世界一周の記録

2006年8月から2008年9月まで2年1ヶ月の世界一周放浪の旅をしていました。その旅の記録です。

瞑想修行前夜

2008年02月13日 14時33分59秒 | アジア




以前のブログにも書きましたが、明日2月14日よりネパール・カトマンドゥの寺に篭って12日間の瞑想修行に入ります。

今回は、その瞑想修行の内容がどのようなものかについて、受付時にもらった冊子を元に書きます。


今回僕が行うのはヴィパッサナ(ビパサナ)という名前の瞑想法です。今から2500年前にブッダによって見つけ出された瞑想法で、ヴィパッサナとは「物事をありのままに見る」という意味なのだそうです。


この瞑想が目指すところは、自己を徹底的に見つめることによって、感情や体の感覚(快感や痛み)などの頭で知覚することの発生の仕組みを理解し、それらをコントロールできるようになる、ということのようです。
簡単に言うと、自己をコントロールする技術、ということなのでしょうか。多分。
感情が高ぶると自分自身がコントロールできなくなることがあるけれど、修行によりそれを克服できるようになるのでしょうか。楽しみです。


ブッダ以降、インド、ネパール、タイ、などアジア広域に広まったものの、その後時代の移り変わりと共に仏教は形を変えて行き、ヴィパッサナ瞑想法は世界から姿を消したのだそうです。しかし、ミャンマーにおいてのみ瞑想法はずっと受け継がれてきていて、それが20世紀になってからインドに再び伝えられ(里帰りしたわけですね)、現在はインドを中心に世界中で実践されているのだそうです。



ヴィパッサナ・センターはブッダの教えを実践しているものの仏教教団とは関係が無く、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、あらゆるバックグラウンドの人に門戸を開いているそうです。また、運営の費用は全て過去に修行を経験した人からの寄付でまかなっているそうです。つまり、12日間の瞑想修行自体の参加費は無料なのです。12日分の食事や宿泊、場所、講師からの説明などかなりの費用がかかっているはずなのに。修行を終えた後、各自が満足度に従って次の受講者のために寄付を収めるのだそうです。




初日、カトマンドゥ市内のオフィスに集合した後、バスで一時間ほどの山の中にある寺へ移動します。そこでパスポートを預けます。これで、脱走したくても脱走できなくなります。

瞑想中は、誰とも口をきいてはいけない。目も合わせてはいけない。朝4時に起きて夜9時半に寝るまで、ひたすら自分自身と向き合って瞑想に集中する(講師への質問のみ許される)。食事は1日に2回肉無しのベジタリアン料理が支給される。

経験者の話によると、最初は苦痛だった瞑想も日にちが経つにつれてのめりこむようになっていくのだとか。そして予定よりも瞑想技術の習得が遅れていたりすると焦ってきて12日間では足りないと思うようになるのだとか。

最終日、実生活に戻るために沈黙は解かれます。経験者の話によると、第一声は「肉が食いたい」だったそうです。


<1日のスケジュール>
4:00 起床
4:30-6:30 瞑想
6:30-8:00 朝食
8:00-11:00 瞑想
11:00-12:00 昼食
12:00-13:00 休憩または講師への質問
13:00-17:00 瞑想
17:00-18:00 お茶休憩
18:00-19:00 瞑想
19:00-20:15 講師の講話
20:15-21:00 瞑想
21:00-21:30 質問
21:30 就寝


以上のような感じです。

脱走せずにやりとげられればいいですね。

では、12日後に。



ヒマラヤの麓にて

2008年02月11日 00時44分38秒 | アジア


風邪を引いてしまい、アンナプルナでのトレッキングは断念しました。入山料に2000ルピー(3600円)も払ったのに。シャワーつきのシングルが150ルピー(270円)という物価での2000ルピーはかなり高く感じます。くそー。自分の不健康さが恨めしい。よし、トレッキングするぞ!と意気込んで来たのに。。。せっかくカトマンドゥからポカラまで7時間もバスに乗ってきたのに。風邪のために結局何もせずにカトマンドゥに戻ることになりました。

来週からの瞑想で心身ともに鍛えられて健康になれたらいいですね。ほんと。
でも、ここポカラは特にトレッキングをしなくても、ヒマラヤ山脈の8000m級の山がすぐそこに見れるので、まあ、よかったです。

ポカラの象徴、聖山マチャプチャレ6993m。

尖っていてかっこいいです。

アンナプルナ?(8091m)と湖。

この町の標高は800mくらいらいいので、すごい標高差ですね。

フェワ湖の夕暮れ。


素晴らしきカトマンドゥ

2008年02月05日 14時54分56秒 | アジア




長年の憧れの地カトマンドゥにようやく辿り着きました。
ネパールやカトマンドゥがなぜそんなに評判が良い場所なのかというと、物価が安く、食事が美味しく(特に日本食は世界屈指のレベルらしい)、ヒンドゥーと仏教の融合した豊かな文化があり、ヒマラヤを擁していて風光明媚でもあり、そのうえ人がマイルドで、そして何といってもインドと中国という非常にパンチの効いているアジア両大国に挟まれている立地が大きくモノを言っています。

パキスタンの入国ビザ取得などの時間がかかる用事があったものの、9日間があっという間に過ぎました。毎日昼と夜の2回に分けて3時間ずつの停電があったり、思ったよりも寒かったり、寒い上に停電のせいでホットシャワーが出なかったり、ネパール人は意外にボッてくるので気が抜けなかったり、色々と予想外の不快な攻撃はあったものの、それらを上回る素晴らしさがありました。

まずは、一番楽しみにしていた食事について。
カトマンドゥといえば何といっても日本食。インドではバラナシで日本食を食べたもののコルカタ以降バングラデシュやインド東北部までは日本食は食べれませんでした。なので、カトマンドゥに着いてまずすぐに食べたカツ丼は、連夜の夜行バスの疲れを忘れさせる美味さでした。

カツ丼。日本の新聞が読めるのも嬉しいです。


他にも、カトマンドゥで再会した旅友達4人で食べた鍋とビールや、前回の記事にも書いた納豆、親子丼、カツカレー、などは期待通りの美味しさでした。カトマンドゥには低予算旅行者がよく行く日本食屋が5~6件あるのですが、毎日それらを昼食と夕食で食べ続けていると、さすがに飽きてきました。金銭的な問題もあります。日本食はだいたい一食250円~450円なのですが、地元ネパール料理や半地元のチベット料理で食べると50円~180円くらいで食べれるのです。9日も滞在するとなるとその差は大きいです。なので4日目くらいからは積極的に地元料理を食べるようにしたのですが、これが予想以上にイケるのです。ネパール料理の基本はダルバートという料理で、ご飯とスープ(カレー)と野菜を混ぜて食べる料理で、インドのターリー(カレー定食)の兄弟のようなものです。しかし、インドと違うのは味が安定して美味しいということです。インドでは美味しい時もあれば、ほとんど食べれないほど辛い時もあり、頼む時は毎回度胸や覚悟が要される(その上、下痢の心配もある)のですが、ネパールのダルバートは何度食べても辛さはマイルドだし、米の炊き方もインドより美味しいし、なんというかインドよりもイケているのです。ネパールで腹を壊したという話もあんまり聞かないですしね。

ネパール料理の定番ダルバート


上の写真のダルバートを食べた時、ついに生まれて初めて手でカレーライスを食べるということに挑戦しました。アフリカやインドにいた時も地元民達は手でライスを食べているのに、頑なにフォークとスプーンで食べ続けてきた僕ですが、インドに入った辺りから手でカレーを食べる日本人旅行者を度々見かけ、ちょっと興味が沸いてきたのです。この時、一緒にいた日本人旅行者が手でカレーライスを食べれる人達だったので、「今がその時だ」と思い、思い切って手で食べてみました。食べている最中は無我夢中だったので、美味しく食べれたかどうかはあまり覚えていないですが、食べ終わった後に右手がものすごくベチャベチャに汚れて、右手では何も持てないという状態になったことを良く覚えています。もちろん食堂には洗面台があってすぐに手を洗えるのですが。その後、手でダルバート(カレーライス)は食べていません。おそらく今後も食べることはないでしょう。

ダルバートを手で食べるネパール人たち


あとチベット料理もかなり美味しかったです。トゥクパやタントゥクというラーメンのような食べ物や、モモという日本の(中国の)水餃子そっくりな食べ物があり、値段も安いので良く利用しました。ネパール料理にもモモはあって、こっちはショウロンポウに似ていました。どれもたいそう美味しいです。

ネパール版のモモ。10個で40円。


ネパールはヒンドゥー国家らしいのですが、そのヒンドゥー文化は仏教や土着の信仰とミックスされているみたいで、インドのような大きい経済格差や、生へのギラギラした執着はあまり無さそうです。隣り合う国で同じヒンドゥー教なのに不思議です。公園での子供の遊びもインドやバングラはクリケット一色だったのが、ネパールではサッカーや蹴鞠などの足を使う遊びに変わっていました。

ネパール人の顔もインドとは結構違います。日本人のような顔をした人が結構いるのです。インド人顔、東洋人顔、西洋人顔、それらの混血、という感じで多様な顔の人達がいました。日本人っぽい顔の人は服装も日本人っぽい(そこもインド人とは違う。インド人は服装に気を使っていないように見える)ので、見分けるのが難しいです。それなのに、ハシシの売人やツアーの客引き達は、僕のことを一瞬で日本人だとちゃんと見分けるのです。なぜなんだろう?

カトマンドゥのタメル地区

旅人にとって必要なものが全て揃っているという超ツーリスティックエリアです。安宿、ネット屋、レストラン、スーパー、商店、服屋、みやげ物屋、etc。なので、みんなここの安宿に泊まります。僕も一泊360円の快適なツインの部屋を一人で借りました。タメルにはまた、日本語の書籍を扱う古本屋が多数あり、思わず何冊か買ってしまいました。荷物が増えるのに。。。

ネパールに多数ある、お釈迦様の目が四方を見渡す仏塔:ストゥーパ。

青空の中、はためく無数のタルチョ(色とりどりの旗)が綺麗でした。

ストゥーパにはチベット仏教の僧侶が多数参拝に来ています。

下の写真は、チベット僧と女の子がマニ車を廻しているところ。

マニ車というのは、お経が書いた紙が中に入っていて、これを廻すことにより一回読経するのと同じ効果が得られるというものです。便利ですね。僕もせっかくなので廻しに廻しました。

カトマンドゥの中心地ダルバール広場には旧王宮や多数の寺院があり、京都や奈良のような古都の雰囲気です。


ヒンドゥー聖地パシュパティナートでの毎夜のお祭り騒ぎ(プージャ)

みんなで歌って踊って楽しそうでした。
ここではまた、川辺での火葬もしていたし、まるでバラナシのようでした。

カトマンドゥ旧市街

人が多いです。歩いていると頻繁に小さい寺院が現れます。いい感じです。

小高い丘でのサッカー大会。

信じられないくらいデコボコで波打ったようなグラウンドで試合をしていてびっくりしました。300人くらい観衆がいるし、トロフィーなんかも用意されているし、今後一ヶ月も続く大会らしいのに。最も驚いたのは、グラウンドの真っ只中から巨大な鉄の棒が円盤付きで突き出ていたことです。

これは”コインの木”という歯を治すという神様です。

ネパールやカトマンドゥは神の住む国らしくて、住人の数よりも神様の数の方が多いというくらいたくさんの神様がいるらしいです。それもヒンドゥーや仏教、土着の神様、などなど多種多様な神様のようです。
僕も旅に出る前から続いている歯痛があるので、このコインの木にお参りしました。不思議なことにその日から歯痛はぱったりなくなりました。でも、これを書いている今は歯痛は復活しています。。。カトマンドゥを出たからかなあ。それとも気のせいだったのか。

せっかくこういう聖なる地に来たこともあるので、カトマンドゥで瞑想修行をすることにしました。ヴィパッサナという瞑想方法で、10日間寺に泊り込んで行う割と厳しめの修行らしいですが、しかも寺は標高2000mの高地らしく非常に寒いらしいですが。南アフリカのケープタウンで出会ったSMさんにカトマンドゥでの瞑想の話を聞いて以来、ずっとやってみたかったのです。話によると、体内の気をコントロールして身体をポカポカ暖かくできたりするらしいです。ちなみに瞑想スタートは2月14日のバレンタインデーです。瞑想がどんなものかについては、また今度、瞑想開始前にでも詳しくアップしたいと思います。


カトマンドゥは旅行者にとっては非常に素晴らしい場所なのですが、問題も結構ある場所のようです。政治的な。僕が到着する2、3日前にもカトマンドゥで大きなスト&デモがあったらしいです。レストランのボーイ(韓流スターっぽい男前)が教えてくれました。
昔は毎日6時間の停電なんて無かったそうです。国の経済が苦しいみたいで、原因は政治が悪いとネパール人は思っています。ネパール人は声を大にして言えないっぽいですが、ガイドブックによると、2001年に起きた国王一家暗殺事件以降、政治はずっと混乱しているらしいです。事件後、前国王の弟が新国王になり、その後議会を廃止して独裁体制を築いたのだそうです。一家暗殺事件の犯人は、やっぱりその現国王なのではないでしょうか。何度も大規模なストやデモを行ったことにより、徐々に民主化に向かってはいるらしいですが、インフレや停電や経済不振などで暮らしは大変らしく、毎日1000人以上のネパール人が国外に仕事を求めて出国しているらしいです。行き先は、ドバイ、オマーン、シンガポール、マレーシアなどだそうです。韓流スター似の彼も早く金を貯めて海外に行きたいと言っていました。




<近況>
現在はヒマラヤの麓の町ポカラです。トレッキングをしようと思って来たのですが、なんだか寒そうなのでどうしようかと思案中です。


納豆を求めて国境を越える。インド北東部~ネパール入国。

2008年02月01日 20時31分05秒 | アジア


普通、インドのコルカタからバングラデシュへ旅する人は再度コルカタに戻るのが一般的なルートっぽいのですが、コルカタの宿で出会った日本人旅行者Hさんに「インド東北部のメガラヤ州は、チベット系や東南アジア系の少数民族がたくさんいて面白いですよ。」と聞いて、コルカタには戻らずにインド東北部へと抜けるルートを取ることにしました。一度通った道を戻るのは面白くないし、コルカタが大嫌いだし、そして何より決め手だったのは、Hさんの「メガラヤ州では、納豆が食べれるんですよ。」という言葉です。どうやらインドのメガラヤ州では納豆が地元料理として食べられているらしいのです。しかも日本の納豆とほとんど変わらない味なのだそうです。インドで納豆が食べれるとは(しかも地元料理として)、何という不思議な体験なのだろう!ということで、バングラデシュからインド北東部のメガラヤ州をめざすことにしました。
<ルート参照:どこなのコム>
http://www.dokonano.com/kisimt4/index.html

しかし、バングラ出国は順調には行きませんでした。

バングラデシュのビザには入国と出国をどこでするかが明記されていて、その場所以外での入出国はできないことになっているのです。もし、ビザに明記されている以外の場所から出国したい場合はダッカのイミグレーションオフィスに行ってロードパーミッションなる出国場所変更許可をもらわなければいけないのです。このことは、宿の情報ノートにも書いてあり知ってはいたのですが、”別にロードパーミッションがなくても大丈夫かも”という記述も情報ノートに見受けられたので、せっかくなのでパーミッション無しでの出国にチャレンジしてみるかと思い、そのまま国境まで来てしまっていたのです。許可をもらうためだけに、ダッカにあれ以上滞在するのは嫌だったというのもあります。なんせダッカは食べ物のバリエーションが少なく、ネット屋が遠い、という長期滞在には不向きな場所なので。

インドからバングラデシュへの石炭輸送が主な越境者というタマビル・ダウキ間のボーダー。

旅行者は少ないです。イミグレオフィスの名簿を見たら旅行者っぽい人は一週間で5人しかいなかったです。


まあ、大丈夫だろうとタカをくくってイミグレオフィスにいくと、係官(まじめそうな若者)は僕のパスポートのバングラビザのページを見て渋い表情になり、「君はここを通れない。コルカタに戻りなさい。ほら、ビザのこの部分に書いてあるだろ。ベナポール国境(コルカタ方面)か飛行機でしか入出国できないんだ。」という、まさかまさかのお堅い言葉をおっしゃられましたのです。もちろん「ハイ、すいませんでした。」と言って帰るわけにはいきません。せっかくダッカからはるばるこんなバングラデシュの北の果てまでやってきたのに、また同じ道をダッカまで引き返すのなんて、絶対に嫌です。ましてやまたあの嫌いなコルカタに戻るのはもっと嫌です。そして、戻るとインドで納豆が食べれない!

これは、パーミッションなしで国境を越えれるかどうかの勝負なんだ!ここが勝負所だ!と自分を奮い立たせて、係官の説得に挑みました。

「え!?そんな事知らなかったんです。コルカタ領事館の人もビザをくれる時にそんな事一言も言わなかったし(本当に)。インドのメガラヤ州に今日中に行かなきゃ行けないんです(ウソ)。お願いします!お願いします!」と、泣きそうな顔で頼み込みました。実際、本当に追い返される事を考えると(あのダッカやコルカタにまた戻ることを考えると)、本当に泣きそうな気分になりました。必死の説得の甲斐あり、彼は上司に電話で相談をしてくれました。電話での会話は初めは和やかな感じだったけど、僕の状況を上司に話しているうちに、だんだん暗く硬い雰囲気になっていき、案の定、電話を切って「ボスは駄目だって言ってる。残念だけど、ダッカに帰ってくれないかな。」と言いました。

僕は途方に暮れてしまいました。彼も随分と気の毒そうな表情になってきています。お互いちょっと涙目になってます。しかしあきらめるのはまだ早いです。次は、ほめ殺し作戦で彼の心に迫りました。「バングラデシュは美しくて素晴らしい国だったよ。人も親切だった。この国が好きになったんだ。でも、最後にこんなことがあったら、悲しい思い出のままバングラデシュを出国しなきゃいけない。とにかく、お願いします!」と土下座をせんばかりの勢いで頼み込みました。彼も、ほとほと困った顔になっています。しかし、しばらくすると彼の表情が何かを決意した顔になりました。「君を通してあげよう。そして僕にお金をくれ。」「・・・・・!!!」ついにワイロ要求来た!!!元々、ワイロは最後の手だと思っていて、あまり使いたくなかったけど、他には方法がなさそうだし、彼の気持ちが変わる前に即座にオッケーを出して、「ありがとう!ありがとう!」と感謝の言葉を言いました。その後、しばらく金額交渉があり、ダッカ経由でコルカタに戻るのに使うのと同じくらいの金額で折り合いがつきました。パスポートにスタンプをもらい、彼にお金を渡して、お互いに「アーユーハッピー?アイムハッピー!」と言って握手をして別れました。
実は、悪に手を染めてしまったことの罪悪感もあって心底ハッピーでもなかったけど、深く安堵のため息が出ましたね。よかったよかった。

そして国境を越えた先のインドは、僕の知っているインドとは全然違っていました。噂どおり日本人と変わらない顔をした人がたくさんいるし、日本人とはちょっと違うけど東南アジア風の人も多いし、タクシーはぼってこないし、涼しくて空気はきれいだし、まるで違う国のようです。バングラデシュのほうが、まだインドっぽいくらいです。外国人観光客自体がほとんどいないので、インドでおなじみの「フレンド!コンニチワ!ハワユー?」という攻撃は全く無かったです。メガラヤ州素晴らしいです。

ほっと一息ついた茶屋。

ちょっと日本っぽい木造の造り。こういう所でもほっとさせてくれます。

スモウという名前の乗り合い四駆。黄色。山間の町や村ばかりなので、四駆が便利なのでしょうね。

スモウに乗り、国境から約3時間山道を登り、また登り、州都のシーロンという町に着きました。高度が上がって寒いです。でも、空気がさらに澄んだ感じがします。

東南アジアっぽい顔の人達。

こういう東洋人っぽい顔の人はインドではあまりいなかったですね。



そして、ここへ来た最大の目的「納豆」を求めてカーシ料理(メガラヤ州の地元料理の名前)の食堂へ行きました。食堂の名前はなぜか「トラットリア」。

店内はなぜか教室スタイルで、みんな長机で同じ方向を向いて食べています。


そこで食べた納豆と豚のご飯。

初め見た時は、え?これが納豆っすか?と思いましたが、どうやら写真の皿の上部の緑色のどろっとしたものが納豆ということだそうです。ひき割りの。見た目はかなり得体の知れない食物という感じで、食に関してはかなり保守的な僕は相当びびりました。恐る恐る口に入れてみると、味は紛れも無く納豆でした。謎の緑色は、カーシ料理特有の調味料で色がついているみたいです。豚肉も量は少ないけど、柔らかくて角煮のようでした。結論としては、カーシ料理は、たいそう美味しかったです。いやー、ここまで来た甲斐があったというものですわ。


メガラヤ州の”メガラヤ”というのは「雲が多い」という意味らしいです。その名の通り、毎日思いっきり曇っていました。そして雨も多かったです。寒かったです。

雲・雲・雲

晴れていれば向こう側にはバングラデシュの黄金色の大地が広がっているらしいですが・・・

シーロンには三泊して、次はアッサム州の州都グワハティを目指しました。しかし、そこからネパール・カトマンドゥまでの道は長く辛いものになりました。。。

グワハティへ向かう途中の山間の村にて


シーロンからグワハティに向かうバスで、隣の席のダージリン州のインド人にお茶などをご馳走になり、暖かい気持ちで夕方にグワハティに着きました。バスの着いた場所は、バスターミナルが目の前にあり、半径500m以内に安宿が何十件も並ぶ、夕方に町に到着するというシチュエーションにおいて最も便利な場所でした。そのまま夜行バスに乗り換えて次の町に行ってもいいし、近くのよりどりみどりの宿の中から一つ選んで一泊し、翌日に移動してもいいのです。僕の場合は、せっかくなのでアッサム州も一日くらいは観光したいので、一泊することにしました。

近くの手頃な宿に行ってみると、シングルはフルだけど一泊200ルピー(600円)のダブルなら開いているとの事でした。これだけホテルがあれば、他にもっと安い所があるだろうと思って、他を探すことにしました。2件目は、「日本人は泊まれない。xxxというホテルに行け。」という返答。そしてそのxxxに行ってみると「外国人用の部屋はフルだ。yyyに行け。」という返答。そしてそのyyyも外国人用はフル。というか雰囲気的に外国人にはそもそも部屋を使わせていない様子です。元々アッサム州はホテルに外国人の宿泊に制限を設けているらしいことは知っていたのですが、まさかここまで厳しいとは。ガイドブックには「ホテルは多数あるので、夜遅く着いても何とかなる」と書いてあったけど、状況が変わったのだろうか。。。(後で判明したのですが、翌日が祝日というのが原因らしい)

仕方なく、最初のホテルに戻ると、なんと「フル。」の冷たい一言。別のホテルを周っている僅か30分ほどの間に部屋は別の客に取られてしまったようです。ああ、ショック。その後、20件以上のホテルをしらみつぶしに訪ねたけど、全てフルか外国人拒否のどちらかでした。外はすっかり暗くなってしまいました。UAEのシャルジャ以来の野宿の危険が迫りましたが、幸いバスターミナルが近くにあったので、もう夜行バスで移動することにしました。チケットを買うと最後から二つ目の席でした。最後尾です。でも、ギリギリバスに滑り込めてよかったです。

ホット一息ついて、夕食に辛すぎてとても完食不可能なカレーを食べて、バスに向かうと、暗闇の中に南米ボリビア以来ともいえる超ボロいバスが待っていました。荷室が無いので、バックパックは通路に置きました。それをインド人が通るたびに踏んづけていきます。くそぅ。そして、最後尾の席はエチオピア以来とも言える狭さでした。膝と前の座席の間隔がほとんどありません。そしてリクライニングは無し。その上、前の席はリクライニングできるみたいで、僕の一つ隣の席は、前の座席のリクライニングが故障で前に戻らないと言う冗談のような過酷さでした。その僕の一つ前の故障している席には、今日の昼間にグワハティ行きのバスで席が隣だったダージリンのインド人(ナイスガイ)でした。しかし、出発時間が迫ってきて客がどんどん増えていき、夜行バスにもかかわらず立ち客が出始めました。ダージリンの彼のチケットはどうやら座席指定のチケットではないらしく、立たされることになったのですが(10分以上口論の末、渋々席を譲った)、僕の隣の裕福そうな恰幅の良いインド人紳士が、彼に情けをかけて自分の席に無理やりスペースを作って彼を座らせてあげたのです。もちろん僕の席にもしわ寄せが来ました。これで二人分の席に大の大人が三人。しかも僕の隣は前の席のリクライニングが壊れているので超狭い席。アフリカ以来に経験するすさまじい圧迫感です。ちょっと身体を動かすとどこかにぶつかります。しかも立ち客の出ていた通路はいつのまにか一杯になり、僕のバックパックの上にはおっさんが座っています。勘弁してくれ・・・

この地獄は、バスが出発してからが本番でした。インドなので舗装されている道を走っているはずなのですが、バスがボロ過ぎてサスペンションが全く効かないのです。ちょっとした振動でも激しくシェイクされます。アフリカのボロバスで未舗装の移動を経験した人ならご存知でしょうが、最後尾の座席は最も揺れが大きいのです。少しでも大きい段差があると膝が前の座席に激突し、天井か窓に頭がぶつかります。その度に最後尾の乗客全員が「ワォ!」「アウチ!」「シット!」と口々に叫びます。はっきりいって相当キツイです。こ、この移動が12時間も続くのですか・・・。これほどの超ベリーハードな移動は、アフリカや南米のガイアナ以来ですね。アジアもなかなかやるのう。隣のインド人紳士は、休憩後の再出発時にこう言いました。「俺達は目的地に向かって再出発するんじゃない。地獄へ向かうんだ。」と。
でも、通路の立っている客よりは楽ですよね。多分。

2時間ほどの浅い睡眠の末(それでも2時間くらいは眠れるものなんですね)、ガタガタの身体で国境の町シリグリに着き、乗り合いタクシーなどを乗り継いで憧れの国ネパールへ入りました。

そして二夜連続の夜行バスで首都カトマンドゥへ向かいました。疲れていたけど、一刻も早く癒しの楽園カトマンドゥでゆっくりとしたかったのです。相場よりも遥かに高い料金のバスだったのでかなりの豪華バスを想像していたのですが、前夜の地獄バスとほぼ同じグレードでした。ぼられたのか・・・。今回は座席がかなり前の方だったので、揺れはそこそこ大丈夫だったのですが(もちろん結構揺れているが)、窓の隙間風が凄くて寒さがすさまじかったです。途中大雨が降って雨漏りで服が結構濡れたし。真冬の服装をしていても寒さであまり眠れませんでした。
圧迫揺れ地獄の次は冷凍地獄なわけですね。なるほど。天国と言われるカトマンドゥへは、そう簡単には着かせてくれないわけですね。

そうして、ようやく、カトマンドゥへ着き、日本食屋で本物の納豆を食べたのでした。


本当に涙が出るくらい美味しかったです。