幸せなお祭りでした。
しかし、普段飲み慣れない酒に飲まれてしまいおかしくなったインド人もたまにいました。川沿いを歩きながらそろそろ宿に帰ろうかと言う時、手に牛の糞をたっぷり持ったインド人が「ハロー、ジャパニーズ!カモーン!ハッピー・ホーリー!」といいながら、こっちに走ってきます。もちろん全速力で走って逃げました。振り返ると、そいつはまだこちらを狙ってしつこく近づいて来ます。すると、後ろからそいつに忍び寄った別のインド人が、そいつの頭に思いっきり牛の糞を擦り付けました。いったい何をしているんだ・・・。そのどさくさに、僕はこっそり逃げて無事に宿に帰れました。いやあ、まったくもって、インドってすごいですね。
◆3月10日・トレッキング8日目・ゴラクシェプ(5150m)→カラパタール(5550m)、エベレストBC(5400m)、ロブチェ(4900m)
朝5時に出発。真っ暗です。月が出ていないので、星空は綺麗なのですが、足元がまったく見えません。ヘッドライトだけが頼りです。カラパタールへは幸い、先行しているトレッカーが3人ほどいたので、ルートが何とかわかりました。もし、僕が一番乗りだったら、どこからどう登り始めたらいいのか全く判らなかったと思います。
6時ごろには空は白んできているので、ヘッドライトはいらなくなりました。奥の山はプモリです。
僕の後ろからは誰も上ってきていないので、たった4人の日の出トレッキングです。
6時45分頃、ついにカラパタールに到着しました。ゴラクシェプからだとヌプツェの後ろに隠れていたエベレストは、カラパタールからだと真正面に見ることができます。
どうやら、太陽はエベレストの真後ろから登ってきているみたいです。
日の出直前。左がエベレスト、右がヌプツェ。
日の出の瞬間
カラパタールには結局1時間くらいいました。多分、物凄く寒かったと思うのですが、景色の余りの神々しさに寒さはほとんど感じませんでした。
カラパタールにて。寒さも疲れも忘れています。
宿に戻り、遅めの朝食を摂り、エベレストBCへ向かいました。ヒマラヤの山々に囲まれた素晴らしい景色の中を2時間ほど歩き、BCに到着しました。
BCへ向かう道
ベースキャンプという名前から、小屋やテントなどがある平らな場所を想像していたのですが、実際のBCはびっくりするくらい全く違うモノでした。そこは、氷河の上に、氷河が運んできた岩や土砂が堆積して、人が歩けるようになったような場所で、起伏の激しい岩や土砂の間から、氷河の一部が見え隠れしている、今まで見たことの無いような変わった景色でした。そこからはエベレストは見えないのですが、ヌプツェやプモリを真下から見上げることが出来ます。
エベレストBC。氷河とその上に積もった土砂。
油断して歩いていると左足がずぼっとクレパスに落っこちそうになってびびりました。
真下から見上げたヌプツェ。
エベレスト登山隊は、通常、下の写真の左下から右上にかけて氷河を登り始め、エベレストを目指すのだそうです。いったいどうやって、あの険しくて勾配のある氷河を登るのでしょうか。想像を絶する世界ですね。
BCから宿への帰り道、またまた間違えた道に入ってしまい、20分ほど無駄に歩きましたが、さすがに4度目ともなると、道に間違えたことをすぐに察知できるようになってきた気がします。そして、無事にゴラクシェプへ戻り、昼食を食べて、ロブチェには午後5時くらいに辿り着けました。
ところで、標高5000mを超えると、とても天気が良いです。なぜなら、この季節は、雲が標高5000mまでしか上がってこないからです。
下の写真は、ちょうど雲が5000mのところまで来て止まっているところです。下山時、この雲の中にもろに入っていくことになり、50m先も見えなくなりました。
今日は計算すると合計10時間半も歩いたことになります。ひょっとしたら、今日が人生で一番たくさん歩いた日かもしれませんね。
◆3月11日・トレッキング9日目・ロブチェ(4950m)→ナムチェ(3400m)
この日からは、ただただ下山していくだけです。ガイドブックによると、一般的には、ロブチェの次はタンボチェ(3850m)くらいまでしか降りないらしいのですが、カラパタールとBCにすでに行ってしまった今では、一日でも早く下山してカトマンドゥへ戻りたい気持ちで一杯なので、一気に一般の人の倍の距離を降りてナムチェまで行きました。8時に出発して、17時30分にナムチェに着きました。途中1時間半の休憩をしたので、8時間も歩いたことになります。昨日と違うのは、昨日は重い荷物を宿に置いて歩いていたのが、この日は10kgの荷物をずっと背負って歩いたことです。昨日よりも遥かに疲れました。ナムチェで行きしなに預けた不要な荷物(本や洗剤など)を受け取ったので、明日からはさらに荷物が重くなります。気が重いけど、明日もう一日頑張ればスタート地点のルクラです。もう、あと、一踏ん張り!
下校中のシェルパ子供。標高3500mにて。君達はすごいよ!
◆3月12日・トレッキング10日目・ナムチェ(3400m)→ルクラ(2800m)
一刻も早くルクラに辿り着きたい一心で、駆けるように山を降りていきました。荷物は肩と腰にぐいぐいと食い込んでくるけど、もうあと少しの辛抱です。ルクラまで着けば、飛行機に乗ってカトマンドゥに行けます。カトマンドゥに着いたら、11日ぶりのホットシャワー、その上銭湯まであり、待ちわびた美味しい日本食もあります。まさに天国!頑張れ!頑張れ!と自分を励ましながら、孤独な道のりを、汗を掻きながら、急いで降りて行きます。その時、突然、左足のつま先に鋭い痛みを感じました。止まって、靴を脱いで見てみると、靴下のその部分が濡れています。どうやら、水ぶくれになっていたところが、破れてしまったみたいです。下りの道を半ば駆け足で降りていたので、負担がかかりすぎたみたいです。まあ、仕方ないので、これからはペースを落としてゆっくりと歩こうかと思いながら、野小便をしました。すると尿が赤いのです。肉汁のような尿がじょぼじょぼと出ています。草や石を赤黒く染めています。うわあ!血尿!血尿が出た!僕は、これを見て、血の気がさーっと引きました。頑張るぞ!と思って上がっていたテンションも急降下です。どん引きです。さっきまで汗を掻くほど暑かったのに、急に体温が下がって寒気を感じ始めています。
小便を終えて、座り込み、しばらくどうしたものか、と考えました。なんだか膀胱の辺りに変な違和感も感じ始めました。何もかも投げ出してしまいたい気分に襲われました。また、ヘリコプターか何かでカトマンドゥまで運んで欲しいとも思いました。でも、そんなことは不可能だし、とにもかくにも、自分の足で歩いてルクラまでは辿り着かないと、どうしようもないのです。仕方が無いので、ふらふらしながらも、とりあえず歩き始めることにしました。バックパックの腰のベルトを締めると膀胱の辺りの違和感が強まるので、ベルトを外して歩くことにしました。バッグの重量は全て肩にかかってしまうのですが、仕方がありません。水ぶくれがつぶれて痛む左足を引きずりながらゆっくりと歩きました。30分ほどしてすぐに次の尿意がやってきました。なんたる頻尿ぶり。しかし、今度の尿は、前回よりも赤色が薄れていました。赤というよりはオレンジ色です。このことで、心が随分と楽になりました。血尿は、そんなに酷くない!歩くペースも少しずつ元に戻り始め、左足の痛みもあまり感じなくなってきました。その後も、頻尿は続き、40分に一回くらい野小便をしたのですが、だんだん赤色は無くなっていき、ついには通常の尿の色に戻りました。どうやら、腰のベルトを締めすぎていて膀胱がダメージを受けたことが原因らしかったみたいですね。
そんなこんなで、13時半ころ、無事にルクラに辿り着けました。尿意を感じる感覚も徐々に長くなっていき、夜も途中で起きることなく、安眠できました。いや、血尿が大したこと無くて本当に良かったです。
ルクラの村
◆3月12日・トレッキング11日目・ルクラ→カトマンドゥ
空港に行くと、瞑想仲間のQちゃんと偶然会えました。彼は僕よりも4日早くカトマンドゥを出て4日長くトレッキングしていたそうです。その間、ゴーキョなど僕の行っていないところも行っています。しかも、途中で遭難して一日テントで震えながら寝たらしく、そんな話をしながら大笑いしました。天気は快晴で、飛行機も無事飛んでカトマンドゥへは昼前に辿り着きました。11日間の間にカトマンドゥはさらに暖かく初夏のような暑さで、半袖でも十分です。人が多く、車も多く、排気ガスや埃で汚い空気なのですが、やっと自分達の世界に戻ってきたような気がして、僕もQちゃんも嬉しくて笑いが止まりませんでした。
日本食レストランでカツ丼を食べた時、ようやく、ああ、トレッキングがついに終わったんだなあ、と心から思えました。
「うまい。幸せ。」を連呼しながら、カツ丼を掻きこみました。
<おわり>
現在、3度目のインド入国を果たし、バラナシの久美子ハウスでのんびりしています。日本の7月くらいの暑さです。かなり暑いです。そして蚊が滅茶苦茶多いです。でも、やっぱりバラナシはいいですね。好きです。ホーリー祭はここで迎えました。想像以上に面白かったです。この後、涼しいであろうリシュケシュへ行って、しばらくヨガをする予定です。
3月3日から10泊11日で行ったエベレスト・トレッキングについてです。事前に経験者からガイドもポーターもいらないと聞いていたので、一人で行ってきました。瞑想の直後に一人で山に入ってトレッキングをするというのは、なんだか瞑想修行の延長のような感じがして、なかなか良かったです。もちろん、景色も想像を絶する凄さでした。
ちなみに、パソコンは無事直りました。ネパール人のこの道11年のベテランPC修理屋さんに時間外まで頑張ってもらい、直してもらいました。本当に良かったです。ネパール最高!
<エベレスト・トレッキング日記>
◆3月3日・トレッキング1日目・カトマンドゥ1300m→パクディン2600m
カトマンドゥからルクラというトレッキング出発地点の町までは飛行機を使います。朝6時半発のフライトに間に合うために、早朝4時半に起きて、真っ暗の中、カトマンドゥ市内を1時間かけて空港まで歩きました。余計な荷物は宿に預けたのですが、寝袋、防寒具、着替え、本などで合計10kg以上の荷物になってしまいました。宿での暇つぶしのための本をちょっと持って来すぎた、と早くも後悔してしまいます。
20人乗りくらいの小さなセスナでのフライトは1時間半遅れて8時に飛び、わずか30分でルクラ(標高2800m)に到着しました。よし、いくぞ!と思い、荷物を取ろうとしたら、なんと、荷物が届いていません。30分くらい待っても荷物は現れません。他のトレッカー達はみんな行ってしまいました。どうやら、僕とその他数人の荷物は飛行機に積みきれなかったみたいで、1時間半後の次のフライトで到着するから待て、ということらしいです。瞑想修行によって、怒ることが少なくなっていた僕も、この時はかなりイライラしてしまいました。きーーーっ!カトマンドゥよりも1500mも標高が高くなり気温が下がっている上に小雨がぱらついてかなりの寒さになっているにもかかわらず、防寒具は未だカトマンドゥにある荷物の中に入っているので、体感の寒さは耐え難いレベルになっています。体操をしたりして無理やり体を温めました。結局荷物は3時間後の11時30分に到着しました。飛行機が遅れずに飛んで、荷物もきちんと着いていれば、7時半にトレッキングをスタートできていたはずなのに、その4時間半後の12時にトレッキングスタートとは・・・。
今まで見た中で最も滑走路の短いルクラの空港
気を取り直してトレッキングをスタートしました。今日通った道は、日本でもどこでもあるような普通の山道。途中いくつものシェルパの村を通ります。シェルパというのは、ヒマラヤの高地に住む民族の名前です。老若男女問わず超人的な体力で、アップダウンが激しく足元が不安定な山道を重い荷物を背負っても素早く移動して行きます。顔は一般的ネパール人よりもさらに日本人に近く、文化はチベットに近いです。
仏教の経文が大きく書かれた大きな石、マニ石。こういうのが、トレイル上にはゴロゴロありました。エベレスト周辺は仏教エリアなのです。
15時にパクディンという村に着いた時には、ヘトヘトになっていました。瞑想修行で12日間も座りっぱなしで筋肉が衰えていたようです。そして、荷物がとても重い。上り坂ではぐいぐい肩と腰に荷物がくいこんできます。標高が上がって、行程がハードになる前に筋力を取り戻さないと、後がきつそうです。それと、一本道なので道には迷いようがないと聞いていたけど、早速一回迷ってしまいました。明日からが思いやられますね。泊まったロッジには客が僕しかいません。従業員とその家族は合計で10人くらいいるのに。なんかちょっと肩身が狭いです。
パクディン近くの村
ご飯はやっぱりダルバート(ネパール風カレーライス)。
山登りの後のご飯は美味しいですねえ。
◆3月4日・トレッキング2日目・パクディン→ナムチェ3450m
今日も相変わらず荷物が重い。そして、足が疲れる。途中までは良い調子だったのですが、ナムチェの直前に高度差600mの登りがあって、そこで一気に体力が奪われました僕の荷物の数倍の重さの荷物を背負うシェルパにはもちろん、白人の年配のトレッカーにも、がんがん抜かされてしまいます。
長い吊橋。今日は何度も吊橋を渡りました。
そして、今日も分かれ道で間違った方に行ってしまい30分余分に歩いてしまいました。
超人的なシェルパ。
この日も宿に着いた時はヘロヘロで、チェックイン後、気絶するように寝てしまっていました。
◆3月5日・トレッキング3日目・ナムチェで高度順応兼買い物
高度順応と買い物を兼ねて、ナムチェで2泊しました。手袋、水筒、サングラスなどの今後必要となるものを買い、エベレストが見えるというシャンボチェの丘(標高3850m)へ登りました。片道1時間半くらいです。
朝目が覚めると部屋の窓から綺麗な山が見えてテンション上がります。
ローマ劇場風な作りのナムチェの村。
早朝あんなに天気が良かったのにシャンボチェの丘に着く頃には雲が出てしまいました。それでも、エベレストはほんの先っぽだけ見ることができました。ほんの少しだけだったけれどエベレストを初めてこの目で見ることができて、俄然明日からのやる気が高まりました。
写真では雲との見分けがつきませんが、一応、エベレストの先っぽ(写真中央)。
◆3月6日・トレッキング4日目・ナムチェ→タンボチェ(3870m)
朝は天気が良くて、昼前から曇り始めて、夕方には雨や雪が降る、というのが前3日間のパターンだったので、この日からは早起きして、できるだけ天気が良い時間に歩くことにしました。
この日のトレッキングルートの前半は、エベレストの頭の部分とアマダブラムというヒマラヤで最も美しいとされる山がずっと見えているという、素晴らしいものでした。といっても、エベレストはまだ頭の部分が小さく見えるだけなのですが。しかし、美しいアマダブラムは、間近から僕らを見下ろすかのように、聳え立っていました。
ナムチェの宿に読み終わった本や、なぜか持ってきてしまった洗剤などの不用品を置いてきたので、荷物が1~2kg軽くなり、昨日までよりも随分と楽になった気がします。3日間歩いて筋力も戻ってきたような気がするし、高度順応もできてきている気もします。快調に歩いて、地球の歩き方に書いてある所要時間よりも1時間短く目的地のタンボチェに着けました。ナムチェまでは歩き方の所要時間よりも長くかかっていたので、随分進歩したものです。
タンボチェでは、このトレッキングで初めて日本人と会えました。久しぶりに日本語での会話ができて、とても幸せでした。ところで、なぜなのかわからないけど、このトレッキング中に出会った欧米のトレッカー達は、なぜかフレンドリーではない人が多かったです。
夜、部屋で瞑想をしている時(瞑想修行後も時々しているのです)、瞑想修行の9日目以来、初めてあの体が溶ける感覚が来ました。一人で黙々と山を歩いていることで、精神が浄化されていっているからなのでしょうか。しかし、体が溶ける感覚が始まってすぐに部屋のドアが開く音がしたので、びっくりして目を開けると、なんと野良犬がロッジの中にまで入ってきて、僕の部屋に暖を求めて忍び込んで来たのでした。ベッドの下に潜り込んで、気持ちよさそうに寝始めてしまいました。そのまま寝かしてあげてもいいような気もしたのですが、僕が寝ている間になんかあっても困るので、宿の人におっぱらってもらいました。ごめんよ。
◆3月7日・トレッキング5日目・タンボチェ→ディンボチェ(4400m)
昨日にも増して、今日は快調でした。疲労を感じることなく目的地のディンボチェに辿り着けました。
タンボチェの朝
ヤク(ヒマラヤの高地に住む牛)達。
トレッキングの最初から最後まで彼らとは何度もすれ違います。そして何度も彼らのウンコを踏みそうになります。もちろんその内の何度かは踏んでしまいます。
途中の食堂にて、食事を作ってくれているシェルパの女の子。
さすがに標高4400mを過ぎると、部屋の中にいてもかなり寒いです。本を読もうと思っても手がかじかんでページをめくれません。寒すぎて瞑想もできません。暇な時間は寝袋に入ってウォークマンで音楽を聴くくらいしかできなくなってしまいました。夜ご飯の時間だけは、食堂でストーブを炊いてくれるので暖かいのですが、前述の通り、なぜか欧米人トレッカーはあまりフレンドリーじゃないので、一緒にいても楽しくなく、食べ終わったらすぐに一人部屋に戻り寝袋にくるまって寝るのでした。
◆3月8日・トレッキング6日目・ディンボチェ⇔ナガゾン(5100m)
高度順応のためにディンボチェで2泊します。近くのナガゾンの丘(標高5100m)に登りました。
ディンボチェの村は谷間にあります。秘境という感じがして好きです。
鬼ヶ島のような山
ナガゾン頂上(標高5100m)からの眺め。見えているのはマカルーという8500m級の山らしいです。
さすがに5000mを超えると10mも上り坂を登ると激しく息が切れます。
朝はあんなに天気が良かったのに、午後からは夜までずっと天気が悪く村は霧に包まれ雨が降ったり雪が降ったりでした。丘から降りた後は、ずっと部屋の中で寝袋にくるまり震えていました。
◆3月9日・トレッキング7日目・ディンボチェ→ゴラクシェプ(5150m)
地球の歩き方によると、7日目はロブチェという標高4900mの村に一泊するらしいのですが(実際ほとんどのトレッカーはロブチェで一泊している。)、ディンボチェからロブチェまでは、歩き方によると4時間くらいで着くらしいので、午後がまるっきり無駄になってしまいます。標高4500mを超えてからは、ロッジの中にいても寒くて何もできないので、それならば荷物を背負って歩いている方がまだマシだと思ったので、一気にゴラクシェプまで歩くことにしました。ゴラクシェプはこのトレックの最後の村で、最終目的地のカラパタール(展望ポイント)とエベレスト・ベースキャンプ(以下BC)への拠点となる場所です。また、金銭的な問題も僕を先へ先へと焦らせる原因になっています。当初、12日間の予定でトレッキングに来て、十分な予算を持ってきていると思っていたのですが、何を買うにも山の中はカトマンドゥの数倍の価格なので予想外に毎日の出費が大きく、12日間もいるとギリギリのお金しか残らなさそうなのです。もし、ルクラからカトマンドゥへの飛行機が悪天候で飛ばなかったら(よくあるらしい)、一文無しになって野宿しなければならなくなってしまいます。(というのは大げさで、ドル現金を両替できます。でもレートがとても悪いのです。)
ということで、この日は一般トレッカーの倍の距離を歩くことになりました。朝7時半にまだ誰もいない山道を歩き始めました。シェルパとさえもほとんど出会いません。素晴らしい景色をたった一人で堪能するのは、とても気持ちが良いのですが、不安感や寂しさもとても感じてしまいます。道はこれであっているのかな、とか常に考えてしまい(なんせよく間違うので)、誰かとすれ違うことを常に願っている状況です。
ストゥーパ(仏塔)とアマダブラムと日の出
孤独で不安だけど良い眺め
氷河の上を歩いて渡ります。
ちなみに、前回のブログのトレッキング写真はこの日の写真です。
ロブチェまでは道に迷いつつも予定通り11時30分に到着し、昼ごはんを食べて、すぐにゴラクシェプに向けて出発しました。そして、標高5000mを超えたと思われる地点から、ついに頭痛が始まってしまいました。少しでも頭を動かすと、頭の中でパキパキパキパキと音が鳴ります。ここまで、多少息切れがするぐらいで目立った高山病の症状は無かったのですが、やはり二日分の移動という無理がたたったのか、ついに高山病が襲ってきたみたいです。でも、高山病の扱いはキリマンジャロで経験済みなので、水をたくさん飲み、休憩をたくさんとり、できるだけゆっくり動くことで、対処できました。ゆっくりゆっくりとなめくじのように先へ進み、険しい岩山の道を這い進み、午後4時半、疲れ果てた頃、ついに最後の村ゴラクシェプに辿り着きました。
着いた瞬間、喜びの余り自分撮りをしてしまいました。
ピース。
夕焼けに染まるヌプツェ(エベレスト西岳)。ここまで来ると何もかもが幻想的に見え、何をどの角度で写真に撮っても美しくなってしまいます。
宿の人に明日の行動予定を相談すると、次の日、カラパタール(展望ポイント)へ昇ってエベレストと朝日を見てから宿で朝食を摂って、エベレストBCへ往復し宿へ再度戻り昼食を摂り、さらにロブチェまで戻ることは可能だと聞き、俄然テンションが上がりました。ガイドブックにはカラパタールとエベレストBCを一日で行くことは難しいと書いてあり、多くのトレッカー達からも日程的にエベレストBCを諦めてカラパタールだけ見てロブチェに降りる予定だと聞いていたのです。今日、頑張ってゴラクシェプまで登ったおかげで、行けるかどうか不安だったエベレストBCまで行けそうだとわかったのです。良かった!
明日は日の出前の5時に朝食を食べずに宿を出発して往復3時間のカラパタールまで登るので、明日のための元気をつけるために夕食を多めに食べたら、頭痛が酷くなってしまいました。吐き気もします。下痢も来ました。その上、マイナス10度の極寒のため、なかなか寝付けませんでした。しかし、ここまで来たら、後はもう気合です。たった5日間で一気に5880mまで登って降りるキリマンジャロ登山に比べたら、はっきりいって、8日間もかけて5550m(カラパタール)までしか登らないエベレスト・トレッキングは楽すぎるほど楽な日程だし、明日はもうとにかくやるしかない!しかし、寒い。
<後編に続く>
トレッキングを終えてヘトヘトになって宿に帰って(宿にノートパソコンなどのトレッキングに不要な荷物を置いていたのです。)一息ついてノートパソコンを立ち上げてから2~3分後、突然ノートパソコンの画面が真っ暗になったのです。よく目を凝らしてみると完全に真っ暗になったわけではなくて、暗い中に一応うっすらと使っていたエクスプローラーやファイアフォックスなどのウィンドウが見えます。どうやら画面の輝度が物凄く下がったみたいなのです。画面の輝度をあげるキーをいくら押しても全然反応しません。窓際にて明るい太陽光の下で使うと(角度をうまく調節して光が反射して眩しくなりすぎないようにすると)、白背景に黒文字の文章ならば何とか読めることがわかりました。
しかし、この使い方だと目がとても疲れるし、写真なんかはほとんど見えないので、なんとか直す方法を考えることにしました。ということで、カトマンドゥのバックパッカーの良き相談役アティティツアーのスディールさん(日本語ぺらぺら)に相談し、パソコンの修理をしてもらえる場所を紹介してもらえました。早速そこに行って見てもらったのですが、やっぱりディスプレイのハード的な障害みたいでした。その店の人は、「治るかどうかは判らないけど、一応できることをやってみよう」的なノリでした。土曜日は店が休みなので、明日の日曜日にパソコンを修理に出すことにしました。
本当に治って欲しいです。南アフリカのケープタウンの中古ショップで購入してから約1年間。旅の相棒としてここまで一緒に来れたので、なんとか残りの五ヶ月間も一緒に旅して日本まで持って帰りたいです。今まで、でかいとか、重いとか、HD容量が小さいとか、ディスプレイが汚いとか、前の方が良かった、とか散々文句を言ってごめんなさい。一緒に日本まで帰りましょう。
ああ!治りますように!
本文とはあまり関係ないのですが、トレッキングの写真です。
◆2月21日<九日目>
瞑想センターの裏山
背中が痛い。瞑想中、昨日までは脚が痛かったのですが、今日からは背中が痛いです。どんなに背中の姿勢を正しても、前傾しても、後傾しても、背中を丸めても、全然痛みが消えません。昨日の最後は、あんなに心も体も軽くなり、瞑想も楽になったというのに、今日はいったいどうしてしまったんだろう。この日から、感覚を観察する範囲が腕全体とか、体の前面全体とか、脚全体とか、広い範囲で観察するように言われています。もし可能ならば体全体で感覚を感じてもいいのです。しかし、背中が痛すぎて全然集中力が高まりません。仕方なく昨日までと同じやり方で10cmくらいの狭い範囲をちまちまと観察し続けます。それが精一杯なのです。いったいどうしてこんなに背中が痛いのだろう。昨日寝る時に変な寝相だったのだろうか。それともどこか体が悪いのだろうか。
二日に一回くらい先生とのインタビューがあります。修行の進捗具合をチェックして、あまり進んでいない場合はアドバイスをしてもらえたりします。この日の夕方の瞑想時にインタビューがあったので背中の痛みについて先生に相談しました。
「昨日までは無かった背中の痛みが酷いのです。瞑想に集中できません。」
「それは良いことです。平静な心で観察し続けなさい。いずれ消えてなくなります。」
この時、「それは良いことだ。」と言われたことが、とても僕を勇気付けました。その後の6時から7時の1時間の瞑想の時、背中に痛みがあるにもかかわらず集中力は元に戻っていました。おそらく、この背中の痛みは古くに潜在意識に蓄えられていた「嫌悪」か「渇望」が表層に出てきたものなのだろうと理解しました。瞑想を始めて40分くらい経った頃でしょうか、徐々に背中の痛みが溶け出していくことを感じました。そうすると、集中力はさらに高まっていって体の広い部分の感覚を同時に感じることができるようになっていきました。体の前面全体とか、背中全体、両脚全体、そしてついには体全体の感覚を同時に感じ取ることができるようになりました。この時感じていた感覚は、とても繊細で心地よいものでした。まるで蛍の光のような微弱なチカチカするような光が体全体を覆っているような感覚です。どのような感覚であっても生まれては消えていきます。微弱な心地よい感覚が生まれてはすぐに消えていきます。そしてまたすぐに生まれます。まるでブッダが悟られたように、「体は振動の集合である」というような感覚でした。
その時、突然僕の頭が左斜め後ろにぐにゃりと移動し始めるのを感じました。実際に頭は全く動かしていません。30cmくらい動いた感じです。僕はそれを平静な心で観察し続けました。そうするとその頭が移動した首と頭の間から光の粒子のようなものが溢れ出て、それが体全体を流れ出し始めました。凄い恍惚感です。自分の体の重力が無くなっていくのを感じました。まるで浮いているような感覚です。腕や脚が溶け出して、自分の体から離れていくような感覚も感じました。頭と腕と脚と体が別々に空間に浮遊しているような感覚です。しかも恍惚感は依然続いています。その感覚のあまりの心地よさに目から少し涙が出ました。
「ついにダンマ(真実)に触れた。」と僕は思い、感動しました。
気付くと、頭の位置の感覚は右斜め後ろへといつのまにか移動していました。光の粒子は依然、頭が無くなった首のところから溢れ出ています。その感覚に酔いしれている時に、いつもの終わりのお経が流れ始めました。少し現実に引き戻されましたが、恍惚感は相変わらず続いています。痛みや疲労感は全くありません。終わらないで欲しい、もっと続いて欲しい、と心から思いました。
瞑想が終わってしばらく待ってから目を開けると、自分の体は変わらずそこにありました。頭もちゃんと首の上に乗っています。腕や脚も体にくっついていて動かすことが出来ます。いつもと同じ薄暗い瞑想ホールで、瞑想者はみんな出払ってしまっていて、みんなの座っている座布団だけが残っている状態でした。いつもの瞑想ホール。でも、僕は僕自身が一時間前とは決定的に何かが変わってしまったように感じていました。今までは持っていなかった何か素晴らしいものを手に入れたような気になっていました。
その瞑想の直後に講話がありました。その講話の一番最初にこう言われました。
「みなさんは瞑想の8日目か9日目くらいには、バンニャ(またはバンガ)と言われる全身が溶け出すような恍惚感を経験することがあるかもしれません。これは、ダンマの道(真実の道。涅槃への道)において重要な通過点の一つです。表層意識と潜在意識と体の感覚との壁が取り払われて、さらに心の平静さを保っている時に発生します。しかし、これは最終目標ではありません。単なる通過点の一つでしかありません。まだ先には長い道のりが待っています。みなさんが注意しなければならないのは、この恍惚感をこの先追い求めてはいけない、ということです。これはダンマの道の正反対へと進むことになってしまいます。今まで幾人もの瞑想者が、注意したのにもかかわらずこの罠に陥ってしまい、ダンマの道を見失ってしまいました。みなさんは、そういうことのないように注意してください。」
ゴールに辿り着いたような気になって酔いしれていた僕は、冷や水を浴びせかけられたように冷静になりました。確かに、このバンニャがいくら気持ちよかったからと言って、それを追い求めていれば、ただ単に新しい渇望を作り続けるだけになり、それは結果として心の汚濁を増やすことになるのでしょう。
さらに講話では、こんなことも言われました。
「残りは3日間で、11日目には沈黙が解かれるので真剣に修行できるのは後1日と少しだけです。残りの時間は休憩時間も全て修行にあてるようにしなさい。ベッドに入っている時間でも修行を続けることができます。ヴィパサナ瞑想者は24時間睡眠をとらなくても大丈夫なのです。もちろんベッドに体を横たえて体の疲れはとらなければいけませんが。」
僕はこの話に感銘を受けました。24時間眠らなくてもいい、というところに。僕は低血圧で朝が弱く、もし睡眠時間が少ないと体調をすぐおかしくしてしまうので、これはとても嬉しい話です。
早速この日はベッドの中でも瞑想を続けました。瞑想をしていると、やっぱりさっき経験した恍惚感を思い出してしまいます。そして、それを追い求めてしまいます。ベッドに寝転んでいる状態なので、体には不快な感覚はありません。何度もバンニャの一歩手前まで行きます。しかし、そこで何かのブレーキがかかって、あの恍惚感までは辿り着けないのです。しばらくしてあきらめて、ただ体の感覚を観察するだけにしようと、心を入れ替えてしばらく瞑想をしていると、また頭が左斜め後ろにグニャリと移動する感覚がやってきました。そして前のときと同じように体全体を恍惚感が包み始めました。腕や脚は重力を失い体から離れて宙を漂います。僕は、再度この感覚に出会えたことに喜びを感じながらも、同時にこの感覚に浸りすぎることで今後の修行に支障を来たすことを怖いと感じました。しばらくして、恍惚感は消えて、頭の位置や浮いていたように感じた腕や脚は元に戻りました。現実世界へ帰ってきました。時計を見ると11時半で、2時間半もこうしてベッドの中で瞑想していたことになります。突然眠気が襲ってきて、僕はいつの間にか眠っていました。
◆2月23日<十日目>
五時間しか寝ていないにも関わらず、アラームがなる前に鐘の音ですぐに目覚めました。初日全く聞こえなかった鐘の音が今はクリアに聞こえます。きっと感覚が鋭くなっているのでしょう。眠気も全然感じません。残り少ない瞑想期間をできるだけ集中して過ごすことだけが、頭の中にあります。
この日の瞑想では体の内部も観察するように言われました。眉間から観察を始めて頭の中を通って後頭部へと突き抜ける、というように。やってみると以外に簡単にできました。目玉の形を感じ取ったり、脳の内部の感覚を感じたり、耳の中を探っていくと喉に辿り着いたり、鼻の穴を探っていくと食道に出てそのまま胃や内臓の感覚を感じたり、腸や肝臓などの内臓の動きを感じたり、筋肉と骨を感じたり。
昨日感じたバンニャのことは、ひとまず頭から追い出すことにしました。でも瞑想していると、どうしても思い出してしまいます。しかし、今日は心地よい感覚の代わりに、首の右後ろと左のこめかみに固くて重い凝固した感覚が現れました。いくら観察しても消えず、バンニャの一歩手前にいってもこの二つの凝固した感覚が邪魔して全身を心地よい感覚が流れるまではいたらないのです。しかし、ここでがっかりしては「嫌悪」を自分の潜在意識に産み落とすだけなので、平静を保つように心がけます。上手く出来たかどうかはわかりませんが、夜の瞑想の時には、それらの凝固した感覚は少しずつ溶け始めました。
ひょっとしたら、僕が日常生活で感じる体の不快な感覚というのは、姿勢の悪さや外的要因などが原因ばかりではないのかもしれない、と思うようになりました。肩こりや、偏頭痛や、目の周りの疲れや痛みや不快感、背中や腰の痛み、首の痛み、など会社員時代に感じていたそれらの不快感は、潜在意識で生じた「嫌悪」が感覚として、体の弱い部分や疲れている部分に現れたものなのかもしれないです。本当のところはよくわからないです。でも、修行中に現れる痛みや不快感は、現れてもそれに反応することなくしばらく観察しているといつの間にか消えます。それは姿勢の悪さや長時間座っていることとは関係なく現れては消えて行きます。
◆2月24日<十一日目>
朝8時から9時の瞑想が終わった後、講話がありました。そこで、この瞑想法の日常生活での活かし方を教わりました。
何か腹が立つことが起こったら、すぐに反応せずに平静な心でしばらく自分の呼吸や体の感覚を観察すると、怒りは収まり冷静な行動をとることができる、ということです。日常生活でのポイントは、嬉しいことや腹立つこと嫌なことにいちいち反応しない、ということなのでしょう。確かにこの10日間の修行によって平静な心を保つことは、以前よりもできるようになったような気がします。ただ、嫌なことに反応しない、というのはある程度できそうな気はしますが、嬉しいことに反応しない、というのはかなり難しい気がします。それに、嬉しいのに素直に喜ばないっていうのは人間らしくないですよね。
昔、サッカー日本代表が、長く厳しい戦いの末フランスワールドカップ出場を決めた試合の後、中田英寿が他のチームメイトや監督、観客が我を忘れて大喜びしている中、一人静かに冷静でいたことを思い出しました。彼は、当時21歳かそこらだったと思うのですが、既に悟りを得ていたのでしょうか。
もう一つメッター・バーバナという瞑想法を最後に教えてもらいました。これはヴィパサナ瞑想を行った後に数分間行う瞑想で、ヴィパサナを行うことで体に蓄えられた幸福の波動を、周囲に向かって発散するという瞑想です。「生きとし生けるものが幸せでありますように」と心で願いながら。ちなみに、このメッター瞑想を行うと、その部屋がとても調和に満ちた幸せな雰囲気の部屋になるのだそうです。
実生活に戻った後は朝と夜に一回ずつ一時間の瞑想をし、寝る前と起きた後の数分間は布団の中で瞑想を続けるとよいらしいです。そして、1時間の瞑想の後はメッター・バーバナを行うのだそうです。そうすれば、睡眠時間が減っても大丈夫になり、仕事の能率も上がり、家庭も円満になり、幸せな人生が送れるようになるのだそうです。
そして、しばらくメッター瞑想を行った後、沈黙が解かれました。その時、僕は、凄い幸福感に圧倒されて、しばらくは口を聞くことができませんでした。原因は、テープから流れるメッターの幸福の波動の影響かもしれないし、素晴らしいものを手に入れることができたという喜びかもしれないし、ついにしゃべれるという喜びかもしれないし、それら全部かもしれないです。Qちゃんは、最初ただ笑っているだけでした。メインの瞑想ホールからやってきたネパール人たちも、欧米人たちも、みんな笑顔で幸福感に満ちていました。Qちゃん、Jさんと三人で中庭に集まって、ぽつぽつと瞑想について話をしました。天気が良くて半そででも大丈夫なくらい気温は上がっています。何を話していても、おもわず笑顔になってしまいます。笑いが止まりません。まるで学生時代に戻ってしまったような気分です。食堂に戻り、昼食を食べている時も幸せな気分は消えませんでした。ネパール人たちもみな幸せそうです。隣の席のネパール人は学生で、東のインド国境辺りに住んでいるらしくて、わざわざ学校を休んでコースを受けに来たらしいです。学校を卒業したらまた10日間コースを受けに来ると言っていました。ちなみに、参加者のネパール人達はほとんどみんなヒンドゥー教徒らしいです。本当に宗教も宗派も関係なく、みんなを受け入れるのですね。(後で知ったことですが、創始者のゴエンカさんも元は熱心なヒンドゥー教徒だったらしいです。)
日本人女性の受講者と話をしてみると、彼女は26歳の旅行者でした。大きな悩みを抱えたまま旅を続けていて、インドでヴィパサナの話を聞き、ひょっとしたら悩みの解決になるかもしれないと思ってやってみたそうです。そして、今は全ての悩みが晴れて心が軽くなったと言っていました。僕が途中まで苦痛な気持ちで聞いていたその講話にて毎日のように悩みをズバリと解決してくれるようなヒントを与えてもらっていたそうです。Qちゃんも、毎日の講話が凄くためになったといっていました。彼女は、その講話にて「ブッダは一人じゃない。何人もいる。」と聞いて、それなら私もブッダになる!と思ったそうです。
そして2時半から3時半の1時間瞑想が行われました。なぜかこの時は凄く脚が痛くなりました。沈黙が解けた直後の瞑想はめちゃくちゃきついと経験者から聞いていたけど、自分は大丈夫だろうと思っていたのです。甘かった。本当に甘かった。余りの脚の痛さに痙攣が始まった頃、お経のテープが流れ始めました。ああ、あと5分ほどで終わる、と思っていたら、今回はメッター・バーバナのテープがさらにその後に5分ほど追加されていたので、物凄く長く感じました。メッター瞑想のテープで「生きとし生ける者が幸せになりますように」と何度も繰り返されるのですが、僕はもうとてもそんな気分にはなれません。もし僕が今波動を外に向けて出したならば、苦痛と嫌悪の波動しか出ないでしょう。それにしても、なぜ沈黙解除後の一回目はこんなにキツイのでしょうか?心がゆるんだから?でも、このことにより、瞑想の最後の方に長時間座るのが苦痛じゃなくなったのは、単純にそれに慣れたからではないということが判りました。心の問題なんですね。
幸い、次の夜の6時から7時の瞑想では、心を入れ替えて集中したのでいつものように痛みを感じずに終わることが出来ました。その後、講話を聞いて、他の参加者達といつもの消灯時間よりも1時間遅くまで起きて、色々と話をしました。みんな幸せそうでした。その日はいつまでも幸福感に包まれていました。
◆2月25日<十二日目・最終日>
昨晩は、いつもよりも遅くまで起きていたけど、いつものように4時起きです。1時間ほど瞑想した後、最後の講話を聞いて、再び瞑想ホールへ戻りました。ヴィパッサナの瞑想をしばらくすると体全体が心地よい感覚につつまれ、それを外に向けて出すようにメッター瞑想を行いました。テープからゴエンカさんの声で何度も「生きとし生ける者が幸せにありますように。」という声が聞こえてきます。僕も心の中で同じようにみんなが幸せであるように何度も何度も願います。ゴエンカさんの声はいつのまにか歌うようなお経に変わり、それが心地よいバイブレーションとなって僕の体に染み渡って行きます。周りのネパール人から鼻をすするような音が聞こえ始めました。僕の目からもいつのまにか涙が流れ始めました。時間が経つにつれ、涙の量はどんどん多くなっていきます。幸福の涙、そして、別れの涙。テープから聞こえるゴエンカさんの声の響きが持つ幸福感、ヴィパサナ瞑想で自分自身の手に得ることができた幸福感、そしてこの12日間続いた静かで調和があり前向きな雰囲気に満ちていたこの生活がついに終わってしまう寂しさ。お経のテンションはどんどん高まっていき、そして、ついに最後の瞑想の時間が終わりました。その後、しばらくの間、僕の涙は止まりませんでした。涙。涙。涙。。。
カトマンドゥ市内へ向かうバスの時間が迫っているので、気を取り直して大急ぎで朝食を摂り、パッキングして、部屋を掃除し、パスポートを返してもらい、門のところに行くと、バスの一台目が出た後で二台目をみんなで待っているところでした。お世話になった先生やボランティアで働いている人たちにお礼を言って、幾ばくかのお布施を払い、何人かとアドレス交換をし、写真を撮り合い、バスに乗り込みました。バスは僕達を再び汚濁に満ちている外の世界へと連れてきました。あの、静謐な世界に留まり修行を続ける出家僧の気持ちが今はよくわかります。それも一つの幸せな生き方として今は理解できます。僕もできれば後2,3日はあそこに留まりたかった。でも、やっぱり僕は瞑想前と同じようにこの汚濁に満ちた外の世界でこれからも生きていきます。そのための瞑想修行だったし、そのための旅でもあるので。
◆エピローグ
瞑想修行から戻ってきてから早いものでもう5日もたってしまいました。朝と夜の1時間の瞑想はとりあえず毎日やっています。朝は簡単なのですが、夜は眠気に負けていつも30分くらいでやめてしまっています。心は弱いものですね。
瞑想を終えて自分自身どう変わったか?瞑想中バンニャを経験して衝撃を受けた時は「自分は変わった!」と強く思ったけど、実生活に戻ってみると、まあ、そんなには変わっていませんね。体内の気をコントロールして右側だけを熱くするってこともできないままだし。ただ、心は瞑想前よりも平静になって、前だったらイラッとしていたりしたようなことが、全然気にならなくなりました。誰に対しても優しい気持ちになったような気もします。それは気のせいかもしれないし、もし気のせいではなく本当だっととしても、いつまで続くかはわからないですが。
瞑想直後は、絶対に毎日の瞑想を続けて、日本に帰ったら京都にある瞑想センターに必ず行くぞ!という熱い気持ちだったけれど、今はそうでもなくなってきました。別に涅槃を目指すわけでもないので、今のところはイラッとしなくなっただけで十分です。
終わり
瞑想の先生たち
<ヴィパサナ瞑想のすすめ>
興味がある人は、ヴィパサナの瞑想センターが日本の京都など世界各地にあるので、是非10日間コースに参加してみてください。(いきなり独学で瞑想することは駄目みたいです。)ただし、海外で受ける場合は、英語の説明だけではかなりの英語の語彙力を必要とするので、英語に自信がある方もできるだけ日本語での説明での受講をお勧めします。日本語のテープがあるのかどうか、必ず確認したほうがいいと思います。京都は間違いないし、インドかネパールのセンターではだいたい日本語のテープがあるみたいですね。
↓ヴィパサナセンターホームページ(日本)
www.jp.dhamma.org/
◆2月18日<五日目>
午後三時までは鼻の下の小さい部分に集中しました。この後、ヴィパッサナ瞑想が待っているので自然と気合が入ります。連続して集中できる時間は、さらに長くなりました。
午後三時に夜の講話の時と同じく日本人だけ別室に集まって日本語テープでヴィパッサナの瞑想法を教えてもらいました。呼吸に集中していたのを、体の感覚へと集中する対象を変えるのだそうです。頭のてっぺんから始まって、顔、腕、手、喉、体の前面、背面、脚、そしてつま先まで順番に体の感覚を感じ取っていきます。ここで感じる感覚はなんでもいいのです。痛み、痒み、熱さ、冷たさ、ちくちく、重い、軽い、不快、心地よい、などなど。頭や顔や手など簡単に感覚を感じられる場所もあれば、体の前面など全然感覚を感じられない場所もあります。しばらく待って感覚が感じられない場合は、衣服や空気と接触する感覚を感じて次の場所へと移動します。今までの一箇所だけに集中することに比べると、体全体の感覚を順に見ていくと言うのは変化があって時間が過ぎるのが速くなりました。体って普段は気付かないけど、こんなにもなんかしらの感覚を感じているのか、と新鮮な発見もあります。
翌日から、朝の8時から9時、昼の2時半から3時半、夜の6時から7時、の三回の瞑想では、1時間の間は目を閉じ続け、腕と脚を動かしてはならないという「決意の時間」というものになるのだそうです。今まで同じ姿勢でいるのは最大で20分だったのですが、大丈夫なんでしょうか・・・?
この日の夜の講話では、さらに僕のやる気をそぐような話がありました。輪廻転生の話です。
「この世は苦しみに満ちていてる。生きると言うことは苦しみだ。しかも、その苦しみは輪廻転生を繰り返すことにより、来世にまでも受け継がれる。しかし悟りを開き、涅槃に達することができれば、そこで生命の連鎖は終わり輪廻転生は終わる。そうすることが人生の究極の目標だ。」
話の最後に輪廻転生の考えを信じる信じないは瞑想には関係ないと言われたけれども、僕は輪廻転生については否定も肯定もしないけれども、「人生は苦しみに満ちている。この瞑想をすることだけが唯一の救いの道だ。」みたいな論調には嫌気がしました。この瞑想を経験しなくても、幸せな人生を送って死んでいく人もいるだろうに。僕のこれまでの32年間の人生さえも否定されているような気もします。別に苦しみなんかには満ちてはいないし、結構楽しく生きてきたというのに。再度、瞑想なんかやめてカトマンドゥへ戻りたい気持ちが激しく沸いて来ました。でも、「心の深い手術」はもう始まってしまいましたし、自分でも心の深い領域までメスが入ってしまっていることをなんとなく実感として感じています。受け入れられること、受け入れられないこと、いろいろあるけれども、少なくともこの12日間は素直に教えを聞いて、瞑想修行に真剣に取り組むことにしました。疑念を持って瞑想をしていても、きっと何も得られないと思うので。
◆2月19日<六日目>
まず朝の2時間の瞑想です。この後に待っている「一時間体を動かしてはいけない時間」に備えて、自分がどれくらい動かずに座っていることができるのかをテストしてみます。まず、頭から足のつま先までの意識の移動にどれくらいかかるのかを計ってみました。初めは慣れなくて時間がかかり30分、2回目、3回目、は20分でした。ということは、頭からつま先まで3回通しで感覚を感じれば1時間経つことになるということです。ヴィパッサナをしているとアーナ・パーナに比べると長時間座っていることがそんなに辛くなくなりました。30分くらいは、あっという間に過ぎます。試しに1時間姿勢を変えずに座ることにテストの意味で挑戦してみると、しんどくはあったけどなんとか1時間持ちこたえることができました。やればできるじゃないかと結構自信がつきました。
そして、朝食後の初の「決意の1時間」。事前に計っていた通り、3回頭からつま先まで感覚を移動していると予定通り1時間が経ちました。最後の方は、かなり足が痛く、体も疲れていたけど、なんとか、こなすことができました。多少、脚や腕は動かしたけど、脚を組み替えるとかをすることなく1時間座れました。きっとこの後は慣れていって楽になる一方だろうとこの時は思いました。
しかし、その考えは甘かったのでした。次の「決意の1時間」で地獄を味わいました。3回頭からつま先まで意識を移動した後も全然瞑想が終わる気配が無いのです。3回目が終わった時に一旦気が抜けたので脚の痛みがどんどん激しくなっていきます。息も荒くなり、もう感覚に集中することが困難です。脚の痛み以外何も考えられなくなってきます。しかし、気力を振り絞り4回目の意識の移動を始めましたが、瞑想はなかなか終わる気配がないです。自分の中ではもう1時間20分くらい経っているはずなのに。この頃には先生が時間を忘れてしまっているんじゃないか、という疑念で一杯になっています。
「くっそー、せんせーよー、もう1時間とっくに過ぎていると思うんやけど、どうなってんの?ちょっとええ加減にしてや。はよ、終わりのお経を流さんとあかんで。」
ちなみに終わる時は、終わりの5分前くらいからお経が流れ始めるのです。まだお経が流れ始めていないので、少なくとも最低後5分は頑張らなくてはいけないのです。苦しい。苦しい。苦しい。脚は痙攣し、目には涙が溜まってきました。もう感覚を感じる余裕なんて一片たりとも残っておらず、瞑想なんてもうどうでもよく、「1時間脚を動かさないでいられるかどうか」という自分との勝負だけが残っていました。実は腕はもうすでにかなり大胆に動かしているので(爪が食い込むほど膝を掴んだり、拳を握り締めたり)、残るのは脚を動かさないかどうかということだけなのです。その状態でしばらく耐えた後にようやくお経が流れ始めました。
「アニッッッチャーーーー、ナントカカントカーーーー」
半ば放心状態でお経を5分くらい聞き、ようやくこの拷問から開放されました。時計を見るときっちり1時間だけが経っていました。姿勢を崩し、体操座りになり、呼吸を整え、しかし5分くらいはしばらく動けませんでした。はっきりいって瞑想をなめてました。こんなに辛いものだったのか。。。
この後の6時から7時の回も、同様に脚の痛みとの戦いとなりました。自分の中では、瞑想修行というか我慢大会に近くなってきています。いつか痛みを感じなくなる時が来るのでしょうか。本当にやって来るのでしょうか。心配でなりません。
この日の夜、テープでたまに流されるお経の意味があまりにも気になったので先生に質問しました。(瞑想技術のことに関してだけ、先生との質疑応答がゆるされているのです。)
ネパール人達は意味がわかっているのか、お経の最後に「サードゥー、サードゥー、サードゥー」と言ったりしているのです。なんなんだ?講話ではブッダの教えを長々と聞かされるし(とても意味のあるありがたいお話ではあるけど)、意味のわからないお経は流れるし、自分で自分を仏教徒だと思ってはいるけど、純粋に瞑想技術だけを習いに来ているので、この宗教色の濃さに少し違和感を感じ始めていたのです。
「瞑想中にテープで流されるお経の意味がわかりません。いったいどう理解すればいいのですか?」
「気にすることは無いです。これはグッド・バイブレーションやグッド・アトモスフィア(良い雰囲気)を作るためだけのものだから。気にせず修行を続けなさい。」
そうかあ、グッド・バイブレーションにグッド・アトモスフィアかあ。そういえば、あのゴエンカさんの低く渋い声で歌を歌うように唱えられるお経は、心を落ち着けて、瞑想への集中を増すのに良い効果があるのかも。そう思うと心が軽くなりました。明日からの修行がんばるぞ、と思いながら床に就きました。
◆6月20日<七日目>
この日から感覚を感じる意識をつま先まで動かした後、今度はつま先から頭のてっぺんへ動かしていくというように少しマイナーチェンジがありました。
相変わらず1時間座っているのはきついです。拷問のようです。なのでこの日から座り方を色々と試して、できるだけ足が痛くならない座り方を見つけるように工夫し始めました。その甲斐もあって昨日よりは多少ましになって来た気がします。
数日前休憩時間に談笑していたネパール人が、この日からいなくなりました。脱走したのだろうか。
夜の講話で、悟りを開き涅槃へ至った人は痛みを感じることがなくなる、という話を聞きました。どんな痛みを感じようとも微笑んでいられる、と。そんなことがありえるのだろうか?例えばブッダは腕を切り落とされたとしても、痛みを感じずに微笑んでいられるのだろうか?もし、今現在に悟りを開き涅槃へ至ったという人がいるのならば、是非聞いてみたい。我々の先生であるゴエンカさん(テープで声を聞くだけだけど)は、果たして悟りへ至っているのだろうか。
講話の中で、ブッダの時代の聖人の話が何度も出てくるのですが、ブッダの弟子には何人も涅槃へ至った人がいたそうです。そしてブッダが現れる前にも何人もいたのだそうです。そして涅槃へ至った人はみながブッダなのだそうです。つまりブッダは一人ではなく何人もいるのだそうです。このヴィパッサナの修行をすれば、誰でもいつかは涅槃へ至れるのだそうです。
◆6月21日<八日目>
ついに8日目。後半戦という感じです。僕はまだ何も得ていないので(強いて言えば長時間座る我慢強さくらい)、少し焦ります。もっと瞑想に集中しようと朝から気合をいれます。
今まで右腕が終わってから左腕を観るというように左右を別々に観察していたのですが、この日から左右対称に同時に感覚を観察するように言われます。右腕も左腕も同時に観察します。今までよりも深い集中力を要します。
この日も6日目、7日目と同様に我慢大会のような時間が続きました。朝、昼、といつものように瞑想をし、15時半からの1時間半の瞑想の時に、変わったことがおきました。誰かがオナラをした時に、ネパール人たちの間で笑いの波が起こったのです。プーーーーーッというきれいな甲高いオナラの音の後、誰かがクスクスと笑い出し、そうしたらまた別の人も噴出し、そうしたらまた別の人が笑って咳き込み、どんどんとその波が広がっていきそれが数分間も続きました。何人かはアシスタント講師に外へ連れ出されて外で大爆笑していました。それまでも、みんなプッププップーとオナラをしまくっていたのに、なぜこの時だけそんなにツボにはまったのだろう?僕は全然面白くなかったのだけれども。おかげで、この出来事の後、自分がオナラするときにちょっと緊張するようになってしまいました。
そしてお茶休憩があり、この日最後の「決意の1時間」が来ました。前日までと同様に朝は楽だったのですが、昼と夜はきついです。この時も相変わらずの脚の痛みと戦っていました。しかし、40分くらい過ぎて脚の痛みがピークになりかけたころ、脚の痛みが気にならなくなり始め、その時、突然ヴィパッサナに対する深い理解が訪れました。”無常”に対する理解です。脚の痛みが消え、それまで頭に浮かんでいた雑念が消え、ただ”万物は無常である”という事実だけが感覚として残ったのです。心も体も突然軽くなったような気がしました。そして、この時、初めて僕はヴィパサナ瞑想は真実であり、ブッダの教えも真実である、と心から信じることができるようになったのです。今までの講話は右の耳から左の耳へ聞き流していたのですが、思い返してみると全てが真実だったのだとわかってきました。もちろん輪廻転生についてまでは、理解はできないのですが、ヴィパサナ瞑想がなぜ心を浄化するのかが、その仕組みが、わかったような気がしたのです。今までは「ふーん」という感じで聞き流していたのが、自分が自分の体内で体験して、ついに理解することができたのです。
僕がこの日理解したそのヴィパサナ瞑想の仕組みとは、だいたい以下のような感じです。
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1.人間の苦しみとは「嫌悪」と「渇望」であり、それらは表層意識のさらに奥の潜在意識の中で生まれたり蓄えられたりしている。不快な感情や感覚は「嫌悪」として表れたり蓄えられたりし、心地よい感情や感覚は「渇望」として現れたり蓄えられたりする。人間の行動習慣は、それらの心の奥底に蓄えられた「嫌悪」と「渇望」をエネルギーとして表れる。例えば、「嫌悪」が多く蓄えられている人は怒りっぽいとか、「渇望」が多く蓄えられている人は執着心が強かったりとか。
2.潜在意識で生まれる「嫌悪」と「渇望」は、体の感覚として現れる。また心が感じた感情も体の感覚として現れ、それが「嫌悪」か「渇望」へと姿を変えて潜在意識の中へ蓄えられる。
3.体の感覚として現れた「嫌悪」や「渇望」は、それに対して反応することなく、何も感情を抱くことなく、ただ平静な心で観察し続けていれば、いつか消える。そうすることによって、新しい「嫌悪」や「渇望」を今以上に潜在意識の中に増やすことが無くなる。
4.さらに新しい「嫌悪」や「渇望」が生まれてこなくなると、潜在意識にたっぷりと蓄えられている「嫌悪」や「渇望」が少しずつ体の感覚として現れ始める。それに対しても平静な心で観察し続けていれば、それもいつかは消えてしまう。
ヴィパサナ瞑想では、上記1~4を自分自身が体験することで理解し、3と4を瞑想により実践し続けることで、現在の心の平静を得て、さらに過去に自分で作った行動習慣が正されていく、ということが瞑想の効果です。
5.さらに、「全てのモノは生まれてはすぐに消える」ということを理解することによって、自我がなくなっていくという効果もあります。
肉体も心も、無機質な固いものも、全て構成しているのは、突き詰めていくと、物質でもなく原子でもなくさらに小さい「振動」というモノなのです。ブッダは自分の体の感覚を探っていくことで、この原子よりもさらに小さい単位の「振動」を発見したのだとか。
もちろん、悟りを開き涅槃へ至るためにはもっと深い理解と実践が必要になりますが。。。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
多分、これを読んでいる人には上記の説明は何のことかきっとわからないだろうと思います。途中から読み飛ばした人もきっといるでしょう。僕も夜の講話で話を聞いているだけではさっぱり何のことかわからなかったですし、講話の途中で別な妄想に入ってしまったりすることもありました。でも、今日まで8日間修行を続けて、自分の体の中で実体験として体験できたことで、なんとかある程度までは理解できるようになりました。(または理解したような気になっただけなのか)
この日から、夜の講話も素直な心で聞けるようになりました。今までは「くどいなあ。ええからはよ終わってや。」と思っていたブッダにまつわるありがたいお話も、苦痛に感じるのではなく、喜びの心で聞くことができるようになりました。
心と体がとにかく軽いです。明日からの瞑想が楽しみになってきました。
瞑想センターの中庭。昼休みはここで昼寝。
○後編へと続く
2月14日から12日間、瞑想修行を行いました。想像以上に素晴らしく、厳しく、面白く、一日一日がそれぞれ新しい発見の連続で、本当にやって良かったです。
日記形式で一日ごとに瞑想修行の内容を書いて行きたいと思います。でも、瞑想期間中は一切の読み書きが禁じられていたので記憶がかなり曖昧です。出来事や修行内容が前後していたり、瞑想用語が間違っていたりなどあるかと思います。もしヴィパサナ瞑想に詳しい方で間違いに気付かれた場合は、教えていただけると嬉しいです。すぐに訂正します。
文章ばかり凄く長くなりました。中編・後編へと続きもあります。しかも写真もほとんどないです。すいません。
◆2月14日<初日>
ついに待ちに待った瞑想が今日から始まります。約10ヶ月前にケープタウンでSMさんにネパールの瞑想の話を聞いて以来、「ネパールで瞑想」というのはずっと僕の心の中にありました。その時SMさんは瞑想についてこう言いました。
「10日間誰とも喋らず、目も合わさず、一日ずっと座って瞑想しっぱなし。初めはめちゃくちゃ辛いよ。でも、毎日違う瞑想技術を教えてもらえるし、それを習得することに必死になるので退屈するとかはなかった。座りっぱなしで初めは辛いけど、だんだんと痛みも感じなくなるようになるし、体内の気をコントロールして体の右側だけを熱くすることもできるようになったよ。厳しかったけど、やる価値はあると思う。」
当時、僕は旅の主目的だったアフリカ縦断を終えて大きな達成感を感じ、また同時に旅へのモチベーションが下がり始めた時期でもありました。でも、この時この話を聞いて僕の心は再び旅に対して熱くなり始めました。移動して宿に泊まって飯を食って観光する。それだけが旅ではない。どこかで何かをじっくりと修行してみると言うのもいいかもしれない。
その後10ヶ月が経ち、南北アメリカと中東を経てついに僕はネパールへと辿り着いたのでした。
この日は昼の1時にカトマンドゥ市内のオフィスに集合して、山の中にある瞑想センターへバスで連れて行ってもらうことになっています。その前に、カトマンドゥで久しぶりに再会した旅友達のS夫婦の奥さんと昼食を一緒に食べました。S夫婦の二人とは、ケープタウンで初めて出会いSMさんと四人で喜望峰を一緒に観光した仲です。その後、イスタンブールやヨルダンでも再会し、毎回一緒に酒を飲み、今回4回目の再会です。旦那さんの方が一昨日の12日までインドのブッダガヤーで同じヴィパッサナの瞑想を終えたばかりで、彼からの感想のメールには「きつかったけど、よかった。」と書かれていたそうです。他にも何人かの瞑想経験者の旅人と出会いましたが、みんな同じように「きつかったけど、よかった。」と言いますね。食事中、奥さんに「瞑想で解決したい悩みが何かあるの?」と聞かれました。彼女はもし瞑想するなら具体的な悩みがあってそれを解決するために瞑想をしたい、と言いました。でも、僕には今のところ解決したい具体的な悩みは特にありません。SMさんの話を聞いて面白そうだと思ったことが唯一の動機です。果たしてその程度の動機で長く厳しい修行を乗り越えられるのか、少し不安になりました。
市内のオフィスで、日本人の若い男性旅行者がキャンセル待ちで来ていました。Qちゃんと名乗る彼はクリスチャンだけど、他の宗教のこともいろいろ知りたいという思いと、過去に凄いオーラを持った瞑想経験者に会った事があるとのことで興味を持ち、瞑想に参加しようと思ったそうです。ウェイティング・リストは10人待ちだったけど10人以上キャンセルが出たので、無事参加できることになりました。
マイクロバスに詰め込まれて山道を登り瞑想センターに到着しました。標高2000mの高地ですが、晴れているので暖かいです。(でも朝と夜はかなり冷えます。)受付でパスポートを預けます。これで、どんなに辛くても簡単には脱走できなくなりました。読み書きが禁止なので、本や日記も預けました。この日の夜の初瞑想まではしゃべっても良いので、Qちゃんや他の瞑想参加者たちと少し話をしました。男性の参加者は8割くらいがネパール人です。外人の参加者は日本人が僕を含めて3人、後は白人が6、7人くらいいました。男性と女性は隔離されているので、女性側の参加者はよくわかりませんでした。欧米人の参加者と何人か話したのですが、リピーターが多かったです。5回目のフランス人、10回目のドイツ人、などなど。もう一人の日本人参加者Jさんも10回目の参加だそうです。そんなに何回もやりたくなるという瞑想に期待が膨らみます。部屋は二人部屋で僕はオーストリア人と同部屋になりました。名前はマーティン。彼は6週間のネパール旅行の間に2回目の瞑想参加だそうです。1回目は別の瞑想方法を修行したそうですが、欧米人の彼には長時間床に座るのはとても辛かったそうです。なので、今回は分厚いクッションをちゃんと用意していました。
瞑想センターにあったお寺。瞑想者は中には入れませんでした。
食事を摂り、一通りの注意事項の説明があり(今日の夜の瞑想からは一切の会話が禁止、食事は一日2回、野生の猿が出るけど刺激するな、、、などなど)、夜の8時からついに初の瞑想が始まりました。長い12日間の第一歩。気合が入ってアドレナリンが噴出します。そんなに入れ込んでも瞑想するには全然良くなさそうなので、「入れ込むな」と言い聞かせて自分をなんとか落ち着かせます。
瞑想は男女ともにメインの瞑想ホールで行われます。”寺”という感じではなくコンクリートで作られていて、床はカーペットです。そこに座布団が人数分置かれていています。各自の場所も決められていて自由に選べません。男女は真ん中に簡単な区切りがあって分けられています。男女合わせて全部で80人くらい参加しているようです。僕は壁際の場所で、左側が壁、僕の席の一つ前は日本人Qちゃん、さらにその前はこの辺の仏教徒が着ているような黄色っぽい布をまとった出家僧が3人ほど続いていて、僕の後ろは長身のイタリア人パウロで、そのさらに後ろが同室のオーストリア人マーティン、右横はネパール人達がずらっと並んでいます。
この日教えてもらった瞑想法は、アーナ・パーナという瞑想法で呼吸に集中するということらしいです。でも、テープで流れる説明が英語でしかもインド訛が強くて詳細が判らなかったです。その後ヒンドゥー語か何かの全然理解できない言語でお経が始まりました。それにあわせて周りのネパール人もお経を唱えます。どうやら僕らもそれを言わなければいけないみたいです。英語でそう言われたので、何を言っているのかよくわからないけど、適当にあわせてお経を唱えます。こういう宗教的な儀式とは関係ないと思って来たのになあ・・・、とちょっとびっくりします。とりあえず呼吸に集中していると30分はあっというまに過ぎ去りました。(この日先生に日本語のテープも使って欲しいとお願いしたので、瞑想のやり方について翌日からは別室で日本語テープを聞けることになりました。)
部屋に戻るともう9時を過ぎていて消灯時間です。部屋に二人なのに会話も無く、目も合わさないのは、不自然なものです。消灯語、マーティンの寝苦しそうな息や、咳や、寝返りの音が気になってなかなか寝れませんでした。
二人部屋
◆2月15日<二日目>
気持ちよく寝ていると、ドアをノックする音で目が覚めました。腕時計を見ると4時33分。起床は4時で瞑想開始は4時半。いきなり寝坊してしまいました。タイムスケジュールでは4時に目覚ましの鐘がなると書いてあったけど、どうやら聞こえなかったみたいです。翌日からはちゃんと腕時計のアラームを合わせよう。。。同室のマーティンと急いで着替えて瞑想ホールへ。僕は日本語でのアーナ・パーナのやり方をテープで聞くために別室へ。テープを聴くと、どうやら呼吸に集中するのはするのだけれど、お腹の動きには集中せずに鼻を通る息にのみ集中するということでした。僕は昨日はすっかり誤解してお腹にも集中してしまっていました。しかも、腹式呼吸で呼吸のコントロールも行っていたのですが、それも駄目で、自然な呼吸が鼻を通るのをただ観察することが、この瞑想のやり方なのだそうです。英語の説明だけだと、危うく完全に誤解して瞑想を続けるところでした。この瞑想の目的は集中力を養うこと、精神を統一すること、らしいです。なぜ呼吸に集中するかというと、呼吸は精神状態を現すし(心が乱れると呼吸も乱れ、心が落ち着くと呼吸も落ち着く)、体が無意識に行う活動でもあり、意識的にも行うこともできる、ということで、自分の精神状態を観察することに適しているからだそうです。
昨日の夜のお経のようなものが今朝も再度繰り返されました。どうやらお経ではなくてヒンドゥー語(またはパーリ語というインドの昔の言葉)で、これから10日間ブッダの教えに帰依することを誓っているのだそうです。なのでこの後は、お経を自分達が唱えることはなさそうです。少しほっとしました。
日本人の女性は、生徒が一人、ボランティアで働いている人が一人、の合計二人がいるようでした。
前回の記事でも書きましたが、以下が今日から10日間のタイムテーブルです。
4:00 起床
4:30-6:30 瞑想2時間
6:30-8:00 朝食
8:00-9:00 瞑想1時間
9:10-11:00 瞑想2時間弱
11:00-13:00 昼食・休憩
13:00-14:20 瞑想1時間半
14:30-15:30 瞑想1時間
15:40-17:00 瞑想1時間半
17:00-18:00 お茶休憩
18:00-19:00 瞑想1時間
19:00-20:30 講話(日本語テープ)
20:30-21:00 瞑想30分
21:00-21:30 質問
21:30 就寝
瞑想時間と講和の時間を合計すると約12時間です。その間じっと座りっぱなしです。本当に長いです。その上、休憩時間におしゃべりも読書も音楽を聴くこともできないので、全く娯楽が無いです。筋トレやジョギングも禁止されています。一日二回の食事と夕方のお茶の時間が唯一の娯楽と言えるでしょう。誰とも目をあわさないようにしてただ黙々と食べるだけですけど。食事は、朝はお粥とカレースープ、昼はダルバート(ネパール料理。野菜とカレーとライス)で、特に昼のダルバートはおいしくて、瞑想疲れが癒されます。食事で腹いっぱいになった後は休憩時間を利用してシャワーを浴びたり洗濯したり中庭の芝生で昼寝したりと思い思いのことをして過ごします。天気が良くて芝生の上に寝転がっているとぽかぽかしてとても気持ちいいです。ネパール人も欧米人も日本人も寝転がって昼寝しています。静かで平和な時間が過ぎて行きます。
それにしても瞑想の時間は苦痛です。2時間や1時間半もじっと座って呼吸に集中するだなんて苦痛以外の何者でもありません。1時間のうち呼吸に集中できているのなんて合計でせいぜい5分くらいです。後はとりとめもない考えが浮かんでは消え、浮かんでは消え、し続けています。過去のこと。未来のこと。楽しい思い出。嫌な思い出。現実的な未来。妄想的なありえない未来。
瞑想の時間、たまにテープでお経が流れます。低く体に響く声で。何を言っているのかさっぱりわかりません。いったいこのお経が流れていることをどう理解したらいいのだろう?何の意味があるのだろう?
僕の真後ろに座っているイタリア人が体調が悪いのか咳を頻繁にしたり息が荒かったりしてかなり辛そうで、とても気になります。鼻で息ができていない感じです。
食後、みんなゲップをしまくりで、それも多少気になります。オナラの音も頻繁です。自分自身もオナラしまくりです。幸い匂いは全然大丈夫だけど。呼吸に集中するのにくっさい屁の匂いがしたら、全然集中できないところですよね。
幸い、目を閉じて背筋を伸ばしてさえいれば姿勢は自由です。途中で足を伸ばしたり姿勢を変えたりしてもいいし、なんと5分間までは寝転んだりしてもいいそうです。僕はさすがに寝転ぶことはありませんでしたが、15分おきに、胡坐と体操座りを交互に繰り返していました。周りのネパール人や、何回も参加しているフランス人達は、座禅のような姿勢でピンと背筋を伸ばしたままほとんど姿勢を変えないので、僕もできるだけ同じ姿勢を保とうと試みましたが、20分が限界でした。
苦痛だけど、絶対にやり遂げるんだ、という固い決意だけはゆるがないようにしたいです。呼吸に集中する時間をできるだけ長く出来るように頑張りたい。
一日の最後のほうに別室でテープで日本語の講話を聞きます。1時間ほど、その日一日の瞑想の効果や、次の日からの瞑想のやり方や、ブッダの教えを元にしたありがたい話(というかブッダの話を元にしたゴエンカさんの教え。ゴエンカさんというのは、この瞑想センターの創始者のインド人です。)などを聞きます。この日は、「ヴィパッサナ瞑想は心の手術です。それも心の奥深いところまで徹底的に行う手術です。そしてこの瞑想センターは手術室です。手術中に手術室の外に出ることはとても危険です。10日間のコースの最後まで必ず留まるように。」との注意がありました。ますます途中でやめられなくなりました。
◆2月16日<三日目>
この日も引き続き呼吸の観察です。昨日よりも少し呼吸に集中できる時間が長くなってきたような気がします。しかし、相変わらず関係ないことを延々と考えたりもします。自分が瞑想していることなんてすっかり忘れることもあります。
僕の真後ろのイタリア人が瞑想ホールに姿を現さなくなりました。おかげで集中するのが楽になりました。
基本的には昨日と変わらない一日でした。
夜の講話にて悟りの道にいたるための八聖道の話がありました。そういう宗教的な難しい話は苦手なので、瞑想中よりもさらに苦痛な時間でした。その中で道徳の話があり、”正しい生計”について語られました。それによると、肉屋や酒屋は、間接的に動物を殺すことに加担したり、人を酔わせて悟りから遠ざけることに加担するので、よくない生計だと言われました。汚れた仕事だと言われました。僕自身は、肉を食べることも好きだし酒を飲むことも好きです。心がざわつきます。また、衣食住を満たすために働くことは必要だけど、お金を貯めたりすることは良くない、とも言われました。余ったお金は他人に奉仕することに使いなさい、と。自我が強い生活はブッダの教えに反するらしいのです。はっきり言って自分にはそのような暮らしは難しいと思いました。日本で充実した仕事生活を送るためには、ある程度までは自我を発達させてそれを満たすために努力することが必要だと思っています。(もちろんそれだけだと周りとの摩擦がおきるでしょうから、バランスが大事だと思うけど)その事をこんなに真正面から否定されるとは。ブッダの教えに対して疑問や反発が沸く事を止めることができません。もしこれがお気軽体験コースか何かで、「じゃ、やーめた」と言って家に帰ることができるなら、僕はきっと翌日の朝に荷物をまとめてカトマンドゥに帰っていたでしょう。でも、これは12日間の真剣な修行だし、12日間やり抜くことを心に誓って参加したし、今逃げ出すと自分にとってマイナスになるのは間違いないので、とりあえずはこの12日間だけはブッダの教えを素直に聞いて修行に真剣に取り組むことにしました。
◆2月17日<四日目>
後ろの席だったイタリア人が完全にリタイアしていなくなった模様。変わりに若いネパール人が後ろの席に来ました。前のイタリア人よりは随分静かになったけど、咳を思いっきり僕の頭に向かってするのが、たまに傷です。
昨日までは連続で呼吸に集中することは3分くらいが限界だったけど、この日は10分くらいまで頑張れるようになってきました。だんだん、ここでの瞑想生活にも慣れてきて「なんだ、厳しいと言ってもそんなにたいしたことないかも。」と思ったりもします。
若いネパール人が休憩時間に談笑しているのを見ました。僕は心が乱されないようにすぐにその場を立ち去りました。
夜の講話ではブッダの(ゴエンカさんの)ありがたい話が今日もあり、昨日同様苦痛でした。昨日からのブッダへの疑念が消えません。でも、素直に聞くように自分を戒めます。明日の午後3時からはいよいよ本番のヴィパッサナ瞑想に入ります。さらに深い心の手術に入るのだそうです。それまでは鼻の下と上唇の間のとても狭い部分だけに集中しろとのことです。
○中編へと続く