世界一周の記録

2006年8月から2008年9月まで2年1ヶ月の世界一周放浪の旅をしていました。その旅の記録です。

中東引き返し。ヨルダン、シリア、トルコ、そしてイラン到着。

2007年12月25日 22時48分46秒 | アジア


本来、僕のアジア旅のルートは「トルコから日本を目指して東へ進む」というものだったはずなのですが、いきなりこうして南下しているのは、イスタンブールで旅人からイスラエルの話を聞いて行きたくなったのと、ペトラ遺跡という僕が出発前から行ってみたかった遺跡があったからです。スケジュール的に押してきているので、さっさとペトラ観光を片付けて北上してトルコに戻ってイランへ入らないといけません。

イスラエルを出国し(無事ノースタンプで)アンマンに戻り、そこからさらに南にあるペトラを目指しました。ちなみに、アンマンで再会したサーメルさん(アンマンの宿の従業員。中東一親切といわれ、旅人の間で有名な人。前回泊まった時は諸事情により、元気が無く、親切でもなかった)は、前回会った時よりもずいぶんと元気になっていて、前回は見れなかった彼の笑顔を見ることができました。

出発前から是非見たかったはずのペトラ遺跡なのですが、1年4ヶ月旅している中で遺跡観光に対する興味やモチベーションが非常に消耗してきていることもあって、実はほとんど期待せずに、ただ”仕事をこなす”的な間隔で見に行きました。そもそも、なぜそんなにペトラを見に行きたいと思っていたのかは、今となってはよく思い出せません。
しかし、そこはさすがにペトラ。久しぶりにガツンと強い印象を与えてくれる素晴らしい遺跡でした。
ちなみに、僕が今まで見た遺跡系の番付は、
横綱:エジプトのピラミッド、ペルーのマチュピチュ
大関:フランスのモンサンミッシェル、エジプトのアブシンベル
関脇:中米マヤ系のティカルとパレンケ
という感じなのですが、ペトラはいきなり大関にランクインしそうな勢いです。

1kmある岩と岩の間の細い道を延々と歩いた末、その出口で見える遺跡。早朝に行ったので人が少なく、大変神秘的でした。

ペトラは、2000年前の商業都市だったそうなのですが、むしろ軍事要塞のような守りの堅さです。

その奥にある最大の見所の遺跡を見るために、山道を1時間かけて登ります。


そして、見える巨大な教会の遺跡。

写真では伝わらないですが、この遺跡は本当に大きいし、こんな険しい岩山の上で、こんなものを造るなんてなんて凄いんだろうと思ってしまいます。ちなみにペトラはこれらの他にも多数の遺跡があるのですが、全て岩を掘ったり削ったりして造られているらしいです。いや、凄かった。

ということで、その余りの広さのために二日券や三日券が売られているペトラを、早朝から頑張って一日で終わらせて、ここから一気に北上しました。しかし、この移動がきつかったです。”アジアの旅も意外ときつい”ということを認識させられる良い経験となりました。

ペトラを観光したその日の夜にアンマンに戻り、翌日シリアの首都ダマスカスへ行きました。一度通った道だし問題無いだろうと思ってたのが大間違いでした。

アンマンの街並。坂道が多く、道も入り組んでいてとても歩きにくい。


シリア側の国境で、乗客全員バスを降りてイミグレの入国審査を受けたのですが、乗客の中でツーリストは僕だけで、他の乗客たちがさっさと入国審査を終わらせているのにも関わらず、僕だけがビザを取得するために、銀行での支払いやら印紙を買ったりやら、アラビア語表示しかなくてどの建物がいったい何の建物か全然判らなかくて右往左往し、しかも係官もほぼ英語が話せない(しかも全員勤務態度に問題がある)などの障害のため、凄く時間がかかってしまいました。僕のパスポートに入国スタンプが押された頃には、他の乗客はイミグレの建物から全員いなくなっていました。急いでバスに戻ると、バスが止まっていた場所には別のバスが止まっていて、僕が乗っていたバスはいなくなっていました。この時点でかなりドキッとしたのですが、努めて冷静に違う場所に移動したかもしれないと周りを一通り探したのですが、やはり見つかりません。ドキドキしながら元の場所に戻り、その辺のおっちゃんに僕のバスチケットを見せて「僕のバスがいないんだけど、、、」と尋ねると、案の定「ああ、そのバスなら行っちゃったよ。」という返事が返ってきました。

僕は、不安の底に叩き込まれ、そして怒りに震えながら思いました。ついに、このシチュエーションが来たか、と。海外では、バス移動中の休憩後などで再出発する時に、乗客が全員揃っているかどうか確かめてから出発することなんてほとんどありません。だいたいは、運転手か車掌が車内を見回して席が大体埋まっていたら出発してしまいます。そんなちょっとした確認すらしないことも結構あります。そのせいで、今までもトイレから出たらバスが出発し始めていて、慌てて止めたこともあったりしていたので、いつかこうやって、バスに乗れずに一人ぽつんと残されてしまうことがあるのではないかと心配はしていたのです。そして、それがついに現実になってしまいました。。。

シリア人には英語が通じる人があまりいないと思われるため、日本語と英語でわめきちらし、その場にいた警察官などに助けを求めました。やっぱり英語が通じる人はほとんどいなくて、周りのシリア人達も困惑気味で、訳の分からない事をわめき散らす東洋人を持て余し気味でした。しかし、そこはさすがに親切なことで有名なシリア人。警察官の一人が僕を警察官の詰所のような所に連れて行ってくれて、そこでたまたま英語の話せる別のバス会社の人がたまたまいて、事情を理解してくれると、「それなら私のバスに乗せていってあげよう。君のバスは、警察の人がドライバーの携帯電話に電話して待ってもらえるように言っておいてくれるから。」と言って、僕をバスに連れて行ってくれました。その人は別のバス会社のバスの乗務員でした。僕がそのバスに乗り込むと、運転手も乗客もみんなで「そうか、それは大変だったな。そこに座りなさい。きっと大丈夫!リラックス、リラックス!」と興奮状態の僕をなだめてくれました。僕をバスに乗せてくれた人は、その後もいろいろと話しかけてくれて僕を落ち着かせ、「シリアに来たら、みんな笑顔でいなきゃいけないんだよ。」と言ってシリア人のホスピタリティを誇っていました。その上、「もし今夜の宿が見つからなかったら、うちに泊まってもいいよ。」と言って名刺までくれました。ああ、なんて良い人なんだろう。
そうして、祈るような気持ちで僕のバスに追いつけることを待つこと一時間、ようやく前のバスに追いつけました。よ、よかった。。。しかし、僕はとても腹が立っていたので、置いていったバスの運転手と車掌を思いっきり怒鳴りつけてやろうと思っていたのですが、僕を乗せてくれたバスの運転手と車掌が僕より前に、思いっきり笑顔で彼らと握手して挨拶を交わしていたので、すっかりそんな気が無くなってしまいました。まあ、シリアでは笑顔でいなきゃいけないので、仕方ないですね。そんなこんなでダマスカスの宿にチェックインできたのは夜の9時。クタクタになってその日は眠りました。

ダマスカスの定職屋。チキンがおいしい。


そして翌日。ダマスカスからは、トルコで乗り換えずに一気にイランの首都テヘランまで行けるというバスがあると聞いていたのですが、どうやらそのバスはイラン人で予約が一杯なので乗れないとの事です。列車もあるけどそっちは週1本なのでビザ期限の関係上乗れません。仕方なく宿の従業員が進めるルートで行くことにしました。それは、シリアとトルコの国境の町ガジアンテプまでのチケットをここで買い、ガジアンテプまで行けばテヘラン行きバスにすぐ乗り換え出来るので大丈夫!というルートです。ガジアンテプという聞いたことの無い町での乗り換えは不安だったけど、昨日の件で疲れていたので宿の人の言うとおりにすることにしました。
ダマスカスは一ヶ月前に比べて格段に寒くなっている上に、この日は冷たい雨がシトシト降っていました。僕は夜10時発のトルコ人経営の夜行バスに乗りました。バスの中は暖房がばっちり効いていてとても暖かく、僕はすぐに眠りに落ちました。しかし、朝の4時にシリア国境着。うう、ね、眠い。。。そしてシリア出国後のさらに1時間後にトルコ国境着。国境をまたぐ夜行移動をすると、ほぼ毎回このような眠りを寸断される国境越えになるけど、低血圧な僕には何度やっても辛いものがあります。
(ちなみに、このシリア側国境でウクライナ人など数人がイミグレで「お前らの国は今日は出国できん。明日まで待て。」と片言の英語で言われてバスを降ろされていました。何だったんだろう???日本人は大丈夫でした。)

トルコ入国後、またしばらくバスに乗ってウトウトしていると、突然僕と数人だけがバスを降ろされて、ミニバスに乗り換えさせられました。リクライニングがなく、非常に揺れる車内で、寝ていると何度も頭を窓で打って起こされながら、朝10時にようやくガジアンテプのバスターミナルに到着しました。聞いたことの無い町だったけど、バスターミナルは結構大きくて綺麗でした。「イランに行きたい」ということを周りの人にアピールすると、ある通行人が「心得た。」という感じでうなづき、僕をどこかに連れて行ってくれました。しかし、その人はバスターミナルを外に出てさらにずんずんと進み、僕を市内バスへ乗せて運転手に何事かを告げて去って行ってしまいました。運転手も「OK。イランバスな。」と言い、どこかへ走っていきます。そして、着いたのはこんなだだっ広い空き地でした。

イラン行きバスの乗り場。チケット売り場も待合室も無いただの空き地。


ここに一台だけ乗客と荷物が満載で発射寸前のバスが止まっており、運転手に「テヘランに行きたい」と言うと「これはタブリーズ行きだ。テヘラン行きはない。タブリーズに行きたいのなら100$払え。さあ、払え。」と片言の英語で迫ってきます。ひゃ、100$ってめちゃくちゃ高くないか?しかし、タブリーズっていったいどこやねん。。。地図で見るとテヘランよりもトルコよりの町でした。でも、100$は高すぎる気がするなあ、でも相場がわからないしなあと、まごまごしていると、そのバスは僕などお構い無しで、出発していってしまいました。だだっ広い泥の空き地に僕は一人取り残されてしまいました。
空き地の外の屋台でジーパンを売っていたトルコ人にテヘランに行きたいんだけど、と尋ねると「大丈夫!昼の2時に来るよ!」とめちゃくちゃ片言の英語で教えてくれました。現在の時刻は11時。朝から何も食べていないので腹ペコだったけど、昼飯を食ってゆっくりして戻ってきたらちょうど良い時間になりそうです。
ということで、昼飯を食べてチャイを飲んでゆっくりして1時半に戻ってきました。しかし、空き地には相変わらず誰もいません。ジーパンを売っていたトルコ人も、もういなくなっています。仕方ないので、しばらく待ってみることに。案の定、2時になっても誰も来ませんでした。僕には待つことしか出来ないので、もう少し待ってみました。やっぱり3時になっても誰も来ませんでした。いい加減寒くなってきたし、来るか来ないかわからないバスを待つのも限界です。その辺のトルコ人にテヘラン行きのバスについて尋ねると「5時に来るから、ここで待ってろ。」と言われました。そうか。2時じゃなくて5時だったのか。ふうん。近くのネットカフェで暖を取りつつ時間をつぶし、4時半に戻ってくると、やっぱりバスは無く、バスを待ってそうな人もいませんでした。さすがに、この頃にはあまり希望を持っていなかったけど。それでも一応5時まで待ってみようと思い、寒さに耐えながら待っていると、なんと見るからに長距離バスっぽい大型バスがやってきました!しかも、そのバスにはいかにもイラン人っぽい黒装束で頭も顔も隠している女性がたくさん乗っていました。これは、イラン行きに違いないと思って運転手に尋ねると、「ああ、これは確かにテヘラン行きだ。でも、もうフルだから乗れないよ。バスターミナル(僕が朝に着いたところ)に行きなさい。」というお返事が返ってきました。「そんな!僕は朝の11時からずっとここで待っているのです!お願いですから乗せて下さい!」と食い下がっても、「駄目なものは駄目。さあ、出発するぞ~!」プップーーーー!というクラクションと共にそのバスも去っていってしまいました。もうすっかり暗くなった空き地で再度一人取り残されてしまいました。朝の11時からずっとここでバスに乗れると信じていた俺はなんだったんだ。クソーッ!!と叫びたい気持ちをぐっとこらえて、市内バスを捕まえて元いたバスターミナルに戻りました。

そこのバスターミナルはトルコ国内へのバスしか扱っていなかったので、イラン国境の町ドゥバヤジット行きの夜行バスに乗ることになりました。そこで国境行きのミニバスに乗り換え、国境を徒歩で越えてイランに入り、イラン側の国境近くの町のマクーを目指すと言う一般的な国境越えのルートです。イラン・トルコを陸路で越える旅人の間では、野犬が凶暴なことで有名な町ドゥバヤジット。大丈夫かな。。。

相変わらず暖房がばっちり効いて快適なトルコバスでぐっすり寝て起きた時、外の景色は雪景色でした。そんな雪の積もる名も無き小さな町で降ろされ、今度はアフリカのように定員以上詰め込んだミニバスに詰め込まれて2時間ほど走ってドゥバヤジットに着きました。このバスの中では前に座っていた子供3人が途中から全員ゲロゲロとやり始めて、かなり厳しい環境でした。しかもその内の一人が一回思いっきり隣の席のおじさんにゲロを吐きかけたので車内は騒然となりました。僕は何とか被害を免れましたが、おじさんの黒い上品なコートは広範囲にわたって白色になっていました。。。

すっかり凍結したトルコ東部の道


ドゥバヤジットでは運良く野犬には一匹もあわずにすみ、無事イランとの国境に着きました。イラン側の国境では今までで最も親切でフレンドリーでナイスなイミグレのオフィサーにスタンプを押してもらい、無事イランに入国できました。
(この時、イミグレのテレビでは、トヨタカップでの浦和レッズとイランのチームの試合が偶然放映されていました。その時は何の試合かわからなかったのですが。)
とにかくイランに入った途端に、気温も人の態度も暖かくなったような気がしたのでした。

トルコとの国境に近いイランの町マクー。町は周りを険しい崖に囲まれています。

ここで、テヘラン行きの夜行バスに乗りました。3日連続の夜行移動。ガジアンテプからの交通費は55$くらいで済みました。あそこで100$払わないでよかった。。。



ということで、無事イランに入国することができました。人によっては世界一旅人に親切な国という評判もあるイラン。イランでどんな親切(または不親切)にあったのかは、次回のブログにて。



そういえば、去年に続き今年もクリスマスの感じられない地域ですね。。。


宗教と侵略とテロ。パレスチナ。イスラエル後編。

2007年12月15日 00時45分34秒 | アジア
イスラエル前編からの続き。



イスラエルを旅していると、”パレスチナ問題”に多かれ少なかれ触れることになります。僕が日本にいるころも、”ガザ”や”ヨルダン川西岸”や”イスラエルで自爆テロ”などの言葉はテレビや新聞で目にすることは多かったです。でも、日本での生活とそれらの言葉はあまりにも距離がありすぎたので、それらについて考えることなどほとんどありませんでした。僕にとっては、同じ遠い場所で行われていることでも、ACミランやFCバルセロナ(どちらもヨーロッパのサッカーチーム)の試合結果や選手移籍情報の方がよほど気になるニュースなのでした。パレスチナ関連のニュースを見ても、いつも、「ああ、こわ。こいつら、頭おかしいんじゃないの?」とか思って、真剣に考えるよりも聞かなかったことにしておこう、みたいな感じで見て見ぬふりをするだけでした。そんな僕もイスラエルに入国し、いろんな人の話を聞き、エルサレムの宿に置いてある本や資料を目にするうちに、それらの問題が少し身近に感じられるようになったのでした。


※イスラエルという国は、”イスラエル”と”パレスチナ自治区”という二つに大きく分けられていて、パレスチナ自治区はさらに”ヨルダン川西岸”と”ガザ”という二つの離れた地区からなっています。歴史的経緯を大雑把にいうと、ユダヤ人が元々パレスチナ人(アラブ人)の土地だった場所を無理やり占領して、元からいたパレスチナ人との妥協案としてヨルダン川西岸とガザの2地区を自治区として認めた、ということだそうです。”パレスチナ問題”というのは、そんなユダヤ人の侵略とそれに抵抗するパレスチナ人との間に起こる問題のことです。


イスラエル在住15年でパレスチナ問題について詳しい日本人Mさんにエルサレムにある分離壁の見学に連れていってもらいました。


分離壁というのは、最近になってイスラエル政府が作ったもので、パレスチナとイスラエルを物理的に壁を作ることによって人も物も自由に移動できないようにしてしまい、パレスチナ人の経済活動を締め付け、生活を困窮させ、全員追い出してしまおうとしているものです。しかも、その壁が作られた場所は、過去にパレスチナ自治区として国際的に認められた場所よりも完全にパレスチナ領土を侵食した場所に作られているのです。このあまりにも酷い暴挙には、国連も正式に”国際法に違反している”として非難しているほどです。しかし、イスラエルは壁を撤去するような予定はなく、むしろ今も建設中なのだそうです。

分離壁には、いくつも監視塔が設置されていてパレスチナ人が壁を乗り越えたりしないように見張っています。僕ら(15人くらいの団体)は、分離壁沿いを延々と歩いたり監視塔を写真に撮ったりしていたため不振に思われたのか、重装備のイスラエル兵がジープでやってきて「何してるんだ?」と聞いて来たので、かなりびびりました。幸いヘブライ語が話せるMさんが、「道に迷っちゃったの。えへへ。」という感じでにこやかに対応してくれたおかげで、何事も起きませんでした。その代わり、無理やりタクシーに乗せられて、壁から遠ざけられました。やっぱり、あまり壁には近づかない方がいいみたいです。

後日、エルサレム近郊のパレスチナ自治区(つまり上記の壁の向う側)を観光している時にお茶をおごってくれた親切なパレスチナ人は、「あの壁ができたせいで、この辺りには全く人がいなくなったよ。壁が出来る前は、エルサレムから車で10分ほどの場所だったし、たくさんの人で賑わっていたのに。。。あの壁のせいで大きく迂回しなければならなくなり、エルサレムからは1時間半かかるようになったんだぜ。そりゃ人は来なくなるよ。。。イスラエル人は、こうやってパレスチナ人を生活できなくさせようとしてるんだ。国際ニュースではこんなこと全然報道してくれないけどね。だから、君達のような旅行者には、自分の国に帰ったら、このことを伝えてほしいんだ。ユダヤ人がパレスチナ人の国にやって来て、パレスチナ人に対していったい何をしているかを。」と言いました。昔ノルウェイに住んでいたという一見裕福そうに見える彼も、パレスチナに戻ってきてからはイスラエルの政策にとても苦しめられているらしいです。

ある日、イスラエル観光の目玉の一つベツレヘムへ行きました。ここは、キリスト生誕教会がある場所で、キリスト教徒にとって聖地の一つといえる場所ですが、なんとパレスチナ自治区の中にあり、住人はほとんどがパレスチナ人のムスリムなのです。町は綺麗でしたが、不思議な空気が漂っていました。イスラエル領からパレスチナ自治区に入るには、イスラエル兵による物々しいチェックポイントを通過し、分離壁を超えなければいけません。「パレスチナ人が3時間も4時間も長蛇の列を作って待たされている」という記事を読んだことがあるのですが、僕が行った時は行列はほとんどなく、チェックも甘くてすんなり通過することができました。

ベツレヘムで見た分離壁。いたるところにポスターが貼ってあったり、絵やメッセージが書いてあったり。主に、イスラエルの抑圧に対する怒りや、平和を求めるようなものが多かったです。


ベツレヘムにあったパレスチナの国旗。元はヨルダンの一部だっただけあって、ヨルダン国旗とそっくりです。



また別の日、韓国人旅行者と二人でヘブロンというパレスチナ自治区の町に行きました。事前にネット情報や宿にある本や資料で、ヘブロンがユダヤ人とパレスチナ人の争いが激しい場所という事を知って、行ってみようと思ったのです。イスラエル入国前からパレスチナ自治区のどこかで一泊したいと思っていたのですが、それをこのヘブロンにしようと決めて、エルサレムの宿をチェックアウトしてバックパックを背負って移動しました。ヘブロンについてみると、結構活気のあるアラブの町でした(まるでシリアのようです。)。しかし、宿を探してみると、町にはホテルが1件しかないらしく、そのホテルも一泊4000円もするし見た目も普通のビジネスホテルという感じで、僕らのような長期旅行者が泊まるような感じではありませんでした。(もう一人の韓国人は僕よりも低予算な旅行者ですし)仕方なく、ホテルのフロントに荷物を預けさせてもらって、日帰りで観光して帰ることにしました。

ヘブロンでは武装した兵士の小隊が街中を物々しく歩いています。


前述した預言者アブラハム(ユダヤにもイスラムにも重要な聖者)の霊廟のあるモスク(イブラヒム・モスク)を探して町を歩いていると、あるパレスチナ人に話しかけられました。「こんにちは」とか、そういう片言の日本語で。どうやら、途上国の観光でよくあるような押し売りガイドのようです。普段なら適当にあしらうか追っ払うかするのですが、ヘブロンについてはガイドブックにもほとんど記述がないし、地図もないので、このガイドについていくことにしました。

アラブ人商店街で、お土産屋に強引にパレスチナ人のかぶりものをつけられて楽器を弾かされる。


イブラヒム・モスクへ入るには、いくつもの荷物チェックを受けなければなりませんでした。ガイドが言うには、数年前にユダヤ人がモスクの中で銃を乱射するという事件があったそうです。なんという血生臭い。。。

次に、そのガイド(名前はジャマール)は、H2地区(ユダヤ地区)を案内してくれました。ヘブロンは、ユダヤ人が移り住んできたH2地区とパレスチナ人が住むH1地区とに分かれています。僕らがバスでまず着くのがH1地区で、アラブ的で雑多な活気のある場所でした。そして、もう一方のH2地区こそが、イスラエルの旅で僕が最も印象に残った場所となりました。

まず、イブラヒム・モスクがH1とH2のちょうどその境目にあります。
イブラヒム・モスクのすぐ裏はシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)になっていて、ここでもアブラハムを祭っているそうです。そんなユダヤ教の聖地があるので、ヘブロンにユダヤ人が入植してきて、そのH2地区ができたということです。そして、そのユダヤ人の入植こそが、このヘブロンに大きな問題を作りました。
ユダヤ人は、ヘブロンのイブラヒムモスク周辺で元々パレスチナ人が住んでいた場所からパレスチナ人を無理やり追い出し、そこに移り住みました。それに反発するパレスチナ人を押さえつけるために、ユダヤ人入植者とほぼ同数かそれ以上の数のイスラエル兵が配備されて、入植者と一緒になって徹底的にパレスチナ人をいじめました。もちろん、パレスチナ人はそれに反抗しました。毎日殺し合いがありました。しかし、イスラエル側は戦車と機関銃で完全武装しているのに対してパレスチナ側は投石しか武器がなかったために、主に殺されるのはパレスチナ人でした。H2地区の商店はほぼ閉鎖され、町はゴーストタウンになりました。それが2001年~2003年くらいにあった第二次インティファーダと言われる時代です。僕らを案内してくれたジャマールも、昔はここでパン屋をしていたけど、その時代に店が無くなって以来、今もずっと仕事がないと言っていました。激しい争いは終わったけど、今も、商店はほとんど閉まっているし、通行人はほとんどいないし、ユダヤ人の住んでいる家だけは洗濯物がかかっていて生活観があって、そんなユダヤ人を守るためだけに武装したイスラエル兵がたくさんいて、とにかく殺伐とした雰囲気です。イスラエル兵の視線は鋭かったし、歩いていて怖かったです。活気のあるH1地区(アラブ地区)とは対照的でした。ちなみに、ジャマールいわく、ここに住んでいるユダヤ人は、仕事もせずに毎日ただ礼拝だけをしているらしいです。

ヘブロンH2地区。本当に閑散としています。


H2のパレスチナ商店街はほとんど店が閉まっているのですが、生活道路としては現在も使われていて、その上の階にはユダヤ人が住んでいます。そのユダヤ人達は、パレスチナ人に対して嫌がらせのために、ゴミを下の商店街に向けて捨てているそうです。今はパレスチナ人がゴミを防ぐためのネットを設置していて、そこにたくさんのゴミが積み重なっていました。


この地区の建物は、ほとんどが人気のない廃墟のようで門も閉ざされているのですが、そのうちの門が開いている4階建てのビルにジャマールは案内してくれました。屋上から町を眺めてみよう、ということだそうです。そのビルには、パレスチナ人の家族が数世帯暮らしているみたいで、階段には小さな子供が何人もいたし、屋上には洗濯物がたくさん干してあります。イスラエル兵がいないそこで、彼はパレスチナ問題について語ってくれました。

「ユダヤ人が来てパレスチナ人は追い出されて生活が出来なくなった。昔は激しい戦闘があったが、今は落ち着いている。でも、イスラエル人は毎日何人かのパレスチナ人を殺している。そして、パレスチナ人もパレスチナ人を殺している。ファタハとハマスが殺しあっている。」(注:パレスチナには二つのグループがあり、一方がイスラエルとの協調路線で政権を握っているハマス(PLO系)、もう一方がイスラエルへの徹底抗戦を訴えるハマス。現在両グループはガザ地区で内戦状態であり、激しく殺しあっているらしい。)
「どちらのグループを支持しているの?」
「俺はどちらのグループも嫌いだ。あいつらはバカだよ。」

一通り彼の説明を聞いた後、彼は同じビルのとある部屋に案内してくれました。彼は、そこが彼の住んでいる部屋だと言います。しかし、キッチンを含めて3部屋あるその部屋の中には椅子とテーブルとマットレスしか物がなく、がらんとしていて人が住んでいる気配がありません。電球も無く、まるで廃墟です。奥の部屋のマットレスには、浮浪者のような人が寝ていました。僕らを見ると、彼はうわごとのように何かをつぶやきます。ジャマールは、「彼は頭がおかしいんだ。気にしないで。」と言いますが、気になります。しばらくテーブルと椅子しか置いてない部屋で話をした後、「もし良かったら、ここに泊まってもいいよ。」と言ってくれました。僕が金は取るのか?と率直に聞いたら、「金はいらないよ。好意でやってるんだ。よく旅行者を泊めてあげてるんだ。」と言います。はっきり言って、迷いました。ジャマールは悪い人ではなさそうだけど、浮浪者が勝手に出入りする廃墟のような部屋。。。電球すら無いし、夜はどうなるんだ。。。
もう一人の韓国人旅行者は、ヘブロンには泊まらずに日帰りするつもりだったので、エルサレムの宿はチェックアウトせずに来てたのですが、彼女に相談すると、「面白そうだから泊まってみたいけど、ちょっと怖いなあ。でも、無料だし。。。」と言うので、僕も面白そうだという気持ちが、だんだん勝ってきて、二人とも泊めてもらうことにしました。一人だと怖かったけど、二人なら心強いので。僕の方は、元々ヘブロンに一泊するつもりだったので、ラッキーといえばラッキーな展開でした。
電球が無かったのは不安だったけど、H1地区(アラブ地区)のホテルに荷物を取りに行ってから部屋へ帰る途中でジャマールは電球を買ったので(支払いは僕)、とりあえず大丈夫になりました。
それに、宿は無料だと言っていたけど、ジャマールの生活はかなり苦しそうなので、こうして電球を買ってあげたり、食べ物を買ってあげたりして、宿代とガイド代を彼へ返していけばいいかとも思いました。

部屋に帰った後、3人で椅子に座って向かい合ったのですが、ジャマールの英語は、ガイド内容を説明することはできるけど、会話のキャッチボールをするにはかなり不足していたので、会話は全然続かずにずっと沈黙の時間が流れていました。どんどん日が暮れていく廃墟のような何もない静かな部屋で、パレスチナ人と韓国人と向き合って沈黙の時間を過ごすというのは、かなりシュールな体験でした。

窓辺でポーズを取るジャマールとジャマールの部屋


することがないし寒くなってきたし眠たくなってきたので、8時には布団に入りました。そんなに早く寝れるわけがないので、韓国人とぼそぼそ話をしていると、外で花火があがる音が聞こえました。パパンパパパパパンという感じで、かなり長く続いています。そのうちに、ジャマールがむくっと起きてきて言いました。「あれは銃の音だ。マシンガンだ。毎日こうやってイスラエル兵が撃っているんだ。」すぐには信じられなかったけど、確かに花火が上がっているのは、この部屋からは見えないし、外を見ても花火を見物している人の姿もなかったです。音も、花火にしては連続して鳴りすぎているような気もします。とにかくその音はたまに鳴り止んだりしながらも、ずっと続いていました。そのうち、ジャマールが何か興奮してきてました。昼よりも目が変に光っていました。
「俺はムスリムが本当に嫌いなんだ。なんなんだあいつらは。イスラエルやユダヤ人は好きだよ。ムスリムを殺すからな。アメリカも好きだ。イラクでムスリムを殺しまくっているからな。」
冗談で言っているような雰囲気では無かったです。そして、アラビア語で何かをまくしたてられました。その時、彼の顔は狂ったような笑みが浮かんでいました。僕は恐怖しました。
「ごめんなさい。アラビア語は全然わからないんです。」と言ったら、急に彼は落ち着きました。そして、やすらかな顔に戻り「おやすみ」と言って布団に戻りました。銃声だか花火の音だかは、この間もずっと続いていました。窓の外に青白い閃光が水平に走ったような気がしました。僕も、そのパパパパパンという乾いた音の中で眠りにつきました。

翌朝、ジャマールには朝食をおごってあげ、300円をチップとして払い、さよならをしました。そして、約27時間ぶりにエルサレムに戻りました。なぜか凄く懐かしく感じました。エルサレムでは、アラブ人もユダヤ人もキリスト教徒も観光客も、みんなごったまぜになって独特の活気を作り出していました。それを見て僕はとてもほっとしたのでした。





ベツレヘムの壁に書かれた”一つの手に五本の指”。仏教、ヒンズー教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教がそれぞれの指になっています。




<参考>
パレスチナ問題について、僕が感銘を受けたサイト。

・数年前の第二次インティファーダ時代にイスラエルを旅した人の旅行記。
http://www.sakusha.net/palestine1.html
http://www.sakusha.net/palestine2.html
http://www.sakusha.net/palestine3.html
http://www.sakusha.net/palestine4.html

・僕と同時期にイスラエルに滞在しているジャーナリストの日記。
http://www.doi-toshikuni.net/j/index.html

僕が訪れたヘブロンについての記事。
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20070330.html
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20070505.html

特に感銘を受けたジェニンについての記事。
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20070328.html


究極の聖地・エルサレム。イスラエル前編。

2007年12月14日 00時41分39秒 | アジア

イスラエルでは2週間過ごしました。素晴らしい観光があり、飲み過ぎて寝ゲロするほど楽しい夜があり、パレスチナ問題を考えさせられた夜がありました。一緒に過ごしたメンバーや親切な現地人にも恵まれたし、様々な面で刺激的な滞在となりました。

今回は、長くなったので前後編に分けて書きます。

イスラエル観光の基点は、”究極の聖地”エルサレムです。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という主要な3つの宗教の聖地が1km四方の狭い地域に集中しています。

↓隣り合う二つの宗教の聖地。イスラムの聖地・岩のドーム(左の金色の屋根)とユダヤ教の聖地・嘆きの壁


なぜこのような状態になったかというと(最近本で読んで知った付け焼刃の知識ですが)、これら3つの宗教はどれも似たような起源を持つ兄弟のような宗教だから、らしいです。イスラムの聖典コーランによると、ムハンマドよりも遥か先に存在していた預言者イブラヒム(アブラハム)の腹違いの兄弟がそれぞれユダヤ人とアラブ人の先祖なのだそうです。そして、キリスト教が生まれたのもユダヤ教からだとのこと。

そんなエルサレムの旧市街は、他のどの国とも明らかに違う特殊な雰囲気に満ちていました。周囲をぐるりと壁に囲まれた1km四方の旧市街は、イスラム地区、ユダヤ地区、キリスト地区、アルメニア地区の4つの民族の居住区に分かれています。そして、ユダヤ教の聖地の”嘆きの壁”周辺や、キリスト教の聖地の”悲しみの道”は、どちらも旧市街内のイスラム地区にもかかっており、こてこてのアラブ風商店街を、ユダヤ人の伝統的な格好をした人(黒い帽子、黒いコート、もみあげを異常に伸ばした髪形)や、キリスト教の牧師と信者たちが練り歩いている光景は、凄いものがありました。

・アラブ的空間を、キリスト教徒達が練り歩く。(週一回の宗教的イベント)


・嘆きの壁にて嘆くユダヤ人


・嘆きの壁にいたユダヤ人子供


・嘆きの壁は、毎週金曜日の週末にユダヤ人で埋め尽くされる。

祈ったり、嘆いたり、歌って踊ったり、知人と会話したり、みんながそれぞれの目的で集まっている。

・旧市街のそばのパレスチナ人地区に住む子供がかわいくライフルで撃つまねをしてきた。


・旧市街内の人のいない運動場で一人祈るムスリム


いろんな宗教の聖地だからこそ、テロ対策も厳しいです。そこら中にイスラエル兵が大量に配備されているし、セキュリティチェックポイントでの荷物チェックもあります。
・嘆きの壁にいた兵士たち。イスラエルの子供達にはアイドルのような扱いを受けていた。「キャー、こっち向いて!」みたいな感じです。


・町を歩いていた女兵士たちと。

女性兵士には、国境をはじめとする各地のチェックポイントでお世話になります。美人が多かったです。(写真の女兵士はそうでもないけど)

エルサレムの宿(ファイサルホテル)も、とても印象的でした。イスラエルのヨーロッパ並みの物価からすると、かなり安い一泊750円で、しかも夕食つき、インターネット無料、午前中お茶無料、という素晴らしいサービスです。共有スペースも広くて明るくて雰囲気もよく、ここでだらっと旅行者と話をしているだけで、とても幸せな気分になります。またこの共有スペースでは、オーナーが夜になると突然奇人に変身して、旅行者を無理やり巻き込んでのダンスパーティーも催されたりもします。ほとんどの旅行者は、そのオーナーを無視してるのだけど、それでもしつこく旅行者達を巻き込もうとするオーナーがとても面白かったです。

毎晩宿泊客みんなで晩御飯


妖怪に変身した宿のオーナー



<後編>パレスチナ自治区編へ続く