世界一周の記録

2006年8月から2008年9月まで2年1ヶ月の世界一周放浪の旅をしていました。その旅の記録です。

北京-昆明-ビエンチャン(ラオス)

2008年07月22日 17時17分22秒 | アジア



北京で体調を崩し予定外に長く滞在してしまったので、ここからは大急ぎで東南アジアを目指します。なぜ急ぐのかと言うと、中国のビザ無しでの滞在可能期間がたったの15日間なので、ゆっくりしているとオーバーステイで一日500元(約8000円)という高額の罰金を取られてしまうからです。それに、急ぐ理由はまだあります。全部で2年間という予定で出発したこの旅も気付けば1年と11ヶ月が経ってしまい、帰国予定は2008年8月のはずが、中国と東南アジアを今まで通りのペースで旅を続けていると来年の帰国になってしまいそうなのです。(どんなに急いでもさすがにちょうど2年目となる8月6日の帰国は厳しそうですが・・・。)また、旅の最初の方からじわじわと歯を蝕んできた虫歯がパキスタンあたりから突然酷くなり、食事中に激痛が走るようになったので、早く日本に帰って治療をしたくなったというのもあります。

とにかく、ここからは大急ぎで東南アジア4カ国を周り、中国と韓国経由で陸路帰国を目指すのです。この先のルートで最低限押さえておきたいポイントは、東南アジアでは、タイのバンコク(バックパッカーの聖地ということで)とスキューバダイビング、カンボジアのアンコールワット、そしてベトナム料理、といったところです。東南アジアについては元々大して知識が無い上に、ガイドブックも無いのでそれくらいしか分かりません。まあ、見所を知らないというのは、急いでいるので好都合です。そして、中国に戻って、雲南省や上海などを周り、大連辺りから船で韓国に渡り、釜山から船で日本に帰りたいと思います。


北京からはまず、雲南省の省都・昆明(クンミン)を目指します。どうやらここからラオスへ行けるようなのです。ラオスについては、ほとんど全く情報が無いのですが、東南アジアに行ったことのある旅人は口を揃えて「ラオスはよかった」と言うので、どんなところなのか興味はあります。残念ながら長居はできなさそうですが・・・。

北京西-昆明の列車はなんと580元(9300円)もかかりました。一回の陸路移動で5000円を越えるなんて、アジアの旅では破格の高値ですが、よく考えてみると昆明まで3200km、2泊3日の40時間を快適な寝台車で移動できるのだから、安いものなのかもしれません。

北京では、遅めに宿を出て渋滞に巻き込まれたので、北京西駅に着いたのは出発の10分前でした。バックパックを背負い全身から汗を噴き出しながら全力疾走し、大急ぎで出発ロビーへ行くと、電車の発射時刻は10時間も遅れていたのでした。10分遅れではなくて10時間遅れ。どうやら雲南省で大雨があり、北京まで電車が着かなかったそうなのです。17時発の電車が翌日の深夜3時発に・・・。こればっかりはどうしようもないので、10時間待たなければならないのですが、出発ロビーには既に”俺達は10時間をここで過ごすぞ!”という準備万端の中国人達がそれぞれのグループで新聞紙をひいて寝転んだりして場所を確保し、カップラーメンや弁当や野菜や果物を食べたりしてくつろいでいます。例のごとく床は食べ物のカス等で汚れています。しかし、北京西駅には休憩所という便利なものがあり、25元(約400円)を払えばエアコンの効いた大部屋のソファで寝転がって休めるようなのです。バックパッカーなら待合室で中国人に混ざり雑魚寝をして10時間を過ごすのが、正しい姿だとは思いますが、この日はそんな元気はなかったので大人しく休憩所を利用しました。非常に快適に10時間を過ごせました。

待合室で寝る人たち(深夜2時半)


電車はきちんと深夜3時に無事出発しました。その後の電車の旅も寝台のベッドでゴロゴロしながら本を読んだりしていると、あったいうまに40時間は過ぎて昆明に無事着きました。いやあ、本当に中国の夜行列車移動は快適で楽ですね。車内販売の弁当もおいしいし(歯は痛いけど)。昆明は、ウルムチや西寧などの地方の省都同様、さすがの大都会でした。中国は、どんなに北京や上海から離れている地方に行っても省都に関しては大都会ですね。

昆明の路上マッサージ屋

仕事帰りのお父さん達が頭や肩や足を揉んでもらっていました。


昆明で一泊して翌日夕方発のラオスの首都ビエンチャン行きのバスに乗りました。なんとこのバスも乗車時間40時間の2泊3日バスでした。インターネット情報によると、この昆明発ビエンチャン行の寝台バスは、新しくきれいで乗り心地が良く、その上乗客も少ないという話でしたが、実際乗ってみるとそうでもありませんでした。乗客はめちゃくちゃ多くて車内は人と荷物で溢れかえり、なんと通路にマットを引いて寝ている親子までいました。しかも乗客の大部分はガタイのいい中国人のおっちゃんなので、暑苦しさ・息苦しさ満点です。車内に入ったとたん、汗臭さにムッとします。僕の席(ベッド)は最後尾で、広いベッドに5人が川の字になって寝るスタイルでした。両隣は中国人のおっちゃんと若者なのですが、就寝中は誰かが寝返りをうつ度に体が接触し、その度に眠りが妨げられるし、クーラーは大して効かず蒸し暑いし、とにかく寝苦しかったです。とはいえ一応中国の寝台バスなので、アフリカやインドの夜行バスに比べると天国のように楽でしたが。

寝台バス

老●万象と書いてラオス・ビエンチャンなのだそうです。万象の町ビエンチャン。

おっちゃんで溢れかえる車内

酒やつまみを持ち込んで宴会風になったりもします。

道中でのラオスの風景

泥の色をした川が流れ、ジャングルが広がり、アマゾン川のような雰囲気でした。

そんな寝苦しい夜を二回耐えるとラオスのビエンチャンに到着しました。朝早い時間に到着しましたが、大雨でした。今のラオスは雨季で、僕が滞在している間は毎日、一日のうちに何回も晴れと強い雨を繰り返す典型的な雨季の天候でした。気温は常に高く、めちゃくちゃ蒸し暑いです。今まで訪れた国の中では最も日本的な蒸し暑さを感じさせる国です。

バスの乗客の95%が中国人だったのですが、そのうちの一人がビエンチャンで宿を経営しているおばちゃんで、車で宿まで送ってくれるということだったので、その宿に行くことにしました。ガイドブックも地図も無いし大雨の中で宿探しをする気力も無いので、ちょうど良かったです。その宿は完全な中国人宿で、ラオス語などのラオスを感じさせるものは一切無く、中華料理のレストランが併設され、従業員も宿泊客も全て中国人なのでした。部屋のテレビも中国のチャンネルしか映らないし・・・。昼前に雨が上がったので外へ出てみると、周りの商店やレストラン全てに中国語の看板がかかっていたのでした。もちろんラオス語で書かれている看板も一緒にかかっていることもあるのですが、中国語の方が断然目立っているのです。なんだかあまりラオスに来たという感じがしません。そういえば、ここに来るバスの休憩所は全て中華料理の店でした・・・。どうやらラオスは中国化していっているみたいです。

ラオスラーメン

さっぱり味で非常においしいです。ラオスでは食事に写真右の野菜皿がつくことが多くて、とてもヘルシーな感じです。中国の油ぎった食事の後なので嬉しいです。

のどかなビエンチャン

これでも首都です。

ビエンチャンに着いたのはいいものの、地図が無いし、現在地がどこなのかもわからないし、タイへの行き方も何もかも分からないので、それを調べることから始めました。まず、宿の従業員に尋ねてみますが、言葉が全く通じないので大した情報は得られず、ネットカフェに行って調べることにしました。このネットカフェも中国人経営で、フォントは中国語フォントしか入っていないという驚きの中国人専用ぶりでした。ここで、ビエンチャンの地図を検索して表示し、従業員(英語が話せる中国人)に現在地とバスターミナルの場所を教えてもらいました。現在地は、意外と町の中心部に近かったです。周囲ののどかな光景からして、きっと中心部からだいぶん離れていると予想していたのですが。

ビエンチャンには一泊だけして翌日タイのバンコクに行くことにして、ぶらぶらと宿の周囲を散歩しました。ラオスは仏教国というだけあって、街中にオレンジの袈裟を来たお坊さんがたくさんいるし、仏教寺院もそこら中にありました。寺院の中へは自由に入れるみたいです。中は意外と広く、お坊さん達の居住スペースがあり、金色にぴかぴか光る仏像がたくさんあり、若いお坊さん達が何かしらお勤めをしていました。のんびりとした平和な空気が漂っていました。


黄金の仏像


寺で共同生活をする少年僧侶たち


若いお坊さんの一人が英語を話せるみたいで、僕に話しかけてきました。彼は大学生で寺に住みつつ大学に通っているのだそうです。そこで英語や経済学を勉強しているらしいのですが、卒業後は就職せずに仏門に入るのだとか。



ラオスは、中国化が進みつつも全体としてはのんびりとしていて、中国的な雰囲気はあまりないのどかな落ち着いた国という感じでした。ここに住んでいる中国人達もラオスに馴染んできているのか、不必要な大声で話す人はいないし、「クァーーッ!ペッ!」と何処でも痰を吐く人もいませんでした。中国の旅での疲れを癒すには良い場所かもしれません。ただ、残念ながらここでのんびりする時間があまりないのですぐにタイへと向かってしまいました・・・。

北京

2008年07月19日 15時24分31秒 | アジア

北京は、さすがに世界の新超大国・中国の首都だけあって大都会でした。その上、間近に控えるオリンピックに向けて、観光客が安全に快適に過ごせるようにさらに変化を続けているということです。電車駅の巨大さや、地下鉄や路線バスなど市内交通の便利さ、諸々のインフラ発達度合いには度肝を抜かれるばかりです。ただ、僕のいた時期はとても蒸し暑く、しかも大気汚染で空気が激しく汚れているので、過ごしやすい場所では無かったです。むしろ過ごしにくく辛かった・・・。スイスへの欧州サッカー観戦弾丸ツアーの疲れもあり、すっかり体調を崩し、咳が止まらなくなり、一週間くらい宿で寝込んでしまいました。EURO2008の決勝も寝てしまって見逃してしまいました。くっそう。

北京へ向かう夜行列車で販売されているお弁当

値段はちょっと高いのですが、美味しいので毎食これを食べています。

北京もやっぱりご飯が美味いです。とても辛くてとても美味しい麻婆豆腐

あと、北京ダックも食べました。あいにくカメラが壊れていて写真はありませんが。とても美味しかったけど、一人で食べると量が多すぎますね。

天安門広場にて。

右手前の男性はお腹を出して歩いています。これは中国男性特有の着こなしで、男性は若者からお年寄りまでお腹をぽよよんと出して町を闊歩しています。この写真の男性は小さい子供を連れたお父さんですが、可愛い彼女を連れたデート中の若者もこのようにお腹を出していることがあり、中国では完全にファッションとして認められた着こなしだと思われます。

大気汚染により黄色く霞む北京の空

北京オリンピック参加選手には、北京到着後、まず大気汚染と蒸し暑さとの戦いが待っているようです。



中国的な雰囲気に満ちている北京の安宿(長官飯店)




ショッピングエリア

中国では近代的なビルの屋根の上に中国的な屋根をつけたりしています。僕はこのような無理やり中国的な感じを出す努力をしている中国建築が結構好きです。



北京といえば故宮(紫禁城)。





中国名物どこでも撮影会

なんてことないただの地下通路で長々と時間をかけてポーズを取り写真を撮る中国人カップル。30mほどのこの地下通路だけで3組ものカップルがこのような撮影会に没頭していました。中国人は、良い人ばかりだし好きなのですが、たまにわからなくなることがあります。



下町

北京は、天安門広場などの町の中心部から路地へ入るとすぐにこのような超ローカルエリアに迷い込みます。どこにでも何かしら商店や屋台、食堂があり、中国商人のパワフルさを感じます。



万里の長城

想像以上に長くてうねうねしていました。


この日は猛暑で、長城は長いしアップダウンが激しくて疲れるし日陰が少ないし、とても疲れました。ちょっとでも日陰があるとこのようにへたりこんで休憩をしていました。



ところで、中国で出会う欧米人旅行者には日本にも中国にも行った事があるという人が多く、彼らと両国の違いや共通点などを話すのは面白かったです。観光客の目で見た中国と日本は、以下のような感じみたいです。
・両国とも先進国である。中国の先進ぶりには驚かされる。
・両国とも食事は素晴らしい。日本は寿司が最高。中国は美味しいが時に油っこすぎる。
・両国とも人は親切だ。ただ、日本人の方が礼儀正しい。
(中国人は駅の切符売り場などでちゃんと並ばない、どこでもタバコを吸う、声が必要以上にでかい、など)
・両国とも英語がほとんど通じない。ただ、中国人にはたまにペラペラの人がいるが、日本にはいない。
・中国の方がパワフルだし、物価も安く、見所も多く、長期間滞在しやすい。ただ、日本は全てがとても良く組織されていて旅行は楽である。
・日本の方が清潔である。特にトイレ。
など。概ね僕の意見と一致しています。


それでは、中国と日本の最も大きな文化的違いと言える中国のトイレについて触れたいと思います。

<注意!>お食事中の方、下品な話が好きではない方は、ここから先は読まないでください。

中国のトイレについては以前から噂は聞いていました。個室もドアもなく長い一本の溝が掘っているだけで、その一本の溝に全員がお尻を見せ合いながらまたがり用を足し、前の人の落し物が上流から流れてくるのを眺め、自分の落し物は後ろの人に見られると言う・・・。このことを考えただけで中国に行くのが嫌になりました。昨今はトイレ事情は急速に改善されつつあるとはいえ、僕は本当にびびっていたのです。そして、パキスタン・中国国境の入国審査場のトイレが、このようなトイレだったのです。

僕が何も知らずにこのトイレに入った時、同じバスに乗っていた中国人の青年がこちらを向いて力んでいるところでした。・・・・・・・・・・・。お、おえ~~~(吐き気)。
入国早々いきなり中国トイレの洗礼が来たようです。溝にならんでするのではなかったのがせめてもの救い(?)。せめて国境のトイレくらい個室のトイレにしといてほしいものです。国境を越えて来たパキスタン人もびっくりするだろうに。しかも、このトイレは男女別になってなかったような気がするぞ。中国の人は露出趣味でもあるのでしょうか。なんなんでしょうか。

そして、タシュクルガンからカシュガルへ向かう途中で見た中国入国後二つ目のトイレがこれ。

・・・・・・・。マシにはなってきています。壁による仕切りが出来ていますし。ただ、壁は低いし、トイレの入り口から入ってきた人にはどうしても丸見えです。この中途半端な高さの壁はいったい何のために・・・。ま、まあ見た目は多少マシにはなったのですが、匂いが酷い。トイレに入った瞬間、吐き気に襲われました。僕はどう見ても洗浄の設備が無いこのトイレの穴にどうしても近づくことが出来ず、近くの草むらで用を足しました。

カシュガルで泊まった宿のトイレはちゃんと個室になっていたし清潔だったし、何のストレスもなく用を足せたのですが、カシュガルの町の公衆トイレはこんな感じなのでした。

かなり個室には近づきました。しかし・・・。なぜ完全に個室にしないのだろうか。中国人は誰かに力んでいる姿を見られていないと、きちんと用を足せないのであろうか。いったいなんなんでしょうか。そしてこれが僕の”一本の溝を他人と共有するトイレ”初体験でした。前の人の落し物はばっちり僕の目の前を流れていきました。・・・・・・・。お、おえ~~~(吐き気)。

そしてチベット人の家のトイレ

屋根もなく、ドアもないです。ただ、穴が掘ってあるだけです。このころには、中国スタイルのトイレにもすっかり慣れてきて、中国人とお尻を並べて用を足すことにためらいもなくなってきていましたが、屋根が無いトイレというのは、これはいったい・・・。これはキャンプ場の公衆トイレなどではなく、普段から人が住んでいる民家のトイレなのに・・・。

中国人はトイレを使った後に流さない人が多いです。宿の共用トイレなどは個室であることが多いのですが、入ってみると流されていない、仕方なく隣の個室に行くと、ここも流されていない、その隣も流されていない、ということが良くあります。こういう場合のトイレ内の悪臭は耐え難いものがあります。仕方が無いので、3つの個室全てを吐き気をこらえながら流してまわって、最も汚れがマシな個室を選んで用を足すのです。これだけで朝から多大な精神力の消耗です。この後の朝食が全然おいしくありません。チベット自治州・興海の宿のトイレなんて、夜中にトイレに行くと、3人分のモノが便器に山盛りになっていたことすらありました。ちゃんと洗浄設備があるのにも関わらず。お、おえ~~~~(吐き気)。なんで流してから使わないの?どうして他人のモノの上に用を足せるの?理解できん。悪臭はトイレの周囲10m以上に及んでいました。僕はその日吐き気に悩まされ夜中の2時まで眠れませんでした。


そんな中国トイレ事情なのですが、その中でも最も酷かったのは、夜行バスで敦煌から西寧へ行った時の途中の町のバスステーションのトイレでした。あまりにも酷い状態だったので写真を撮る精神的余裕はありませんでした。そこは、中くらい規模のバスステーションでそこそこ大きいし待合室もあるのですが、トイレは屋内にはなくて屋外にありました。便器のある建物がありその周囲に壁があるという、どこにでもあるスタイルの公衆便所です。大きく「厠所」(中国語のトイレ)と書いてある壁の横の入り口を通ると、そこは地獄絵図でした。便器のある建物とその壁の間に30cmくらいの高さで大量のウ〇〇が積まれているのです。なので建物に入ることができません。というよりも建物の入り口から暗黒のオーラが出てきています。よく見ると入り口付近にもウ〇〇が落ちています。恐らく建物の中の便器がウ〇〇で溢れたので建物の中の便器の外にウ〇〇をし、さらに建物の中全体がウ〇〇で溢れたので、仕方なく建物の外の壁に囲まれている部分でウ〇〇をしたのでしょう。それにしても凄まじい悪臭です。よく見るとウ〇〇の上から何度も小便がかけられているので、汚い何かどろどろとしたものがそこら中に流れ出してきていました。もちろん僕の足元にまで・・・。・・・・・・・・・・・。お、おえ~~~~(吐き気)。
僕は卒倒しそうになるのをようやく堪えて、どうにか壁の内側で、汚い何かどろどろとしたものに最も侵されていないところを見つけ、悪臭に耐えながら用を足したのでした。精神力が限りなく0に近づいた瞬間でした。


以上のように、中国と日本のトイレ文化の違いは大きいです。この点に関してだけは中国人がよく理解できないです。


突然ですがサッカーEURO2008観戦記

2008年07月12日 16時21分16秒 | アジア




前回のブログで”北京に6月23日までに着かないといけないのでチベット族自治州には長くいれなかった”と書きました。それはなぜかというと、パキスタンにいる時に、ドイツ在住の大学時代からの友人なおくん(サッカー狂)からメールで連絡があり、4年に1度のサッカーのビッグイベント・欧州選手権の準決勝のチケットが入手できたので一緒に見ようと誘われていたのです。そして、そのフライトが北京からだったのです。中国からスイスまで行くなんて非常に遠いし時間もお金もかかるけど、それでも行くことにしたのは、ヨーロッパを旅している時に色々と世話になったなおくんの誘いでもあるし、欧州選手権の準決勝なんていうビッグマッチを生で見る機会なんてこれを逃すと一生無いかもしれないし、試合の会場がスイスのバーゼルで、スイスはヨーロッパの中で行かなかった国の一つだし、バーゼルは元日本代表の中田浩二がプレーしていた場所でもあるし、とても興味深かったからでもあるからです。

そんなわけで、西寧(シーニン)から電車に乗って約24時間かけて北京へ向かいました。

西寧の駅前にある巨大屋外ビリヤード場

なんで、ビリヤードを屋外で・・・。しかも、この日は小雨が降っていました。

まるで巨大な城のような北京西駅


北京で、地下の超高湿度ドミトリー部屋のユースホステルで2泊しました。同部屋のルクセンブルク人学生シルバン君がサッカー大好きで、彼と深夜までサッカーやEUROについて談義しました。そして、彼から僕が見に行く準決勝のカードはドイツ対トルコになったと聞かされました。これは完全に予想していなかった組み合わせです。EUROの準決勝といえば、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガルといったスター選手を抱える国同士の試合になると思っていたのですが・・・・・・・。いや、まあドイツはそれなりにいいとして、トルコが勝ちあがってくるとは。トルコの準々決勝の相手はクロアチアだったので、どっちが来てもどっちもどっちなのですが・・・。ドイツに関しては、僕の好きなバラックやクローゼといった有名選手を抱えているとはいえ、やっぱり準々決勝の相手であった現在世界No.1選手のクリスティアーノ・ロナウド擁するポルトガルに勝ち上がって来て欲しかった・・・。デコやクアレスマも見たかった・・・。まあ今大会は、開催国のスイスとオーストリアという日本代表が普通にやっても勝てそうな弱い2チームが予選無しで参加してしまっているために、いつもよりは全体のレベルが下がっている印象は否めません。今年のチャンピオンズリーグを席巻したイングランドが予選落ちして出ていないのも残念でした。

ところで、シルバン君はフランスの大学に所属していて、代表チームとしてはフランス代表を応援しているらしく、今大会ではいいところ無く敗退したフランスについてあーだこーだと監督采配を批判しては嘆いていました。また彼は、フランスリーグも欠かさず見ているらしく、フランスのル・マンでプレーする松井大輔について「彼は今年とても良かった。確か来シーズンからストラスブールというより強いチームへ移籍したよ。日本代表には入っているの?彼を是非代表に入れるべきだよ!」と結構良いことを言っていました。同じ日本人として誇らしいですね。


北京から飛行機で10時間のドイツへ飛びました。ドイツに来て最初に思ったことは「ドイツ人はやっぱりでかいなあ」ということでした。ドイツでは再度ミュンヘンのなおくん宅に泊めさせてもらって、翌日なおくんの車でアウトバーンを走り、スイスのバーゼルへ向かいました。バーゼルまでは5時間ちょっとでした。車中では1年半ぶりの再会となるなおくんといろいろと話をしました。特になおくんの会社で働くドイツ人がいかに働かない使えない奴かという話が面白かったです。僕のイメージではドイツ人というのは日本人のように勤勉な民族という感じだったのですが、実際にドイツに住んで働いてみるとドイツ人の怠けっぷりというのは日本人の感覚からするとありえないレベルみたいですね。もちろん個人差はあるんでしょうけど。ドイツ人でそれなのだから、イタリア人やスペイン人なんて、もうすごいんでしょうね。

スイス入国の際、車税のようなものを払わされるのですが、イミグレーションオフィスはなく、当然パスポートチェックは無く、スタンプを押されることも無かったです。なんとも開放的ですね。

スイス・バーゼルののどかな風景

バーゼルは想像していたよりも小さな町でした。ひょっとしたらスタジアム周辺が田舎なだけで、別の場所にバーゼルの都会エリアがあったのかもしれませんが。

スタジアムに着くと、僕らはなおくんの持っているドイツ・サポーター・グッズを着用し、ドイツサポーターに変身しました。

なおくんはドイツのユニフォームとマフラー、僕はドイツ国旗のマント、そして2人ともドイツ帽を被って、いよいよ気分も盛り上がって来ました!

トルコサポーターも負けてはいません。


ムスリム女性サポーター!


僕らの席はトルコサポーター側のゴール裏でした。でもトルコサポーター軍団からは少し離れいていて周りはドイツサポーターでした。スタジアム全体を見ると予想通り8割くらいはドイツの応援のようです。なんせ隣の国ですものね。ところで、ドイツにはトルコ移民がたくさん住んでいます(僕もドイツ旅行中はよくケバブ屋に行きました)。そして、ドイツ人とトルコ移民はあまり仲が良くないらしいのです。この試合の直前にも、ドイツで起きたトルコ移民によるドイツ人暴行殺害事件の初公判が行われたみたいで、それが大きくニュースで扱われたりしていました。スタジアムに来るまでは、観客席にはそういった緊張感があるのかなと予想していましたが、実際はサッカーを楽しもう、という和やかな雰囲気が大勢でした。一部のドイツサポーターはトルコに対して激しいブーイングをしていましたが。

さて、実際の試合ですが、前半から意外にもトルコが試合を優勢に進めます。トルコは、僕の想像していたよりも遥かに強いです。試合前、なおくんも「トルコは意外と強いで。全然ヨーロッパっぽくない異色のサッカーやけどな。ほんまトルコがアジア予選にいなくて良かったで」と言っていました。トルコは、個々の技術とスピードでドイツを上回っています。特にアルティントップという攻撃的MFの選手のスピードと技術は凄まじく、ドイツ守備はほとんど対応できていません。ドイツは自陣でいいようにパスを回され、ドリブルで切り込まれ、次々とピンチを迎えます。しかもドイツは攻撃が全然つながりません。本来中盤のバラックを1.5列目に配しているためにゲームメーカーが不在です。その期待のバラックも体が重く、攻撃のブレーキにしかなっていません。そして、前半のうちにトルコが先制します。センタリングのこぼれ球を詰められたのですが、ドイツ守備は完全に崩されていました。しかし、ドイツの凄いところは、その直後に同点に追いついてしまうところです。それまでほとんどチャンスを作れなかったのに。ポドルスキーがカウンターから左サイドを抜け出し、そのセンタリングを右サイドMFのシュバインシュタイガーがゴール前まで突っ込んできて決めました。そのまま前半終了。

不調のバラック(白の13番)


後半も前半同様、トルコが主導権を握ってチャンスを作り続けます。バラックは相変わらず不調で攻撃のブレーキになっています。しかし、ドイツはボランチの一人をパス回しの上手い選手に交代したので、徐々に攻撃がつながるようにはなってきました。そして、左サイドからのセンタリングをエースストライカーのクローゼが素晴らしいヘディングで叩き込み、逆転しました。クローゼは、ここまでいるかどうかほとんど分からないくらい存在感が無かったのですが、やっぱりやる時はやります。日本にもこういう完全な点取り屋タイプのFWが出てほしいものです。トルコは、次々と選手交代をして同点を狙います。ドイツは次第に完全に押し込まれていき、後半40分、左サイドのポドルスキーとラームが個人技により完全に突破されて失点してしまいます。熱狂するトルコサポーターと消沈するドイツサポーター。完全なコントラストです。この時、TVスクリーンにこれまでの試合のデータが出ました。枠内シュートの数が、トルコ11に対して、ドイツはたったの2でした。ドイツは2回のチャンスを2回とも決めたということなのですが、状況は圧倒的劣勢です。コーナーキックの数もボール支配率も圧倒されていました。ドイツの圧倒的不利・・・。しかし、先ほどの同点ゴールで失態を演じたラームが意地を見せました。左サイドから長いドリブルで相手陣内に切り込み、パス交換してペナルティエリアまで突っ込んでいって、キーパーと一対一に持ち込み、自らが見事にシュートを決めました。今度は熱狂するドイツサポーターと黙り込むトルコサポーター。時計を見ると後半45分を過ぎていました。そのまま試合は終了し、ドイツは3-2でトルコに勝ちました。

点が入り喜ぶドイツサポーター


さすが欧州選手権の準決勝、試合はとてもレベルが高く、試合展開も劇的で面白かったです。予想以上にトルコが強かったことが印象的でした。しかし、ドイツはそれ以上に強かったです。技術やスピードで負けているのを身体能力と精神力で打ち破りました。非常に印象的な試合でした。僕のマン・オブ・ザ・マッチはドイツの1点目を決めたシュバインシュタイガーです。とにかく運動量が多く、右サイドにも左サイドにも前線にも現れて、攻守に効いていました。トルコでは、中盤のアルティントップはいつか世界的な選手になるかもしれません。あと、名前は知らないけど、ボランチの7番もかなり凄かったです。バラックは彼に手も足も出ませんでしたし、パス回しでも技術の高さを見せていました。

体をドイツ国旗色にペイントした気合の入ったドイツサポーター



この日は近くの小さい町で一泊し、翌日なおくんの車でミュンヘンまで戻り、そのまま飛行機に乗って北京に帰りました。2泊3日の弾丸ヨーロッパサッカー観戦ツアーでした。案の定疲れました。


チベット族自治州へ

2008年07月10日 16時24分02秒 | アジア

以前から”僕の旅において最後のハイライトは西チベットの旅・カイラス巡礼だ!”と公言していたのですが、今年3月のチベット動乱などの諸々の不幸な出来事が重なり、西チベットへの旅はあきらめなければならない状況になってしまいました。この事実に僕は打ちひしがれていました。そして、失意の中で、カイラスへ行くためだけにこの半年間ずっと持ち歩いているチベットのガイドブック(旅行人・全チベット文化圏ガイド)を読んではチベットへの思いを無駄に募らせていました。しかし、そのガイドブックをよくよく読んでみると、どうやらチベット文化圏というのは、非開放の”チベット自治区”だけではなく、対外に開放されている地区にも”チベット族自治州”などという形で残されているようなのです。しかも、その開放地区も非開放地区に匹敵するような魅力的な場所がたくさんあるようなのです。なので、僕はそちらを訪れることにしました。(しかし、どうやら6月25日よりチベット自治区は外国人に再開放されたみたいですね。。。今回のブログの話は、それ以前の6月17日から20日までの話です。)

対外開放されているチベット文化圏は主に青海省、四川省、雲南省に集まっています。僕はある事情により6月22日までに北京に行く必要が会ったので、敦煌と北京の間にある青海省を訪れることにしました。よくよく調べてみるとこの青海省は現在のダライラマが生まれた場所でもあるみたいで、なぜチベット自治区ではないのか、それに非開放になっていないのかが不思議なくらいです。

まずは、敦煌から寝台バスに乗って約20時間で青海省の省都・西寧(シーニン)へ行き、そこからさらにバスに7時間揺られて興海(シンハイ)というチベット自治州の町に行きました。

寝台バス

2階建・3列で、寝台と椅子の中間のような座席が並んでいます。この座席はリクライニングで倒れているわけではなくて、常に固定で倒れているので、昼間っからずっと乗客は寝転がっていなければいけないのです。



西寧につくと、住民の大部分が頭に白い帽子を被っている回族という中国のイスラム教徒になり、顔も少し一般的な中国人とは違ってきました。ネパールのエベレスト・トレッキングでたくさん出会ったシェルパ族に近い感じです。目が大きくぱっちりとしていて、肌の色が黒いです。ちらほらとチベット僧の姿も見かけます。彼らもシェルパと同様の顔の特徴を持ち、頬っぺたが若干赤みを帯びています。そして、なぜか体格がいい人が多いです。ネパールにもチベット僧が多くて、その時も思ったのですが、なぜかチベット僧のおっちゃん達って体格が良くて、顔がいかつくて、迫力があるのです。


興海の周りはだだっ広い草原と山です。

海抜3000mくらいだそうです。


興海のバスターミナルについて屋根の上に積んである荷物を下ろしていると、何やら長身の薄汚い男が他の乗客にからんでいるのが見えました。どうやら物乞いのようで、他の人のカバンや服をつかんだりするなどの積極的な行動に出ていて、かなり迷惑な存在になっています。僕は、「うわあ、あいつにからまれたらいややなあ。」と思いながら、自分の荷物を屋根から下ろすと、僕のシャツの袖が引っ張られるのを感じました。振り向くと案の定その物乞いでした。必死に振り払ってもしつこくからみついてくるので、僕はそいつを殴るふりをして追い払おうとしました。すると、そいつは一瞬ひるんだ後、なんと僕の顔めがけて唾を吐きかけてきたのです。僕が唖然としていると、そいつは立ち去っていきました。周りの人達はみんな見て見ぬふりです。どうやら、チベット族自治州の旅は一筋縄ではいかないみたいです。


興海の町

実際来てみると西寧同様、住民の多くは白い帽子をかぶっている回族(イスラム教徒)でした。チベット人は全体の3割くらいでしょうか。

ちらほらいるチベット僧



地獄の悪臭トイレを持つ宿で一泊し、翌日、この興海へ来た唯一の目的といっていいチベット寺のセルゾン・ゴンパ(賽宗寺)へ向かいました。ガイドブックによると、宿のすぐ目の前からゴンパへ行くジープが出ているとのことですが、それらしい車は見当たりません。歩道には暇そうにしている回族の人達が大挙してたむろしているので、その中の一人にゴンパへ行く車を尋ねてみました。すると彼は、その辺にいるチベット僧の服装をしている人達に片っ端から声をかけて僕をゴンパへと連れて行ってもらえるかどうか訪ねてくれているみたいです。それが駄目だとみると走っている車を一台止めて、運転しているチベット人に交渉し、ついに僕をセルゾン・ゴンパまで連れて行ってもらえるように話をつけてくれました。車には2人のチベット人が乗っていました。年齢が40台前後と30台前後のコンビで、例のごとくガタイが良いです。彼ら2人とも英語が全く話せないし、僕は中国語もチベット語も話せないので、「セルゾン・ゴンパ、セルゾン・ゴンパ」と連呼してみると、「うん、わかってる。」というような表情を浮かべて、僕に車の後部座席に座るようにうながしました。車はBMWのセダン、サンタナです。そして、セルゾン・ゴンパを目指す長い長い一日が始まりました。

まず、車は近くの民家の前に停車。そこで、積荷のタイヤを下ろしました。そして次はまた元の場所まで戻って来て、遅めの朝食(時刻は11時ごろ)を食べ、市場でスイカや桃などの果物を購入。次は、そこから5分ほどの所にある大きい民家に入り、そこの家族にご挨拶。そして、挨拶がてら、チベット特有のバター茶とチベットパンをごちそうに。そして、その民家のとなりの洗車場に移動し、洗車屋さんに入念に車を洗ってもらいました。トイレや床は汚くても平気なくせに、車に関してはとてもきれい好きなんですね。。。

ぴかぴかになっていく車を見つめるドライバー(左端)

洗車屋さんは、外だけではなく車内も入念に洗ってました。


この時点で僕が初めに車に乗せてもらってから2時間以上も経過しています。そして、きれいになった車にもう一人チベット人を追加して、ようやく町を出て草原の道を走り始めました。しかし、20分ほど走ると草原のど真ん中に車を止めて、みんな車外へ出て行きます。何が始まるのかと思うと、なんと、昼食を食べるらしいのです。さっき食事をしたばっかりなのに。しかも、昼食のメニューはスイカとパン。スイカといってもパンを食べた後のデザートとして食べるのではなく、パンのおかずとしてパンと一緒にスイカを食べるのです。実際やってみると、これが案外食べれました。スイカもおかずになるんですね。新発見。もう二度としないと思うけど。


おかずスイカとチベット人



そうこうしていると、バイクで別のチベット人がやって来て、バイクの調子が悪いらしく、みんなでバイクをいろいろいじり始めました。しかし治らず、そのうち雨が降り出したので、みんなで車の中に避難したと思ったら、みんないきなり昼寝をし始めました。うわあ。もうチベット人の行動は全く予想がつきません。言葉が通じるのなら、いろいろと彼らの考えを聞いてみたいところなのですが、全く通じないので仕方なく彼らのするのを僕は黙って見ることしかできません。バイクでやってきたチベット人が携帯電話でバイクの修理屋を呼んでいたみたいで、45分後くらいに修理屋さんがやってきてバイクを引き取って去っていきました。バイクで来た人も一緒に車に乗り込み、総勢5人になり、どうやらいよいよ本格的にセルゾン・ゴンパを目指して出発を始めるみたいです。この時、既に午後3時を過ぎており、今日中に興海に戻れるかどうかちょっと不安になって来ました。

バイクを囲んであーだこーだと議論するチベット人たち



そのうち草原の道は終わり、岩山に囲まれた完全なオフロードの道を走り始めました。相当な悪路です。普通のセダン車でこんな道をぶっ飛ばすなんて、さすがチベット人はすごいなあと感心していると、周りには特に岩山しかない場所で突然車を止めました。そして、4人とも車を降りておもむろに岩山を登り始めました。急な斜面を駆け上がっていき、何をするのかと思ったら、どうやら花を摘んで集めているようです。いや、本当にチベット人の行動には驚かされるばかりです。

急な岩山の斜面を登って花を摘むチベット人たち


その後、数十分間そういった彼らの作業は続き、大量の野花が集められてきました。それらをトランクに詰め込み、再出発しました。岩山の間の狭い道を抜けると、大渓谷の素晴らしい景色が広がっていました。



そして、夕方の5時ごろ、ついにセルゾン・ゴンパに到着しました。セルゾン・ゴンパは単なる寺というよりも、小さな村という感じです。岩山の中腹に寺と民家が密集して建てられている小さな集落・生活共同体です。岩山と一体化したようなその姿はとても神秘的で、僕は長い時間をかけてここまで来た甲斐があったと思いました。



一緒に車に乗ってきた人達は、みんなちりぢりに去っていき、残った車を運転していた人が僕をある民家に案内してくれて、”泊まるところは丘の上にあるから後で来い”というようなジェスチャーをして消えていきました。その民家には小柄なチベット人がいて、僕にお茶とパンをごちそうしてくれました。ありがたくそれらをいただいていると、彼は初歩的な英語の教科書を持ち出してきて、それを指差し会話帳のように使って「どこの国から来ましたか?」とか「職業はなんですか?」などの質問をしてきました。一切発音はせずに。僕も回答を教科書を指差しながら静かに行いました。

そんな彼の家


彼にお礼とさよならを言って、セルゾン・ゴンパの集落内をぶらぶらと歩きました。今日中に興海へ戻るかここに泊まるか考えながら。ここに一泊するのはとても魅力的な申し出だし是非泊まりたいけど、もしここに一泊してしまうと期日までに北京に行けないかもしれないという葛藤があります。

そうこうしているうちにお寺に着きました。

お寺


若い僧侶たち


寺の内部

ただでさえ神秘的な内装なのに、中央に読教している僧侶が数人いて、さらに神秘性を高めていました。低くて腹の底に響くような声でした。


その後、寺の内部を見学した時に案内してくれた僧侶たちと道端でばったりと再会し、彼らは僕を彼らの家へ招待してくれました。そして、お茶やパンやヨーグルトをふるまってくれました。それにしてもチベット人はなんて親切なんでしょう。感動しました。
前の民家で英語の教科書を使ってコミュニケーションをとったことから、そういえば僕のチベットのガイドブックに簡単なチベット会話集があって、それがコミュニケーションに使えるのじゃないのか、と思いつき(今更ながら)、今回はチベット人の彼らとはそれなりにコミュニケーションがとれました。もっと早くこの方法に気付いておけば・・・。

チベットガイドブックを熱心に読むチベット人と


おっちゃんチベット僧

やっぱりケンカが強そうです。


その後、また集落をぶらぶら歩いていると車を運転して僕をここまで運んでくれた人に再会しました。摘んできた花を使って何かをしているみたいです。彼はジェスチャーで「夕食を食べたら、宿へ行こう」という風に言ってくれたのですが、僕はやっぱり北京へ行けるか心配になりました。でも、明日中に西寧まで戻れれば北京には予定通りに到着できるので、西寧に明日中に戻れるかどうかを聞きました。周りにいたチベット人達がわらわらと集まってきて議論した結果、「今からジープが出るからそれに乗りなさい」ということになりました。ここに泊まりたいのはやまやまなのですが、仕方ないので諦めて今日中に興海に戻ることにしました。


セルゾン・ゴンパのチベット人はとてもいい人達ばかりでした。しかもみんなかっこいい!

そうして、僕はちょうどやって来たジープに乗せてもらい、興海へ戻りました。行きは何だかんだで7時間くらいかかったのに、帰りはたったの1時間半でした。ジープの運転手の兄ちゃんは、金を受取らずにかっこよく去っていきました。結局、この日は行きも帰りもタダで送ってもらい、食事も全部ごちそうになりました。



こうして僕のちょっとだけチベット観光は終わりました。

たった一日のチベット観光でしたが、なんか一週間分くらいの刺激があったようなそんなような感動が後に残りました。

中国の味

2008年07月03日 00時03分52秒 | アジア


久しぶりの更新になってしまいました。中国入国してからずっと忙しく移動していて、それが落ち着いたとたんに体調を崩したりカメラが何度も壊れたりもして、ブログを書く余裕がないまま時間がいつの間にか過ぎてしまいました。



1ヵ月半も滞在してしまったパキスタンを出国し、ようやく半年間も続いた南アジアの旅が終わって、ついに中国にまでやって来ました。中国と言えば、地域的分類だと東アジアだし、日本のお隣さんの国だし、いよいよこの旅のゴールが見えてきたという感じがしてきました(この後まだ東南アジアにも行くのですが)。入国後、まずはタシュクルガンという中国の最も西にある町に来たのですが、日本との時差4時間のパキスタンと経度はほとんど変わらないのですが、国境をまたいで中国に入ったということで日本との時差はたったの1時間になりました。

ところで、中国に入る前、マスメディアから伝えられる情報や旅人からの評判により、僕は中国に対してかなり強い恐れを抱いていました。根強い反日感情、高まるチベット問題、土壌や河川や大気を激しく汚染している公害問題、インターネット検閲問題、中国製製品の品質問題(今年に入ってからも日本で毒入り冷凍餃子問題がありましたね)、中国人のマナーの悪さやトイレの酷さに関する噂の数々、、、数え切れないほどの多くのマイナスイメージを持っていました。プラスイメージといえば食べ物の美味しさに関することくらいでしょうか(あ、あと、この旅で何度もお世話になった世界中あらゆる国に移住してたくましく暮らしている華僑の人達は素晴らしいと思います)。反日感情に関しては、数年前のサッカーのアジアカップが中国で行われた時に(確か決勝で日本が中国を倒して優勝したはず)、日本代表チームの試合の時に、対戦相手が中国でないにも関わらず、中国人観客から執拗なブーイングが日本に対してあったことがあり、それ以来僕の中で「なんやねん、この中国人のぼけどもが」という感情が根付いていました。

しかし、実際に中国に来てみると、上記のようなマイナスイメージは感じられず、むしろインドやパキスタンを経てから来ると人々の顔が日本人と似ていることもあって、とても親しみやすい国に感じられました。人々は、英語は全然話せないけど、にこやかで親切です。インフラの整備状況もパキスタンやインドなどと比べると格段に良く、道路は広いし、歩道も広いし、ゴミ箱もたくさん設置されていて清潔だし、町歩きがとても楽です。ドライバーの交通マナーも中東や南アジア諸国に比べると随分良いし、バスや電車も新しくてきれいできちんと整備されているし、旅をしている感覚としては完全に先進国という感じです。もちろん北京や上海や広州などの有名大都市は日本や欧米と変わらない先進ぶりだというのは情報として知っていましたが、まさかパキスタン国境に近い西の最果ての町が、このような発展ぶりだとは思いもよりませんでした。

そういえば、パキスタンのラホールで中国人の若い女の子の旅行者と話している時に、中国人の反日感情について尋ねたことがありました。彼女は「そんなの全くないわよ!年をとっている人には多少あるかもしれないけど、若い人達はむしろ日本のことが好きよ。みんな日本の映画やドラマや漫画をよく見るし、ファッションだった真似しているし。あまりメディアの報道にはだまされないことね。それはそうと、あなた”薔薇と牡丹”っていう日本のテレビドラマ知ってる?」なんて言っていました。

それに、なんといってもご飯がめちゃくちゃ美味しいし、僕は中国のことがすぐに好きになりました。これほど良い意味で予想を裏切られた国は初めてです。ただし、トイレだけは例外ですが・・・。(便所についてはまた後ほど改めて書く予定です。)

フンジュラーブ峠


パキスタンから中国へは標高4700mのフンジュラーブ峠を越えて入ります。その峠の上に中国の国境事務所のようなものがあり、そこで過去最も厳しい荷物チェックを受けました。バックパックとサブバッグの中にあるありとあらゆる荷物を外に出して、それら一つ一つを詳細にチェックされました。服も下着も電化製品も本もその他小物も、それぞれ一つ一つを入念に。執拗なチェックは僕の分だけで45分以上は続いたと思います。中でも驚いたのは、ノートパソコンの中の写真データやカメラのメモリカードの写真データをチェックされたことでした。まさか、国境の荷物チェックでパソコンの電源を入れることがあろうとは思いませんでした。そういった厳しいチェックがようやく終わった最後に、さっきまで厳しかった若い係官が、それまで全く英語が話せなかったくせに、急に「ご協力ありがとうございました。」と慣れない英語で照れくさそうに言ってくれたのが印象的でした。きっと彼の覚えている数少ない英語の一つなんでしょう。彼のちょっとした心遣いでイライラしていた心がちょっと晴れました。

そして、イミグレオフィスのある国境の町タシュクルガンへ行きました。そこは、パキスタンから行くと、まるで天国のようにきれいに整備されている小さな町でした。上にも書きましたが、道は広くてきちんと整備されていて、商店や食堂が多く物が豊富で、少し移動しただけですが全く違う国に来たのだという実感が沸きました。しかも、この町は町並みは中国風ですが、住んでいる人はタジキスタン系(中国の西隣の国)の民族みたいで、顔は白人みたい(トルコやイラン系)で、服装も特徴的な民族衣装でした。そういったなかなか興味深いタシュクルガンの町で一泊する予定だったのですが、国境を越えるミニバスに同乗していた中国人の一団に、乗り合いタクシーに乗って今日中にカシュガルまで行こうと誘われたので、そうすることにしました。

タシュクルガンの町


カシュガルへの道。カラクル湖。


夜の12時ごろにカシュガルの町に着いたのですが、その都会ぶりにはまたまた驚きました。ネオンの光る食堂やら商店やらいかがわしい店やらが、広くてきちんと舗装された道路の脇にこれでもかと立ち並んでいる光景を見て、久しぶりに日本っぽい町に来た気がして、なんだか嬉しくなりました。インドやパキスタンのような混沌とした無法地帯的雰囲気はここにはありません。あと、女性が肌を露出した服装で外出しているのを見るのも随分と久しぶりです。テンションあがりますね。

そして、この日チェックインしたカシュガルに来るバックパッカーのほとんどが泊まるといわれる宿のロビーが下の写真です。



僕は最初、完全に場所を間違えたと思いました。こんなところに、バックパッカーが泊まれるはずが無い。でも、ガイドブックに乗っている名前は完全に一致している。駄目もとで、この一見すると高級ホテルのフロントに”ド、ドミトリーはありますか?”と恐る恐る聞いてみると、”あります。一泊30元(約500円)です”との返事が!さすが中国。中国ではバックパッカーはこんなところに泊まれるんだ!と興奮しつつ、部屋に入ると、なんとエアコンとテレビが付いていて、しかもホットシャワーが24h使えて、その上湯沸かし器まで付いていると言う素晴らしい部屋でした。ドミトリー(相部屋)なのに。中国、恐るべし。

カシュガルの町


カシュガルの屋台街


おいしい一人用鍋


そして、次の日からは毎食中華料理が食べられると言う幸せが待っていました。中華料理は本当に美味しいです。ああ、幸せです。本当に幸せです。インドとパキスタンで長らく食に苦労し続けてきただけに、この幸せが本当に身にしみます。ヨーロッパやアフリカや南米を旅している時は中華料理屋を見つけると思わず入って中華料理を食べていました。もちろん、日本料理があれば最高なのですが、日本食は高いし、アフリカや南米などではほとんど見つけられないし、それに比べると中華料理は安いし、どこの国でもだいたいあるし、僕の食生活を随分と助けてくれていたのです。しかし、本場中国の中華料理は世界各地の中華料理とは一味も二味も違っていました。どんなローカル食堂に行ってもメニューが豊富だし、何を頼んでも美味しいし、なんといっても安いし、毎日の食事で何を食べるか考えるのがとても楽しいです。こんなことは、ネパールのカトマンドゥ以来です。
(中国入国当初は、上記のように熱い気持ちでしたが、最近は中華料理もたまに外れることもあるということに気付いたので、この情熱は沈静化しています。)

カシュガルにてしばらく中華料理を堪能した後は、電車に乗って約35時間、一気に敦煌にまで移動しました。これだけ移動してもまだ中国の西の地域から出られないという所が凄いですね。

中国の電車(硬座)

一見すると日本と変わらない中国の電車のクオリティです。インドとは雲泥の差です。でも、客は中国人なので、時間と共に床が絶望的に汚れていきます(容赦なく落とされる食べ物のカスや吐き捨てられる痰により)。まあ、その辺のマナーはトイレの件も含めて、中国人はやっぱり中国人だなあ、という感じです。日本や欧米とは大きな文化の違いですね。そして椅子はその名(硬座)のとおりやっぱり硬めで、リクライニングは無かったです。インドの電車と違うところがもう一つ、英語が全く通じないので、せっかく話しかけられてもほとんど会話が通じないところです。これについては、ちょっと残念です。

硬臥(安い方の寝台車両)にも乗りましたが、こっちも文句のつけようが無い素晴らしいクオリティでした。インドとはやはり雲泥の差です。

敦煌では莫高窟という遺跡と鳴沙山という砂丘を観光しましたが、印象に残ったのは、隋さんという日本語ぺらぺらの中国人の観光ガイドでした。
敦煌に着いたその日に昼食でも食べようかとぶらぶらしていたら、「こんにちは。日本人ですか?」と歩道で声を掛けられました。中年の中国人の男性でした。中国ではこういことは初めてのことだったので初めはびっくりしましたが、話を聞いてみると僕が持っている「旅行人」というガイドブックにも名前が載っている有名な隋さんだったのでした。彼の提携する店で昼食を食べながら、敦煌観光事情についていろいろと教えてもらいました。隋さん曰く「最近は、日本人の旅行者が減っちゃったよ。中国人の旅行者も減ったしね。大変だよ。」とのことでした。

莫高窟の大仏のある所

内部は写真撮影禁止なので。。。

鳴沙山

見事な砂丘でした。しかし、残念なことに砂嵐でカメラが壊れました。上の写真は壊れる前のカメラで撮ったものです。

その後、僕1人で観光に出かけて、莫高窟、鳴沙山という二大観光を終えて、しかもカメラが壊れて打ちひしがれて、とぼとぼと敦煌の町を歩いていると、遠くから「しんいちさーん!」と僕を呼ぶ声がしました。見ると、隋さんが20mくらい離れたところにいる僕を見つけて、声を掛けてくれていたのです。隋さんのところに行くと、早速「ビールでも飲む?」と来ました。隋さんはビールが大好きなのです。毎晩日本人観光客を捕まえてはビールを飲んでいるっぽいです。昼に会った時は前夜飲みすぎのため二日酔いでした。ビールを飲みながら壊れたカメラについて隋さんに相談すると、砂漠ではしょっちゅう観光客がカメラを壊すみたいで、翌朝カメラ屋に直しに連れて行ってくれることになりました。その後、ぐびぐびと冷えたビールを飲みながら(そうです。中国はビールも安くて美味しいのです。)隋さんは、敦煌観光地区の熾烈な客取りの争いの話や、政府が店の看板や張り紙・内装に至るまで細かく指導してくることに困っているという話や、中国の食料品物価がこの1年で2~3倍に上がって困っていると言う話や、僕が顔も名前も知らない日本人旅行者同士の恋の話まで、夜中まで延々と語っていました。ネパール以来、久しぶりに心ゆくまでビールを飲めて、楽しかったです。



翌朝、隋さんのおかげで無事カメラも直り、次の目的地へ行くバスで出発を待っていたら、なんと隋さんがバス停までわざわざ見送りに来てくれていました。ちょっと感動しました。ありがとう、隋さん。隋さんが新しい店(敦煌風味)で商売が上手くいくことを祈っています。


ということで、中国の旅は出足はなかなか好調なのでした。


追伸:ホームページの方を久しぶりに更新しました。そちらもよろしければご覧になってみてください。
http://www.geocities.jp/in_shore_kisimt/index.html